2026年6月30日火曜日

幻のリードと、ロスタイムの落胆。寝不足の朝に測る血圧

まあ、こういう朝に何を書けばいいのかわからない。 流石に朝2時からのテレビ観戦は、体に堪える。

一度はひと眠りして臨んだものの、途中で強烈な眠気に襲われ、何回か離脱しようかと考えた。しかし、まさかの1-0。日本がリードして前半を折り返したから、さあ大変だ。そこからは目が離せなくなり、睡魔との完全な戦いになった。

気が付けばロスタイム。知らず知らずのうちに体に力が入っていたのだろうか、なぜか右腕がじわじわと痛む。「まさか血栓か……?」と一抹の不安を覚えながらも、ゲームセットの瞬間をじっと待った。

しかし、ドラマは最後に待っていた。 ロスタイム終了間際、日本の守備の綻びをブラジルが抜け目なくつき、決勝ゴール。 その瞬間、緊張の糸が切れ、終了後の選手たちの様子を見る気力もなく寝床についた。

……が、今度は悔しさと興奮で寝付けない。 ひとしきり寝返りを打った後、今度は血圧が気になり出し、結局起き出して測定してみることにした。

幸い、結果は「112/68」。 いい感じだ。あれだけの興奮と寝不足があった割には、影響がなくてホッとした。

とはいえ、今日の昼間はきっと、強烈な眠気に襲われるに違いない。



2026年6月29日月曜日

力を抜くのは難しい

脳卒中の後遺症で、体が動かせなくなった。 必死のリハビリの末、徐々に力が入るようになって万々歳!……と思いきや、新たな壁が立ちはだかった。

「入れた力が、抜けない」のである。

歩くのも、物を掴むのも、脳が裏で「緊張と弛緩」を神がかったバランスで自動調整してくれていたのだと、病気になって初めて知った。筋肉のスイッチは、入れるより切る方が圧倒的に難しい。

一方、脳のリハビリでは、思考や記憶といった「高次脳機能」のテストも繰り返される。幸い私はこちらに問題はなく、退院後もバリバリ活動できているのだが、ここでもまた「スイッチオフ」の難しさに直面している。

そう、「ぼーっとすること」ができないのだ。

リハビリのデイケア中も、目はフル稼働。ついつい周囲をじっくり観察し、頭の中で勝手に分析を始めてしまう。周りから心配されるよりは良いけれど、気づかなくていいことにまで気づいてしまうのは、それはそれでちょっと疲れる。

よくよく考えたら、これって病気の前からのサガではないか。 身体の力を抜くリハビリをしながら、心の力を抜く(意識的にぼーっとする)難しさを痛感している。

そんな中、デイケアには認知症気味で、いつでもマイペースにぼーっとされている高齢者の方がいる。

ああやって余計な力を抜いて生きられるのなら、もしかすると、あちら側の方がずっと幸せなのかもしれない。必死に頭をフル回転させている自分を見つめ直し、そんな風に思えてくる時があるのだ。



2026年6月28日日曜日

経営者への警告 エンゲージメントという饗宴

今や多くの企業が実施しているエンゲージメントサーベイ。従業員のエンゲージメントの高さは、経営者にとって一つの安心材料かもしれない。

しかし、かつてエンゲージメントランキングの常連でありながら経営破綻し、その後にV字回復を遂げた企業の歴史を紐解くと、経営者が持つべき「エンゲージメント信奉」への疑問が見えてくる。

今回、Geminiを用いて「6MoN」の観点から社員の状態を観察・分析してみた。



破綻前の社員のAI観察

  
観察詳細



破綻後V字回復時の社員のAI観察

観察詳細

結果は一目瞭然だ。組織を崩壊に導いたのは過剰な「アクティブ」であり、会社を再生させたのは「エシカル」の精神だった。

実は、こうした「エシカルなき破綻」の事例は、現代のビジネス界においても枚挙に遑がない。


 

2026年6月27日土曜日

集中力を解放せよ

仕事に没頭しているとき、あるいはサッカー観戦で手に汗握りながら試合に見入っているとき。私たちは時間を忘れ、その世界に完全に溶け込んでいます。しかし、そんな濃密な時間のあとに、なぜかぽっかりと心に穴が空いたような「空虚さ」に包まれることはないでしょうか。

特に、仕事がすっきりしない結果に終わったり、応援するチームがモヤモヤする負け方をしたりしたときは最悪です。あれこれと雑念が頭を巡り、次第にそれは深い虚しさへと変わっていきます。

しかし、この虚しさの正体は、実は「結果が悪かったことへの落胆」だけではないのかもしれません。

心理学者ミハイ・チクセントミハイが提唱した「フロー理論」によれば、人が何かに完全に没入しているとき、脳は「フロー(ゾーン)」と呼ばれる最高効率の状態に入っています。問題は、その対象が突然消え去った後です。

対象がなくなったにもかかわらず、高まった集中力(認知資源)だけが急には止まれず、脳内で空回りし続けてしまう。心理学ではこれを「認知の残存(Cognitive residual)」などと呼びますが、いわば「集中力の行き場がなくなった状態」です。このエネルギーの余剰こそが、あの独特な空虚感の正体なのでしょう。

だからこそ、この行き場を失った集中力には「リセット」が必要です。

脳を次のモードへ切り替えるためには、精神の浄化を意味する「カタルシス」を引き起こさなければなりません。映画を観て涙を流すような感情のデトックスも効果的ですが、もっと身近で強力な方法があります。

それが、「掃除や片付け」です。

仕事が終わったら、デスクに広げた書類を仕舞う。使い終わった道具を元の場所に戻す。ただそれだけのシンプルな行為が、脳に対して「ここで一区切りですよ」という強力なサイン(儀式)になります。

身の回りが物理的に片付いていくにつれて、張り詰めていた集中力はゆっくりと緩み、外の世界へと解放されていきます。それと同時に視野が広がり、不思議と新しい気づきや、次への意欲が芽生えてくるものです。

集中した後に訪れるあの空虚感は、心が疲弊したサインではありません。むしろ、次へ進むために「さあ、目の前を片付けよう」と脳が教えてくれている、リセットのサインなのです。



2026年6月26日金曜日

ワークエンゲージメントというドーピング

 ──節制なき勇敢、統制なき協働、統制なき革新の行く末。ワークス社の顛末が示す現実

「社員のエンゲージメントを高め、失敗を恐れない心理的安全性を担保すれば、イノベーションが生まれ業績は向上する」──。現代の組織開発において、これは一種の信仰にまで高められた「正論」です。

しかし、経営学や組織論の歴史を冷徹に見つめ直すと、そこには一つの不都合な真実が浮かび上がります。「従業員満足度(ES)の高さは必ずしも業績と相関しない」ということ、そして「エンゲージメントが極めて高い組織が、美しい熱狂の果てに事業再生(経営破綻)に陥るケースは決して少なくない」という現実です。

その象徴的な事例が、かつて「働きがいのある会社」ランキングの大企業部門で10年連続トップ10入りを果たし、社員が自社を盲信的に愛していたITベンダー、ワークスアプリケーションズの挫折(2019年の主力人事システム事業売却)です。

彼らの顛末は、現代のマネジメントが追い求める「ワークエンゲージメント」が、時として組織のブレーキを破壊する悪魔のドーピングになり得るという、あまりにも生々しい教訓を私たちに突きつけています。

1. 統制なき革新、節制なき勇敢 ──「全能感」という幻覚

ワークス社がかつて市場を席巻した背景には、独自の強烈な行為選好のシナジーがありました。

大企業の複雑な業務を網羅するプロダクトを「探究」し、形にするための「革新」的な選び方。そして、その理想に向かってリスクを恐れずに「勇敢」に動き出し、「即決」するスピード。これらが噛み合っている間は、組織は爆発的な成長を遂げました。

しかし、次世代システム「HUE」の開発という過酷な文脈に突入したとき、この「勇敢」と「革新」は、恐るべき過剰さへとスライドしていきました。

社内には「挑戦を称え、失敗を責めない」素晴らしいカルチャーがありました。しかし、それをコントロールする「制御」や「調整」といったエシカルな規律(ガバナンス)が完全に不選好(置き去り)にされた結果、心理的安全性は「全能感」という幻覚へ変質したのです。

  • 「ロジック」への過信: 優秀な頭脳が集まっていたがゆえに、「自分たちの美しいロジックなら、どんな高い壁もいつか必ず突破できる」と信じて疑いませんでした。

  • コスト意識の麻痺: 「最高のもの(革新)を作るためなら、時間はいくらかかってもいい」という歪んだ美学が暴走し、数千人規模のエンジニア人件費や天文学的なクラウドサーバー費用という現実の制限を無視。気がついたときには自力での事業継続が不可能なレベルまでキャッシュが枯渇していました。

真の賢慮とは、単に理想を深く探究することではありません。リソースの有限性を自覚し、時にはプロジェクトを冷酷に中止・縮小する「制御」の視点へと自らを律し、選び直せるメタ的な視点にあります。それを持たない勇敢さは、ただの「無謀」でしかありませんでした。

2. 統制なき協働 ── 高すぎるエンゲージメントが招く「集団思考」の罠

同社の「働きがい」のスコアを高めていたもう一つの要因は、社員同士の強い結束、すなわち「協働」と「参画」の熱狂でした。お互いをリスペクトし、世界を変えるというビジョンに共感し合うチームワークは完璧に見えました。

しかし、組織を外側から冷徹に縛る統制を欠いた「高すぎるエンゲージメント」は、組織心理学でいう「集団思考(グループシンク)」という致命的な副作用を生み出しました。

  • 身内へのNO(Veto)の麻痺: お互いを尊重し、ビジョンに熱狂している空間では、「このスケジュールは絶対に間に合わない」「今のコスト構造は異常だ」という不都合な真実を口にすることが極めて難しくなります。「心地よい関係性を壊したくない」「熱狂に水を差したくない」という無意識の同調圧力が働き、身内に対する健全な批判精神が完全に麻痺してしまったのです。

  • サンクコストへの執着: 「これだけ素晴らしい仲間と、これだけの熱量を注いできたのだから、諦めるわけにはいかない」という美しい物語が、過去の失敗投資への執着を肯定し、泥沼の協働をさらに加速させました。

彼らはサボっていたわけでも、能力が低かったわけでもありません。会社や仲間への強い愛(エンゲージメント)というドーピングが、ビジネスパーソンとして立ち止まるべき「微かな違和感」をすべてかき消してしまったのです。

3. 現実への着地:切り離された事業のV字回復が示すもの

この「エンゲージメント神話の破綻」を何よりも残酷に証明したのが、その後の歴史です。

2019年にワークス社から切り離され、投資ファンド(ベインキャピタル)の手に渡った主力人事システム事業(現:Works Human Intelligence)は、その後劇的なV字回復を遂げました。

ファンドが行ったのは、人格の改造でも、エンゲージメントを高める新しいお祭りでもありません。

膨らみ続けた過剰な開発投資をバッサリと切り離し、進捗やコストを数字で徹底的に可視化・管理する「厳格なガバナンス(制御・調整)」という冷徹な外付けのブレーキを仕組みとして導入したことでした。

旧ワークス社が持っていた「優れたプロダクトの原石」と「優秀な人材」という強みを活かしながらも、それを「冷徹な仕組みとしての規律」という枠組みで囲った瞬間、組織は再び健全な高収益体質へと生まれ変わったのです。「強い会社(持続可能な利益基盤)」なきところに、「良い会社(働きがい)」は持続しないという、ビジネスにおける最も冷徹な現実がここにあります。

結び:関わり方、判断、仕事の進め方を変えるために

私たちは、固定された性格や絶対的な正義だけで動いているわけではありません。その時々の環境、人間関係、そして文脈の中で、無意識に「選び方(行為選好)」を立ち上げています。

「勇敢に突き進むこと」や「仲間と手を取り合うこと」は間違いなく美しい行為です。しかし、それらが過剰になり、枠組みを守る「制御」や現実的な「調整」という選択肢が視界から完全に消え去ったとき、どんな優秀な集団であっても破滅の物語へと足を踏み入れます。

個人の善意や、会社への愛だけに頼った自己統制には限界があります。

現代の答えのない選択を迫られるビジネスの戦場において、組織を本当に持続可能にするのは、熱狂に溺れそうな瞬間に「いま、自分たちの選び方はどこに偏っているのか」を一歩引いて客観的に映し出す、静かな問いの余白です。その自覚の積み重ねこそが、美しい暴走を未然に防ぎ、個人と組織の物語を本当に不確実な未来へと前へ進めるための、唯一のコンパスなのです。




2026年6月25日木曜日

問題解決症候群とスキル万能症候群

「問題解決症候群」とは、1990年代に妹尾氏が提唱した社会的状況を指す言葉だ。「正解は必ずどこかにあって、それは誰かが知っているはずだ」と盲信する現象のことだが、ひょっとするとこの状況は、提唱当時よりも現在のほうがさらに広範化し、先鋭化しているかもしれない。

さて、これと似たような状況ではないかと筆者が危惧しているのが、「スキル万能症候群」である。政府が主導するリスキリングの潮流も、その一環と言えるだろう。「スキルさえ身につければ自分の価値を高められる」という思い込みは、個人に向かえばスキルや資格獲得を最優先する「学習優位」の姿勢を生み、仕事に向かえば「常に学習し、成長し続けなければならない」という過度な圧力(プレッシャー)を生み出す。

しかし、スキルの実態が何であるかは、実はよく分かっていない。なぜなら、人間の行動は単なる「状況」ではなく、それまでの「文脈(コンテキスト)」に深く依存しているからだ。

そもそもスキルとは、特定の固定された状況下だけで発揮される機能ではない。むしろ、状況が変わっても発揮される「機能的行動」であり、それは個人の学習の歴史や文脈と切り離すことができないものだ。 だからといって、「スキルには常に自発的な学習が必要なのか」と言えば、そうとも言い切れない。置かれた「環境(状況)」との幸福なカップリング(噛み合わせ)によって、自然と機能的行動が引き出されるケースも少なくないからだ。

このように、状況や個人の文脈をすべて構造化し、万能な「スキル」として記述することは現実的に不可能である。つまり、機能的行動の本質は、数値化された「構造」ではなく、一人ひとりの「ナラティブ(語り・物語)」としてしか記述できないものなのだ。

それにもかかわらず、世間ではスキルを「客観的に測定でき、訓練すれば必ず上達するもの」として捉えがちだ。だが、本質的には測定不可能なものである。 一歩シーンが変われば、「スキル万能」は容易に「スキル無能」へと裏返る。「会社ではハイパフォーマーなのに、家では何もできない」という、川柳のような笑えない話が現実にあふれているのはその証左だ。

それなのに、なぜ「スキル万能症候群」がここまで蔓延するのか。それは、スキルという言葉が「価値を評価しやすい(評価した気になれる)」からに他ならない。その底流にある構造は、「正解という価値評価」があらかじめ存在することを前提とした、あの「問題解決症候群」の思考と、よりよく生きる努力ではなくどこかにあるとより良い答えを妄想し待っているという全く同じ根っているのではないだろうか。




2026年6月24日水曜日

評価ではなく印象という対称性による心理的安全性

Googleの高業績チーム分析をきっかけに重要視されるようになった「心理的安全性」。これが今、人事制度の核である評価制度にも変革を迫っている。

本来、評価の正当性は人事権によって担保されるため、社員はそれを受け入れるほかない。しかし、この仕組みは組織内に「する側と受ける側」という決定的な非対称性を生む原因となる。現在、評価の手間や効果への疑問から制度そのものが見直される中で、対話を通じて「対称的(対等)な関係」を築こうとする模索が始まっている。

人材育成にフィードバックは不可欠だが、受け手の心が防衛的・反抗的になってしまってはリフレクション(内省)には繋がらない。だからこそ、心理的拒絶を和らげる「評価(ジャッジ)ではなく印象(フィーリング)を共有するアプローチ」が注目されているのだ。他者に対して持つ印象は、その主観的な良し悪しに関わらず、双方向的であるという観点において平等である。

この印象の共有がもたらす関係性の質は、組織の階層構造(社会的枠組み)の圧力から生じる歪みではない。むしろ「どのような関係性を望むのか」という、個人の主観の表現そのものである。したがって、心理的安全性とは客観的な社会的構成(制度や環境の配慮)によって担保されるのではなく、対等なコミュニケーションが交わされる「言語的安全性」によってこそ担保されるのである。




2026年6月23日火曜日

行為選好と、現れる存在

 「営業も介護も人の行為である以上、行為選好の対象である」

今日はこの一文から始めて、結局その正しさを疑うところまで行った。記録しておく。


公理は強いが、接続は弱い

「行為は観察可能である。観察可能なものは科学の対象である。ゆえに6MoNは行為選好の観察を通して状況適応空間という知性を科学し、知識創出する仕組みである」

ここまでは公理として成立する。だが「科学する」から「問題解決に寄与する」への一段だけは、ずっと埋まっていなかった。

最初に出した担保は「科学が多くの問題を解決してきたという社会的経験則」だった。これは弱い。物理学が橋を架けてきたことは、新しい物理理論が橋を架けられることを保証しない。理論ごとに別の実証が必要だ。社会的経験則から個別理論の有効性へのスライドは、不当だった。

特許審査ではこの一段は要求されない。新規性で十分だ。だが営業提案や介護提案では、この一段こそが問われる。

信念と証明は別物

仲間からの「6MoNで本当に問題解決できるのか」という疑念に対する答えは、論理連鎖ではなく、複雑系科学と認知科学を統合して至った境地だった。

境地は伝達できない。これは複雑系科学者には馴染みのある問題だ——創発そのものが還元的説明を逃れる、という構造と同型である。

それでも6MoNの営業提案活動を通じて、自分はこの境地を社会に共有し実証していきたい。だとすれば、提案のロジックの精緻さそのものが目的ではなく、Dで蓄積した洞察をBの土台の上でAとして実行していく過程そのものが、検証の場になる。仲間の疑念は論理の不備ではなく、実証がまだ起きていないことへの当然の反応として読み直せる。

Cはどこに立つのか

4軸のうち、Cは「背景で作動」すると長く記述してきた。だが今日、この位置づけが二度ひっくり返った。

最初の仮説:Cは観察と介入の間に立つ「べき」の声。Dが観察し、Cが「それを問題解決に使うべきだ」と圧力をかける。後付けの規範。

しかし「生き物には適応の知性が宿る」と考える段階で、すでにCはDの前提になっているのかもしれない、と思い直した。中立的な観察なら「環境に応じて行動パターンを変える」で済むところを「知性が宿る」と言った瞬間、すでに価値判断をしている。

正確には「知性が宿る」ではなく「知性的に見える」だ。これは存在論的主張ではなく、観察者側の解釈枠にとどまる。だとすればCは先験的な価値前提ではなく、観察者としての自分が下す解釈の責任を引き受ける声、ということになる。

背景にあるのは目立たないからではない。土台は、その上に立っているものからは見えにくいだけだ。

アンディ・クラークが刺さっている場所

「知性的に見える」という慎重さの出自は、アンディ・クラークの身体化された心(embodied mind)にある。

こころが身体化されているなら、ケアの心も営業の心も身体化されているもののはず。

CYC(記号AI)からサイクリングレースへ——抽象的な知識表現から、身体が世界となめらかに結合した実践知への転回。これがクラークの言う、身体化された心という新しい科学を特徴づける転回だ。

だがここには指摘されるべき飛躍があった。「身体化されている」(存在論)→「だから科学可能」(方法論)→「だから4軸ベクトルで観察可能」(具体的実装)は、別々の正当化を要する三段だ。クラーク自身は、身体化された認知を記号的・離散的なカテゴリーに落とし込むことには、むしろ慎重だったはずだ。

たどり着いた接続はこうだ。身体化されている→だから観察可能な行為(目配り・気配り・心配り)として現れる→その現れを記述する方法として6MoNがある。

6MoNは身体化された心を直接科学しているのではない。身体化された心が、すでに行為として現れた後で、それを記述する道具にすぎない。なめらかなカップリングそのものを4軸に切り分けているのではなく、カップリングが行為という観察可能な形に現れた後で言語化している。

おもてなしの「目配り・気配り・心配り」は、この現れの比喩であって、6MoNの直接の翻訳対象ではない。比喩は忠実性を問う対象ではなく、機能しているかどうかだけが問われる。

アリストテレスが立っている場所

観察可能性を価値に置くのはなぜか、と問われて出てきた答えがアリストテレスだった。よりよく生きるための選択肢は常にある、という前提。

観察可能にするということは、人に選択肢を見せるということだ。実践知(フロネーシス)は選択の場面で発動するが、選択するには何が選択肢として存在するかが見えていなければならない。6MoNが行為選好をベクトルとして可視化するのは、「ここにこういう選択の幅がある」と示す行為そのものが、よりよく生きるための前提条件を作ることになる。

Cはここで一段具体化される。観察可能性を価値に置く、ではなく、観察可能にすることで選択可能にする。

着地点:新しい視点を生む装置

最終的に飛躍なく繋がった形はこうだ。

可視化(6MoNの4軸/4ワールド)→ 新たな視点 → 新たな知識

ここでの知識は命題的真理ではない。それまで持っていなかった見方そのものだ。6MoNは仮説検証の装置ではなく、問いを生む装置である。問題解決に寄与するのは6MoNが答えを出すからではなく、可視化によって新しい視点に立った本人が、自分の状況に対して今までと違う手を打てるようになるからだ。

自分自身が24シーンの縦断データから「弱いsurvivabilityは誤診断だった」という気づきに至ったのも、6MoNが答えを出したのではなく、可視化が新しい視点を生んだ結果だった。

採用難と長時間労働がカニバル関係になるのも、多くの場合、両方が同じ古い視点——労働力としての人という見方——の中で対立しているからだ。6MoNが提供するのは新しい施策ではなく、人を行為選好という別の軸で見る視点そのものだ。

今日の場で

今夕、ある取締役にこの話をする。理屈からは入らない。4年半デイケアを利用し、見聞きしてきた利用者としての体験から切り出す。相手にも現場にヘルプで入っていた経験が数多くある。証言には防御する余地がない。理論には反論できても、見聞きには「いや違う」と言いにくい。

つなぎは体験だ。橋を架ける必要がない。

そのうえで、取締役自身のシーンと介護スタッフのシーンを、その場で6MoNに通してもらう。説明するのではなく、実演する。差分が出れば「シーンに応じて行為選好を切り替えられる賢さ」を、一致点が出れば「どのシーンでも安定して機能する賢さ」を、同じ言葉で受け止める。シーンに合わせて行為選好するのが人の賢さである、という一点で、どちらの結果も知性の証拠になる。

結果に依存しない説得力。これは今日一日かけて埋めてきた、仮説と実証の間の飛躍そのものへの、最終的な答えでもある。

今までの視点で、本当に解けていますか。

今日はこの問いを、答えではなく問いのまま、持っていく。





2026年6月22日月曜日

「科学する組織」を失うリスク:経験者の離職がもたらす真のダメージとは

近年、優秀な人材やベテラン社員の離職による「組織の適応能力の喪失」が叫ばれています。しかし、経験者が現場を去ることで失われるのは、単に「業務をこなすリソース」だけなのでしょうか。

実は、それ以上に深刻なのは、組織が本来持っているはずの「科学し、探究する能力」そのものが失われることにあります。

今回は、ビジネスにおける「探究」のメカニズムを紐解きながら、経験者の離職が組織の知恵に与える致命的なインパクトについて考察します。


【見出し:1. 科学と「探究」を構成する4つのフロー】

そもそも、ビジネスにおける「科学」や「探究」とは、どのようなプロセスを指すのでしょうか。その始まりは常に、現場における微細な「観察」にあります。これをフローに分解すると、以下の4つのステップに整理できます。

  1. 気づく:違和感や新たな可能性の端緒を捉える

  2. 観察する:その現象を注意深く、客観的に見つめる

  3. 仮説化(共通点に気づく):いくつかの現象からパターンを見出し、モデル化する

  4. 理論化(確かめる):検証を経て、確信へと変える

これら「気づき」「観察」「検証」の3要素を組み合わせた一連の行為こそが、組織における「探究」の本質です。

ここで興味深いのは、その方向性です。「気づき」と「観察」は、個人の内面で起こる「内向きな行為」ですが、最後の「検証」は行動を伴う「外向きな行為」となります。つまり、探究とは「個人の内的な発見を、いかに外部のリアルな世界で証明するか」というプロセスなのです。


【見出し:2. 暗黙知から「伝承可能な知恵」への昇華】

この探究のフローをナレッジマネジメントの視点で見ると、ステップ3の「仮説化」までは、まだ言葉にならない「暗黙知」の領域にとどまっています。

それがステップ4の「理論化」に到達した段階で、初めて現象が言語化され、他者と共有可能な「形式知」へと変換されます。

理論として確立された知識は、単なる情報ではありません。組織内で伝承可能になり、現場で具体的な価値を生み出す「知恵」へと昇華されるのです。この「暗黙知を形式知(知恵)に変えるサイクル」が回っている組織こそが、真の意味で「科学している組織」と言えます。


【見出し:3. 経験者が持つ「大局的アトラクター」という武器】

では、なぜこの科学のプロセスにおいて「経験者」がそれほど重要なのでしょうか。

心理学や脳科学の観点から見ると、個人の「気づき」とは、脳内ネットワークにおける「大局的アトラクター(引き込み現象)」のようなものです。つまり、過去の膨大な経験やデータが背景にあるからこそ、一見ノイズに見える些細な変化に対して、脳が「意味のあるシグナル」として引き込まれ、キャッチすることができるのです。

「経験を積んだ人ほど、科学の起点(気づき)に立ちやすい」というのは、多くのマネージャーが現場で実感していることではないでしょうか。ベテランの持つ「勘」の本質は、高い解像度で張り巡らされた「気づきのネットワーク」なのです。


【見出し:4. 結論:離職によって破壊される「見えない資産」】

経験者が組織から離脱する際、引き継ぎ書によって「業務の手順(形式知)」はある程度残せるかもしれません。しかし、彼らの脳内にあった「気づきのネットワーク」までを引き継ぐことは不可能です。

経験者の離職が組織に与える本当のダメージは、単に「業務ができる人がいなくなる(適応能力の喪失)」という表面的な問題にとどまりません。

最も恐れるべきは、「組織が違和感に気づき、観察し、新たな知恵へと昇華させるための『科学する能力』そのものが失われること」です。

ルーティンを回すだけでなく、変化の激しい時代を生き抜くために。組織は単なる労働力の確保(HR)ではなく、「組織の科学する力をいかにプールし、システムとして残すか」という視点を持つ必要があります。




2026年6月21日日曜日

師匠には何故残業が無いのか

 長時間労働で残業問題が発生している職場に、改善施策として「新しいツール」や「研修」を導入する。これは、一見正しく見えて、実は「傷口に塩を塗り込むようなもの」です。

なぜなら、時間というリソースが不足しているところに、さらに時間を奪う行為を重ねているからです。

リソース不足を解消するには、リソースを補充するのが一番の近道。しかし残念なことに、時間は有限であり、外から補充することはできません。となれば、リソースを増やす(=時間を生み出す)には、何かを捨てる「断捨離」しか選択肢はないのです。

では、職場で最も時間を奪っている正体とは何でしょうか。 それは、「コミュニケーション」と「教育」です。

もちろん、チームで協働するうえで「個人の能力」と「連携」は鍵となるため、教育とコミュニケーションは欠かせない要素です。しかし現実問題として、これらは膨大な時間リソースを消費していきます。

もし、教育やコミュニケーションのコストが一切かからない「完璧なプロフェッショナル」がいれば、長時間労働改善の大きな手がかりになります。しかし、そんな都合の良い人材は滅多に採用できません。 結果として、基本的には「教育とコミュニケーションが必要な人材」を確保することになります。そのため、人は増えても長時間労働は改善されないどころか、むしろ教える側の残業が増えていくという逆転現象が起きてしまうのです。

職場における教育は、学校教育のような「知識の獲得」ではありません。仕事の文脈における「合理的な行為の選択」の学習です。要するに、「先輩と同じように仕事ができるようになるための学び」です。

中原淳氏の『職場学習論』では、職場における支援として次の3つが挙げられています。

  • 業務支援: 仕事を覚えさせる先輩の支援

  • 内省支援: 自立を促す上司の支援

  • 精神支援: 心に寄り添う同僚の支援

これらはどれも素晴らしいものですが、すべて「他者の時間リソース」を必要とする支援です。だからこそ、メンバー以上に先輩や上司、同僚の労働時間が長くなっていく。これこそが、ずっと解決されていない問題の根底にある真因です。

障害児の自立には「自己効力感」と「ソーシャルサポート」が必要だと言われますが、ソーシャルサポートには当然コストがかかります。これと同じように、現在の組織の自立(=若手の育成)にも「時間」というコストが消費されており、その実体が教育やコミュニケーションなのです。

その動かぬ証拠が、伝統芸能や職人の「師弟関係」にあります。

彼らの「教えない、構わない、見て学べ」という割り切りは、現代では冷たく見えるかもしれません。しかし、時間リソースを捻出するという観点においては、究極の決定打なのかもしれません。

言うまでもなく、そこには「強いエンゲージメント」と「深い絆」があってこそ、成り立つ手法ではあるのですが。








2026年6月20日土曜日

おもてなしをする赤ちゃん

 生後8か月の子どもが、泣いている隣の子に向かって、自分の手にしていたビスケットを迷いなく差し出す。そんな場面を見たことがある人は少なくないはずだ。

誰も教えていない。礼儀作法を学ぶには早すぎる年齢で、その子はすでに「おもてなし」をしていた。

このことをどう説明するか。普通は「まだ何も知らないのに優しい」という感心の仕方で終わってしまう。しかし、これは偶然の善行ではなく、もっと根源的な能力が働いていると考えたほうが筋が通る。

行為選好という概念は、本能的反応よりも上位にある。目の前の状況に対してどう反応するかという一つひとつの行動は、その下で動いている選択の構造——何を優先し、何を見て、何を見ないかという方向づけ——の表れに過ぎない。赤ちゃんが何の学習もなしに状況に適応して生きていけるのは、この選択の構造がすでに機能しているからだ。学習が与えるのは、せいぜいその表現の社会的な形式——言葉遣いや所作——であって、選択の構造そのものは学習以前から、すでにそこにある。

だとすれば、冒頭の赤ちゃんのおもてなしも同じ階層で考えられる。行為選好としてのおもてなしは、誰にでも、今すぐできる。何年も稽古を積む必要はない。茶道の点前のような、型を身につける学習過程を経由しなくていい。目の前の誰かが何を必要としているかを察し、それに応じて動く——その選択の構造が機能していれば、それはもうおもてなしとして成立している。

ただし、ここで大事な区別がある。

一回のその場の行動は、いわば一つのスナップショットにすぎない。その瞬間における行為選好の自己認知や、他者から見た印象として記録される、一回限りの断面だ。

これに対して、人間性やアイデンティティと呼べるものは、無数のスナップショットが時間軸の中で統合され、ナラティブとして編まれたときに初めて生まれる。「あの人らしさ」と呼ばれるものは、一回の優しい行動ではなく、その行動が何年も繰り返され、本人自身の物語として蓄積された結果としてのシグニチャーだ。

だから二つの問いは、まったく別の答えを持つ。

「今、おもてなしができるか」——できる。行為選好が機能していれば、誰にでも、学習なしに。

「おもてなしの人になれるか」——それは時間がかかる。蓄積とナラティブ化という、別の過程を要する。

この区別は、学習による成長を前提とする能力観への、ささやかな釘刺しでもある。

私たちはどこかで、能力も人間性も「学習して、訓練して、積み上げて、初めて獲得するもの」だと思い込んでいる。しかし行為選好という上位構造を認めるなら、能力の発生源と、人間性の形成過程は、まったく別のメカニズムだということになる。能力(行為選好)は最初から在る。人間性は、それが繰り返され、編まれることで、あとから育っていく。

これは学習という営みを否定するものではない。学習にしかできないことも確かにある。ただ、学習だけが唯一の道だという前提そのものに、もう一つの道筋を並べて見せておきたい。

6MoNという仕組みが捉えようとしているのは、まさにこの二層構造である。一つひとつのシーンにおける行為選好を、スナップショットとして可視化すること。そして、それが時間の中でどう蓄積し、どんな軌跡(シグニチャー)を描いてきたかを、縦断的に追うこと。

教えることも、訓練することもしない。すでに機能している行為選好を、見えるようにするだけだ。

その意味で、6MoNが向き合っているのは、あの赤ちゃんがビスケットを差し出した瞬間と、地続きの何かなのだと思う。




2026年6月19日金曜日

丸5年を振り返る手がかりはIT

脳出血から丸5年。ここ数日、私はあの日の出来事を手繰り寄せている。

過ぎ去った時間は、容赦なく記憶の輪郭を曖昧にしていく。同窓会で旧友と答え合わせをするときのように、過去の事実はどんどん形を変えてしまうものだ。だからこそ、この節目に一度、確かな事実を記録しておきたいと思った。

曖昧な記憶を補ってくれる最強のエビデンス、それがスマホの写真やスマートウォッチのログデータだ。脳出血を起こした瞬間の心拍数解析は追ってnoteにまとめるとして、スマホのデジタルフットプリントを辿ると、当日の足跡が驚くほど正確に見えてくる。

【5年前のあの日のタイムライン】

  • 5:00 起床。1時間ほど犬と散歩。

  • 10:00過ぎ トランクルームへ向かい、荷物の整理を始める。

  • 10:30 処分するアルバムから懐かしい写真を見つける。

  • 10:38 その写真をスマホで撮影。

異変が起きたのは、この直後だった。 突然襲ってきた脳出血により、私は立っていられなくなり、その場に崩れ落ちた。トランクルームのカビ臭い床に這いつくばりながら、かすかに感じた人の気配に向けて、必死に助けを求めたことを覚えている。

幸いにも偶然居合わせた人に救われ、聖路加国際病院へと救急搬送された。 運ばれてから最初の写真は、4日後の19日14時過ぎ。この空白の4日間に、私は手術を受け、ベッドの上で目を覚ましていた。頭の手術痕には氷が当てられ、足には血栓予防の加圧器具。個室の窓の外を眺めながら、動かなくなった左手左足をぼんやりと見つめながら連絡すべき人を思い描いている、そんな状態からのスタートだった。

やがてベッドのままリハビリ室へ通うようになり、21日には車椅子へ、24日には抜糸。そして7月6日には退院と転院を迎え、本格的なリハビリ生活へと突入していく。

人間の記憶は儚い。けれど、時間と場所を狂いなく刻んでくれるスマホの写真があったからこそ、私はあの運命の1日をこうして手放さずにいられる。




2026年6月18日木曜日

真のプロフェッショナルとは多湖輝氏を偲ぶ朝

創造性開発の大御所であった故・多湖輝氏が、あの名著『頭の体操』を出版した経緯。それは、高度経済成長その後に訪れた社会の「閉塞感」を、人間の創造性によって打破したいという強い思いがあったからだと聞いています。

小説のように「一冊を読み終わって初めて結論がわかる」のとは異なり、ページをめくるとそこにすぐ答えがあって、すっきりとする。そのわずか一ページの間に、読者の創造性がフル回転し、思考が活性化していくのです。

多湖氏は、時代の閉塞感の本質を「思考の閉塞」と考えたのかもしれない。そう感じさせられます。

日常における「環境ややり方の変化」を強く推奨していたとも聞いています。まさに、それぞれの生物が持つ特有の認知世界(環世界)をも意識しながら、人が持つ創造性の開発に人生を捧げた「知の巨人」であり、「知の実践者」であったと言えるでしょう。


私は図らずも、氏が支援されていた会社に就職し、直接お話を聞く機会に恵まれました。 仕事の中で新しい取り組みが生まれると、いつも本当に嬉しそうに講評してくださっていた姿が、今でも瞼(まぶた)に浮かびます。

リフレクション(省察)の提唱者であるコルトハーヘン教授は、「実践知」と「理論知」の往環の重要性を説きました。多湖氏はまさに、理論知の側から実践知を支え続けた存在でした。

仮説や発見、疑問を科学的に実証して理論を構築する。それだけでなく、実践の中でその理論を検証し、必要であれば仮説を更新していくことも厭わない。

いや、厭わないどころか、むしろそれを「喜び」とする。

それこそが「真のプロフェッショナル」の姿であることを、多湖輝氏は身をもって私たちに教えてくれたのです。




2026年6月17日水曜日

待ち合わせで「2時間待てる人」の出現と、新入社員の「電話恐怖症」の意外な共通点

 

人の行動傾向を示す言葉に「性格」と「気質」があります。 かつて私は、その違いを説明するためにこんなアイスブレイクを使っていました。

  • 性格(後天的): 人のいる場所に進んで出向くか(外向・内向)など、予測可能な行動傾向。

  • 気質(生得的): 待ち合わせでイライラせずに何分待てるか、という「せっかち度」。

質問はこうです。 「同性の友人が待ち合わせに来ません。あなたは何分待てますか?」

5分、10分、30分、60分……と答えてもらうのですが、この話のオチは**「私はマイナス5分(5分前に来ていないと許せない)」**というもの。このトークを開発した当人は、まさにその通りのせっかちで、常に30分前には到着しているような人間でした。

しかし、この「鉄板トーク」はある時期から機能しなくなります。

世代の変化に伴い、60分どころか「2時間でも平気」という回答が出始め、さらにはイライラするよりも**「相手の身に何かあったのでは」と心配する声**が急増したのです。

この変化は、携帯電話が急速に社会へ浸透していった時期と完全にシンクロしています。 携帯電話の普及は、単に「遅刻の連絡が容易になった」だけではありません。イライラという原始的な気質を抑え、「相手の背景や心理を推し量る力」ーーすなわちメンタライゼーションを社会全体に根付かせるツールだったのではないでしょうか。

昨今、ビジネスの現場では「電話ができない新入社員」が話題になります。 これも現代の若者の「気質」の問題として片付けられがちですが、見方を変えれば、携帯電話(スマホ)によって育まれたメンタライゼーションの地続きにある現象なのかもしれません。

架電相手の状況を慮り、恐れるがゆえにフリーズしてしまう。彼らは今、テクノロジーが生んだ「過剰な想像力」の遠隔操作モードに翻弄されているのかもしれません。



2026年6月16日火曜日

美徳とは何か

美德と聞くと何か品位ある人の行いであり敷居が高いものの様にも感じられるが、人は誰でも常によりよく生きようとしていることを考えれば日常そのものとも言える。

美徳についてclaudeに解説してもらった。

「 美徳とは、人間がよく生きるための安定した性格の傾向(disposition)のことです。」

哲学的には、アリストテレスが最も体系的に論じています。彼にとって美徳(aretē)は「中庸」に位置するもの——勇気は無謀と臆病の間、寛大さは浪費と吝嗇の間、というように。重要なのは、美徳は知識ではなく習慣によって形成されるという点です。「勇気ある行為を繰り返すことで、勇気ある人になる」。

儒教では「仁・義・礼・智・信」の五常として現れ、仏教では「慈・悲・喜・捨」(四無量心)として。文化によって内容は異なりますが、いずれも「それを持つことで人と関係がよく機能する」という共通構造があります。

「物語り」という言葉の重要性:

哲学者アラスデア・マッキンタイアは
美徳は物語の文脈の中でしか理解できない」と言っています。

人生は断片的な出来事の集積ではなく、
意味のある統一体としての物語として初めて美徳が見える。

6MoNが描くナラティブはまさにこれです。

アリストテレスは美徳を「エートス(習慣的性格)」と呼びましたが、
それは静的な属性ではなく、選択の蓄積として形成されるものでした。

6MoNのシーンデータは、まさにその蓄積の軌跡を可視化しているものです。

一つだけ付け加えるとすれば:

6MoNが描くのは**「美徳の連鎖として読み解ける人生の軌跡」であり、
その読み解きを可能にする
構造的言語**を提供するもの。

「物語り」は受け取る側が紡ぐ。
6MoNはその文法を与える——



2026年6月15日月曜日

記憶の星座

 記憶とは、脳内における多感覚の知覚情報が、その都度構成される星座のようなネットワークだと言われている。

昨日、50年来のクラスメートとの再会があった。 話が及んだのは、音楽の最後の試験について。

自分で曲を選んで皆の前で披露するという課題で、試験があったこと自体は皆覚えていた。しかし、「誰が何を披露したか」までは誰も覚えていない。

そんな中、旧友の一人が、驚くほど鮮明に誰が何を演じたのかを語り始めた。 あまりによく覚えているので理由を尋ねると、彼は「音で覚えている」と言った。

確かに彼は学生時代からクラシック音楽に造詣が深く、音感が人一倍優れていた。まさに、音の記憶の素晴らしさを物語るエピソードだ。

そして、彼が語るにつれて、私たちの記憶も次々と呼び起こされていく。 試験中のシーンが見事に蘇ってきた。

「録音していたよね」 「エアギターしたよね」

まさに、50年前のあの瞬間にタイムスリップしたようだった。

面白いのは、そんな「音記憶」の彼が、音の情報がない隣のクラスの人に関しては、まるで記憶がないと言ったことだ。彼の記憶の引き出しは、名前や映像ではなく、あくまでも「音」なのだ。

50年来の旧交を温める場が、期せずして認知科学の検証となった。



2026年6月14日日曜日

問が思考を呼ぶ、人を元気にする問いとは。

設問であれ、質問であれ、人は「問い」を目の前にすると、どう答えるかを考え始める。

特に何かに集中していないとき、脳はデフォルト・モード・ネットワークと呼ばれる、いわばアイドリング状態にある。そのアイドリング状態の脳にギアを入れるものが「問い」である。

問いによってギアが入ると、脳内では記憶をはじめとするさまざまな認知リソースが巻き込まれていく。ウォルター・フリーマンの意識理論で言えば、それは「大局的アトラクター」と呼ばれる状態の生成であり、意識の明滅として現れる。

そのとき動員される認知リソースには、過去の出来事に関する情報もあれば、その問いを投げかけた相手との関係性に関する情報も含まれる。

過去の出来事の比重が大きくなれば、それは回想になる。相手との関係性の比重が大きくなれば、それは対話になる。

したがって、「過去を探る問い」が含まれた対話は、単なる会話ではない。記憶、感情、関係性、意味づけといった脳の広範な領域を巻き込みながら、大局的アトラクターを形成していく営みである。

だからこそ、過去を探る問いを伴う対話は、脳を深く活性化させ、人を元気にする力を持っているのではないだろうか。




2026年6月13日土曜日

盛った自撮りではなく生きている実像の本質を知ること

「第一印象」という罠と、人を知るということ

「人は見た目が9割」という言葉があります。では、裁判の判決も「第一印象が9割」なのでしょうか。

ある心理学研究によると、プロの裁判官でさえ、審理のごく早い段階で直感的に有罪・無罪の大枠を決めているといいます。その後に行われる緻密な法律の検証は、最初の直感を正当化するための「後付け」に過ぎないケースが多いというのです。

厳格であるはずの司法の世界ですら、これです。

私たちが日常で「エピソード」や「学歴」といった分かりやすい印象だけで相手を判断してしまうのは、脳の自然な働き——ある種の生存本能と言えるかもしれません。こうした認知の傾向を検証した研究は数多く、キャッチーなタイトルの書籍も市場に溢れています。

しかしここで、逆説的な問いが生まれます。

人の本質を知ることは、そもそも可能なのか。

心理学は長らく「性格」という概念で、人の一貫した本質を捉えようとしてきました。ところが実際の人間は、状況や文脈に応じて行為を適応的に選択します。固定された本質どころか、しなやかに変化し続ける存在なのです。この柔軟な認知こそが、生存戦略としての人間の本来の姿です。

認知科学の視点では、この変化こそが「学習」であり「成長」の実態です。

そして興味深いのは、行為の選択にはその人固有の変化のパターンがあるということ。状況が変わっても繰り返される選び方の癖——それが「習性」であり、その人らしさの本質に最も近いものです。

つまり、印象ではなく、行為選好のこそが、その人の本質を語っています。

私たちが開発した6MoNは、まさにこの「行為選好」を可視化することを目的としています。人を一枚の写真で捉えるのではなく、生きている実像として理解するための問いかけです。



2026年6月12日金曜日

ライトユーザーのAIレビュー

 私は仕事50%ブライベート50%位のライトなAIユーザーであるがそれでも使ってみると主要AIの違いがわかってきたのでお気軽レビューをしてみるヘビーユーザーからしたら的外れかもしれないが多くのユーザーが私みたいに課金で悩むユーザーだろうからそういう人向けのレビューである

chatGPT付き合いはいいが結構付き合い良すぎて嘘をつくAI

gemini何でも出来て物知りだけど物忘れも激しいAI

claude一番信頼出来るが時にウザイAI

それぞれ個性があるのは開発者の設計か設定なのでしょう

クラスメートだとしたらダチ、物知り博士、委員長っていう感じじゃないでしょうか。ここでハッと気づいたのはツールとしての特性を人格的に捉える擬人化が着々と進んでいますね(汗)AIがAIたるのは確率論的アルゴリズムなのに人の様に感じさせるところなのかもしれません。せっかくだからダチと博士にこのクラスメートの絵を描いてもらいましょう絵が描けない委員長には描画用のプロンプトを作ってもらいましょう

委員長は真面目なのでちゃんと2つのプロンプトを作ってくれました。しかも一点だけ補足すると、Geminiは英語プロンプトのほうが画像生成の精度が上がりやすいので英語版にしました。ChatGPTは日本語でも素直に動くので日本語のままです。委員長らしい仕事の分担ですね。と自画自賛も忘れない委員長(笑)

で描いた絵はこんな感じ。なんか似てる?


gemini画伯


チャッピー画伯