2023年1月31日火曜日

隔世遺伝?でも私ってサバサバしてるから大丈夫?



 隔世遺伝隔世遺伝とは、祖父母またはそれ以前の世代の遺伝子が世代を超えて受け継ぐことです。つまり、両親が薄毛でなくても、その先祖に薄毛だった人がいれば受け継ぐ可能性があります僕は父も母も薄毛では無かった晩年の父は決してふさふさじゃなかったけど俗にいうはげではなかった櫛を使っていたし整髪料もつけていた。

一方僕は間違いなく禿の部類に入るのではないかな。

あと数年もしたらツルツルになってしまうかもしれない(おー怖)、でも大丈夫僕はサバサバしてるからはげたって気にしないのだ。

スペシャルな養毛剤を使っているとたまに自慢される方もいらっしゃるけど、さばさばした僕はそんなこと気にしないのだよ。あはは。

だってはげるのは仕方ない、母方の祖父はほんとうのつるつるだったのだからね。そう僕がはげるのは隔世遺伝だから仕方ないのだ。この隔世遺伝には泣かされたことがある。祖父は色弱を越えて色盲だったらしく、僕はそのDNAを引き継いで色弱なのだ。高校から大学に進学する際。エンジニア希望だった僕は、面談でその色弱のせいで工学部は向いていないと指導されたのだ。抵抗とかは色分けされているから、色弱だと向いていないと言われたわけである。10代の僕は髪の毛も有り余るほどあったから将来はげる事なんて気にもしなかったけど、理系に行けないという青天の霹靂判定にはさすがに腹が立って母親に怒りをぶつけた記憶がある。でも、今考えたら勉強で理系科目が得意だった記憶もないから単なる八つ当たりだったのだけどね。さらには誰かからの入れ知恵で文系の方が就職に有利だと信じ込んでいた母は僕の抗議にはまったくの馬耳東風だったけどね。しかし僕の人生に大きな影響を与えた祖父に僕は一切面識が無い。というのも祖父は僕が生まれた年の正月元旦に脳卒中で亡くなっているのだ。僕は3月生まれだからまったく接点が無いのである。祖父が亡くなってから60年経ち今度は僕が脳出血を起こしたのだからこの脳卒中も隔世遺伝かと勘繰りたくなる。僕が知っている祖父はつるっぱげの遺影と母が話してくれた元旦に倒れた頭のところで、1歳上の兄がお盆をバンバン叩いて起きろ~と騒いでいたらしいことだけだ。

祖父の脳卒中が脳梗塞か脳出血かも今となっては迷宮入りだけどもし同じ症例だとしたらなんらかの遺伝的影響はありそうだね。


若いころは関係無い

2023年1月30日月曜日

スローモーションキャリアと倍速キャリア

 昭和の歌姫中森明菜さんの代表曲にはスローモーションとか1/2の神話がある。昭和世代はスローモーション世代だと言えるだろう。一方令和世代Z世代は倍速世代だと言える。これ実はキャリア観からも言えるのではないだろうか。昭和世代のキャリア観は終身雇用に退職金制度、賞与制度である、昭和世代はゆっくりと時間をかけた方が得をするようなキャリア環境が整っていたのだ一方、令和世代のキャリア観はジョブホッピング。一度しかない限られた人生をより有意義に送るには就活人気企業であっても終身雇用などは考えずに、スキルを積んで自分の市場価値を挙げて転職したり、自分が本当にやりたいことのために起業したり移住したりする退職金制度より、その分は今受け取るとか確定拠出型年金で今積み上げていくという先取り意識が強い。この背景には将来何が起こるかわからないという非線形型未来像が大きく関わっていることは間違いないだろう。タイムパフォーマンスをあげるという考え方は今ここを大切に生きるという禅的な思想にもつうじているものであり、いまここにある自分を大切にする生き方であるとも言えるでもそれは利己的独善的に生きるということじゃなく、他者や環境にも配慮して利他的に生きる事も含まれていると僕は思う、令和世代の環境や仲間に対する意識は決して低くないものね。かえって昭和世代の方が自己中心的な生き方が大手をふるってまかり通っていたように思えるオリンピック汚職とサッカーw杯でのごみ拾いの違いと言えばわかりやすいかもしれないね。人材を囲い込み、飼い殺しにしてでも私利私欲を追求してきた年功序列や終身雇用が実は人道的に問題視される奴隷契約と本質的には大差ないものであり、それ故自ら瓦解していく秩序となり、新しい秩序がそれにとって代わるスローモーションキャリアから倍速キャリアへの転換はそんな変化の顕れなのかもしれないね。



2023年1月29日日曜日

論を考じる朝。

 講ではなく考。きっかけがあって日曜朝から論を考えている。

仮説に基づき論拠を集めて精査して仮説を自説に止揚するのだけど、定説や他者の論と比較検証することも忘れてはならないから、調査も含めてやることは山ほどあるのだ思いついたり気づいたりとまあ、楽しいことこの上ない知の冒険である。この冒険の先には他者による評価が待っている。満を持して構築した説が、面白い面白くないからはじまって納得できる出来ない。論理として正しい正しくないといった様々な観点から叩かれるわけだ。

それはそれとして壁打ちという知の鍛錬だから筋トレと同じく充実感もあるのだけど。論が浅薄だと時に叩き潰されてぺしゃんこにされることも覚悟なのである。脳卒中の後遺症で障がい者になった僕にとって、山登りやら旅行やら屋外に飛び出して行って冒険や鍛錬をすることは困難だから運動や行動を伴わない知の冒険や鍛錬は日曜日の朝手軽にできるすちれっちなのである。論文はgoogleで検索すれば情報が集められるし本であればamazonkindleなら部屋に居ながら直ぐに大型書店か図書館に居るように本に出合えるのだ。早速今朝もポチってしまったけど、いい本に巡り合えた。


情報化社会は知の冒険や鍛錬に極めて効果的だよね。


レッツ冒険


2023年1月28日土曜日

他人との緊張する関係性それは能力を高めるチャンスなのである。

 初対面で相手緊張感を与えてしまう人は少なくない。大きな体格や強面など、言動に限らず身体的特徴自体が脅威な人もいるからね、それに挙動が怪しい人、物言いが厳しい人なども緊張を与える。相手に緊張感を与えていることに無自覚な人も居れば。緊張感を与えることを良しとしている人も居る、(俗にいうマウンティングだね)意識無意識のマウンティングもある種の社会的仮面である。何が言いたいのかと言えばその仮面の下には人間性がある、こういった

印象や気分で人物を判断せずその人の人間性に目を向けて、尊重する態度をとれるとそこには多くの気づきや学びが潜んでいることがわかるものだ。安心感や心地よさだけで人を判断していると気づきも学びも得られない。

倫理 とは 他者 の 仮面 の 向こう に 人間性 を 認識 できる 能力 に ある、 と カント は 言っ て い ます。

マルクス・ガブリエル. わかりあえない他者と生きる 差異と分断を乗り越える哲学 (PHP新書) (p.38). 株式会社PHP研究所. Kindle 版. 

そう倫理とは社会関係を上手築くだけじゃなく、自らを成長させる核心なんだよね。



2023年1月27日金曜日

 人生折り返し地点も過ぎて多くの人が老害にならないよう自らそれまでの仕事から離れると残りの人生に何を為すか考える事だろう。この場合したいこと出来る事為すべきことを考えることになる。したいと出来るを兼ね合わせれば必然的に為すべきこともみえてくるのだけど、その際は為さざるべきことも考えておく必要があるだろう。そもそも、為さざるべきこととして一線を退いているわけだからね。そういったことを総合的に考えて何を為すか決めるタイミングが人生の後半期には必ず来ますね。僕は脳卒中にもなってまさにその時期を迎えたわけですがその際に強く感じたことは何を為すかの前に誰と為すかが大切だなぁ~ということです。世の中広いので何を為すかにも色々な機会がまっているものですが誰と為すかを考えれば思ずと答えはみえてくるものである。勢いや条件など下手なもので相手を選んでしまうとろくなことにならないこれは僕の人生の教訓なのである。それでも最近危うく同じ轍をふみそうになったけど。もう大丈夫さ・

若さ、でかい夢、仲間意識、こういう輩が一番一緒に為せない。

2023年1月26日木曜日

仕事に潜むゴースト

 ここ3~4回僕は、ペーパードライバーという身近な存在を通して、スキルとか能力といった概念の誤謬とその実態について取り上げてきた、要するに人間に限らず生き物は環境や状況となめらかにカップリングしていくなかで、身体化された経験リソースと記憶された情報リソースを偶有性という脳の働きや遺伝によって先天的に刷り込まれた反応や学習によって後天的に刷り込んだ反応を状況リソースによって引き出し創発することで状況に最も適応した自立行動をその場その場で生成しているのである。

産業組織ではそのような適応的自律行動は、仕事として協働として組織化され、問題を見つけたり解決する生産性を生み出す源泉になっている。

スキルや能力は常に身体化された経験リソース情報リソースの固有性と多様性、さらには、偶有性と学習による自動化並列化の個別性に強く関わっているので、具体的かつ構成主義的にそれらを捉え記述もしくは測定することは不可能でナンセンスなのだ。

しかし、世の中は大アブダクション時代。創発する適応的自立行動や組織活動の結果だけを捉えそこに、共通するスキルや能力や実力(コンピタンス)が存在するように類推する、そう、そこにおばけがいるという感覚といっしょだよね。

人間はおばけがいるという感覚を3歳くらいでみせるらしいこのような神秘性傾向は時に霊感商法という形で社会問題化したりもする人間共通の不思議な感覚だから恥じるようなものでは無い。

でも、ひょっとしたらこの神秘性傾向は人間だけのものじゃないかもしれない、犬と一緒に暮らしているとたまに、誰も居ない場所で物音がしたりすると犬はまるでそこに何かが居るかのように反応し続ける。

恐らく犬の意識にはその時そこに何かが存在するのだ。

こうした傾向は恐らく環境の中で敵から身を護ることに役立つものだ、脳の偶有性が存在しないゴーストを作り出すわけだよね、でもこういった恐怖心が過剰になると、軍備が正当化されたり、戦争が勃発するのだから面白いね~とも言っていられないのだけどね。

幽霊の正体見たり枯れ尾花このことわざの幽霊の本当の姿は、人が宿す恐怖や不安だけど、実は仕事におけるスキルや能力と言うのも全く同じ構造なのである。



2023年1月25日水曜日

みんな大好きコミュニケーション力の本当

 起業の採用担当者や人事責任者が就活生に求める力no.1は間違いなくコミュニケーション力である。

しかしこのコミュニケーション力というのは、いい学生が欲しいというこのうえなく曖昧な人材像と何ら変わりがない。もし企業の担当者やキーマンが採用コンサルにいい学生が採用したいんですなんて言ったらふっと鼻で笑われるのがおちである。そしてもっと具体的に言ってくださいとしたり顔でやりこめられる、採用コンサルにとっていい学生というマジックワードは食いつきやすい美味しい餌である。で担当者やキーマンは、一生懸命考えて現場で起きている現象 を説明しながら、そうそう、コミュニケーション力が高い学生だと、ひとりうんうん頷いて納得するのだ、しかしこのコミュニケーション力の高い学生というのはいい学生の言い換えにしかなっていないことを気づきべきなのである。

例えば英語でコミュニケーションがとれる学生と条件を少し厳しくすればわかりやすいだろうコミュニケーションとは双方向の意志の伝達や交換だから相手があってはじめて成立する行為なのである。言わずもがな。

文脈依存性、環境依存性の観点からみればコミュニケーション力という能力自体アブダクションによる虚構なのだ。

僕は昔、卒業旅行でイタリアからフランスまで寝台列車に乗って移動した。

同じ寝台には、イタリアの若者も乗っていたけど、彼等はまったく英語が理解できなかった。僕は英語は得意じゃなかったけど、学校教育のおかげで、挨拶程度の語彙はあった。

しかしイタリアの若者とは挨拶も出来なかったのだ。

しかしもし僕の旅行先がアメリカだったらまったく話はかわっていただろう。

実際英語圏であるオーストラリア、ニュージーランドに行ったときは、タクシーの運転手と言い争い(一歩手前)が出来たのだ。

オーストラリアのタクシーには乗り合いの習慣があって、空港から街に出た時、乗り合った人の目的地に途中寄って回り道をして、その人からメーターの料金を徴収しているのに、僕達が目的地についた時もメーター通りの料金を請求されて、僕は”not straight"とドライバーさんにたてついたのである(ラグビーか(笑)?

エイトがアイトになるオーストラリアにおいても、ぼくはドライバーさんとコミュニケートしたのだ。

もっっとも、乗り合い文化が定着しているドライバーさんに僕の怒りの意図は通じなかったと思われるし、同行していた友人が止めにはいったのでことなく終わったのではあるが。

そこで問題です。この2つの出来事を通して僕に英語のコミュニケーション力があるかないか評価できるでしょうか。

正解はもちろん「無い」なのだけど、言いたいことはコミュニケーションというのは常に相手があって成立しそこには、文脈や状況が必ずついてまわるということなのである。

ただ経験からわかることは僕は無謀にも、相手の文脈や状況を無視して自分の意志を伝えようとする意欲はあった。だからコミュニケーション意欲はあったということになる。

教室で先生が生徒に「わかった人は手を挙げてください」と問うと実はわかっちゃいないけど元気よく手を挙げるそんなようなものだね。

意欲的に手を挙げる学生がいい学生ならば僕はいい学生だけど、コミュニケーションを通じて目的を達成できるのがいい学生だとすれば僕は選考で落とされる学生だ・(だってイタリアの若者と挨拶できなかったし、オーストラリアのタクシードライバーから値引きは勝ち取れなかったもの)お祈りされてご縁がございませんでしたで終わりである。ちーん

僕がここで言いたいのはこれまで2回ほど書いたペーパードライバー問題と同じで、能力なんていう内在し独立的にに存在するモノ的力の実態は無い(だから見極めたり測ったりもできない)ということなのである。だって無いんだもの。

もちろん会話によって目的を達成するための経験記憶のリソースとボキャブラリーと言う情報記憶のリソースはある、コミュニケーション力とはそれらと状況のリソースと組み合わせて統合し創発するその場その場での知識を発話傾聴といった身体性で発揮することなのである。だからリソースの有無と身体的機能それらを創発することがコミュニケーション力の本当なのである。







2023年1月24日火曜日

 今日は#脳卒中サバイバーの犬暮らしnoteの愛と言う生き物日記と連作のブログである。

noteはルイちゃんの好奇心と冒険心についての観察日記だけど、ブログはもう少し大きなテーマ身体と心の問題である、noteに書いたけど生き物の定義は好奇心と冒険心を持つものと言えるかもしれない。

あの嫌われ者のゴキちゃんだって、何故かやっつけられに近づいて来るよね~。(恐怖)

雉も鳴かずば撃たれまいにで、隙間でじっと身を潜めていればいいのに、出てきて時に近づいて来るのは何故か、ゴキちゃんに心があるかどうかはしらないけど、モノに対して接近したり逃避したりはするよね。iphoneにそれは出来ない

モノが食べ物ならば大当たりぃ~だけど、人間だったりすると大外れぇ~ということだ。

さて、生き物にはもうひとつ共通の特徴があって、移動手段となる身体と触れたり嗅いだり舐めたりする器官を備えている。

つまり生き物はモノではなく、コトを為す存在つまり生き事なのである。

かつて生き物と名付けた人はなぜ、生命持つ存在にモノ的言語化をしてしまったのだろうね。

この世紀の大間違いが僕たちの生き物観を歪ませて続けているのだ、例えば、僕は脳卒中で後遺症が障がいが出て社会の異物になってしまった。

今日の高齢者化社会においても認知症傾向が出てくると異物扱いだけど、これらはそもそも人間を(生き)物とするモノ的生物観に端緒があるのかもしれない。

障がい者だって認知症の高齢者だって生きることを壊れたiphoneじゃない。

生きコトをしているしちゃんと出来るのだ、にも拘わらずモノ的生物観によって異物扱いされはじめる。

僕は「生き物」という言語化を誰がしたのかしらないけど、その人のセンスの無さと罪深さには心底あきれるのだ。

もしタイムマシンが出来て過去にいけるとしたら僕は言語化した瞬間に飛んで行って絶対に「生き事」に変えさせる。

ではなぜ、僕達も、昆虫も「生き事」なのかと言えば。身体は物としてでなく事として出来ているからなのだ。

動かなくなった僕の左手は異物じゃない。僕にモノとしてではなく生きる事を教えてくれる教師だ。

さて連作の日記では好奇心、冒険心といった心の存在がテーマだったけど、心は物にはなく事に備わっているものなのである。

そして、身体はことを成すために存在する。

そうなのだ僕たち(生き事)の心は頭の中や胸の奥にあるのではなく身体に(手に足に口に鼻に目に耳に舌に内蔵、腸に肛門に性器にあるのだ。

心とはことを成す身体のことなのである。

生き物という言語化が捏造する心



2023年1月23日月曜日

それでもあなたはニュータイプを信じるか?

 僕が認知科学を信奉しているのはそのとても単純で合理的な考え方にある。

それは自然の摂理に通底するものだと感じる。

僕達や生き物はとてもシンプルな原理によってとても複雑に生きていているのではないだろうか。もちろん不用意な単純化思考は戒めるべきではあるのだが

僕たちはついその複雑さに目を奪われて物事をとても複雑に考えてしまう癖がある。

構成主義、表象主義というのがその典型で昔はホモンクルスという小人が脳の中にいるとまで考えたその考え方自体は鉄人28号をしょうちゃんが操縦するものと何ら変わらない。ガンダムのアムロレイもまったく同じだよね。今現在も脈々と生き続け受け入れられている発想である。

ガンダムも卓越した力を発揮するために、アムロレイはニュータイプといったそれまでの人間を超越した新しい人間を設定するしかなかった。

構成主義表象主義は常にこの入れ子(モビルスーツとパイロット)の発想に辿り着く。

しかし、このパイロット発想では昆虫などの生き物を説明できない。

脳は極めて小さいのに、様々な環境に高度に適応しながら蜂や蟻などは高度な社会性までも発揮している。

あれ?彼らのパイロットはどこにいるの?と探してもどこにも見つからない。

人間はこういった、説明がつかない状況に遭遇すると都合よく神様を登場させてきた、それは神が作り給うものということで、ニュータイプの登場もいっしょである、人は類推してしまう思考の働きによって、神様からニュータイプまであらゆる架空の力を妄想し創造してきたのだ。

しかし実際にニュータイプなんていやしないし、心の外で自由に闊歩する神様にも誰も出会ったことは無い。

もちろん蜂や蟻に行動の理をインストールしている神様もね。

一時は神様がDNAという緻密な設計図を書いたとも考えられたけど科学が進歩するにつれ、それも妄想だとわかってきた、DNAは生き物がウイルスなど様々な環境と融合してきた履歴書だったのだからね。生き物は環境のリソースを使って突然変異という奥の手を繰り出す。

だから明日突然アムロレイが誕生するかもしれない。今はいなくても明日はわからないのだ。そう考えるのも楽しいからね。

でも実際に誰もが観察可能な状態で目の前に現れない限りそれは、妄想だ。

ガンダムのパイロットは実はルイちゃんなのである。(笑)




2023年1月22日日曜日

 昨日僕は人生100年時代と言われ急に出てきたリスキリング論争はにはペーパードライバー問題という大うそと裏が潜んでいると書いたのだけど、このペーパードライバー問題、スキルを考えるうえでとても参考になる問題であることに気づいた。さすが脳卒中サバイバーとうちゃんなのだえへへ。さて今朝はこのペーパードライバー問題でインターンシップを考えてみよう。運転のための経験リソースと情報リソースを身体化させるのが教習だとすると、インターンシップはもちろんそこまでいっていない、あえてメタファーを考えるとするとゲームセンターのレースゲームくらいのものである、ゲームと言う世界の中でだけの経験リソースと情報リソースを身体化させることしかできない、つまり、インターンシップは模擬体験でもない。単なるインターンシップでしかないということなのである。だからインターンシップで採用人材を見極めるのはまったくのナンセンスなのである。ゲームセンターでレースに勝てたから公道での運転を認めましょうというのとまったく同じなんだからね。お~怖。世の中はインターンシップ含めて通年採用に舵を切ろうとしているけど、企業は選考精度の向上や効率化、インターンシップの実施に力を入れるのであれば徒弟制度を実装したほうがはるかに効果的である。

公道をガンガン走るプロドライバーの助手席に座らせてプロが観察したほうがゲームセンターでレースをさせるより運転の向き不向きはわかるということだ。

そしてこのペーパードライバー問題はまだまだ続きそうな気配なのだ。so on. so on.


インターンシップ


2023年1月21日土曜日

ポータブルスキルという大うそとリスキリングの暗闇、運転出来ないペーパードライバー問題という不都合な真実

 認知科学では僕たちは知識を物として持ち運ぶのではなくその場その場で創発するものと考える。これはスキルも同様だろう。一方スキル論にはポータブルスキルと呼ばれる職種の専門性以外に、業種や職種が変わっても持ち運びができる職務遂行上のスキルがあるとされる。しかし厚労省までそんな素朴理論に囚われているとは恐れ入ったものである。スキルはスキルを発揮する状況が無ければ意味を成さない。ペーパードライバーがいい例だ。教習所に通って試験に合格すれば、運転技能と交通ルールの情報は知っていることになる。しかし少し考えればわかるけど、それらは運転を行うための身体化された経験リソースと情報のリソースでしかない、運転には道路と車そして他の車や歩行者自転車などの状況リソースが必要なのだ。ペーパードライバーとは、情報リソースしかほ保有していない人たちのことだ運転スキルとは、これら経験リソースと情報リソース状況リソースを多感覚統合(マルチモーダレーション)してその場で創発することである。この中でポータブルなのは身体化された経験リソース(遂行)と頭の中に記憶された情報(記憶)そしてスキルを創発する(注意・集中)のみなのだ、状況はポータブルじゃない。目の前の国道を切り取って持ち運ぶことなんて出来ないでしょう?ポータブルなのは(身体化された経験と情報という記憶と遂行と注意)なのである。じつは、この記憶注意遂行は高次脳機能と呼ばれる、脳にあって社会性の根幹を為す働きである。僕は脳卒中で脳に傷を負ったのでこの高次脳機能に問題が生じたのではないかと疑われた。その疑いが晴れるまで(評価では問題なしだったけど)車を運転するためにはそのための検査がまた必要になっている。そうなのだ僕は運転免許はもっているけど運転スキルを失っている可能性がある、リアルペーパードライバーだ、それでも、車の運転はポータブルスキルと呼べるのだろうか。もちろん履歴書を書くときは保有資格として普通免許自動二輪(中型限定)と書くけどね。実は仕事での職務遂行もまったく同じことだ。だからリスキリングと称してポータブルスキルを身につけまんて、社会人教育の推進によって教育産業を保護し終身雇用を無くしたい企業の思惑とその一方で破綻している年金制度を労務法制で隠蔽する悪だくみでしかないのかもしれない。




2023年1月20日金曜日

今日はお休み

 昨晩真夜中床のなかで2時間以上2つのことをずっと考えていた、ただブログには書けないマル秘事項なので今日はブログを書く力が残っていませんでした




2023年1月19日木曜日

他人事という生き方、

 僕は登山はまったくしないけど登山の番組を観るのは大好きだ。でも、登山家の方はなかなか理解し難い。そこに山があるから登るんだというだけでなく、登山が難しい山や誰も登ったこと無いルートを選んで登ったりするのだからね、

前人未到には訳がある。

僕はエアコンの効いた部屋でお気に入りのソファーに身を委ねて大画面のテレビで映像を観ているだけだから正直前人未到であろうがなかろうが全く関係ない、

この映像の時代、前人未到でまだ誰も観たことのない風景を登山家のカメラやドローンを駆使した映像によってなんの苦労もせずに観ることができるのだ、いい時代だよね。

素晴らしい風景を観たいという動機はテレビで十分達せられる更に、困難、苦難を乗り越えていく登山家の冒険体験も目の当たりにすることが出来る、あ、雪崩です、なんて、登山家には大変危険なシーンであってもテレビで観ている僕には飽きなく観れるエピソードだ、素晴らしい景色や困難に打ち勝つ勇気を体感しながら、危険や苦労はまざ他人事である。自分ごとと他人事で、思考のモードか変わることは研究で明らかにされているようだけど、僕にとっての登山はまさに他人事のエンターテイメントである。でも、なんでもかんでも全て自分ごとである必要もない。もちろん自分ごとと他人事では思考だけでなく経験のリソースもまるで違うので実際に登山した人のような、知識や知恵を創発することは出来ないけど、自然破壊や温暖化などの様子を知ることは出来るかも知れない。それは僕にとって知恵を与えてくれるリソースだ、自分事他人事の違いよりも、経験から学び、創発のリソースを増やしていくことが大切だと言う事、なのです。

眺めるだけでいいのだ〜

2023年1月18日水曜日

進化するITの先にある棲み分けの中で問われる一人称の在り方

 ITにおいてエンジニアの仕事はコード書きじゃ無くなったそうだ絵を描くAIを思い浮かべればすぐにわかることだけど、肝心なことはAIに絵を描かせるプログラミングじゃなくてどんな絵を描かせるのかである。

これは実はAIとして機械学習がもてはやされた頃にはわかっていた事だったのでは無いかな

コンピュータに学習させる方法より何を学習させるかの方がより価値的な行いであることは明白だっからね。

実際その後機械学習の基盤は雨後の筍のように乱立して誰でも手軽に使える汎用的なテクノロジーになった。

一方でAIの力を十分に引き出した価値あるアウトプットというのはあまり多く無いように思う。

まだまだ際物的扱いが主流で多くは人のアウトプットと比較しての評価であるように思えるでもそれは単に僕が疎いだけなのかもしれないさて

人のスキルアップは無意識による自動化と並列化と言われるけどそのうちITもレベルが上がると無意識で何でもできるようになるのかもしれない。そうなると価値的なことを考える人がいちばんえらいことになる。あとはITにお任せって言うことだね。世の中はそういう方向に進んでいるのだ。人とITの棲み分けが今後一層進んでいくことでしょう。そのなかで、人は自分がどうしたいとか何をしたいのか要するに一人称としての自分を明確に表現できることが大切になるのだ。



2023年1月17日火曜日

過去の記事をブラッシュアップしてみた

 僕はこのブログをちゃんと読んでもらうためにか書けているかというと全くもって自信は無い。読む人の心を動かすためでなくぼくの思考の整理になってしまっているのだ(ごめんなさい)。

そんな記事でも時に読んでくれる人がいる。

webで公開するとどれくらいの人が読んでくれたたがデータとして残る、それを手掛かりに過去1年くらいの記事の中でページビューが多かった記事についてその後の記事も兼ね合わせてブラッシュアップしてみた

元記事は2022年6月10日の記事採用された人を待ち受ける上司の洗礼である。


ネット上の記事で、日本企業は高スペック人材を使い潰しているという記事があった。


37名のインタビューから組織に合わせられない、他人に仕事を任せずやり込めてしまう、実力が見合わない、という3つのタイプが見いだせたらしい。

今もって言い換えると自信過剰で適応できない、協働しない、目の前の仕事が出来なかったということだ。

僕の記事はこのインタビューは会社側のキーマンに対して行われたものだけど、使い潰されたとされる人材側にもきっと言い分はあることだろう。

という視点を変えて書いたものだ。

要約するにその言い分は、能力が生かせる仕事じゃない、上司同僚のレベルが低く連携できない、思い込みで採用した方が悪い、といったところかもしれない。

しかし、僕はその後能力は虚構だという記事を本を引用して書いているから能力が生かせると言う表現は変えるべきだろう。記事の小見出しにはご丁寧に「能力の高さ」が出世を邪魔する?とまである

が能力は虚構だを「正」とすればには己惚れの高さが出世を邪魔する?であろう。

そこで今回は自信過剰で適応できないと変えたのだ。

でもこういうメンタルモデルの人って別に東大京大の出身者だけじゃなく普通にいるよね。他者を見下すことで自分のアドバンテージを組織内で更に上げていこうとする人だ、現状の背景理解ではなく、現状そのものをを否定することに躍起になる。

でもそういう人って本当に高スペックなのだろうか、そういうメンタルモデルの人ってコンサル系の会社・仕事を経験して転職してくる人に多い。

採用側は当然そういう危惧を持っているから現状に折り合いがつけられるか面接で確認する、しかしたいがいできますとうそをつく、でも、そもそも現状とうまく折り合いをつけて質の高い仕事をしていれば元の職場は素晴らしい業績をあげているはずだ。

にもかかわらず経営が悪化して転職してたりするのだからそういう高スペック人材を企業が使い潰しているのではなく、自称高スペック人材こそが企業を潰しているのだ。


さて上司同僚のレベルが低くて連携できない(なんでも自分でやっちゃおうとする)であるが

そもそも協働とはみんなの問題をみんなで解決することだ。

舞台では、役者も裏方も力を合わせて作品を作る。主役一人が頑張っても舞台にはならない。

これは自然界のエコシステムもそうだよね。

人間だけ頑張っても自然は成立しない、むしろ自然環境をどんどん破壊しているのが実際だ。

生態系と言うシステムは全ての生き物の自立と共生の関係性があってはじめて成立するものだ。

この関係性を意識的に作り出して全体的な問題を解決するのが協働なのである。

だから関係性を軽視するということは問題解決における新たな問題の発生に他ならないのである。そう、協働とは常に問題や課題を減らしていく方向に働くべきものなのである。

他者の尊厳を軽んじて関係性を軽視するという反協働的態度は、問題を増やすことを厭わない態度なのでもある問題を解決できないどころか問題を生み出しているのに高スペックとは言えないだろう。

組織の問題を解決するために人事部長になって人事権を掌握したら部員がメンタルになったなんていうのはその最たるものだ。

さて、当日の「ほぼ日刊イトイ新聞」今日のダーリンで糸井さんは「マジックではないので、先に種明かしをしておくが、上司は、まず有利な場に立っているのである。」と書いている。

上司は常に弱点を補完したり先を見越したような意見が言えるというのだ。

これは正しい。

間違いなく正しい。

賢い部下はそれを知っていて忖度し、けれども上司から過剰適応と評価される。

悲しいね。

いずれにしても部下はこの上司の洗礼をいつも受けているのだけど、上司がかつて部下だったときには同じ洗礼を受けている。

そのようにして上司の洗礼は訓練されるていくのでしょう。

で、ね。採用する側とされる側も上司と部下の関係に似ているから、常に高スペック人材の弱点を補完したり先を見越したような意見が言えるのかもしれないね。


そして3つめの目の前の仕事が出来ないに関してはこんな記事を書いていた。

仕事が出来るってどういうこと?つまり、仕事は常に自分の外にあるもので仕事が出来るとはそれをいかに自分の内側に取り込むことが出来るかなのだ。養老孟司さんに言わせれば目の前の穴を埋めることだ。でも、アウシュビッツでは、わざわざ穴を掘らせて埋めさせるという行為を延々と繰り返させて無意味性によって収容者から気力を奪い取ったわけだから、仕事を強制すると人間性を奪い取ることにもなりかねない。意味は与えられるものではなく自ら気づく、ものであるという真実もあるけどね。


このように記事をブラッシュアップしてみると日本企業は高スペック人材を使い潰しているというアンケート結果をもとにした記事はかなり的外れだと言わざるを得ない。何をもって高スペックと言っているのかがそもそもおかしい、東大や京大など偏差値上位行の就活生をどうやら指しているのだけど、もちろんそれらの学生が皆、不遜で傲慢で、状況が呑み込めないわけじゃない。また学業が秀でていると周囲からのそ評価で必ず天狗になってしまう

ものでもない。問題の設定からステレオタイプと偏見に満ちている記事だ。

東大や京大に限らず僕が知っていた大学生の多くはは学力だけじゃなく高い社会性も兼ね備えていた。気が利くし、真摯で真面目でいい子達だったよねもちろん、いざ採用となるとそれだけでは無かったけどね。

まあ中には不遜で傲慢で目の前の意味に気づこうとしない人もいるのだろうけどね。ことさらそんな偏見を強化する必要もないだろうにね。


かわいいね








2023年1月16日月曜日

説明は心の陰を掘り起こす説明無責任反証拠主義のすすめ。

 最近良く聞く言葉に説明責任とエビデンスベースド(証拠主義)がある。しかし文学の世界では説明をすればするほど伝えたいことが7伝わらない。例えば、昔僕が暮らしていた下町の魚屋では店頭に生きたドジョウがはいった水桶が置いてあって、蹴とばすと驚いた土壌が大騒ぎになる様が面白かった。でも、こう説明的に書くとそのプロセスは伝わるかもしれないけど、僕が感じた面白さは伝わらないかもしれない文学的に書くとしたら子の一撃で水底の黒いかたまり上へ下へ。くらいの表現の方が良いのだろう。説明というのはことを記述することだ。一方、心が伝わるのはものが描き出す読み手の心の想像力である。そう、伝えるとは実際を知らない受け手の想像力を呼び起こす行為なのである。この観点で、音楽や美術を捉えるとよくわかるのではないだろうか一方で冒頭に記載した説明責任証拠主義とは現実が祖語なく伝わるようあらゆる事実を並べたてようというものだ。これは、事実に対する判断が間違っていないことを明らかにしたいから行われるのだ。ほーらあなたもそう判断するでしょ?私の判断は間違っていないでしょという判断の正当性を示すための言い訳みたいなものだ。子供のころ、悪戯や遊びの度が過ぎて何かを壊して叱られたときに言い訳をした記憶は誰にでもあるだろう後ろめたさを転嫁する行為である。言い訳をすると誰もがこの子供の頃の後ろめたさを呼び起こしてしまうから、嫌な気分になる、人の言い訳を聞くと嫌な気分になるのはきっとそのためだ、だから、説明責任とか証拠主義と聞くと何だか嫌な気分になる。感動や気づきといった心の陽の働きではなく陰の働きだからね。その根底にあるのは不信でなのある。だから僕は敢えて、反証拠主義、説明無責任のすすめをする。

これいいね



2023年1月15日日曜日

さとしはさとしになれるのか、生活期リハビリというミッシングリンクの僕。

僕は昨日「アバタによる身体性と社会性のリデザイン」という講演会を聴講していた。メタバーストレンドで注目度が上がっていアバターを用いると身体性や社会性にどのような効果影響があるかという鳴海 拓志(東京大学大学院情報理工学系研究科 准教授)先生(プロフィール:2006年東京大学工学部システム創成学科卒業.2008年同大学大学院学際情報学府修了.2011年同大学院工学系研究科博士課程修了.同大学院情報理工学系研究科知能機械情報学専攻助教,講師を経て,2019年より准教授,現在に至る.博士(工学).バーチャルリアリティや拡張現実感の技術と認知科学・心理学の知見を融合し,限られた感覚刺激提示で多様な五感を感じさせるためのクロスモーダルインタフェース,身体知覚と認知の相互作用を活用して人間の行動や認知,能力を変化させるゴーストエンジニアリング等の研究に取り組む.日本バーチャルリアリティ学会論文賞,ヒューマンインタフェース学会論文 賞,文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門優秀賞,グッドデザイン賞など,受賞多数.)のご講演で、最先端の研究の一端に触れる事が出来た。これ以外日本認知科学会に所属しているとにも身体知研究会など多くの先端研究に触れる事が出来る。有難いことだ、先日正会員の年会費8000円を払ったけど、決して高くはないと思えるようなご講演内容であった。大学院などに通って研究を行い論文を書く身ではないけど、市井の研究者としてとても多くの気づきや発見を与えてくれる、学びのよい機会になっているのださて講演の中で、「なりたい自分ってどんなじぶんという問いがあった。アバターを使ったサービスの常套文句が「なりたい自分になれる」というものだそうだ。そう言えば竜とそばかすの姫に出てくるメタバースUももう一人のなりたい自分になれるという風に設定されていた。そこで鳴海先生は様々な大学の学生や障がい者にも、「なりたい自分ってどんな自分?と聞いてみたのだそうだ、そうしたらほとんどの人からなりたい自分というのはアバターで手軽に切り替えてなるものじゃなく、努力と経験を通じて獲得するものだと答えるのだそうだ。じつはこの答え、障がい者にも共通していたらしい。障がい者がリモートのロボットで接客するカフェにも関わっている鳴海先生は障がい者のリアルな声を聞いているこの現象を称して研究者仲間はさとしのピカチュウ問題と名付けたそうなそうあのポケモンのピカチュウだ。ピカチュウは成長するとライチュウに変身するのだけど、そのためには努力と経験が必要だ。そしてピカチュウに努力と経験を積ませるのはトレーナーさとしなのだ。アバターは、なりたい自分になれるかもしれないという可能性を見せてくれると同時に努力経験成長という僕たちの心のメンタルモデルをも顕在化させてしまったのだ。僕はずっと、人と組織という観点で心理学から人を社会学や経営学から組織を見てきたけど、アバターや仮想現実そして認知科学から見る人や組織という観点は本当に斬新であるこれまで疑いなく信じられてきた諸々の定説が全て虚構に見えてくるのだからね。僕も脳卒中になって絶賛リハビリ中だけど、それを支えているのは努力経験成長というメンタルモデルだったりする。でも識して念じても動かない左手という身体的自己に向き合っていると回復するためにリハビリで努力するという物語的自己との間に確かにミッシングリンクがあることに気づかされる。いや僕自身がミッシングリンクなのである。ひょっとしたらアバターがそのミッシングリンクを埋めてくれるものなのかもしれないなぁと思った昨日だった


2023年1月14日土曜日

料理の悩み

来週土曜日の夕飯は自炊である。これまで退院してからカレー(レトルト)、ビーフシチュー(レトルト)焼きそばボロネーゼ(レトルト)とレトルトの助けを借りて何回か自炊はしたけどやはり素材から自分で調理したい。片麻痺になって左手が効かなくなってものを押さえることが出来なくなって、皮を剥くとかみじん切りにするとかが困難になってしまい。素材から調理することはハードルがあがってしまった。納期1年半街で買った鍛造の包丁も梱包を解くことなく保管したままだ(泣)まあ時間がかかっても頑張ってリハビリすれば良いのだと自分を納得させつつ、工夫しながら自炊して丁寧に生きていこう。でも、来週の自炊はちょっとチャレンジしたいと思っている、大好きな鳥のトマト煮を作るのだ、今回のソーシャルサポートはセブンイレブンでも青の洞窟でもなく、カゴメのトマト煮のソースだ、少し素材よりだね。 唐揚げ用にカットされた鶏もも肉を準備してもらい、他パプリカを切って(これぐらいは出来るだろう)フライパンで肉を焼いてパプリカを炒めてソースで煮込んで出来上がりの予定、このトマト煮ソースはよくできていて玉ねぎとかにんにくとかもちゃんと調理されているものだ、全て素材からやると、玉ねぎやにんにくのみじん切りというハードルが高い。これらの食材は犬にとって毒なので調理中に落とすわけにはいかないのだ。パプリカはきっと大丈夫でしょう。みじん切りにもしないし。でも片手クッキングだと何がおきるかわからないのでリスクをとるわけにはいかない犬を抱えて動物病院に駆け込むわけにはいかないからね〜。今頭の中では何回か調理のシミュレーションを行っているのだけど、トマト煮をパエリア風に仕上げるかショートパスタのペンネを入れるか悩んでいるどっちのほうが食べるとき気分が上がるかな飲み物は相変わらずノンアルビールだろうけどね、午後3時くらいから調理をはじめて4時前に犬にご飯を食べさせて5時には夕飯として食べる予定、パエリア風だったら、トマトソース投入後に水300CC位を入れてお米を1合入れて30分弱くらい炊く感じで、ペンネだったら100gくらいいれて12分だね。さ〜てどっちのほうが美味しいかな?ここ数日ぼくの頭の中は実はこの妄想食べ比べで忙しいのであるえへへ。さて脳卒中サバイバー父ちゃんのファイナルアンサーや如何に?

カゴメさんありがとう


2023年1月13日金曜日

僕達の日常は縮約した結果じゃない。僕たち自身に関する知の仮説と統計の限界

 私たちには他者から認識可能な一貫性がある。英語で言うとPersonality Traits Consistancyということになる観察可能なモノは科学の対象である、人は科学の対象となりうるのだ、ではそういった観察可能な人の一貫性はどうやってもたらされるのかというと、実は諸説紛々だが、大きくは5つの説が研究されている生まれ持った遺伝的個性(Genetic Factor)と育成環境(The result of living in a stable environment)から基本的パーソナリティ(Personality Traits Consistancy)を培い、培われたパーソナリティが新たな経験を生み(Goodness of fit、Person-environment transactions)、経験に向き合う態度から向き不向き得手不得手を感じながら目標や目的の達成を得て(Experiential learning)、達成によって基本的パーソナリティを動的に上書きし更新し(A sense of achieved or consolidated identity)一貫性が育っていくのだ。例えばモチベーションは6割が遺伝的要因だと研究されているし、でも人の個性や気質と呼ばれる特徴の全てを説明できるわけじゃない。

そこで環境とか経験とか様々な研究がされているのだけど、人の個性以上に環境や経験には多様性と固有性があって全てを観察記述することは絶対に不可能だゆえに、故に人のパーソナリティがいかに生まれるのかを単一理論化することは出来ない。人の意識(反応)や行動(適応的選択的)は極めて状況依存性が高いから再現性とか実証とか出来ない、心理学では実験として条件を制御して人の心理の再現性などを研究するけど、実際の生活場面でそのような実験的条件統制はありえないから現実的じゃない。そこで現実に即した臨床という立場が生まれずっと対峙し合っているのが現状である。この実験と臨床の対峙は人に関わる科学において永遠の命題なのかもしれない。そういった状況の中で出てきたのが情報科学における人工知能や人工生命の研究だ。人の営みを科学的に再現しようという取り組みの中で、認知、意識、思考の理解が必須となっているのだけど、まだまだ夢の途中である。この多様性固有性文脈依存性のなかにある生命をいかに記述し研究するのか、情報革命の中で客観的なビッグデータの解析を通じて研究を行う機械学習などが進化する一方でその方法では、意識や思考といった人間の本質を解明することは出来ないこともわかってきており。本質解明の一助に成ると考えられているのが一人称研究である。一人称研究とは暗黙的なスキルを探究し,顕在化させようとする方法の一つに,諏訪の提唱する一人称研究[2]がある. 一人称研究とは,「あるひとが現場で出合ったものご とを,個別具体的状況を捨て置かずに,一人称視点 で観察・記述し,そのデータをもとに知の姿につい ての新しい仮説を立てようとする」研究手法である. 近年,人の有する知にまつわる研究は,客観的な立 場から何らかの実験・観察・分析を行い普遍的/再現 可能な論を導出しようとする近代科学的なアプロー チによって行われることが多い.僕は個性の一貫性に関する知の仮説はこの個別具体的状況を捨て置かない一人称研究以外にあり得ないと考えている。客観的データの統計解析は言い換えれば個別的具体的状況の縮約だからね。でも前述したように、多様性固有性文脈依存性のなかに僕たちの人生はあるわけで。僕たちは個別的具体的状況の表象である存在なのだ、

人生は一本道じゃない



2023年1月12日木曜日

仕事の美徳?

 日本人の美徳?現場の意識の高さは決して日本固有の仕事に関する美徳ではないだろう。まあ

W杯でのサポーターのスタジアム清掃とかロッカールームの清掃などは海外から驚嘆されるくらいだから日本文化固有のメンタリティなのかもしれないけどね。仕事の美意識にも通じるものがあるようには思える。通りで見かける工事現場にも3S(整理整頓清潔かな?)とか標語が掲げられていてそういった仕事だけじゃなく仕事の環境も含めて仕事に向き合う姿勢は確かに意識が高いと思う、僕が痛切にそれを感じたのは銀行で働いていたとき派遣された外部研修で行った企業診断で訪問した地方の食品関係の会社だった、銀行員は仕事で色々な会社と接点を持つけど基本的には財務データといった定量的な分析から会社の良し悪しを観ている。一方企業診断で一歩現場に足を踏み入れたらどんな仕事でも誇りと責任を自覚して真摯に向き合う現場の社員さんたちがいて、もちろん社長の熱い思いなどもあって定量的客観的に企業を評価する仕事に疑問を抱かざるを得なかった、僕は結局この自分の中の疑問を解消できずに銀行を辞めたのだけど今朝朝ドラ「舞い上がれ」を観ていて久しぶりにその当時の気持を思い出していた。リーマンショックで経営不振の折に社長が急逝し一旦は身売りを決めた社長妻が、現場の働きぶりを観て経営判断を翻意するというものだけど、確かに現場の働きぶりには経営判断を変える力がある、僕もそう思うただ、事業はその働きぶりの現場の結果として経営があるわけで、結果論だからそこはちゃんと判断しなくちゃねと、一人朝ドラにつっこみをいれていたのである。



2023年1月11日水曜日

研究の交差点wedensdayMorning 10AM

 実務の中で研究を行う時は学会やら教授のディシプリンに沿ってデータを揃えたり分析し論文を書くように行なうことはない。目的は実務に役立つ知見(自説)を導くことであって、学会や特定の学問領域の理論を打ち立てることじゃないからね。だから学問領域の都合に合わせて問題を定義したり、解析手法を決めるなんていうことはしない。実際に僕たちが実務研究を行った際は定性調査と定量調査(ビッグデータ解析)を組み合わせたものだったけど、大学の教授に意見を頂いた際そういった研究の仕方だと、論文を提出する学会が無いと教えて頂いた。

学会の作法に合わせてリサーチクエッション(RQ)と研究手法を定めなければならないということである。でも実務家の立場としたら役立つ方法は何でも使いたいし、学問の知の集積に貢献するようにRQを詳細化して立てるのも本末転倒に思える。現実に起きている問題は様々な要因が複雑に絡み合った複雑系であってプロジェクトマネジメントみたいに詳細化してそのひとつひとつを解決すれば全体の問題も解決できるという構成主義的でいてくれるわけじゃない。

実務で向き合う問題は常に複雑で変化している。学問的研究がそれに対応できないとは思わないけど、多様な要因が絡み合う複雑さや逐次変化する可変性を学問における普遍的な知の発見という大義名分のために最初から制御するというスタンスで良いのだろうか、これは僕がシンプルに感じていた感想であり。学問的研究への失望なのである。法則を発見するために条件をコントロールして実験を行うように条件をコントロールするのが本来の研究の在り方なのだろうか。そんな僕が今一番シンパシーを持っているのは一人称研究だ。「あるひとが現場で出合ったものご とを,個別具体的状況を捨て置かずに,一人称視点 で観察・記述し,そのデータをもとに知の姿につい ての新しい仮説を立てようとする」研究手法である。

まあこれも、研究お作法の1つなんだけどね。実務者として生活者としての納得感があるよね。

そんなことがもやもやする水曜日の朝(wedensMorning3AMor5AM)なのである。

何故か歌になる水曜日朝




2023年1月10日火曜日

経験に貴賤はない。

 僕は20数年の人と組織に関する仕事の最後の5年を仲間と人の成長に関する研究を行っていた。その中で明らかになったのは。

人はあらゆる経験を通じて成長する。だ。この場合の成長とは何となく心身が大きくなるようなマジックワード的成長概念ではなくて、身体が熟して屈強になるように心理も屈強になり物事や他人に対して接する態度や捉え方考え方および具体的行動の様式がより即応的適応的に応用的に観察可能な状態において変化することである。

成長するにも成長を知るにも経験は必須なのである。

タイパ流行りの今日じゃあ、どんな経験ならばコスパが良いのかと聞かれそうだけど、研究の中で経験の核心を体系化できたけど、結論的にはその中の「これ」といった正解は無かった。

組織でマネージャーになり部下をマネジメントした時も、出産をして産休育休を取得した時も、成長は確実にあることは解明出来た。

つまり経験に貴賤は無かったのだ、

ところが、キャリアという観点で観るとマネジメント経験は+(プラス)で産休育休はー(マイナス)の経験だ。

何故か経験に貴賤が生まれる。

もちろんその貴賤を作っているのは人だけど、多くの場合、それは同じ組織にいる人なのである。

産休育休に入ると当然仕事は出来ない(法律的にもやらせてはいけない)から情報の断絶が生じる。

それは当然なのだけど、そういった。

職場との物理的距離のみならず情報との距離によって、仕事から隔絶され組織の異物化にされることになる。

要するに村八分状態だ。

それがいやで職場復帰を急ぐ人もいる。

しかしそうした村八分にならないように配慮すると他の村民から贔屓だと不満が出た。

その言い分は、なぜ子供が出来ると贔屓されるのかという不平である。でもこの不平が、実は組織で村八分を生み出す根源になっているのである。

その論を受け止めれば子供が出来なくても同じ扱いをすべしということで、それはそれでわからなくもない。

でも僕が大きな課題だと感じたのは経験の貴賤を生み出すのは同じ組織に帰属する人の心の中にある不公平感や不満といったネガティブで排他的な意識だということだ。

もちろんその根底に流れる社会的な文脈も忘れることは出来ない。

しかし社会的な文脈が変わったとしても、人の心の中の意識を変えることは出来ないだろう。

インスタに投稿された幸せそうな写真を観ると何だか腹が立つそういう自然な感情の横溢を他者が止めることは出来ないものだ。

つまり経験の貴賤を無くすためには、自分の現状を受入れて充実した経験積んで心を満たしていくしかないのだ。組織の中で贔屓の応報をおこなうことほど不毛なことは無い

心に飢餓がある限りは人は自分や他人の経験を貴賤で測ってしまうものらしい。インナーチャイルドという概念があるけど、心の中に満たされない子供の自分が居る限り経験に貴賤が生まれてしまうのだ。

僕が成長の研究とその周辺を通じて気づいたことはそういうことだった。

だから僕たちは経験に貴賤を感じた時こそ、自分の心の中の満たされない子供の自分に気づくチャンスであり、その子供の自分を満たしてあげられたときに、あらゆる経験が自分の成長にとって価値があり欠かせないものになり、状態にかかわらず充実した人生の意味に近づけるのである。


経験の貴賤を生む満たされないインナーチャイルド

  

2023年1月9日月曜日

学び合う仲間

 もうひとつ書いている犬暮らしブログに今日、僕は療法士もリハビリ医師も役立たずだと暴言を吐いた、左手が一向に回復しないことの憂さ晴らしなのだけど、僕が歩けるようになったのは間違いなく医師と療法士のおかげであり本当は心より感謝しているのである。リハビリを行いながら思ったことは療法士さん本当によく勉強している。僕が何か質問をすると論文とかを調べてくれるし、noteには多くの療法士さんが有益な記事を書いている。そんななかでも異彩を放っているのが現在通所しているデイケアの療法士さんだ以前にも書いたことがあるけど、中国の方だけど、日本の国家試験に合格して理学療法士の資格をお持ちになっている、太極拳や気功などにも通じていて禅や哲学にも積極的だ。以前弓と禅を紹介したらすぐに何度も読んだそうで僕顔が会うとたいがい今読んでいる本の話になる。最近は読んで面白かった本を紹介してくれることが多い、先日は易経だったし、先週はモーリス・メルロ=ポンティの知覚の現象学だった、いずれもさっと読めるような本じゃないしかなり高価な本だ。片麻痺でもっぱら

kindle読書になった僕には敷居が高い。しかし、僕はこういった療法士さんの向学心と学習意欲が僕達脳卒中サバイバーの回復の頼みの綱なのであることを知っているだから僕も彼と学び合えるよう雑学的情報含めて色々学んでいこうと思うのだ。



2023年1月8日日曜日

ビューティフルサンデーモーニング

素晴らしい晴天の日曜日朝、僕はふと出かけられる身でもないので。

朝ごはんの後、家で。パソコンに向き合いながら。

今度参加する辻仁成さんのエッセイ教室の課題エッセイをコーヒーを飲みながら推敲し、

ライフワークである。横断的アセスメント「鍵」と縦断型アセスメント「緯糸」の構想のブラッシュアップに勤しんでいる。

いずれにしても対価のある成果物ではなく僕自身の知性の結晶として取り組んでいるものだから誰彼に気兼ねすることもなく思いつくまま気の済むまで出来るものだ。

よく考えたらこんな素晴らしいことってないよね。

人の評価を気にしながら何かを作るということは自分らしく生きていないことの証だもの。

もちろん生まれた作品が評価されることはうれしいことだ、

自分の心が誰かの心に届くということはとっても素敵な出来事だからね。

でも、誰かの心を動かすために自分の心があるわけじゃないと特に脳卒中になってからはそう思う。だいたい他人の心を動かすために身体を動かせなくなったからね。

まずは自分の心がそこにあることが一番だ。そう思ったら、素敵な朝日が差す部屋で僕はいつもの椅子に座り小さなぱそこんと向き合っているのだけど、とても開けた場所で青空を眺めているような清々しい気分になってきた。いまここに自分の心があって動いているそれが何より嬉しい日曜日朝である。



まずは自分の心が動くことを


2023年1月7日土曜日

マッチングのリソースの鍵

 高次脳機能のリハビリで行うのはパズルやゲーム、ナンプレや間違い探しそれにジグソーパズルなどであった。

いずれも、高次脳機能と評される注意記憶遂行が必要とされるものだ。

それらの訓練には必ず解決の手がかりがある、そういうリソースを上手く使って問題を解決するのだ。

例えばジグソーパズルであれば、形や図柄色などが手がかりになるそれらを頭の中で操作してピースをあるべき場所に置くのだ。

そんなリハビリの中で僕が一番苦手だったのは積み木入れと呼ばれる紙面上のパズルである、手がかりとなるリソースが少なく頭の中で積み木を回転させ箱の中に隙間なく詰めていくものだ僕は昔傘屋さんだったときは、荷物を限られた場所に積み上げたり。

かご車と言われる可搬用の荷台に積み込んだりすることが苦手ではなかったしかしリハビリの課題には非常に苦労させられた、その時はは脳卒中の影響があったのかもしれない。

退院時の評価では高次脳機能に問題無しとなっていたので、良かったのだけどね。

さて、配属とか採用とか人事の仕事にはナンプレ、間違い探し、ジグソーパズルや積み木入れ的な要素が多く含まれているかもしれない、ジョブマッチングとか適材適所、上司など人とのマッチングなど限られたリソースを手がかりにして、収まりの良い状態を実現していく、先程のジグソーパズルの例のようにリソースが多いと解決しやすいように思えるけど、収まりどころを見定める人に関するリソースを増やすには負担も増してしまう。

だから、最小限で収まりところのかつ決め手となるリソースがあることがベストだ。

無理やり収めるとストレスでメンタルになったり早期に離職してしまったりする。

そもそも人には環境に適応する偶有性という可塑性があるから、何となく嵌め込めてしまうのだけど、実は形があっていなかったというケースが少なくない。

グミで作ったジグソーパズルみたいなものなのである。

別の言い方をすれば鍵と鍵穴みたいなものだ。

鍵穴に鍵が入ったとしても鍵が開くとは限らない。

要するに外形ではなく機能が重要なのである。

僕はこの鍵について1月2日のブログでライフワークとかいている。

そう対人(相性)であっても対仕事(ジョブマッチング)であっても、対会社(カルチャーフィット)であっても、すべての鍵穴に必要なのは合う鍵なのだ。そしてその鍵の根幹をなすのが認知リソースであって、その基本は記憶注意遂行という高次脳機能なのである、それが今回僕が脳卒中になって得た結論だどう?転んでもただでは起きないでしょ?もちろん僕が試作している鍵にはその発想が反映されている。それは脳卒中になった僕にしか気づけないものだ。そして今の僕が作ることの出来る最高の作品だ。


交響曲を書くようなもの



2023年1月6日金曜日

病室から

 


NHK MUSIC SPECIAL 坂本龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes & 坂本龍一 ニューイヤー・スペシャル

これは昨晩放送された番組である。その中で、入院中に雨の音を聞いていたり、スケッチと言う表現で曲を書いていたりしたことを話されていた。坂本龍一さんは、ステージ4のガンを公表されていて番組はその中での演奏の収録と言うことである。闘病で入退院を繰り返す最中ににスケッチ(作曲)した作品は、題名はもはや日付なのだけど、僕にはえらく刺さる曲だった。放送されたのは20220302という曲だった。

僕も生まれて初めての入院では。

今調べたら入院期間中に4~5回は雨が降ったようだけど。その時は雨の音をひたすら聴いていたな~。という思いとともに坂本龍一さんの演奏を聴いていたら胸が熱くなった。

雨の日に僕は窓から見える中庭の木々が風にたなびき雨に打たれる様子をただ観ていた。僕は曲をスケッチするなんて洒落たことは思いつかなかったので。

病室に持ち込んだ犬の写真が張り付けられたアクリルのキューブを窓辺に並べて差し込む明かりの感じを眺めて楽しんでいたのだけど雨に日は日が差さないの。

なのでカレンダーの写真と雨を交互に眺めて毎日を過ごしていたように思う。

病気は違えど入院生活という非日常でいかに日常を送っていくのかそれは入院患者皆の思い悩むところであろう。雨は入院と言う非日常の中で強く日常が躍動する瞬間でもある。

そんな入院生活の日常が坂本龍一さんの曲に見事にスケッチされているそう感じられたのだ。

病気になることもそしてやがては死ぬことも生きている限りは致し方のないことである。

運命に身を委ねるわけじゃないけど、運命を受入れてそれを描き出すことによって心の平穏を保つことも意味深い生き方だと。坂本龍一さんの演奏を聴きながらしみじみ思ったのであった。


僕の20210627のスケッチ晴れ



2023年1月5日木曜日

適応模倣。

 生まれ持った気質というものはある程度限られていることが心理学の研究で明かされている。しかしうまれおちてからの経験や選択的経験による環境との取引の個別的多様性は無限だ。その無限の可能性のなかで生き物は学習と適応いう手段によって気質を強化して生存と言う目的を達成している。そんな様は一緒に暮らしている犬ルイちゃんを観れば一目瞭然としているし、その生き様は実は自分自身を理解することにも役立つものだ。

こういう理解のことを適応模倣という。適応の仕方を見習うということだね。


2023年1月4日水曜日

appleストレス

 iphonipadの曲が消えてしまうという何回目かわからない同期トラブルに正月早々苦しんでいてブログを書く気も起きない。今日は床屋につれていってくれると妻が昨日言ってたけどそんな気も起きない、あ”~なにもかもが面倒臭い。僕はこのイライラをどこにぶつければいいのだろうか。その最右翼はappleだ、こんな地雷を踏むような同期システムをいつまで放置しておくのか、あ~腹が立つ。高次脳機能遂行がめっちゃ試されているのであーる。

いらいらすなっ

2023年1月3日火曜日

新年ってめでたいの?

 いやはや早いもので今日で三が日も終わり。明日から仕事と言う人も少なくないだろう。日本では明治6年に満年齢に統一されるまで数え歳が使われていた。1月1日に一斉に1歳歳をとるという数え方である。(韓国はまだそうなんだってね。)数え年でいけばこの高齢化社会で新なんて絶対にめでたくない。だって、1歳確実に社会が高齢化するわけだからね~。高齢化社会は日本だけじゃなく中国含めた世界中の先進国の問題になっている。要するに地球規模の問題と言ういうわけだ。でも僕は、高齢化の真の問題とは年功により思慮分別に長けているはずの高齢者が地球の問題の解決に取り組んでいないことだと思う。高齢者は生活スタイルを変え、生活水準を出来るだけ落としてCo2の削減などに貢献すべきじゃないだろうか。でも生活水準を落とすのって難しいんだよね~僕もそうだけど、年齢と共にいろいろな病気もかかえるようになるから普通に暮らすだけでも、医療などより多くの社会保障を使って生活水準を維持するようになる。今回のコロナ感染でも、基礎疾患のある高齢者を守ることが優先された。これは現状において未来を考えたとき妥当な判断なのだろうか。ヨーロッパではコロナに感染した老人が人工呼吸器を他の人に使うよう断ったという報道があったけど僕からすれば人徳の在るご老人だ。逆に僕がその立場に立って使用を断れるかと問われたら自信はまったく無い。医療は国民平等の権利だとか思ってしまいそう。多くの高齢者は、自分の子供たちや若者に迷惑をかけたくないと考えていてそのために節制し健康に留意している健康寿命に関心が薄い中高年はきっと少ないアメリカの映画では指パッチンで全人口の半分が消えてしまうというストーリーがあったけど、現実にはそんな地球環境問題の解決策は無い。そして解決策が無いまままた新年が明けてしまった。ほんとうにそれでめでたいのか?

高齢化が一歩進んで何がめでたいのだろうか


2023年1月2日月曜日

点と線

 松本清張氏の長編推理小説「点と線」はとても有名だ。僕は昨晩ふとそのことを思い出した。というのも、有料放送のオンデマンド版でベートーヴェン全交響曲連続演奏会を観ていたとき、一つ一つの作品を全部線で結ぶことでベートーヴェンの実像に近づけるという解説があったからだ。知識とはまさに点と点を結んで線にしさらにそれが繋がって面になり立体的な構造になったものだと言う人もいるくらいだから、全交響曲連続演奏などはまさに知識の創発なのであろう。松本清張氏は「点と線」でその全体像を推理小説にしてしまったことだろう。僕も中学生の頃に読んだけど、当時の僕には理解しきれなかった記憶がある。話が凄すぎて全体像の把握までついていけなかったのである。点と点を結び付けるには点の理解が必要だ。

全交響曲であれば一つ一つの交響曲を熟知している必要があるのだ。

昨晩初夢を観る前にずっと演奏の映像を観ていたのだけどあえなく交響曲第3番「英雄」の途中で撃沈してしまった。とても線をひくところまでいけなかったのだ。あはは。おかげでよく眠れて初夢もみられた。

実は僕は20数年この点で人を理解する支援を仕事にしてきた。そこで至った境地は鍵である。

それは詩人茨木のり子さんの「鍵」」という詩である以下に一部だけ抜粋する・

「鍵」茨木のり子


一つの鍵が 手に入ると

たちまち扉はひらかれる

固く閉された内部の隅々まで

明暗くっきりと見渡せて


人の性格も

謎めいた行動も

物と物との関係も

複雑にからまりあった事件も

なぜ なにゆえ かく在ったか

どうなろうとしていたか

どうなろうとしているか

あっけないほど すとん と胸に落ちる

そう、まさに僕が探しているのはこの鍵なのである。実は仕事を卒業した今も僕はこの「鍵」を探している。それこそこれまでの僕の中の点を結んで線を紡いで鍵の姿を形にしようと取り組んでいる。これは間違いなく僕のライフワークになる僕のこれからの人生を「鍵」作りに費やすつもりなのだ。えいえいおー。



2023年1月1日日曜日

2023年の元旦に思うこと

 僕の定義では仕事とは

みんなの問題をみんなで解決することである。

そして自分の問題を自分で解決するのは自立である。

そこには当然上手く行く人も居れば上手く行かない人も居る。

こういった結果論的事実が仕事における得手不得手という捉え方生み出しそれはジョブマッチングやさらに飛躍するとキャリアにおける天職という概念まで生み出すことになる。

しかし考えてみれば世の中にあるみんなの問題は無尽蔵だ。みんなでの解決も無尽蔵にある、だから唯一の天職なんてありえないのだ。誰とするかによってなにをするのかも変わってしまうのだからね。

ある仕事でハイパフォーマーだとしても他の仕事ではもっとハイパフォーマンスを発揮する可能性だってある。

大谷翔平選手だって野球じゃなくサッカーだったらメッシを越えるプレイヤーになっていたのかもしれない。

無限の可能性からたった一つの現実を固定化して理想化するそんなアブダクションは人間は不幸にしているのかもしれない、存在しない理想を追い求めるより現実にある目の前の問題をみんなで解決することに全力をそそいだほうがいい。

でも、その中に埋もれている自分の問題は自分で解決するものだ。

そういう自立した人間が集まってみんなの問題を解決するために仕事をするのが働くということだ、これこそが豊かな社会(誰もが自立している社会)における勤労の姿であろう。


みんなの中に自立出来ない人がいることがもみんなの問題になることもある。

社会は僕たちが考えているほど豊かじゃない。自分の問題を解決できないばかりか社会の問題にしてしまう超大国の指導者も現実に居た。

そういうときはその人の自立を支援することが新たな仕事になる僕は今自立を支援してもらう状態だ。

そして僕は自立をしたら、今度はみんなとみんなの問題の解決に取り組むのだ。

そこにどんな出会いや可能性が待っているかはわからないけど、天職とか天啓(天が与え賜う使命や運命)などという架空の概念に踊らされることなく、丁寧に今現実の自分のベストを尽していくだけだ。