2022年5月31日火曜日

料理と幸福と第六感

哲学者三木清は人生論ノートの中で幸福について以下のように語っている。 

幸福 は 人格 で ある。 ひと が 外套 を 脱ぎ すてる やう に いつ でも 氣樂 に ほか の 幸福 は 脱ぎ すてる こと の できる 者 が 最も 幸福 な 人 で ある。 しかし 眞 の 幸福 は、 彼 は これ を 捨て去ら ない し、 捨て去る こと も でき ない。 彼 の 幸福 は 彼 の 生命 と 同じ やう に 彼 自身 と 一つ の もの で ある。 この 幸福 を もつ て 彼 は あらゆる 困難 と 鬪 ふ ので ある。 幸福 を 武器 として 鬪 ふ 者 のみ が 斃 れ ても なほ 幸福 で ある。   機嫌 が よい こと、 丁寧 な こと、 親切 な こと、 寛大 な こと、 等々、 幸福 は つねに 外 に 現 はれる。

三木 清. 人生論ノート (p.15). 青空文庫. Kindle 版. 

僕は幸福はつねに外に現れるというのはとても的確な指摘だと思う。僕たちは他人の顔色にとても敏感な生き物だからね。機嫌が悪いのは瞬間的に伝わってくる。そしてそのとき僕たちはその人が幸福ではないことも即座に理解するのだ。この不機嫌や不幸せを察知する能力はもはや第六感かと思えるくらい高い認知能力を持っていると思う。僕は三木清さんの言葉を借りるなら幸福はつねに料理や食事に現れると考えている。インスタグラムという幸福自慢SNSで料理の写真が多いのは当然なのだろう。一方でインスタに料理の写真を載せているのに良いコメントがつかない著名人も居るようだ僕はこれは投稿者の隠された不機嫌や不幸が閲覧者の不機嫌や不幸を掘り起こし共鳴した結果ではないかと思うのだ。僕らの第六感は取り繕った幸福の裏側も感じ取ってしまうのかもしれない。だから皆がプーチンは不機嫌だとすぐに認知できるのでしょう。ひょっとしたら霊感というのはまさに得体のしれないもののの不幸や不機嫌を感じ取る感受性のことかもしれないとふと思ったのである。








2022年5月30日月曜日

得意料理は何ですか?

 不意に得意料理は何ですかと僕に聞いたのはの若くてとてもかわいい女性であった。といっても合コンで一緒になったり、ナンパした女性ではない。そのかわいい女性は脳卒中で後遺症が出た僕のリハビリを担当してくれた作業療法士さんなのである。作業療法士は家での生活動作のリハビリを手伝ってくれるセラピストで左手を動かすことや、動かない左手を上手くカバーして洋服を着たりトイレに行ったりできるように支援してくれるその中に料理を作るというのも含まれるていたのだ。そこでリハビリの時間に料理を作ることになりその際に出たのが冒頭の質問である。正直リハビリ入院中の僕には3度のごはんが座っていれば出てくるので料理を作ることは面倒だった。料理を作るより座って電気治療器をあててもらっているほうが楽だ。僕は脳卒中で倒れる前日も夕飯のおかずを作っていたくらい実はその頃よく料理をしていたのだ。得意料理のレパートリーもいくつもあった。僕に得意料理を聞いた作業療法士は料理を作ると奥さん喜びますよ~とつけくわえた。そうか僕がまた料理を作ると妻は嬉しいのかと単純に理解して得意料理を頭に浮かべた。そうか妻が喜ぶ料理であれば、自分が作り慣れたもの僕が好むものではなくまた食べたいと以前妻からリピートがあったものにしよう。そして頭に浮かんだのはおろしハンバーグだった。だいこんおろしと大葉とポン酢で食べるハンバーグで肉料理にしてはさっぱりと食べられるし大葉の香りが良いのだ自分で言うのもなんだけどなかなか美味しいので得意料理といっても妻からも物言いはつかないだろう。妻以外に食べさせたことはないんだけどね、えへへ。僕のハンバーグ作りは僕風男の手料理的作りである。丁寧かつ、後片付けまで考えて効率的に調理したいのだ、だからまずひき肉は手でこねない。手が肉の脂でべたべたになり同時進行の他のことをしにくくなるのが嫌なのだボウルで合いびき肉とみじんぎりのたまねぎ(おろしハンバーグのときは炒めないで生のまま)卵、、パン粉、ナツメグを木べらで丁寧にまぜ塩コショウをして、広げたラップに二等分(きっちりと測る)して、ラップに包みながら空気抜きし形を整える、ラップを広げテフロンのフライパンに入れてまず両面を1分半ほど焼いてから、大さじ1杯の水を入れて蓋をして蒸し焼きにする。肉料理は食べるとき中に赤みが残っているとダメなので僕は料理用の温度計を使って、肉の中心が75度になるのを確認し火を弱めて3分75度を維持して火を止めてから予熱で3分時間を焼く。焼き加減特にしっかりと火が通っていないと美味しさは激減してしまうからね。気持ち的にね。僕の手料理はは出来るだけ手を使わない手抜きの手料理なんだけど、気持ちよく食べられるところ(ハンバーグの大きさが同じとか中まで火がちゃんと通っていること)には手は抜かないのだ、えへへ

そして仕上げは出来合いの大根サラダを敷いたお皿に大葉を敷きハンバーグをのせさらに大葉を載せる。ポン酢の大根おろしは別の器に入れてお皿に載せワンプレート風にする。

美味しく食べるのに色々気にせず食べられるという要素は欠かせないよね、僕は末っ子だったから、あ、兄ちゃんの方が大きいなんてよく思った、そう思うとそっちが味よりも気になっちゃうのだ、また、肉に赤みが残っているのが絶対ダメっていう人も少なくないだろう。実は僕はステーキはレア派なので赤みはあまり気にならなかったりする。でも気にする人(妻などはそのタイプ)は絶対にNGだよね。まあ、スーパーのひき肉だからその言い分は絶対正しいと思うけどね。

さて僕は退院して帰宅してからまだ料理を作っていない。理由は僕は美味しい料理とは材料を揃えるところから後片付けをするところまでと信じている特に誰かに食べてもらう時はね。か。残念ながらまだスーパーにひとりで行って買い物をするまで回復出来ていないのでということを言い訳にね、そこも手を抜きたく無いポイントなんです。

リハビリ病院では必要な食材は買い揃えてくれるんだよね、残念ながら今の僕の料理はソーシャルサポートが必要でそこまで無理して料理を作る段階でもないのです。



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2022年5月29日日曜日

ステレオタイプという無意識の敵

 僕たちは経験や習慣を通じて性格を形成していくしかし性格だけでなく認知や無意識の思考も同時に作り上げられていく。他人や教育という自分を掘り起こす機会は多くあるものの、なかなか手強い刷り込みもある。時にそれは差別や偏見となって自分の世界を狭めるだけでなく他人を傷つけていくだから、思い込みや決めつけは自分の可能性にとって敵であることを強く意識する必要があるのだ。昨日もそれを強く意識する出来事があった、僕が通って利用しているデイケアには運動僕はリハビリを行うために理学療法士が居る。療法士はすごく近い距離でサポートしてくれるので僕はついつい個人的なことも含めて色んな雑談をしてしまう。療法士もそれに気軽に応じてくれるので色んなことを知ることになる、療法士は専門の学校で勉強し病院での実習も経て国家試験を通過して得られる資格だからそんあに簡単になれるものではない。その療法士に中国籍の人が居る。彼は日本語習得の勉強をした後専門学校に入って国家試験に合格しているのだ。とても賢いひとであることがよくわかるよね。日本の運転免許も持っているらしいそんな彼本もよく読むのだそうだ、養老孟司さんのバカの壁とか好きなのだそうだ、そこで僕と気が合ってもっと聞いてみたら哲学が好きなのだそう座禅とか宗教のことも興味があるらしい、ハイデガーの「存在と時間」のNHKテキストを紹介したら1週間後にはもう読んでいた。読書家というより勉強家だよね、中国では太極拳とかもずっと倣っていたらしい。昨日なんて、一頭に入れた知識は捨てて表現することが大事なんですなどととても奥深いことをさらっと言っていた。中国と言えば共産党の支配で。文化大革命じゃないけど、思想にも偏りがあると思い込んでいた僕にとって彼の思考の柔軟さや本質に目を向けようとする探求心はとても新鮮であった彼の知的好奇心は誰にもイデオロギーにも抑圧されていない。もちろん、どんな国においても、イデオロギーやプロパガンダで全ての人を屈服させることは出来ない。生活者は支配者よりもずっと賢いのだ。もちろんその賢さが常に発揮されるわけでもない時に賢さよりも権力に対して従順であることを選ぶこともある。そんな現実を僕たちは今目の当たりにしている。時にそんな現実の重さに僕たちは押しつぶされそうになるけれど僕は中国籍の理学療法士と接して、ドンな時も希望人の中に必ずあるものだと思うことが出来た。

敵は自分の中にあり


2022年5月28日土曜日

また地雷を踏んで落ち込むとうちゃん。

 Ipadmini購入端末記。

僕はこの度ヨドバシドットコム経由でIpadmini を購入した。MacBook pro airと散々迷ったのだけど。もうすぐ新しいのが出そうということと。パソコンが何台あっても仕方ないので。主にデイケアに持参する目的で、古いIpadminiをリプレースすることにしたのだ。ポイントはIpadmini にはセルラーモデルがあることと、povo2.0に基本料金〇円コースがあったことである。もちろんデイケアにパソコン持参するのは大仰でちょっと面倒であったことも大きい。ご老人が寛いでいるところでパソコン広げてもね。ipadminiならkindleで本を読んだりちょっとアイデアを書き出したりするのに良いからね、さてIpadmini をどこで買うかは結構悩んだ。当初はAppleのサイトで買おうと思ったけど。ヨドバシだと1%だけどポイント還元があるのが決めてとなったたかが1%されど1%だものね。何度もカートに入れてはやめてを繰り返したけど。最終的には、povo2.0 を申し込んで踏ん切りがついた。povo2.0 の申し込みは本人認証など結構面倒だったけど。無事に申し込み出来また申込みをし直すのは嫌ださあ、本体を買おうとなったのだ。さて、ヨドバシドットコムIpadmini の在庫はあるのだけど。なぜか配達日が指定できないなんでかな?。Applepencileもポチッとして一緒に配達を選んだつもりだったにもかかわらず、Apple Pencil だけが先に届いた。これ、イライラポイントね。さて、今回セルラーモデルであることが大きなポイントなのだけど、これは、病院にしてもデイケアセンターにしてもWi-Fiは使いづらいのだ。病院とかは最近は無料Wi-Fiを提供しているところが多いけど。繋がりにくかったりして。病気でただですら苛ついているのに。ストレスが溜まるんだよね。そもそもデイケアはWi-Fiが解放されていない。今使っているMacBook airは11インチで病院で使うにはサイズ的にも使いやすさもめっちゃ良かったのだけど。今はもう、この画面サイズのMacBook airは出ていない(復活お願いしますアップルさん)、前述の、通りMacBook にはセルラーモデルがないから論外である。一方で、iphoneもそろそろ機種変更のタイミングではあるのだけど。データだけでなくアプリとその環境の移行が面倒かつ不安で見送った。僕がiPhoneを変えるということは一緒に妻のiphoneも変えることになるので。妻の分まで移行に責任を負う体力も耐力も気力も今の僕には無い。データが消えるとかあれが使えなくなったと言われたら僕は泣き出してしまうかもしれない。まあ、iphone はいますぐになんとかしなくちゃならないわけでもないから後回しである。さてヨドバシドットコムからの受注確認のメールを見たらIpadmini の配達希望日が何故か明日になってる。実はこの怪現象前にもあった。なぜか配達希望日が勝手に入っている。配達日指定ができない商品の時にそうなる気がする。きっと即日出荷出来ない事情があるのだろう。でも一方で纏めて発送とかはチェック出来たのだ。(これも記憶違いかもしれない)まあ、明日まで待ちましょう(問い合わせでお願いして明日午前中に配達してもらえることになったありがとうございます)。しかしヨドバシドットコムのこの地雷は要注意だなぁ、もう3^回くらい踏んでるわ。地雷を踏んでから問い合わせしちゃったのも2回目だわ。こらが僕の注意力不足だとしたら、脳卒中もあるので違った意味で憂鬱になる。散々最後まで悩んでポチしたから購入に対する自己嫌悪もある。でもヨドバシ好きだからついまた買っちゃうんだよね。反省、配達日をよく見ます。僕のいつ配達されるかのつもりをシステムは酌量してくれませんよね。がっくし。と方を落とすとうちゃんなのである。さて、明日のデイケアまでにipadminiとapplepencileの充電にiphoneのデータとアプリの移行(icloudで復元するつもり)とpovoの開通は無事にできるのだろうか。




2022年5月26日木曜日

コミュニティとお金の天秤

 最近何かと話題の4630万円くん、ついに逮捕されてしまいましたが、少し心理分析してみましょう。私が注目するのは、彼が移住プログラムの利用者だったこと。つまり彼はコミュニティを求めていたのである。しかしそれではなぜコミュニティの求め(返還要請)に応じなかったのだろうか。おそらく彼はコミュニティへの帰属に渇望していたけどそれ以上にお金に対する執着があったということである。お金にトラウマがあるのかもしれないね。罪は償うという発言が本当ならば、善悪の概念は持っているのだろう。それでいて悪を選んだどいうことはそうせざるを得ない心理状態にあったということである。罪の意識を、持ちながら罪を犯す選択をしたということは、抑えきれない衝動か、誰かの唆しがあったと考えるのが妥当ではないかな。これは全くの推測だけど移住先コミュニティをネットで、探したように彼は罪の意識とトラウマのコンフリクトをネットで解決しようとしたように思える。そこできっと上手くやれば返さずに済むという唆し的解決策を手に入れているのかもしれない。コミュニティを裏切ることにはなるけどお金のトラウマから逃れられると考えたわけだね。彼に入れられたかもしれない浅知恵は脆くも崩れ去って移したお金はほぼ返金回収されてしまった。恐らく浅知恵を授けた人もこの後アンベイル、晒されることになると予測するもちろん唆した人がいるのではというのは全く僕の推測だけどね。。まあ、いづれにしてもこの事件が悪しき前例にならずにすみそうで個人的にはよかったのではないかと思う。さて、手に入れたかったものをいっぺんに両方とも失ってしまった彼はこの後どうするのだろうか。元のコミュニティはもちろんだけど社会にあるそれ以外のコミュニティや組織の多くはきっと彼を受け入れないだろう。善を裏切るとはそういうことだ。しかし孤立が深まることでろくなことはないだろう。弾き出す社会もそのことはよく考えておいた方が良さそうだ。社会において寛容さは大切だからね。今後の町の対応にまずは注目していきたいね。



集中力と言う宝物

 先日マツコさんがMCのテレビ番組に元NHKアナウンサーの久保純子さんが出演されていた。結婚し夫の転勤でニューヨークに移り住んだ久保さん、幼稚園の先生になったのだそうだ。そこはモンテッソーリという教育を取り組む幼稚園だそうでその教育は子供の集中力を育むらしい。実は将棋の藤井聡太さんもこの教育を受けていたそうで、彼の集中力の高さはその教育の成果なのかもしれないね。自分ですきなことやりたいことを見つけるというその教育、好きなことには集中できるというとても理にかなった教育であるように思えた。僕は中学生の頃、とある先生から君は集中すると素晴らしいのだけどといわれたことがある、裏を返せば集中出来ていない時はまるでダメだよと言われたわけである。要は注意力散漫であることを指摘されたのだ。僕はいろんなことが気になるタイプだ。その自覚もある。だから集中して物事に取り組める人は純粋に尊敬できる。その中でも状況に応じて、集中すべきことに集中できる人はすごいと思う。集中すべき時に他のことに気が散ってしまうことに何となく自己嫌悪も劣等意識もあるのだ。でも全く集中できないかといえばそうでもない。自分でも驚くぐらい集中してゴールに辿り着ける時もある要するにむらがあるのだ。むらむら。

集中力を高める幼児教育があるということは集中力は誰もが持っているということでもあるだろう。ADHDという良く知られた発達障害もあるから誰でもと言うのは間違いかもしれない。

僕自身で言えば、集中力は向き合う対象とセットであった。集中すべきではなく集中したいものがあったということ。経験から言っても集中力と言う力は神様のギフト(宝物)である。この力を都合よく発揮できるときっと人生はもっと充実したものになるに違いない。

だから僕にとっては集中できるものを見つけるということがまさに宝探しなのである。モンテッソーリもテレビで見る限りそんな感じなのかもしれないね。。

2022年5月25日水曜日

多様化する価値観

 D&Iとか言い方はどんどん変わっているけど多様性(ダイバーシティ)とか多様な価値観があることに関しては議論の余地が無いことはもう社会的にもコンセンサスが得られているのではないだろうか。さてこれまで多様性を考えようと言う時はどちらかというと今まで画一性の陰に隠れ押しやられ抑圧されてきた価値観(ここでは「新しい価値観」と言おう)も認めていこうというスタンスが主であったように思えるが、多様な価値観と表現した場合、そのなかには 当然画一性の価値観(「古い価値観)」も当然含まれる。多様性の中にはモダンだけでなくクラッシックも同じようにあるというわけだクラッシックがこれまでモダンを弾圧してきたからといってクラッシックを価値観として排斥してしまったら多様性とはいえなくなってしまうものね。多様性の困難なところは単に価値観の共存だけでなく、価値観による弾圧抑圧の経緯や歴史も飲み込んでいかなければならないことであろう。ロシアとウクライナの戦争はやがて終わり時がくるだろうけど、その後の国際社会や秩序にはロシアもウクライナも参加するだろう、決して消し去ることの出来ない加害被害の感情を抱き続けたままでね。そもそもロシアとウクライナにしても中国と台湾にしても韓国と日本にしても積み重ねて抱いてきている感情と折り合いがついていないから火種となっているわけで話せばわかりあえるというものでもないのである。対話によって他者の言葉言い分にしっかりと耳を傾けましょうというのは分かり合おうとする努力としては大きな一歩であるけど、拒絶から入ってしまえば対話すら成立しない。多様性では、価値観が多様で相違があることよりも価値観をとりまく経緯とそれに巻き込まれている感情との折り合いの方が困難なのだと思うのである。




2022年5月24日火曜日

才能の行く末

 咲くは花己の力咲かせるは暖かき春の風

これは僕が好きな才能とその結果に至るプロセスを端的に語った言葉である。他人から教わったのだけどその出典はよくわからない。さて僕はここ数日竜とそばかすの姫というSFアニメを観ていたアニメが描くのは仮想世界なのだけど、そこでは技術力によって利用者の隠れた才能が引き出されるという設定である

さて才能とは何か。辞書では

生まれつきの能力。また、その働きのすぐれていること。才幹」(『日本国語大辞典』より)、「物事をうまくなしとげるすぐれた能力。技術・学問・芸能などについての素質や能力」(『大辞林』より)と書かれているらしい。

一方で教育者ビリギャルの坪田先生は以下のように説く

「才能」とは、「みんながもっている能力を磨いて尖った部分」だと、ぼくは思います。

基本的には、後天的なものです。

能力は誰でももっているもの。

歩くのも能力だし、話をするのも能力。

動詞のすべてが能力です。

その能力を磨いていって、どんどん高まって、人よりも突出したり、尖ったりする部分が出てきたら、それが「才能」になるのです

言葉としては生得的なものであるのに対して、教育者はそれを否定しているところが面白いいと思う。アニメではこの2つの立場を合わせていた。それはおそらく今の若者が持っている才能のイメージなのであろう。才能とは生得的に保有する差別的優越的能力を磨いて尖っていることである。アニメ映画の中では能力を磨くのは仮想空間内のAIと仮想の社会性である。この感覚も今の若者のそのものではないだろうか、努力とか他者に関わる勇気といった面倒なこと無しに合理的に能力を磨きたいというのがアニメを観て今の風潮でもあるように思えたAIの実態は学習アルゴリズムだけど、アルゴリズムが学習した成果を適用するのが人が学習るよりも効率が良いということかもしれないね。

さて、昨今才能が花開いた時の人といえば大谷翔平であろう。目覚ましい活躍だものね。大谷本を読んでみると大谷選手の才能は生得的なもの+暖かき春の風であることがよくわかった。そして去年沢山特集された大谷選手の特番を観るにテクノロジーも積極的に使っていることがわかる。つまり持って生まれた能力を教育者と技術が徹底的に磨いて尖らせた結果なのである。もちろん大谷選手は自分で自分を磨くことも怠っていない。だから誰かが能力を引き出すというのとはかなり印象が異なり古典的な才能開花スタイルであることも特徴的だよね。

さてたかがアニメ映画だけれども、そこに描かれる世界観は敏感に現代の世相を反映しているのではないだろうかと僕は感じている。ひょっとすると世界はそっちに向かっているのではないかとね。

暖かき春の風はもはや人肌の温もりではなくエアコンの適温であろう。異才発掘プロジェクトなんていうのもあるようだし。才能とは己の力で花開くものから、己の力に委ねるより、見出して引き出すものであるとなっていくのかもしれないね





2022年5月23日月曜日

理不尽さと闘うとはどういうことか

 僕たちは成長しながら無数の理不尽と巡り合う。子供は入っちゃいけないとか子供なんだから早く寝なさいとかからはじまって、就活では訳も分からず最終面接で落とされ後学のためにと理由を聞いても何も教えてもらえない。採用を通過した会社ではセレクションと称した期待の差別に直面し希望と異なる配属をされてコンピュータの時代にソロバンを強要され、行きたくもない職場の旅行では酔った上司に延々と嫌味を言われ商売では大資本の百貨店に買取条件なのに売れ残ったら容赦なく返品されそのくせ商品が足りないと泣きつかれ地震があったからと売り上げを減額(強制的な寄付)されなんとかしなきゃと心底思い詰めているときにになんとかなるさとあまりにもお気楽ケセラセラな人と仕事をしなくてはならないとか、脳卒中で片麻痺になったとか過去から現在にかけて理不尽はいくらでも思い出せるものである。笑ってしまうよね。あはは。ラグビー元日本代表監督で伝説のラガーマン平尾誠二さんは成長には理不尽さに勝つことが重要だと言っている。だから過去からの理不尽さを並べることは自分の成長の軌跡を眺めることであるとも言えるのだでも、ではそもそも理不尽って何だろう。

理不尽とは、簡単に言うと道理に合わないこと、あるいは矛盾していること、筋が通らないことなどを意味する言葉である。 理不尽の「理」には物事の筋道、道理といった意味があり、「不尽」にはつくさないこと、つきないことといった意味がある。ということだそうだ

道理って結局自分の意識が生み出すものだよね道理が合わない矛盾と考ええいるのも自分の意識である。な~んだ、理不尽って要は自分の意識と意識が不整合を引き起こしているときの感情のなのだよね。まあ必ずしもそうとも限らないこともありそう、今入力しているこの文章、どうにもうまく日本語が入力出来ない結局HPのパソコンを再起動して元にもどったけど、これも理不尽だ。パソコンは正しく動くべきだし動くものだという僕の道理に合っていないそうなると窓からHPを投げ落としたくなる。そんなことをしたらそれこそ道を歩いているひとにとっては理不尽極まりない問題はそれらにどう折り合いをつけられるかだ。投げ落とすのは最も折り合いがついていない状態だ、新しいパソコンを購入するというのも折り合いがついているとは言えないそ。古いmacに変えてみたらそんな理不尽は無いことがわかったそこでパソコンを新しいmacに変えることにしようと思うけど悩ましい。末っ子に生まれた事だって運動神経ほどほど賢さもほどほどだって理不尽だ。あ〜うつうつ。

自己肯定感を育むことで世界を対立構造で捉えないようになれると書いたけど理不尽に勝つには字意識同士のの折り合いをつけるを方法を身に着ければ良いことになる。要するに現状の自分自身と折り合いをつけて自分の可能性を発揮して充実した在り方にたどりつくことなのである。そのためには数多くの理不尽を経験し、自らの感情に、向き合ってリフレクションして感情の気づきと意味づけを行う習慣を持つことがその唯一の手段なのである。




2022年5月22日日曜日

メタバースへようこそ、

 

メタバース、最近たまに耳にする言葉である。フェースブックがメタに社名を変更したのは良く知られているよね。仮想空間と現実空間の融合は何も目新しい構想でもない



しかしブロックチェーンなどの新しい技術普及に伴い単なるアイデアではなく本当に融合の可能性が見えてきたのである、でも、リアルな世界に慣れ過ぎた僕たちにとってキャッシュレス社会かそれ以上の??感がつきまとうのである。さてそのメタバースを描いた映画として知られるのが細田守監督のサマーウォーズである。丁度昨日放送していたので視聴した。恐らくその世界観に関してもデジタルネイティブ世代にとってみれば普通に違いないwindows95ms-dos世代の僕にとってはぶっ飛んでいるのだけどね。ぶっ飛んだ世界を僕の世界にするためにはもう1~2回視聴しなくてはならないようださて、このメタバースが注目される理由は無限の可能性とそこに期待する欲望の資本主義である。資本主義は僕たちの今だけでなく夢とか未来を資源として交換可能な価値市場での取引の対象としているというのが欲望の資本主義であるがメタバースはまさに欲望の資本主義の表象であるとも言えるのではないだろうか。

メタバースはきっと僕たちの底なしの欲望によって膨張し続ける宇宙のようになっていくに違いない。哲学者マルクス・ガブリエルはこれに対して今求められているのは倫理資本主義※であると言う。サマーウォーズでも、情報空間で無限の情報を食って巨大化し暴走するAIに対抗するのは人間の倫理と描かれていた。結局仮想空間を生み出すのも人間なら、

仮想空間をまともな社会ならしめるのも人間なのである。


※

この 例 で 資本主義 が やっ て いる のは、 地球 に 良い こと を し ながら 宇宙船 の よう な 乗り 心地 の 自動車 にも 乗れ ます よ、 と 提案 する こと です。 しかし そもそも、 宇宙船 の よう な 車 に 乗り たい という 欲求 は 資本主義 によって 作ら れ た の です。 他 の 消費財 も すべて 同じ です。   だから 今 私 たち が やる べき は ─ ─ いずれ 実現 する と 私 は 思い ます が ─ ─、 これ を 見抜い て、 倫理 資本主義【 注 10】 を 創造 する こと です。 倫理的 で なおかつ 利益 を 上げ られる 資本主義 をね。 私 は お金 や 富 には 反対 し ませ ん。 ただし、 倫理的 に 良い こと を し なけれ ば お金 を 稼い で 富 を 生み出せ ない よう で ある べき です。

マルクス・ガブリエル. わかりあえない他者と生きる 差異と分断を乗り越える哲学 (PHP新書) (pp.32-33). 株式会社PHP研究所. Kindle 版. 




2022年5月21日土曜日

世界を対立構造で捉えないこと

 先日受診した慶応大学病院のリハビリテーション科診察室の待合室に気になるガイドブックがあって、Amazonで販売していたのを妻が購入してくれた。届いた本の帯の文言がとてもよかった。「できていたことができなくなった」としても「何ができる」いま何をする」を一緒に考えませんかというもの、脳卒中経験者であればきっと心に届く言葉だと思う、脳卒中になって意識が戻り(目が覚めて)最初に自覚するのが「できていたことができなくなったことである。そう、出発点は「出来る」「出来ない」の二元論で自分の身体を捉えることなのだ、そして、発病前の自分や健常な人と今の自分を比べて「なぜ自分が」とか「何が悪かったのか」とか悩み苦しむ時間がはじまるのである。自分の中の二元論が自分を生きづらくしてしまうのだ、やがて経験者談などに触れてこの身体で生きていくのだと悟る「そうすると「何が出来る」「今何をする」と「出来る(善)」「出来ない(悪)」の二元論ではない「その他の選択肢を模索する時間の到来し少しだけ楽に生きられるようになる。生きる選択肢も確実に増える帯にするとたった二行だけど、脳卒中患者にとってみれば発症から半年以上の時間が込められている言葉なのである。「出来る(善)」「出来ない(悪)」の二元論で対立する世界という困難な状況を乗り越えるためには出来ることを見つけるという自己肯定そして一緒に考え支えてくれる人たちの存在社会性とソーシャルサポートは重要なのである。多くのスポーツでは自己肯定感を育むために基礎練習を行う基礎練習とは難しくない誰にでも出来る運動だ。それを繰り返すことで自信がというマインドセットが生まれる。リハビリも全く一緒なのである。


二元論で世界を対立構造にしてしまうと世の中や社会はとても生きづらい場所になってしまう。世界を対立構造で捉えないためには、自分が出来ることを積み重ねて自分に自身を持つことが肝要だそこに一緒に考えてくれるソーシャル・サポート(学びの共同体)があることで対立構造から抜け出すことができるのだ

2022年5月20日金曜日

組織にリーダーの役目って何?要る

組織論にはオーケストラ型というモデルがあって、ドラッガーはオーケストラは理想の組織でありかつ「未来の組織であると語ったという記述が検索して調べてみたら出てきたのだけど本当にそう言ったのかは確認出来なかった、とほほ。こういう都市伝説みたいの多いよね。間違っていたらごめんなさい。オーケストラにおいて指揮者は組織のマネジメントでありリーダ-としての役割を負うと考えられるのだそうだしかし、NHKのクラシック音楽館という番組で指揮者なしのオーケストラ第9に挑むという放送があった。


曲と作曲家に肉薄した指揮者がオーケストラを導くのでなく、演奏者一人一人がお互いによく聴きあってベートーヴェンの意図に真摯に向き合うことで、交響曲を演奏するのだそして演奏者はいままでで1番いい演奏であったと、評価していた。であればそもそも指揮者って要るの?となる。もちろん指揮者はいなくともコンサートマスターと呼ばれる第一バイオリンの演奏者がリーダーとして振る舞ってはいる。しかし、演奏は各演奏者に任されている。指示が飛ぶことはない。組織論では、ティール組織という自立したプロによって構成されリーダーに依存しない組織が進化型組織の形と言われているけど、それに近い取り組みと言えるかもしれない。つまり、指揮者なしのオーケストラとは目で見て耳で聞く事ができるティール組織の姿と言えるのかもしれないね。そう言えば世界最古のオーケストラと言われる雅楽にも指揮者はいないよ。それぞれが主導権を取りながら演じていくらしい。v字編隊で長距離を渡る渡り鳥が先頭を入れ替えて跳ぶみたいな感じですね。僕が考えるにおそらく、みんながそれぞれ考えて曲作りをしていくより我の強い人のイメージに合わせて行った方が、短時間で演奏がまとめられるのではないだろうか。それって古典的な皆を引っ張っていくリーダー像だよね。多様な解釈を合意で取りまとめていくことは面倒で時間がかかりそうであるしかしそうやって出来たものは素晴らしいのである。。番組前半はリハーサルの様子後半は実際の演奏を32台のカメラで追うというものであった。僕は単なるミーハーの音楽好きだけど、晴れオケの素晴らしい第9に心が動かされた。毎年年末には必ず第9があるからきっとこれまで何回も第9を聴いているにちがいないんだけどね。これまでそれほど心が動かされた経験は無かった。そこで改めて頭をよぎったのは指揮者って必要ないじゃんという確信である、、さて僕たちは小学校に入学するとたいがい班分けの小集団活動がありそこには必ず班長が任命されていた。組織活動やチーム作りをしたらそこにはリーダーが居るのが当たり前とずっと刷り込まれてきたわけだ。そこで世の中はリーダー育成やリーダーシップ開発に躍起になる訳だけど本当にリーダーって必要なのだろうか。こういうこと言うときっと我こそは優れたリーダーであると自認する人達からは滅茶苦茶叱られるんだろうな。俺が居なかったらこの組織やチームは崩壊するとね。リーダーがいなければこの組織とかこの国は崩壊するとか言い出すリーダーも多そうだね。養老孟司さんは社会を冷静に分析し、たった一人のリーダーが変わったからといって国が変わるなんてことは無いと断言している、これは経験則上も当てはまるよね、複雑にそして長い時間かけて作り上げられた社会はロバスト(堅牢)だから一人の人間で変るなんてことはない、たしかにそうだった。まあ、状況を一変させるためにリーダーがいるわけじゃないけどね。リーダーに変革への期待があることも事実だろうけどね。

僕たちは不安から逃れるために誰かに役割を与えて責任を回避する悪しき社会慣習に染められてしまったのだろう、

アフリカで孤高のハンターであるチーターが5頭で群れを作った際にその中の1頭がリーダーになっていた先頭に立ち行く先を決めるのは力が強いオスだったがやがて力による序列は崩壊し、別のオスにリーダーの座が取って代わられる粗暴ゆえにメンバーからの信頼を失ってしまったのだ、新リーダーは仲間の絆という秩序の維持を大切にするリーダーであった、野生の動物でさえも群れを作るとリーダシップが発生するしですね。りーだーの在り方も進歩するんですね~。

僕は今朝オーケストラの指揮者と野菜動物のチーターの群れからリーダの役目を考えているのだけどリーダーシップは観察可能な力であることは間違いないようだ、しかしその力の在り方は多様である。観察可能な力であれば数値化することが出来るはずだけど、多様性をどう記述するかは容易くないだろう。リーダーシップと一言で概念化し定義することは無理なんじゃないだろうか。置かれた状況や環境や目的からも切り離せない力だろうしね。

さて冒頭の指揮者のいない交響曲の演奏に話を戻すがもちろん皆楽譜を見て演奏する、番組を観ていて気付いたことは楽譜は作曲家の指示書でもオーケストラのルールブックでも無かった。指揮者の無い演奏において楽譜とは作曲家から演奏者への問いかけであった、あんたならこれをどう演奏するのか考えてくださいという形の問いであるこれは、企業のミッションとかビジョンも一緒ではないだろうか。答えではなく問い。これをはき違えていることってとても多いよね。

だから僕たちに必要なのは組織やチームを作った際にリーダーが必要だという自動思考を持たないという態度なのではないだろうか。リーダー無しではなぜいけないのか、どうすればリーダー無しでより良い結果が出せるのか本当にリーダーは必要なのかという問い誰もががを忘れてはいけないと僕は思うのである。


 か。


2022年5月19日木曜日

いまこそリハビリについて語ろう

 僕は60歳を目の前にして脳出血と言う病気を発症してしまった。これもこれまで60年近く自分を支えてくれた自分の身体のことだし高血圧ストレス、飲酒など原因は自分にあることだから致し方ない発病であるさて僕は昨日慶応大学病院で診察を受けてきた。目的はリハビリである。僕は60年近くリハビリとは無縁の人間だった。しかし脳出血で脳が壊れ左半身に麻痺が出た、これを片麻痺というらしい、脳は自分の身体の制御だけでなく社会性と言う知性や知能を司る器官でもあるから、片麻痺だけでなくもっと多くの後遺症が出る可能性もあったのだけど、神様が僕に与えた試練は片麻痺であった、(神様ありがとう)さてその後遺症からの回復に取り組む医療行為がリハビリである。そのリハビリは原因となった病気と密接に関わっている。脳出血で片麻痺になった瞬間から原因となった病気の状態が落ち着くまでをを急性期と言う、この急性期、今まで当たり前のように動かせていた筋肉がぴくりとも動かなくなっている。筋肉は動かすことで。縮む伸ばすそして血液を送り出すといった、機能を果たしている、動かさなくなると筋肉の代謝も止まり筋肉は減って硬くなっていくのだ、つまり脳の指令が無くなって動かないものが、筋肉そのものが働かずに動かなくなるのだ。聞いた話では筋肉繊維のなかにある潤滑材コラーゲンは72時間で壊れるらしい、そして動かさないとそのままである。だから急性期だからといって、寝たきりになってしまうとその後の回復も遅れる、だから急性期でもリハビリが重要なのだ。しかし本格的なリハビリがはじまるのは急性期が終わって意識レベルも良くなり精神的にもリハビリに耐えられるようになってからでこの時期を回復期という、回復期はリハビリの効果が最も出る時期と知られている。発病から6か月後までの期間である。それゆえにこの回復期には集中してリハビリが行われる。僕も専門病院に入院してリハビリ三昧の日々を送っていた。その甲斐あって杖は必要だけど立って歩けるようになった脳卒中で麻痺が出ても歩行は6割くらいが回復しているらしい一方難しいのが上肢手の回復である約1割ていどの回復に留まるのだそうだ。指は関節と筋肉が複雑に組み合わさって動いていて脳のコントロールしている領域が小さい。リハビリは失われた脳の部分の働きを脳の他の部分が代替する取り組みでもあるのだけど歩行に比べて代替が難しいという理由もあるのだそうだ。回復期を終えると維持期になる。リハビリの効果がひと段落すると言われるこの時期は社会保障費を節約する観点から医療行為は減らされる具体的には専門病院から退院して自宅などでリハビリと回復に取り組むことになる僕はいまそこだ。僕は上肢でもう少し積極的に治療に取り組めないかと考えてリハビリの先端医療研究に取り組んでいる慶應病院を受診したわけだ。診察の待合室は大変混んでいたそれだけリハビリを必要としている人が多いということだね。そして脳卒中は比較的高齢者に多い病気だけど、待合室で診察を待っている人で僕よりご高齢の方はおひとりだけであった。つまり若いから無縁だということではないのだもちろん残された人生の時間を考えれば若い方の回復は切羽詰まった問題であるもちろん高齢者だってQOLを考えればすこしでも回復したい。僕だってそうだ。だからIPS細胞を使った再生医療研究にも取り組んでいる慶應大学病院へ行ったのだ。日常生活のQOLを奪う脳卒中とその後遺症、僕は脳卒中になって、生きる意味とか幸福とか成長とか自立とか学習とか倫理とかやりがいとかいきがいとか本当に沢山のことを考える機会を貰えた。だから回復して病を無かったこととするのではなく、この病後遺症を負った身体とともに生きていくことに気力を注いでいきたい。今回の慶應大学病院の受診もその一環である。リハビリとは自分の身体との対話なのである。身体の言い分をしっかりと聞きながらも身体に意識の言い分を聞いてもらうそこに答えなんてなくて良いのだ。好奇心いっぱいの僕に僕の身体はついてきてくれるかな?


2022年5月18日水曜日

ブチっと出血もバーンアウトのひとつかなぁ?

 今日、辻仁成さんのプログを読んで思うことが、あった。辻仁成さん御用達のフランスパリの肉屋の店主に関する記事なのだけど。仕事熱心で10代ころから働き詰めだった店主は、腰を痛めて店に立てなくなったことをきっかけにバーンアウトしてしまったのだそうだ。自死も頭に浮かぶほど追い詰められたらしい。入院して奥さんの愛によってにこの世に帰って来れた店主さん、帰ってきてから肉屋のお店を売ったのだそうだ。その投稿を読んでああ、この先ゆっくりと生きていくという選択が出来たんだ、よかったなぁと思えた。というのも先日参加したのグラレコもくもく会+自画持参の会はやすむが大テーマだったけど、そこで、僕は会社に行っていたときは祝休日以外はほとんど休みを取っていなかったことを思い出した。有休とかあまり上手に取れなかったし、休みをとってさっと旅行に行くなんてスマートなワークライフバランスからはほど遠かった。とほほ。そして会社から離れることになって脳出血を起こした。脳出血の原因は高血圧、ストレス、飲酒だから、会社からの卒業のストレスが一因になり発症したのかもしれない。肉屋の店主が腰痛になったみたいにね。それとも、発症したからバーンアウトしかけているのだろうか、でも幸いなことには僕にはバーンアウトの兆候は現れていないぼーっと床を見つめることも死について考えないこともないけれど、死にたいと思うことは無い。しかし肉体的には後遺症が残ってしまったので、残りの人生を考えるタイミングに来ている。自分がなすべきことを考えると。仲間と起業したいと思えるし、素敵な事業の構想も持っている。一方で。パリの肉屋が店を売ってしまったように、これまでの仕事人生とおさらばする絶好のタイミングであるようにも思える。ただリハビリと高齢化という現実に直面して、それらに向き合うにはやる気が大事なこともよく自覚しているから、新しいことにまず一歩踏み込むべきであるとも思っている。そうなると、僕はバーンアウトして脳血管が、切れたのか否かがポイントに、思えてきた。もし、そうであれば。僕はすでにバーンアウトしているのだから。仕事から離れるタイミングだと言うことだ。でもそうでなければ、バーンアウトしないように気力が出るよう行動して側坐核を活性化させた方がよい。いま僕がバーンアウトしてしまったらきっとリハビリは進まなくなり、高齢化も一気に進んでしまいそうに思えるでもそれもゆっくりと生きるという選択肢に違いない。さーてどっちかな。僕も妻に相談してみようと思います。

燃え尽きたぜ


2022年5月17日火曜日

ズル休みの言い訳?からズル休まない言い訳へ?

 毎月15日はひめさん主催のグラレコもくもく会+自画持参の会。今月も参加させて頂きました。前日のMALLの10周年記念イベントはデイケア利用で参加できず痛恨の極みでしたのでその分も取り返す勢いでしたひめさんのグラレコも自画持参ももとをただせばMALLからなんですよね~しかしグラレコと自画持参がヴゃトークをマリアージュさせちゃったひめさん流石としかいえませんね~パチパチさて昨晩の自画持参の大テーマは「やすむ」その中で選ばれた2つ目のお題が「当日仕事をずる休みします。どんな言い訳をしますか」というもの、これは見事と思えるような大喜利のような絶妙な言い訳って聞いててみたいですね。ところで今でもずる休みってあるのかしら?ときになりました。正当な理由なしに仕事を休むのがずる休みだとすれば、今は有休未消化の方が問題視される風潮である。有休の制度があって、希望があれば、理由を正しちゃいけないのだ。有休に際して正当な理由とか言ったらアウトなんだよね。有休はとにかく休むことが出来る権利であってそこにずる休みなんていう概念はないのだ。むしろ問題になるのはなぜちゃんと有休を消化しないのか、ということ。有休を消化しないということは仕事をしているということで、法令に違反して仕事をしている、むしろズル仕事な状態といえるのではないでしょうか。こんなことを言うときっとっと大変なお叱りを受けることと察しますその様子がもうぼくの瞼にに浮かんでいます。働く休むの選択は食べる寝る同様個人の価値観と主体性に基づくものであり他人からズル仕事などと言われる所以はないとね。はいその通りでありますもう先に白旗をあげておきます、でも有休義務化の法令を作ったのは僕じゃないからごめんなさいは言えないのだ。駐車禁止、一時停止義務違反とおなじようなもので、なんでこんな場所にと言ったってきめられているのだから仕方ない、社会にはそういうものが少なからずあるのであ~る。結局自己責任なのだからとやかく言われる筋合いじゃないと僕も思ってはいますよ。でも、たまたま昨日の自画持参のお題がずる休みの言い訳だったからそこから派生してそんなことを考えてしまったわけで、気がついたらこのブログ自体が言い訳みたいになっているではないか。あはは。どうやら「やすむ」と言い訳(理由)は切っても切れない間柄であるようできっとそれは「わかりあえないこと」に端を発しているごく当たり前なことなのだろう。




2022年5月16日月曜日

自分脳を知ればやる気なんて自由自在っす。

 https://news.yahoo.co.jp/articles/6307cd6e6be0431db07eecc5b6f9910dd0aaf2e2

初老期うつ病というのがあるんだって。最近立て続けにあった訃報の要因的に取り上げた記事があったけど仕事も健常な肉体も同時に喪失した僕は状況的に結構やばいんじゃないだろうか。でも、自分で感じるにはあまりうつ病っぽい症状はない何か気づいた人は教えてねえへへ。、夜も良く眠れるし新規事業とか新しいことにも挑戦する気も満々なのである。リハビリ病院を退院した後、病院の研究への協力依頼があって、なにかと思ったら、退院後のやる気の状態などどちらかというとメンタル状況の調査を依頼された。そのアンケートに答えながら逆にやる気が大事なんだなと自覚した次第で敢えて新しいことを手掛けてみようと思ったのであった。まあ、前向きな自分に感謝です。そう思えているということはうつ状態ではないことの証でもあるだろう。ふ~、これは簡単にセルフチェックできるなんでもいいから新しいことを始めようと思えるか思えないかだね。新しいことは僕たちの身の回りに溢れているからね。やる気は意識じゃなく側坐核の活性化だから、何かをやろうと思うのではなくなにかをやってしまうことが効果的なんだ。僕は今リハビリも兼ねて食後に食器洗いをしているんだけど。面倒だと考える前にシンクに食器を箱んじゃった方がやる気が出る。逆に前頭前野は側坐核の働きを抑制もするから、意識としてやらなきゃと追い込んでしまうと逆にやる気がなくなる、だから本当に動き出せない時はあれこれ考えるより寝てしまった方が良いみたいだ。そう、自分を知るためには自分の脳の働きも知っていた方がいいよね、そうすれば負担にならずに簡単に出来る新しいこと例えば読書でも映画鑑賞でも、に手が付けられるまたそのタイミングで計算など脳トレをやるのも効果的だね。前頭前野も側坐核も両方活性化できるからね、一方僕には今新しいことでちょっと躊躇っていることが2つある1つはスマホの機種変更もう1つは新しいパソコンの購入である。いずれも、今あるもので間に合っているし、データ移行とか環境を整えるのが億劫なんだよね。パソコンばかり何台あっても仕方ない。でも気にはなっているからまあ当分は脳内買い替えシミュレーションをして網を活性化しておこうっと、てへへ、




2022年5月14日土曜日

My favorite movie【ネタバレ】

 昨日のブログで僕は一番最初に観た映画のことを書いたそれを書くうちに恋愛とかについても若干触れていた、さて昨日が一番最初であれば次は一番好きな映画に触れるのがよいかもしれない、最初にしても好きにしてもそれはぼく個人のものである。さて一番好きなのはインターステラというSF映画である、長くて割と難解な映画ではないだろうか、しかし僕は映像の美しさと、僕は愛について語っていると感じる部分が好きなのかもしれないその中の代表的なセリフは愛は人間が開発したものではなく観察可能で特別な意味がある力だというもの原文はわからないあはは。それと、愛が観察可能なら何かで数値化できるはずだというものだ、科学的唯物論が幅を利かせる現代において僕たちは愛とは何かをどう理解すればよいのだろうかこれは幸福とは何かに相通じる問いであるように僕には思える共通点はいずれも観察可能で言語化出来なくても体感している人は多くいることだろう。養老孟司さんによれば概念化によって意味が共通化される。でもそれによって個性は消されることになるから画一的に語らる、つまり不変の情報としてやり取りされるものになるだから当然そこには窮屈さや違和感がうまれてくるのであろう、さて、インターステラはSF映画だから愛という力が科学において大きな役割を果たすと言いたかったのかもしれない。しかしその愛の取り上げ方が生活者としての僕の実感とある部分はあっているけどある部分は合っていないというちぐはぐさがあってそれは自分は愛をどう考えているのかという自分への問いを引き起こすそこに僕はこの作品の奥深さとか面白さを感じているのかもしれないね。さてこの映画以外にも好きな映画はたくさんある。SF以外だとかもめ食堂とかシェフとか料理や料理家が登場する映画が僕は大.好きだ。芥川賞作家でロックミュージシャンで愛情料理研究家の辻仁成さんや料理家栗原はるみさんが言うように料理は誰か他人のためというからそのプロセスを含めて愛が込められたアウトプットである料理を観るのが好きだからなのかもしれないね。僕は家でもちょっとしたものでも手料理が出てくるとすごく嬉しい、その時僕は愛と幸福を体感しているのであ〜る。もちろん、僕の嬉しさのために疲れをおしてまで無理して料理して欲しいとは思わないけどね。義務になった瞬間人のための料理には愛情だけじゃなく苦痛が込められてしまうからね。どうやら僕は愛を感じられる映画が好きでそれを観ると幸せなのであ〜る。リアリストの方々はきっとこれを読んだら気持ち悪い奴と思うに違いない、要するに僕は単なる救いがたいロマンチストなのである。えへへ。


愛葉未知の力でも信じていいと思う
思う!思う1思う!

2022年5月13日金曜日

マイファーストムービー

 bsで映画「小さな恋のメロディ」を放送していた。この映画、忘れもしない僕が初めて観た映画なのだ。小学3年生位の頃だったかなぁ。なぜこの映画を観に行くことになったのかは全く覚えていないのだけど。確か年頃のお姉さんそれが誰だったかは覚えてない。に連れて行ってもらったように思うから。ひょっとしたらそのお姉さんが観たかった映画だったのかもしれないね。メロディ役のトレイシーハイドがかわいいと当時も思っていた記憶がある。今見てもかわいいね~。おそらく映画を観た当時同年代だったんだよね。舞台となっている国が違うのでいろいろなエピソードにリアリティもなくたしかあまり没入出来なかった。しかし子供心にピュアな恋愛の物語りであることはわかっていたと思う。でも。その頃の僕は、奥手だったし、かわいいと思う女子はいたけど。映画のように大胆なことは思いつきもしなかった。僕にとっての異性への目覚め(意識するようになったのは)は中学2年の時くらいだった気がする。性の知識は小学6年くらいに得ていたけどね。やはり、中学に入り周囲の友達に感化されてより異性を意識するようになったのであった。まあ、今から考えれば当時はかわいいものである。もう少し大きくなって、成り行きでデートしたけどどうしていいか分からず、すごく疲れたことがあったあれは高校生の頃だったなぁ。今思ってもほんと奥手だったしめっちゃうぶでした。デートしてくれた人ほんとつまらない思いさせてごめんなさいあはは。まあ、そんな僕でもやがては結婚し離婚し再婚出来たのだから人生わからないものです。そんな僕が今回映画を今観て気になったシーンは以下の画像。二人が学校をサボって海水浴デート(今になってから学生時代にそんなことやっておけばよかったなと後悔するのであった)に行った時に。結婚しようと切り出されたメロディが大人になったらねといなしたあと、そんなに待っていたら退屈な大人になっちゃうよと言われて。メロディが大人になると何もかも分かりすぎちゃって疲れちゃうのかもねと返した瞬間である。たしかに疲れちゃって退屈な大人になる感覚もよくわかる。疲れているから退屈になるのか、退屈だから疲れてしまうのか因果はわからないけど男女の間で疲れると言う感覚が有り得ることを先述のように若からし頃の出来事をを思い起こした僕は否定できない。でもちょっと意味が違うかもねえへへ。でもかつて映画を観た時はそのシーンは、印象に残っていなかったから。当時はその会話についていけなかったのだろうね。





2022年5月12日木曜日

僕の良心の呼び声は妻の声

僕は今回病気になってみて、弱気になったわけでは無いけどら妻の言うことは正しいと深く悟っている、だから、何かを投稿する際にも妻ならなんと言うかを考えるようにしている。そして、それはやめた方がいいよ、と言いそうな気がする時は、その声は僕の良心だから投稿をもう一度考え直すようにしている。今日も、実は長文を書いていいたのだけど、良心の呼び声によって全て消去した。リアルに消し去ったので復活することはできない。ハイデガーによれば良心の呼び声は自分の本来性を取り戻すキーワードだから、僕は妻のおかげで、よりよく生きることができるのだ。ありがたいありがたい。この先どれだけあるのかわからないけど残りの人生も僕の良心である妻への感謝を忘れずに生きていきたい。





2022年5月11日水曜日

若者の出会いはどうする?

 僕が気を揉むような話ではまったくないのだけど気になることがちょっとある。それは僕が通うデイケアで屋外の歩行訓練などを行ってくれている理学療法士の彼の恋愛である。いい人がいるのだけど上手くいかないという話ではなく、早くいい人を見つけて欲しいなと願っているのだ。その理学療法士はとてもいい子で、デイケアの主役であるご高齢の紳士淑女の皆様にもいつも機嫌よく丁寧親切に接している。だからご婦人方にもかわいがってもらっているようだ。しかし紳士淑女にしてみればもはや孫の年代である。僕にとっては孫だとしたらちょっと大きい。歩行訓練といっても要するに時々指導はあるけど基本ただ外を歩いているだけなので歩きながらいろいろと雑談をしていて僕のくだらない身の上話も興味を持ってしっかりと聞いてくれるだから最近は僕も彼のプライベートなことを色々聞いている別に詮索することが目的じゃない。そんな中でいい人はいないの?何ていう話になった。そうすると仕事が忙しくて出会いも無いと言った。そりゃそうだよね、老人しかいない職場に長時間拘束されていたら、妙齢の女性と出会うことも、出会いを探すことも難しいだろうことは想像に難くない僕が出来るアドバイスとしてはマッチングアプリとか入れないの?という陳腐なものだけだ。リハビリテーション病院には若い女性の作業療法士さんや看護師さん(おそらく未婚)がたくさんいらしたけど、デイケアでは少ない。同じ職場に相手が居るというのは、仕事の大変さの理解や収入の状況を理解してもらううえで大きなアドバンテージになるだろう。それ故、嫌がる女性もいるかもしれないけどね。職場結婚というのは色々な面で合理的なのかもしれない。最近の婚活はアプリで相手の情報を知ることで効率的に行うのが若者のスタイルなのだそうだけど、アプリ入れなくても同じ職場なら非常に多くの情報を得ていることになるからね、雇用機会均等法はあるけど、職業選択の自由もあるから職種や職業によっては職場における男女の比率が半々なんていうことはめったにないのではないか。だから男性にしても女性にしても人生のパートナーを職場で見つけることは困難である。結果、結婚したいと思えるようないい相手との出会いが無く晩婚化と少子高齢化社会へ邁進していくのだ。かつては男女の出会いから結婚までを世話する仲人という役割が社会では重要視され。良き社会人としての義務とまで言われた時代があったそうだ、良き社会人たるために世話焼きをしたいわけではないけれど、自分が結婚した年代のいい若者に出会うとつい世話を焼きたくなってしまう。おそらくそれは定年などの形で仕事の一線から身を引いた人にとって自然と湧き上がってくる感情なのかもしれないねお節介は嫌われることも良くわかっているけどね。



2022年5月10日火曜日

幸福度調査の大いなる矛盾

 日本の若者の精神的幸福度は諸外国に比べて低いのだそうだ。

その原因として他者との比較による自己肯定感の低さがあるという専門家の分析があるけど、要するに他人と比べて持たなくても良い劣等意識に苛まれているということだよね。またNHKの1万人調査では若者が欲しいもの1位はお金だそうでこれはきっと大人も変わらないだろう。さて、幸福とは人生と不可分のものであり、幸福感とは異なる。そして量的なものではない。

お金が同じようにあっても幸福な人とそうでない人がいるのは幸福はその人人固有の人生そのものであり量的なものでないことの証なのである。丁度昨日の100de名著はアリストテレスの二コマコス倫理学で幸福とは何かであった。真の幸福とは理性を伴い良く生きること持って生まれた能力や可能性を出来る限り現実化して充実した活動をする中に幸福が実現する人間は理性を十全にはっきすることのうちに幸福が見出されるとアリストテレスは考えたのだそうだ。幸福は外に現れ人に伝播する。ものだから若者の幸福=大人の幸福、社会の幸福なのである。

しかし比較によって差異特に足りないものを探すことは持っていない能力や可能性に囚われることであり、幸福とは程遠い。そう考えると日本の若者が幸福と程遠いのも納得できる、

しかし考えてみよう幸福度調査とはまさに他者との比較そのものではないだろうか。幸福ではない幸福度調査が若者にさらに伝播し幸福でなくなる。こんな皮肉で残念な構図が浮かび上がってくるのだ。



2022年5月9日月曜日

脳出血と言う病気

 韓国の女優カンスヨンさんが脳出血で亡くなったそうだ。僕はこの女優さんのことは良く知らないけど脳出血のことは良く知っている。経験者だからね。

カンスヨンさんは自宅で倒れているのを派遣されて病院に搬送されたそうだ、タレントで女医の西川史子さんも自宅で倒れているところを救助されたそうだ。僕が倒れたのは自宅ではなかったけどトランクルームと言う施錠された場所であった。脳出血にしても脳梗塞にしても発症は突然で時と場所を選ばない、そして発症すると当たり前に出来ていたことが出来なくなる。それ故本人も周囲もすぐに異変を察知することが出来る。大切なことは異変を感じたらすぐに対処することだ、病気の進行が早いこともあるけれど、進行すると余計何も出来なくなるからである。刻一刻と危険性が増していくのだ。だから異変を感じたらすぐにSOSを出すことが重要である待っているとSOSも出せなくなってしまう。同時に脳の神経細胞の損傷も酷くなるので回復も難しくなる。脳疾患に関しては様子見してはいけない。生死に関わってくるのだ。体が利かなくなっても恐らく同時に意識が消失することは稀だろうから多くの場合は身体が動かなくなる言葉がでなくなるなどの症状を感じながら何も出来ないという不安に向き合わなくてはならなくなる。これは本当にしんどい。推察するにカンスヨンさんも意識があった時はとても辛かったことと思う。もちろん出血の部位とか状態によって全然異なるとは思うけどね。脳疾患において安全な場所は診察や治療が出来る病院だけだ。自宅は安全な場所じゃない。幸いにも僕は後遺症が残っているけれど死ぬことは無かった。でもそれはただ幸運であったに過ぎない。カンスヨンさんの記事を見て強くそう思うのであった。





2022年5月8日日曜日

SNSという武力に必要なこと

 SNS上で犯罪などの被害者を誹謗中傷する輩が無くならない。19世紀イギリスのリットンはペンは剣よりも強しと言ったが今であれば投稿は弾丸よりも危なしということになるのだろう

インターネットという仕組みがそれに無限の破壊力を与えてしまった。SNSはもはや投稿テロリズムの温床なのである。そういえばこんな僕でもかつて、カフェでのリモートワークは止めようと書いたら自称カフェで仕事をするのが好きな人から受け狙いの煽りだと書き込まれたことがあった。それ自体はたいした反応も無く終わった話なのだけど。僕の投稿はその意図は無かったけどカフェで仕事好きさんには攻撃されているように感じられたのだろう。またぼくの投稿が引き金になってカフェでのテレワーク禁止がムーブメントになったら困ると感じたのかも知れない。きっと街中のカフェではパソコンの利用はおやめ下さいと注意され面白くない店と利用者の諍いも少なからずあるのではないだろうか。カフェでなく飲み屋でもあるよね。昔コーヒーの美味しさと雰囲気の良さを売りにしていた喫茶店で妻とコーヒーを楽しんでいたら奥の席を占拠していた女性陣が大きな声で話が弾んで、煩いなと思ったら間髪入れずに店の人がその一団に注意してくれて痛快であったことがあるけど、注意された一団はきっと面白くなかったことだろう。こうしたちょっとした諍いがSNSではワールドワイドに一気に広がってしまう。地域紛争が世界大戦になってしまうようなものだ、ある政治家がロシアのウクライナ侵略戦争を地域紛争だと見識を疑うような発言をしたことは記憶に新しいけど、地域に起こった対立の構図が瞬く間に飛び火して拡散して甚大な人命を犠牲にしてきたのを有史以来の僕たちの経験は見てきたではないか。その知見があれば地域紛争だなどと矮小化する物言いは政治家として致命的であろう。今回の戦争には情報戦の一面が強く表れていてウクライナのゼレンスキー大統領はまさにSNSも使って情報を発信している、そしてウクライナ支援の国際世論形成に成功した。テスラのイーロンマスク氏はロシアと闘うことを明言しツイッターの買収に動いた。はからずしもSNSが強力な武力に該当することが実証されたのだ。しかも、この武力、誰でも使って他人を傷つけることができる。銃刀類の保有は規制されてもSNSの利用は規制されていないのだ。日本でも元アナウンサーがこの武力を行使しまくっ他人を傷つけている。SNSの武力としての特徴は攻撃の対象としていない人たちまでも傷つけることである。第三者の巻き込み被害を引き起こすのだ。幸せそうな投稿ですら嫉妬や妬みの感情を刺激して心を蝕んでいく。場面によっては核兵器にも劣らないこの武力において人に残されているのは倫理である。倫理は武力を無力化する唯一の手段なのだ。倫理学のは幸福論的倫理学と義務論的倫理学があるそうですが。僕たちはSNSを使う前にまず、SNSが武力であることの認識と自らの倫理に向き合う必要があるようです。

SNSを使う時は誰もがゾロである




2022年5月7日土曜日

君の声が聴きたいプロジェクトに僕が持つ違和感

 若者の精神的的幸福度が、低い日本。昨日からNHKまで君の声が聴きたいプロジェクトという一連の番組が始まっている。プロジェクトの核となるNHKスペシャル。日本の子どもや若者の「精神的幸福度」が38か国中37位とことに端を発したプロジェクトらしい。このランキングの背景となるのがどのような調査や統計データを基にしているのか僕は正確には知らないけど。調査であれば当然調査設計があって何らかの尺度が用いられていることは間違いない。

統計データにおいても同様だ。何らかの数値を幸福の指標と定義していりのだ。

では幸福の定義とは何だろうかそもそも幸福とは定義できるものなのだろうか。そこら辺に関しては気アドラー心理学の第一人者岸見一郎さんの成功でなく幸福について語ろうに詳しい。

その中に幸福はそのひとだけにあてはまるという一文があるこれはとても重要な視点である。幸福感と幸福は違うとも書かれている。僕も調査や指標では幸福は測れないと考えている。でも幸福は本当に存在することを僕たちは知っている認知することが出来る

下のイラストを見て動物たちが不幸のどん底に居るとは誰も思わないだろう。だけど、楽器を持てば誰もが幸福かと言えばそんなことはないでも彼らが幸福であることに僕たちはなぜか確信を持てるのである。

楽器を演奏する仲間といるというのがこの状態の記述であるが、僕は小さいころピアノ教室に通わされてとても嫌だった幸福ではなかった仲間と居る時も孤立を感じたり違和感があったりと常に幸福であったわけではない。だから記述によって僕の幸福は測れないし、楽器演奏の経験という指標でも僕の幸福は測れない。

だから、指標や調査による幸福の測定には大きな違和感をもっているのである。

先述の本には自分が今不幸だと思うのであれば幸福な状態を知っている必要があるとも書いてある。そうなると精神的幸福度とは、精神的幸福とは何かを知り今は幸福なのか不幸なのかを判断して取り出せなくてはならない。しかしそのためには多くの経験が必要なことは言うまでも無いだろう。目的においてNHKの取り組みは良いことだと思うけど、その論拠に納得出来ていない僕がどうやら居るのは間違いない。




2022年5月6日金曜日

組織運営に潜む心理学、倫理学、脳神経科学

 期待の若手、意欲も能力も高く人柄も良くマネジャーは自分の後釜として仕事に取り組んで欲しいと考えている。しかしその期待を伝えると当人は「私は〇〇マネジャーみたいに仕事が出来ませんからと何ともつれない応答である。マネジャーにしてみれば自分の若いころに比べても悪くない。だから自分の仕事を任せて経験と実績を積ませてあげたいそうすればきっと良いマナジャーになれるただ問題は当人にはそのようなキャリアイメージが無いことである。無いと言うよりむしろ避けたいと思っているのだ。しかし、やるべき仕事は丁寧にスマートに進めるので周囲の評価は高い勉強熱心で、その道のプロになりたいと本気で思っている。教育心理には期待が人を育てるピグマリオン効果というのが良く知られていて、期待をかけた方が人は成長するらしい。部下を育てる役割のマネジャーも当然そういったことは知っているので1on1など場面場面で、仕事ぶりの承認とエンカレッジメント(励まし)と次のステップに向けての期待を伝えているにも関わらず当人は塩対応でマネジャーはなんとも残念なのである。

実はこういった光景は会社の中だけでなく、家庭でも学校でも見られるのでは無いだろうか。部下にしろ子供にしろ生徒にしろ期待が成長ではなく根本的な価値観の違いを浮き彫りにする瞬間である自分の未来は自分で拓きたい人にとって期待の背後にある思惑が何となくみえてしまうのかもしれないよね。その思惑とは目的と言い換えることが出来るかもしれない、アリストテレスを紐解くとこの問題の本質が浮かび上がってくるかもしれない。

マネジャーに期待された当人にとってその期待は善と感じられていないのであろう。マネジャーにとって期待をかけることは善である。つまりマネジャーの善と部下の善は一致していないという至極当然なことであるということなのだ。

あらゆる 技術、 あらゆる 研究、 同様 に あらゆる 行為 も、 選択 も、 すべて みな 何らかの 善 を 目指し て いる と 思わ れる。日本放送協会; NHK出版. NHK 100分 de 名著 アリストテレス『ニコマコス倫理学』 2022年 5月 [雑誌] (NHKテキスト) (p.20). NHK出版. Kindle 版. 

、「 幸福 に なる」 こと が 人間 の 行為 の すべて を 支え て いる 究極 的 な 目的 として ある の だ と 考える。 これ が、 アリストテレス の 幸福 論 的 倫理学 の 基本 的 な 構造 です。日本放送協会; NHK出版. NHK 100分 de 名著 アリストテレス『ニコマコス倫理学』 2022年 5月 [雑誌] (NHKテキスト) (p.26). NHK出版. Kindle 版.

マネジャーが選択した期待という行為の究極的な目的に「幸福になること」があらわれていないから部下の善と行違ってしまうのでしょう。



脳にあるミラーニューロンという脳神経細胞の働きはすごいのです
行違っているのでなくあなたが映っているだけです。





 


2022年5月5日木曜日

家長制度の放送はなぜ要配慮じゃないのだろう

 祝日の朝僕はいつもと変わらずNHK朝の連ドラちむどんどんを観ていた。本土返還直前の沖縄のある家族の物語りである。この家族不意に父親が亡くなり母親が5人の子供を育てている子供と言っても長女はすでに教師になって家族の生活を助けている一方で長男は仕事にも就かないくくせに一獲千金を語り胡散臭い詐欺話に乗って家のお金を使ってしまうのだ、まあそのくずっぷりがネットでもわだいになっているのだけど付置癖は俺は○○家の長男だというものである。家の中で長男が家督を相続する立場にあるとした差別的なかつての日本社会の慣習である。その家督制度は戦後廃止されているにも関わらずドラマの中ではまだ堂々と主張されているこれは如何なものだろう。過日、アイヌ民族を揶揄する表現があったとしてある番組が問題にされた。テレビ局では差別を助長するような発言や表現は放送禁止に指定されているから、当該の法曹を行ったテレビ局は平謝りのうえに教育の徹底と再発防止を誓った。表現の中には差別を意図していなくても差別を表すものが少なくない。良く、昔の映画や放送をテレビで再放送する際に「一部配慮すべき表現がふくまれているけど作品のオリジナリティを尊重してそのまま放送します、といったテロップが出される」放送禁止用語でなくても配慮が必要な表現はたくさんあるということでしょうさて課長制度には差別的なニュアンスが含まれている。戦後現代においても。家長的意識が社会に根深くあることは否定できないけど。こういった潜在的な差別意識は無意識化している他の偏見(バイアス)同様に排除すべきものであろう。時代考証的に俺は○○家の長男という発言は正しいのだろうけど、それを正しいこととして良いのだろうか。僕は3男だけど生まれる順番はコントロールできないものだ、長男だってそうだろう、性別もそうだよね。そういった生得的な所与で構成されてきた社会を追認するような脚本のドラマを観て違和感を感じるのはぼくだけねのであろうか?じゃあ観なければいいって?それも正論だけど、朝の連ドラファンとしては観たいのだよね。

順番も性別も本人は選べない




2022年5月4日水曜日

 かつて愛犬のルイちゃんとみかん摘みに行ったこともある湯河原のみかん山からみかんの詰め合わせが届いた。ごひいきという産直サイトを通じて発注したのだ。このみかん山はルイちゃんのお友達のお家が管理してみかんを育てている。そんな犬ともつながりでもあるので、みかん摘みにいったのだ。みかん摘みのお手伝いに行ったのだけどね。昔は冬場の出稼ぎ先として新潟の農家の人が来ていたらしいけど、出稼ぎ元農家の高齢化が進みみかんも社会全般で消費量が減って売れ行きが良くなくなったこともあってみかん山の存続にも暗雲が立ち込めていたらしい。しかしこの湯河原のみかん山のみかんは抜群に美味い。だから我が家では切らすことなくオーダーしている。犬は柑橘が好きだと聞いたことはないのだけどルイちゃんはこのみかんが大好きで毎朝一緒に食べている。青島みかんが終わるとお黄金柑とかせとかとか栽培している色んな種類の柑橘をアソートして送ってくれる。生産者の顔が見えると言えばまさに良く知っている人たちの生産だから優先して買いたくなるし美味しいとなれば猶更だよね。ごひいきというサイトには他にもたくさんさんちょくしてくれる農家が登録していて、いずれまた料理が出来るようになったらオーダーしてみたいなと思っている農家の人にとって一気に収穫して農協に持っていくのと手間をかけて小口の販売発送するのとどちらが望ましいのかわからないけど、困っているもしくは新しいことに取り組もうとしている農家を少しでも助けることが出来るのであれば積極的に使っていきたいよねサイトの中を良く見てみようっと。




2022年5月3日火曜日

やる気とやりがいの因果関係?

 やる気があるからやりがいを感じるのかやりがいがあるからやる気が出るのかその因果関係をかんがえてみようやる気モチベーションでは脳の側坐核という部位が活性化することで引き起こされる側坐核は新しい脳による意識が制御できる部位ではない。だから、側坐核を活性化するためにはとにかく動き出すことが大切だと言われる。一方やりがいとは、行動に見合った成果がある状態や他に優先して取り組む物事を指す社会性の脳が感じるものなのである。。つまりやりがいとは結果の報酬でありきっかけなのである。きっかけの段階ではまだ報酬が得られていない他に優先してとりくんだものの相応の報酬が得られなければやりがいを感じられないということもあり得るのだ。俗にいうやりがい搾取だね。冒頭に書いたようにやる気の源側坐核は意識で活性化することが出来ない。しかし行動した結果思った以上の報酬が得られたとなるとやりがいが感じられて次の行動のきっかけになる。やりがいとは社会性の脳が感じるものだから。こうしたやりがいと行動の連鎖によりきっかけを強化してやる気が高い状態を作り出すことが出来る。学習理論ではこれはオペラント条件づけと呼ばれている。産業組織においても成果と報酬をリンクさせる手法は常道化している。しかし内発的動機論によって外的な報酬に依存しない状態でもやる気が強く自律的にやりがいと行動を連鎖する状態が確認されるとその連鎖する状態がやる気と観察されるようになったのである。ここに至りやりがいとやる気の因果関係が認識される。仕事であれば仕事にやりがいを持っているとやる気があると観察される訳である。産業組織の生産性向上にとってこのやりがいは非常に都合が良いものだよね。報酬を高めなくても自律的に行動し成果を出す故に生産性は飛躍的に上がることになる。結果、産業組織の内部留保は飛躍的に増えるのだ。こうして、やりがいのある仕事にモチベーションの高い社員が集い高い内部留保と時価発行総額の高さを誇るあれ?これって今の日本の名だたる企業そのもののではないですか。やる気とやりがいの因果関係を紐解いたら別の問題が見えてきたようです





2022年5月2日月曜日

ちょっと反省

 僕は昨日思いとして障がい者100%の産業組織を作りたいと書いた、配信された記事にもあったけど、組織での異物化される障がい者を異物化しない組織が作れないかと考えているのだ、そんなことを考えながら夜、養老孟司さんの遺言という本を読んでいて僕の発想には問題があることに気づいた、以下、その部分を抜粋する。

意味 の ある もの だけに 取り囲ま れ て いる と、 いつの間にか、 意味 の ない ものの 存在 が 許せ なく なっ て くる。 その 極端 な 例 が 神奈川県 相模原市 で 生じ た 十 九 人 殺害 事件 で あろ う( 2016 年 7月 に 障害者 施設 で 引き起こさ れ た)。 障害 が あっ て 動け ない 人 たち の 生存 に、 どういう 意味 が ある のか、 そう 犯人 は 問う た。   その 裏 には、 すべて の もの には 意味 が なけれ ば なら ない、 という( 暗黙 の) 了解 が ある。 さらに その 意味 が「 自分 に わかる はず だ」 という、 これ も 暗黙 の 了解 が ある。 前段 の「 すべて の もの には 意味 が なけれ ば なら ない」 までは 信仰 として 許さ れる。 しかし 第二 段 の 暗黙 の 了解 が 問題 で ある。「 私 には そういう もの の 存在 意義 は わかり ませ ん」。 そう 思う のが 当然 なのに、 自分 が わから ない こと を、「 意味 が ない」 と 勝手 に 決め て しまう。 その 結論 に 問題 が ある。 なぜ そう なる かと いう と、 すべて の もの に 意味 が ある という、 都市 と 呼ば れる 世界 を 作っ て しまい、 その 中 で 暮らす よう に し た からで ある。

養老孟司. 遺言。(新潮新書) 「壁」シリーズ (p.28). 新潮社. Kindle 版. 

という一節があった養老さんの本はどれも示唆深くて素晴らしい、哲学的である。

さて本を読みながらそうだよな~と深く納得しながらはた。僕は障がい者100%という意味で意味に取り囲まれようとしているのではないかと気がついたのである、遺言の中には雑草と言う草はないという話も出てくるのだけど、自然の中には僕たちが雑草とみなす植物だけで満たされている世界も無いではないか、つまり、障がい者100%と言った瞬間に僕は障がい者と非障がい者(健常者)を意味によって線引きしていたのだ。危ない、危ない。僕が目指すべきは障がい者も健常者も同等の存在である産業組織の実現なのだ。養老孟司先生ありがとうございました。目標は効率とか生産性という尺度によらない産業組織だね、そこには産業組織はどうやって産業組織の呪縛から解き放たれるのかという取り組み甲斐のあるテーマが横たわっているだろうひょっとしたら産業組織が投資の対象となっている現状を変えなければならないのかもしれない。じっくりと考えていこう。

おススメです


2022年5月1日日曜日

障がい者雇用ではなく障がい者100%の産業組織を実現したい

 https://news.yahoo.co.jp/articles/f45abb67f3772f09b38fd517c3a21dd2e496446e?page=1

プーチンが変えてしまう前の平和な世界をとりもどしたいそんな思いもあるけれど僕が今回脳卒中で中途障がい者になっ想ったのはもし僕が事業家として再起出来たなら今日ヤフーニュースで紹介されていたような障がい者雇用の現実を変えていきたいというものである。僕がリハビリに励まされた俳優塩見三省さんの表現で自分が社会の異物になったという自覚を持った時異物扱いされてきた人がたくさんいる世界が目の前に広がった実は僕は自分が障がい者になる前から社会とその異物に関しては良く知っていた。実はすでに亡くなっているけど僕の兄弟で一番上の兄は知的障がい者であった、母はその兄の将来をいつも心配していた。子を思う親の気持ちを考えると本当に切ない。もちろん、当人だって楽しいことは無かっただろう。兄は障がい者雇用であるパン屋さんに雇用してもらった母は最初大変喜んだのだけど、兄は勤め先でいじめにあっていたのだそうだ、もともと自閉の傾向があった兄はいじめの影響で自閉が酷くなり家での生活にもいろいろと問題が出るようになってしまった。

社会の一員としてなんとかデビュー出来たと思ったら社会は一員としてでなく異物としか見ていないという現実に直面することになってしまったわけだね、ヤフーの記事の中でも、雇用はされたけど成長は期待されていないという現実にがっかりしたと述べられていた。産業組織にはコミュニティとしての社会性と生産性の2つの信条が備わっている。だから異物を村八分にすることの正当性が社会的に承認されているんだよね。最近でこそLGBTの問題など、が議論されるようになってきたけど、現実にはまだまだ問題に手がついていないように思えるだから僕が実現したいのはあらゆる人を異物化したり村八分にしない産業組織の実現である、最近はどうすれば終身雇用と年齢相応の報酬と協働による生産性の発揮を両立出来るかということをずっと考えている。先日NHKで放送していた”異彩”が変える~起業家松田崇弥・文登~という番組は大変刺激的であった、障碍者の芸術的才能を発掘して社会につなぐ起業家兄弟の話だった、この兄弟にも知的障碍者の兄が居て、活動の原点になっているようであった。僕が考えるうえで大きな勇気を貰っている、障がい者とその家族を取り巻く状況を僕は知っているし今まさにその当事者であるわけで神様が僕に残した能力をその改善のために使うことが出来たら中断してしまった僕のこれからの人生をきっと最高の人生にすることが出来ると思うのだ。そのためには仲間とアイデアを集めなきゃね。

松田兄弟を倣って