物事には全て順番がある。何事も何者も混沌(無明)から生まれてそして死んでいく(老死)ものだ、有名な平家物語の冒頭祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。には実はプロローグもエピローグもあるのだ、最初は祇園精舎も沙羅双樹も盛者も存在しない、在るのはそれらが入り混じった混沌である、その中から、鐘堂が出来、草木が芽吹き強者が誕生し、鐘が鳴り 沙羅双樹の花が咲き、盛者となって、やがてそれらは春の夜の夢の如く消え去るのである。逆は無い。
マーケティングにはAIDOMAの法則と言う有名なのがあるけれどそれはA:Attention(注意)I:Interest(興味)D:Desire(欲求)M:Memory(記憶)A:Action(行動)と購買に至るには認知段階、感情段階、行動段階といったステップがあって、いきなり行動があるわけじゃ無いよ。という知恵だ、
もっと身近に言い換えれば誰もが気になり好きになりそして癖になりやがて別れる。という段階を踏むのだ。知覚と言う認知リソースは脳の中で大域的アトラクター(心)を生成する。心が感情(好き嫌い)を生み、感情は愛(執着)となって性格になり目的や目標を成すがそれらは新たな知覚という認知リソースによって揺らぎ泡沫のごとく消え去る。仏教ではこれを十二因縁という因果法則で説いている。
だから、何事も知る前に好き嫌いは無いし、生まれる前から性格が決まっていることも無いのだ。生まれた瞬間に自己認知を行いキャリアビジョンが決まっていたのはお釈迦様だけなのである。ところが、人は何故か、何事も成功(失敗)とか幸福(不幸)とか、ゴールから逆算する。例えば失敗したくないから結婚しないとかもそうだし、成功のためには学が必要だとかね。苦労するからマネージャーにはなりたくないとかもそうだ。全てが諸行無常なのだけれども、そんな当たり前の自然の摂理自体をなぜか忌み嫌う心(感情)というのも人にはあって、諸行無常じゃない、架空の本当の自分に強い執着を見せたりする。メタ認知が生み出す妄想であると言ってしまえばそれまでなのだけれども、実は、この本当の自分理論は自己肯定感に密接に絡み合っている。本当の自分が好きなのだ。だから本当の自分は自然の摂理に反していなければならない。だから何事も知覚するまえから好き嫌い、良し悪しが決まっていなくてはならないと思うのだ。自己肯定感は困難を乗り越えるうえで必須となる認知リソースだ。だから現実の困難な状況に遭遇する時に備えて私たちは本当の自分理論で自己肯定感を実装しているのだ。
