2017年10月30日月曜日

対話をする時に相手をピン留めしないこと

僕たちの行動は思っているほど自由ではない。

大体、住まいや職場を中心として80%以上が同じエリアの中を回遊しているのだ。

例えば、昼食やコンビニはその生活圏内で済まされる確率が高い。

だからその人のエリアと行動パターンを把握することはマーケティングを自動化する上で鍵となる。

僕たちは、生活圏だけでなく様々な空間を保持している。

それは具体的な空間だけでなく、抽象的な空間、つまり、何か気になる、何故か気が合うということもある。

無意識のうちにそういった複数の空間を構成しながらその内側を徘徊しているのが僕たちの実態なのかもしれないね。

で、ね。時に僕たちは他者のことを点や線でイメージして決めつけたがる。

住所、電話番号、会社の肩書きなどは人を点で固定する象徴だ。

逆に、住所不定無職のように固定できない人に対して良いイメージを持たない。

固定しないときっと不安になるのだろうね。

だから僕たちは誰かと向き合う、例えば対話を行う時、相手をピン留めすることなく、その人の豊かな空間に想いを馳せるべきだ。


締付を解除せよ









2017年10月29日日曜日

リーダーを選んだ後に向き合うこと

先日、衆議院選挙があった。

僕は、政治には日本の現状、そして未来の姿が反映されてると思う。

では何が反映されているのかといえば課題に向き合う姿勢だ。

不確実で混迷した状況の中で、僕たちは何を課題とし、どう向き合えばう良いのだろうか。

社会経験が少ない若い世代にその矛先が向かうことが多いのだけど、今回の選挙結果に対して分別があるはずの政治家が選挙結果に対してリーダーの責任を追求したのが印象出来だった。

リーダーを選んだのは誰なのだろうか?


さて、こう言った問題は、もちろん政治家だけの話ではない。

就職活動における会社選びもそうだ。

会社のトップとして職に就くのでない限り、会社に属するということは会社を引率するリーダーを選ぶことでもある。

そもそも、多くの人はなぜリーダー選ぶのだろうか。

それは社会という枠組みの中で、自分のためであると同時に自分だけでは果たせない価値を生み出すためでもある。

リーダーを選ぶことは社会における自らのリーダーシップなのだ。

で、ね。リーダーには結果責任があるけど、リーダーを選んだリーダーシップにも社会的責任がある。

責任を負わずに利益のみを享受しようとする姿は社会の価値を毀損する行為だ。

リーダーだけに責任があるような風潮は、ホント、良くない兆候だよね。


 日本



2017年10月28日土曜日

ソーシャルであることと、ソーシャルっぽいことの違い

昨日、地元の神社で参拝の行列に並んでいたとき、個人的にちょっと気になる場面に遭遇した。

約30メートル、およそ50人くらいだっただろうか、一般道に並んだ列の先方から一人の女性が募金を募って近づいて来たのだ。

初めて聞く名前の団体だったけど、テレビでたまに目にする外国で貧しい子供が車列でドライバーに物売りするのとなんだか同じような印象を受けた。

良い活動であるかの如き団体の名称にも違和感があり、その場でスマホを使って調べたら、募金活動をするNPOとのこと、まずは「募金ありき」であることがわかった。

僕が受けた印象はあくまでも個人的なもので、他人の行動についてどう感じるかは人それぞれである。

実際に募金箱にお金を入れている人も居た。

僕は応じなかったけど、そのときふと考えたのはソーシャル、パブリック、プライベートの関係性だった。


NPOはソーシャルな活動をしているらしい。

活動を行ったのはパブリックな場所だ。

そしてプライベートな人たちにアクセスした。


もし僕がNPOの活動に共感があれば、募金に違和感を持たなかっただろう。

実際、少額だけど毎月支援しているNPOもある。

で、ね。僕はソーシャルとプライベートは理解と共感で繋がるものだと思う。

その絆が無い中、パブリックな場所でプリベートにアクセスする行動はソーシャルな活動ではなく、活動と実際が分離したソーシャルっぽい活動だよね。

もっと厳しい言い方をすると「ソーシャル(的)なことは良いことなのだから許されるのだ」という思い違いがあるのではないだろうか。

NPOの人がやるべきことは、募金箱を首からぶら下げずに、活動の趣旨を記したチラシを配り、希望者が足を運ぶ別の場所で募金を受けつけることだった。


先日、「ソーシャルをビジネスにする」ワークシフトについて学ぶ機会があった。

発展途上国の刺繍の技術を世界に広め、立場の底上げを行うというソーシャルなテーマはビジネスのフィロソフィーであってビジネスの全てではない、むしろ、ソーシャルを意識しない顧客の人生の一部となるような服作りをしたいという話に強く共感した。

あたり前の前提をソーシャルであることに変えるけど、ソーシャルであるからと言ってあたり前のことから目を逸らして良いわけではない。

僕は行列から離れようとしないNPOの人を見ながらそんなことを感じていたのだろう。


前には居ないけど後ろに居るよ









2017年10月27日金曜日

強すぎる個性 社会不適応でも社会的価値は莫大 

草間彌生さんの美術館が人気で年内は予約が取れないそうだ。

僕の美術に関する知識は、アート好きの人たちの中でおそらく下から何番目だろうけど草間彌生さんの作品はどんな特徴があるのかぐらいは知っている。

さて、草間さんは強迫神経症や統合失調症の持病があることが知られている。

僕にはご本人が日頃、どう感じられているのかわからないけど、見知らぬ人とはなるべく合わないようにされているそうなので僕のような社会生活を送るには何らかの支障があるのかもしれない。

芸術の世界では社会への適応性と生み出す社会的価値とあまり関係がない。

むしろ、常識的であることよりも異彩を放っている方が価値であることが多い。

草間さんはその典型だね。

一般的に会社では組織という狭い社会への適応と組織行動が求められるので、草間さんにとっては大変居心地の悪い場所になるのではないだろうか。

そして、草間さんとタイプは異なるかもしれないけど、高いビジネスの才能を持ちながら、組織や組織行動への適応性が高くない人がいる。

言っていることはもっとも(というより論理的で的確)だし、行動力もあるのだけど、いかんせん、攻撃性が高く他者を平気で傷つけてしまう。

能力が高いだけに、組織として扱いに困る人たちだ。

さらには成果を出すので、上級職に登用されるケースも少なくなく、当然のようにハラスメントが発生する。

ビジネスシーンで各人は事業の観点で価値を生み出す才能だけではダメで、組織の観点において適応、高い社会性を欠かすことはできない。

ビジネスもそれなりに難しいものだよね。


水玉







2017年10月26日木曜日

性格の光と影 強がりに潜む「弱み」

僕だけに限らず、「性格」について語る時に「強み」「弱み」と表現することがある。

また、「得手」「不得手」とか言ったりする。

その結果、生まれる概念が「適性」だよね。

組織の人材戦略を考える際、構成員の「強み」で編成を行うべきで、「弱み」にフォーカスすることは間違っているから、「適性」は非常に大きな意味を持ってくる。

非戦略型(要するに手数的な)な人材活用では、「性格」よりも指先が器用とか応答が早いと言った「基礎能力」の方が重要だけど、戦略型の人材活用では、複雑な仕事を効率的、効果的に行ううえで「性格」の占めるウエイトが高くなるようだ。

例えば、管理職では問題解決能力が求められるけど、本質探索力、論理力、対人能力などの基礎能力は主体性、前向きさ、安定性など「性格」によってドライブされる。

管理職が他責、消極、衝動的では解決するどころかきっと問題を量産してしまう。

つまり、適性のある人材が適正な能力を発揮することが求められる。

逆にどんなに能力が高くても、管理職の人材が自分本位、興味本位、気分次第では人材戦略に「弱み」を配することになる。

では、「性格」ありきなのか、というとそこでちょっと話が怪しくなってくる。

そもそも「性格」の位置づけは、決定論的生来変わらないもの派と学習成長的変わるもの派、その中間派があり定まらない。

仮に「性格」が変わらないとしても、人は「経験」を通じて新たな能力を獲得するし、能力発揮の仕方も変える。

じゃあ、「性格」から来る「強み」とか「弱み」って何なんだ?

僕が色々な人のインタビューを通じてわかったのは、真の「強み」を語るときは影がなく、「弱み」を語るときはどこかに影がある、ということだ。

「強み」の如く強い光を放っていてもどこかに影がある場合などは、「あるべき姿」や「弱みを見せない」など正面からの輝きではない。

むしろ、「強がり」といった方が適しているだろう。

真の「強み」とは周りの人にとっては環境光みたいなものじゃないかな。


性格の光と影




2017年10月25日水曜日

サカキdeマツワ 京橋界隈ランチ行列の出来る店

会社の近くに2つのランチ行列が出来る店がある。

1つは洋食のレストラン・サカキだ。

このお店、開店前はもちろん、開店後も行列が店の外まで並ぶことが多く、行列が無いことは奇跡に近い。

ハンバーグ、エビフライ、カツカレーなどボリュームたっぷりの洋食王道メニューが並ぶ。

僕が好きな目玉焼きがのっているハンバーグは、妥協のないクオリティでランチプライスがありがたい。

メニューが豊富なので周りの人が何を食べているのかとても気になるし、食べてみたくなるよね。

特定の人気メニューというより、それぞれがお気に入りを食べている感じだ。

もう1つは、ランチがアジフライのみの京ばし松輪という店だ。

松輪のわさびと大根おろしで食べる肉厚のアジフライはサクッとしながらも食べ応え十分、素材のよさと調理の技をランチで手頃に食べられるのは幸せを感じる。

開店前からの行列はもちろん、売り切れごめんなので、空いたら食べよう、は基本なし。

サカキも人気メニューは早々と終わってしまうのでいずれの店でも食べたい人は並ぶしか無い。

会社の近くに名店が2つもある、というのは恵まれた環境だね。

さて、サカキは近所の会社員や常連さんが多い印象であるのに対して、松輪は観光客も散見される。

この2つの店、メニューのコンセプトが「多様性」対「単一性」であるのに対して行列もよく観ると違いがあって「単一性」対「多様性」の様相が伺えて面白い。


もういいかな?




2017年10月24日火曜日

AI時代の足跡 いかに残すか考えよう

今日、僕たちの日常的な行動はなんらかの形で記録されている。

例えば、お得な気がして使っているポイントカード。

コンビニでおにぎり一個買っても個人特定され、ある消費クラスタにグルーピングされるのだ。

ちなみに、僕は基本、コンビニでお弁当類は買わない。

したがって、僕は「コンビニでお菓子は買うけどお昼や飲料を買わない健康が気になる中年男性」に分類されているのではないかな。

一方、たまに行くファミレスでも同じポイントカードを使っているので、「月に2〜3回来店し、ご飯と一緒にビールやワインを飲む中年夫婦」である。

さらに、このポイントカードが使えるカメラ店でもたまにカメラを買うので「メジャーブランドは買わないマイノリティなカメラ趣味を持つ中年男性」でもある。

そしてこのポイントカードと連携しているWEBサービスではきっと「ニュース好きでオークション下手な中年オヤジ」だ。

このような像は間違いなく僕の一面だ。

しかし、このブログを書き溜めているグーグルにおける僕の像は全く異なっているかもしれない。

ブログだけでなく、グーグルフォトに写真もバックアップしているので、「日頃、あれやこれや考え毎日ブログを書き、ワークショップとかに行く犬好きのおっさん」、と言ったところだろうか。


マーケティングで描かれる僕の一面を僕はなんだか好きになれない。

それは僕の知らないところで描かれ、使われる僕のある姿だからだ。

実はその姿はネットワークの中にしかなくて人が観ることはできない。

人が観ることになるのは、自動的にレコメンドされたプロモーションに反応して「ああ、買っちゃった」となる僕の姿だ。

僕はネットワークの中ではなく、実存する人間だから購買履歴やライフログと言った垢観たいなデータが僕であって欲しくない。


学びのために書き始めたブログだけど、リアルな僕の足跡を残す一つの手段になっていることに気づいた朝なのでした。


リアルな足跡




2017年10月23日月曜日

また「かもめ食堂」を観る

僕はあまり日本映画を繰り返し観ることはないのだけど、「かもめ食堂」は好きで何度も観てしまう。

映画の間合いはとても日本的でハリウッドのエンターテーメント作品と全く異なった趣きの、そう、演劇を映画にしたような淡々とした印象だ。

出演者の掛け合いでスーッと場面が流れ、ジョーズの登場みたいな『来るぞ、来るぞ、来るぞ、来たぁ〜』的な過剰な音や音楽の演出もない。

主演は小林聡美さん、片桐はいりさん、もたいまさこさんで、日本の女性が海外で生活しながら食堂を営んで活躍する、まさに、グローバル&女性活躍モデルである。

この3人の個性的な外観と独特なキャラクターは「役」と言うより「素」に近いように思える。

おそらく他の3人、例えば、綾瀬はるかさん、長澤まさみさん、夏帆さん等が主役をやったら全く別の映画になってしまうだろう。

ペルソナでなく、キャラが良い映画の典型かもしれないね。

さて、「かもめ食堂」の良さは、異質性と現場感にある。

見た目も精神性も極めて日本的な3人の女性が外国で活き活きと、そしてしなやかに生きている。

よく考えるとかなり異質な状況だけどフィンランドの民族性と日本の民族性が良いバランスで配合されていて、日常をしっかりと観察した上で描写していることが伺える。

過剰でなく淡々と、ペルソナでなくキャラで活躍する女性、民族性の対峙とほどよい混ぜ合わせの描写。

フィクションの世界とは言えなんだか示唆深い映画なのだ。


かもめ







2017年10月22日日曜日

謎を考えるのは面白い

僕の想像力なんかよりも世界はもっともっと凄い。

そんなこと、言わずもがなだけど、当たり前の日々を過ごしていると知らずのうちに僕の想像力の方が世界を凌駕しているように思っているようだ。

“死の水”にすむ謎の微生物 生きる仕組みは全く不明 日本の研究者が発見

息をして、食べ物からエネルギーを作り出し、いびきをかいて寝て、トイレに行き、恋をする。

これは生命の当たり前、ではないらしい。

呼吸もせず、エネルギーも作り出さないけど行きているとしたら、生命の範囲はうんと広がるだろう。

例えば、僕が今使っているパソコン。

これも呼吸もしないし、エネルギーも作り出さない。

でも、エネルギーを外部から与えれば動き出して僕の求めに応えてくれる。

僕たちの身の回りにあって、僕たちが相棒と認めるものは全て本当は生命なのかもしれない。

例えば、今、地球上の動植物が絶滅したとして、数千年後に、知的存在が地球を訪れ、パソコンに電気を流すとそこにはいろんな情報が表示される。

そこにはこの書き続けているブログもある。

現在のロゼッタ・ストーンは、グーグルやアマゾンなどのストレージに日々蓄積されて行くのだ。

ところで、謎の微生物だけど、DNAがあることが生命であることの証である。

その基準で見れば家犬にはたっぷりあるDNAがパソコンにDNAはない。

残念ながら謎の生物にはなれないようだ。


エアプランツも謎っぽい




2017年10月21日土曜日

日本的現場主義の落とし穴? 現場の視座を高めよう

以前、キャメル・山本さんに日本企業のグローバル化というテーマで話を聞いたことがある。

山本さんが日本的と評したのは、「現場」主義であり、はじめに人ありき、企業特有のスキル、そしてすり合せがその特徴だ。

この日本的が大きな岐路に立っているように思える。

最近、ニュースを賑わしている神戸製鋼がそれだ。

現場を信じ、現場に任せ、現場がイニシアティブをとって仕事を進めた結果だとしたら、山本さんの指摘が裏目に出てしまったケースと言えるのかもしれない。

現場をうまく回すことが会社にとっては利益を最大化する手段であったのに、うまく回すことで事業の基盤である社会からの信頼を損ねてしまう。

良いか悪いかで言えば、悪いのだけど、悪いことが正されずに続いてしまうところに日本的の課題があるのだろう。

では、グローバル的では常に規範的で問題が生じないかと言えばそんなことは全くないのでガバナンスの実現は企業経営における共通の課題ととらえた方が良い。

しかしながら、現場判断が負に働くのはやはり日本的の特徴だ。

日本的であるが故に社会から信頼を得て、日本的であったが故に社会から信用を失おうとしている。

他山の石以て玉を攻むべし。

日本的にとって、現場が現場としてこれからも活躍するためには、現場の成長が最重要課題である。


日本的




2017年10月20日金曜日

「場の力」はどう学びを変えるのだろうか

昨晩のカフェゼミはこれまで僕が参加した場合と雰囲気が違った。

何が違うのかといえば、集う場所と集う人であっただろう。

集ったのは「DNPプラザ」という、天井も高く広々とした綺麗な場所で、いつもより多めの人が集まったがそれでもかなり余裕があった。

設備で言えば、舞台があることが大きな違いだったかもしれない。

やはり壇上からの発信は、受け手に自然と聴く状況を作り出す。

他方、話し手と聞き手が同じ高さに居ると、話し手をよく見ようとすることで聞き手側には主体的に聴く姿勢が芽生えてくる。

聴きやすいのはありがたいけど、見易さへの配慮は相手の無意識の努力を損ねるのかもしれない。

また、人数以上に広いスペースは、小さなコロニーを生み出し小集団化していたようにも感じられた。

参加者全員を動かすことに長岡先生もちょっと苦労されたのではないかな。

集う人で言えば、今回のカフェゼミが丸善雄松堂さんのバックアップを受けた「知と学びの講座」の一環という位置づけだったせいか、オブザーバー風に見える人も居た。

これはいつもと違う。

また、学生に比べて社会人が目立った(気がした)のもいつもと違うと感じた原因かもしれない。

要するに、僕にとっては、仕事関連のセミナーに行くと見かける風景にやや近かったのだ。


では、こういった場の印象の違いが学びにどう影響を与えたのだろうか。

対話を行なったゼミ3年生、中国の大学に留学している学外生、そして今回のカフェゼミを企画したゼミ4年生の話を聞くにそれぞれに確かな学び(気づきとモヤモヤ)が起きていることがわかった。

結局、場の目的と学びがしっかりデザインされ、良質な投げかけと問いかけがあり、主たる参加者が自分事として向き合う限り、雰囲気はたいした問題でないようだ。

逆にいつもと雰囲気の違う場所は、学びの本質に向き合う機会を与えてくれる、そういう事なのだろう。


ステキな椅子

2017年10月19日木曜日

「エシカルはファッション」と「エシカルとファッション」 カフェゼミ@DNPプラザより

今晩は法政大学長岡ゼミのカフェゼミに参加した。

長岡先生、ゼミ生のみなさん、そして参加した社会人のみなさん、いつもありがとうございます。

さて、カフェゼミにはいつも色々な気づきや刺激があるのだけど、今回のテーマは「私たち世代のWORK SHIFT」で、イトバナシの伊達文香さんが「ソーシャルをビジネスにする」とはどう言うことなのか、ご自身の体験をもとに話を聞かせて頂いた。

冒頭で「エシカルファッション」の話が出たが、僕は以前にも「エシカルファッション」に関する講演を聞いたことがある。

エシカルファッションでおしゃれ、クリエイティブなライフスタイルを?

その時は、ソーシャルなテーマを軽く扱っている印象を受けた。

「エシカルファッション」って結局はトレンドワードなのかもしれない、とも考えたものだ。

一方、伊達さんの話は、途上国の職人が持つ素晴らしい刺繍の技術を世界に広めたい、職人の働くコミュニティの底上げをしたいと言うミッションと、お客様の人生の一部になれるような服作りと言うミッションを、社会を変えるシナリオと自分のシナリオを描きながら果たしていこうとしている。

そこには、何を誰にどう届けるのか具体的で、エシカルに内在される「ソーシャルであること」もこだわりを発信するためではなく、自分たちの行動原則としている姿からは軽さは微塵も感じられなかった。

だから、長岡先生の鋭いツッコミにも全く動揺することなく応えられるのだろう。


「ソーシャルをビジネスにする」と言う際に「ビジネス」も多様だから、軽いからダメで具体的なものはOKなのではない。

ファションにおいても、トレンドを重視するビジネススタイルがあれば、ソーシャルを意識したビジネススタイルもある。

このビジネススタイルの違いによって「エシカル」はいかようにも用いられるのだろう。

そして、「ソーシャル」自体、「エシカル」同様、ときにトレンドワードとして用いられているということを気づかせてくれたのが今日のカフェゼミだった。


グラレコ と あっちにルイ





勝手に納得と沸き立つ疑問 どっちがお得か

以前、会社が浅草にあった時、「どうして浅草に会社があるのですか?」という質問をたまに受けた。

会社の事業がおもちゃ問屋であれば、そのような質問は出ないのだろうけど、仕事内容と観光地、浅草というロケーションのミスマッチが問いを起こしたのだろう。

一方、会社が京橋に移ってからは、そのような質問を受けることはなくなった。

逆に、『あ、そうなんだ』的に納得感を持つ人も少なくない。

つまり、仕事内容は浅草的よりも京橋的なのだろう。

僕としては、「浅草」と言った時の相手の反応を観るのが好きだったのだけど、仕事をする上で京橋はこの上なく快適である。

もう浅草に戻りたくはない。

ところで、「学び」という観点に立った時、「そうだよね」という納得よりも「どうして?」という疑問の方が有益だ。

仕事の目的としては、浅草の方が叶っているのかもしれないね。

かつて一緒に仕事をした某有名企業を定年退職した方は、僕が「浅草」と言った時、嫌な顔をして、後から「格好良くないから言わない方がいい」とアドバイスをくれたことがあったけど、やはりその方とは仕事の中で大切にする価値観が異なっていた。

「学び」よりも「品格」を重んじる、そういう方には「納得感」の方が優先されるのだろう。

会社の場所を聞いて相手がどう感じているのかチェックして見るのも面白いよね。



浅草 懐かしい


2017年10月17日火曜日

知識発見と気づき どちらも大事なこと

僕たちは、新しい知識を発見することに忙しい。

最近は何でもデータとして集まるようになったのでデータから宝を探し出すことが大流行りだよね。

そしてデータから何かを作り出せるという、まるで錬金術のような空想を描く人も増えてしまった。

でもデータから探しだせるのはどこまでいってもデータだ。

欲しい宝があるのなら、宝たるデータを作らなくてはならない。

今、機械学習(巷ではAI、人工知能と呼ばれることが多いけど)で一番問題なのはどんなデータを学習させるかであって、機械が錬金術でないことは明らかだよね。

さて、何れにしてもビックデータと宝探しから日々、新しい知識が発見されている。

知識は、誰もがその利益を享受することができるものだ。

その一方で人によって活かせたり、活かせなかったりするものもある。

例えば与えられた知識や、自らの行動を通して得られた経験においても気づきのある人とそうでない人がいる。

なぜならば、気づきには、前提、タイミング、文脈が必要、とてもパーソナルで、しかも偶有性が高いからだ。


知識が皆の行動を導くものだとしたら、気づきはその人のみの行動を変えるチャンスだ。

そして、僕たちには知識も気づきも両方必要なんだよね。


みんなのもの、ぼくのもの






僕の中の孤立集落の活性化について考える

忘れてしまっているようなことをたまに思い出す。

今回思い出したのは、大学生の時のアルバイト経験だ。

詳しい経緯、時期はよく覚えていないのだけど、僕が大学生だったある時期、渋谷東急プラザのスポーツ用品売り場でシューズ類の販売をしたことがあった。

不思議なのは売った記憶が全くないのに、売り場に立っている記憶がなんとなくある。

この記憶に意味があるかと言えば何もない。

唯一、売り場の店員さんに仕事と関係ない話で声を掛けてもらったことが思い出なのだけど、売り場は暇でモチベーションも上がらなかったなぁ。


僕がこの記憶を呼び起こす引き金になったのは、先日、渋谷を訪れた時、東急プラザが跡形も無くなっていたのを見たことかもしれない。

おそらく僕の脳みそのシナプス結合の中で、シューズ販売アルバイトの記憶は孤立集落みたいにネットワークから切り離された部分でひっそりと生きているのだろう。

最近は、犬の写真ばかりになってしまい、あまり日々の写真が撮れていないけど、写真で日常を撮り溜めてパラパラ漫画のように再生すると、本流から切り離された記憶が鮮やかに蘇る。

そこでFBやインスタを考えて見ると今まで以上に日常が撮り溜められていることに気がつく。

それらが記憶を呼び起こす装置であると考えると脳内孤立集落の活性化が進みそうだ。

これからなんだか面白いことになりそうな気がするね。


これも撮り溜め

2017年10月15日日曜日

僕たちの物語り、あなたは「あれ?」という音を聴きましたか?

昔々、あるところで僕たちは物語りを描き始めた。
そして、生涯を閉じる時、その物語りは幕を下ろす。


僕たちが暮らす日々はあまりにも現実的過ぎて時に過酷で時に退屈だ。

そんな日々を思い返すときそこに物語が生まれる。

僕たちが描く僕たちの過去は事実じゃない。

その時に感じた欲求も感覚も思考も身体感覚も全て作り直したモノゴトになる。

ナラティブとは創作なのだ。

でも、この物語りは書き方次第で僕たちに新しい道や力を与えてくれる。

そして、物語りは日々、書き換えられていく。

昨日までの悲劇が喜劇に書き換えられた時、僕たちは大きな気づきと大きな学びを得る。

チャップリンは、「人生はクローズアップで見れば悲劇 ロングショットで見れば喜劇」と言ったけど、クローズアップしか見ていない人に気づきも学びもない。

それこそが悲劇だよね。

学習論で言えば、ロングショット=ダブルループ学習、認知科学ではメタ認知ということになるのだろうけど、シングルループ学習、単純な認知でいる限りそれは悲劇だ。

先日インタビューした人は、この転換を「あれ?」という感覚で表現していた。

それまでのちょっとした被害者意識が自分の問題なのだと気づく瞬間が「あれ?」。

この音が鳴った瞬間、僕たちは物語を書き換える。

生かされている存在から生きている存在へ、悲劇の主人公から喜劇の演出家へと自らの立場を変えて物語りを描き始めるのだ。

あなたは自分の人生を生きていますか?

「あれ?」という声を、音を、聞きましたか?


物語りを書き換えろ!

Rewrite your story!




2017年10月14日土曜日

こうすりゃいいんだ!的なハウツーには気をつけよう

僕には犬と暮らすうえで彼にこうなって欲しいとかこれはやめてくれないかなぁと思うことが少なくない。

家犬はまだ幼いこともあって遊びたい盛り、手や足にじゃれついてくる。

それは可愛いのだけど甘噛みは痛いのだ。

さらに興奮すると、甘噛みは本気噛みになってもっと痛い。

さて、どうしたものかと思案投首するのだけど、このような問題に対して世の中にはたくさんの解決本がある。

あまり、あてにはしていないものの本屋によるとついつい手にとってしまう。

人とはかくも弱いものだよね。

先日手にした本は、漫画が多く用いられていてハウツー本と言うよりは読み物的な、センスの良いものだった。

表紙に犬の写真が配されているようなベタなハウツー本はほとんど手に取らないけど、読み物的なものにはちと心が揺さぶられる。

その本の中には、「犬は予測が苦手だけど記憶力は高い」と書いてあった。

犬は因果主義ではなく事実主義だ、ということだね。

その理屈で、何をすると叱られるのか察することができないけど、手を噛まないと褒められることはしっかり記憶するらしい。

でも家犬の行動を見ていて全て事実主義とも思えない。

彼はもっと柔軟に行動しているようだ。

例えば、手を噛むとケージに入れられる、という事実を記憶しても甘噛みでじゃれついてくる。

その際に、その度合いを測る印象が伝わってくるのだ。

遊びたいというコントロールし難い衝動と、どのぐらいが限界なのだろうかという探索行動が混ざり合って、距離感と反応を常に気にする。

事実主義であれば、このようなしなやかな行動は取れないだろう。

自身の体験や経験しか信頼できない人と同様、経験と結論がワンセットになるとこうなるかも、というイマジネーションが狭くなり、行動は単純化されて融通が効かなくなる。

家犬は、経験と衝動と予測から行動を引き出していて、それは、僕にとって痛い経験になったりするのだけど、予測が苦手で記憶が得意といった単純な行動モデルではないだろう。

「ハウツー」的なものはわかりやすさを追求する反面、簡単な結論を導くことで過剰に曖昧さ排除してしまい、結局、ハウツーになっていないことが多い。

「こうすりゃいいんだ」には気をつけましょう。


がぶ、に気をつけて!









2017年10月13日金曜日

第一世代を越えていけ イノベーションの本編

僕たちが出会うイノベーションとは、ある瞬間の前後というより、連鎖によってそれまでの当たり前が徹底的に塗り替えられていくことであることが多い。

例えば、楽曲の販売。

ずっとレコードがその中心だったけど、CDが登場した。

これがイノベーションの序章だとすると本編は、iPodなどのソリッド化、そして、ネットワークによるDLと物に固定された楽曲というデータが、物から解放されインターネットで流通することだ。

CDが第一世代だとすると、それ以降の第二世代は第一世代と越えた衝撃を起こし、ビジネスモデルを変えてしまった。

さて、この手のことは楽曲販売だけじゃない。

今日、法政大学教授の長岡さんから聞いたのだけど、NPO法人でも第一世代、第二世代があるらしい。

簡単に言うと営利組織の限界に挑んだのがNPOの第一世代だとすると、NPOの限界性に挑むのが第二世代なのだと僕は理解した。

そこには一個人と一組織の関係を越える世界が広がっていくようであった。


CDの例に照らし合わせて考えるに、まずは組織の定義を変え、次に個人の観念を変え、僕たちは本当のイノベーションに出会うのだろうね。

第一世代を担うのも良いけど、それを越える第2世代以降を目指すのはもっと良さそうだ。


復活してました






2017年10月12日木曜日

「変わらない」は疑え 僕たちは止まらない

いやはや、なんとも面白い研究結果が出ている。

後天的に獲得された形質は、次の世代へと遺伝する──「エピジェネティクス」の謎を独科学者らが解明

何が面白いかと言えば、遺伝子は生涯を通じて変わらないという世界観の存在だ。

この世界観は、事象を固定するうえで便利である。

「遺伝だから○○なんだ」的な説明は一見、もっともだからね。

だから、「遺伝子は変わらないものである」という不文律がまかり通ることになる。

でもこういう前提は疑わなくちゃいけない。

不文律があるところには必ず都合がある。

例えば、「遺伝子は変わらない」だから「性格は持って生まれた変わらないものである」とした方がハッピーな人たちが居るのだ。

これから僕たちが向き合うのが遺伝子レベルのダイナミズム(動的変化)であるとなると、ハッピーな人たちがアンハッピーになろうとも、前提を固定に置いている様々な考え方が変わってくるのだろう。


と願う人たちがいるけどね・・・





2017年10月11日水曜日

姿勢の大転換 自称劣等生の色川さんが語る学びのパラダイム

今にして思うと、高校生ぐらいまでの学校というものは、知識を身につけるところというより、物事を教わる癖、物事を覚えるという癖、そういう癖を身につけて行くところなんだろうな。

〜中略〜

ところが、そのあとで、なるべく早い折に、専門課程に進んでからか、あるいは実社会に出てからか、姿勢の大転換をはかる必要がある。

「うらおもて人生録」色川武大 より


僕大学生のアルバイト話を聞くたびに皆、真面目に働いてえらいなぁ、と関心する。

もちろん、働かなくてはならない理由もあるわけで遊びの延長じゃない。

真偽はわからないけど、社員よりも真剣に仕事に向き合っていたという話も聞く。

そこで、色川さんが言うところの大転換をはかるタイミングでのアルバイトについて考えてみた。

僕が仕事をしていて常々思うのは「せねばならぬ」と「したい」の違いだ。

この差は大きい。

まず、「せねばならぬ」で力が出るときが間違いなくある。

使命感であったり責任感であったりするのだろうけど、僕たちが子供の頃に憧れた正義のヒーローが活躍するときは皆、「せねばならぬ」だったよね。

でも正義のヒーローは週一、さらに3分間と、瞬間的に力を発揮する人(?)たちだ。

一方、使命感、責任感を果たし続けるのは困難で、周りを見ていても、息切れを起こしてその人の癖が噴き出してくる。

つまり、「したい」ことを始め「したくない」ことを避けるようになるのだ。

「したい」ことがないと「したくない」ことだらけになる。

一方、「したい」は力が自然と湧き出してくる。高い集中力とモチベーションを持続的に維持することが可能だ。

そして僕には、「せねばならぬ」を身につけて、「したい」に一気に切り替えるのが色川さんの言う大転換ではないか思えた。


さて、最初から「したい」ことをしようとする人(子供の頃の色川さんはそのようであったみたい)はわかり易いけど、「せねばならぬ」を身につけている人がいつ息切れを起こすのか予測するのが難しい。

自分をよくモニタリングしている必要がある。

「せねばならぬ」も「したい」も中途半端が一番よろしくない。

何事も続かない一方で、やりたいこともない状態だからだ。

で、ね。大転換を迎えている大学生のアルバイトは、「せねばならぬ」と「したい」、どっちのモードなのかよく考えるべきじゃないかな。

「せねばならぬ」だけなのに長続きしていたとすると、高い使命感、責任感を伴っていない可能性があってそれでは「せねばならぬ」は身につかないだろう。

「せねばならぬ」で高い使命感、責任感を果たす癖をつけるのか、勉学を通して身につけた癖を活かし、「したい」ことに大転換するのかまさに向き合えるタイミングだからね。

もちろん、選択肢は2つだけじゃないし、答えがあるわけでもないのだけど。


大転換の先にある姿





2017年10月10日火曜日

わかりやすそうでわかりにく「根ざす」こと

僕たちが慣れ親しんでいる多くの植物には「根」がある。

幹や茎、そこから伸びる枝、葉など目に見える部分とは異なり、地中にあって見えない部分だ。

この目に見えない部分の役割は、地中から水分や養分を取り込み枝、葉、茎そして花や種にそれらを送る役目と、植物が風など環境から圧を受けても倒れない物理的な支えとなる役目を担っている。

僕たちは、土壌、根、幹、枝葉、花、果実、種などを日常的な活動の比喩に使うことが多いけど、具体的でないものも多いだろう。

「根ざす」はその一つだと思う。

植物が育つ環境となる土壌に根を張って、活き活きと育っている状況が「根ざす」ことだけど、動き回る動物は「根っこ」を持たない。

そもそも「根」が無いのだから「根ざす」ことは物理的にできない。

僕たちに「根っこ」が生えてしまったら不自由このうえない。

でも、「根ざす」や「根無し草」のように心や活動が定まる(定まらない)状態に「根」を使うのは、僕たちが常に何らかの拠り所を求めているからではないか。

拠り所を持たないことが動物の強みである一方で拠り所を必要とするのは生き物として「生きる」前提なのかもしれない。

思想、信念、信条、家族、友人、仕事、学問、地域等、生きるうえでの拠り所は僕たちを強くしてくれる。

「根ざす」ということは、単なる拠り所だけでなく、そこから生きる力が湧き出してくる所であることも忘れてはならないだろう。


根っこがあったら飛べない



2017年10月9日月曜日

師に出会う、人々と出会う、自分と出会う 大学時代の出会いとは

僕たちが大学生だった頃も、今の大学生達も違わないなぁと感じるのが「出会い」だ。

「出会い」と言ってもその後の人生に大きく影響する「出会い」である。

ではどんな「出会い」があるのか、と言えば大きく三つじゃないだろうか。

1つ目は、「師」との出会い。

「師」とはその後の人生の指針を与えてくれる存在や、能力発揮のパラダイムを変えてくれる指導者だ。

ある大学生は就職し社会人になった後(!)にインターンシップを行なっていたがAとBの選択肢がある時にCの選択肢を選べという「師」の教えが影響を与えていたように思う。

また、高いレベルの能力、スキル、感性などなどに触れることは、指導という枠組みを越えて人を刮目させる。弱小チームの選手が、強豪チームの戦略、戦術に触れる出会いは衝撃を与える。

2つ目は、「人々」との出会い。

生活者の生きる姿や知恵、そしてその場所にある課題などを通じて新しい世界の有り様に触れる。それは、それまで毎日描き続けてきた世界と異なる世界だ。井の中の蛙であることを教えてくれるのは、井の外の生活者である。

フィールドワーク、越境、そして本格的な留学と自らの場所を変えて生活者と出会うことはもはや単なる経験と片付けることはできない。

3つ目は、「自分」との出会い。

何かに打ち込む、自分の弱さや矛盾に向き合う、それによって自分のこれまでといまを知る。そこから生まれるのが、「これからの自分」である。

例えば、スポーツに打ち込んでいたけど怪我をして挫折する、そして、自分のためではなく、チームメートやサークルのメンバーのために力を尽くすことを決めることがこれに当たる。

新しいこれからに目を向け、歩を進めるうえで、「これまで」と「いま」を欠かすことができない。

で、ね。全てに出会う必要もないけど、1つは出会いたいね。


自然との出会い


2017年10月8日日曜日

行き違う思いと結果 ああ、残念なお店

僕が家人と休日のランチによく行く韓国料理店がある。

大きな商業施設内のお店なのだけど、どちらかというとオフィス街の立地で休日はそれほど混んでおらずゆっくりできる「ちゃんとした」ところがお気に入りだ。

バチジミが美味しく、石焼ビビンバのランチセットを生ビールと一緒に頂くのがこのところの定番である。

さて、今日、店に行ったところ最初からちょっと残念だったことがあった。

以前は、二人で行って、何も言わず四人席に案内してくれたのに、今回はお願いしても二人席にしか通してくれなかった。

店は大概空いていて四人席が埋まることはこれまでなかったし、今日もそうだった。

そして二人席は狭いだけじゃ無く、天井も低くて僕にはあまりリラックスできる空間じゃない。

とは言っても、客をどの席に通すかは店の判断なので仕方がない。

次に、いつもの通りのオーダーをと思ったら、ランチ向けセットメニューのみとなり、その中から石焼ビビンバとバチジミのセットは無くなっていた。

また、これまでは箸やスプーンが一人分づつセットされたけど、今日は、プラスチックのトレーに最初から入っている、ファミレスのような方式変わっていることにも気がついた。

満席を想定した誘導、メニューの削減、セットアップの簡略化、これらのことを鑑みるに、顧客の回転をあげて利益を出す方針を強化したようだ。


で、ね。結果、僕たちの満足度は下がり、お勘定した金額は減っていたし、お店を出るときはガラガラだった。

こういうことって少なくないように思う。

経営戦略でオペレーションを変え、結果、顧客が離れ、単価も下がる。

某ハンバーガーチェーンでもかつて同じような出来事があったように記憶している。

ではなぜこのようなことが起こるのといえば、顧客の感性を二の次にした戦略とオペレーションに尽きるだろう。

お店にとって都合よく顧客を扱おうとした瞬間、顧客は離反する。

そんなに都合よく顧客は理解してくれない。


ところで自宅近くのファミレスは、ファミレスでありながら効率よりも顧客の印象を大切にしているらしい。

例えば、順番待ちの客は平等に扱い、順番で一人あっても四人席に通される。

店の都合よりも顧客が優先されている印象は、案外そんなところから伝わるものだ。


経営戦略で最適化すべきものは何?

2017年10月7日土曜日

5つの異なるテーマのインクルージョンもしくはインテグレーション

今日のブログで書きたいテーマが5つある。

そんな日は珍しい。

1つ目は犬との暮らし
2つ目は「生きる」こと
3つ目は「対話」について 
4つ目は呆れた外国人観光客
5つ目はマインドシェア

明日以降のテーマにしようかとも思ったけど、えーい、全部書いてみる。

犬との暮らしは、糸井重里さんが愛犬ブイヨンと添い寝していることに思いだしたことだ。先代犬は高齢となり、夜中、不規則にトイレに行くようになると寝ている側にトコトコ来た。冬だったのでコートを着せて抱えて外に連れ出すのだけど自分の寝ている側に来ることがこの上なく愛おしかった。生き物が攻撃ではなくて自らにすり寄って来る姿に多くの人が好意を抱くけどそこにはやはり絆が感じられるよね。

「生きる」、はランチを食べたCafe Katyに備えている「生きる わたしたちの思い」という谷川俊太郎さんの本に言葉として記されたものだ。「生きる」言葉と、言葉は「生きる」こと。本には当然ながら色々な言葉が綴られていたけれど、表紙に記された「生きる」を超えるものはないと僕は思った。それ以外の言葉は「生きる」を飾り立てるものでしかないのだ。もちろんそれは言葉だけではない。

さて、昨晩参加できなかった自画持参、がちゃトークのテーマは「対話」だったそうだ。僕が「対話」的であると感じるはテレビのチャンネル決め場面である。僕はそっちが観たい、でも君はこれが観たい、じゃあ、これを観よう、みたいに選択肢を広げることで、それによって新たな番組に出会う機会を得ることだ。どちらかが一方的な自己主張をすると出会いの機会は無くなる。いいよ、自分は観ないから、と妥協することでもない。そのためには、選択肢が広がることは良いことなのだという信念と寛容さを持つことが重要だよね。

ところで、Katyでランチを食べている時、二人して高級カメラをぶら下げた欧米系外国人のカップルが入店して来た。おそらく観光客だろう。入店後、すぐにトイレに行った女性が席に戻ると、驚いたことにそのまま出て行ってしまった。トイレを使いたかっただけなのだ。お店は公共施設ではないし、日本社会の規範に沿っていない嫌な出来事だ。しかも出て行くときに「Thank you」の一言もない。旅行なのだとしたら、現地の人と触れ合うことのできない旅行をする人って心が貧しく感じられるし居住者だとしたら言語道断だね。

そして、僕たちは日常生活を仕事、家事、余暇など配分にしているけど、それが心の中にある想い、マインドシェアと一致しているとは限らない。この不一致は、欲求不満に繋がり思わぬところでイライラしたり落ち込んだりしてしまう。例えば、ある一人の女性が担う3つの役割、妻として、共同事業者として、個人として使っている時間と本当に大切にしたいこととの間にズレがある(やりたいことがあるのに他のことで時間が取れない)場合、その感情に蓋をしないほうがいい。

で、ね。以上の全てをまとめると「生きる」こととは言葉が無くとも誰かに寄り添い寄り添われ、我慢ではない対話を通じて他者と触れ合い信頼と選択肢を増やして行くことなんだよね。


まとまった!




機械(あえてAIとは言わない)が見る夢とは

僕はAI(artificial intelligence)にずっと興味を持っている。

だって、知能が「人が与えられたもの」でなく「人が作り出すもの」へと劇的にパラダイムが変わるのだもの。

AIのIQが40000とかになったら、俺の方が頭がいいぞ、みたいな人間の小さい丈比べは世の中から無くなるかもしれない。

ところで、AIとMLは絶対に違う。

文字を眺めたって違う。

MLとはMachine Learning、機械学習のことだ。

MLの本質は、データセンターと膨大な電力消費である。

つまり膨大なデータを一箇所に集めて、CPUやGPUと言った演算装置に読み込ませたアルゴリズムを膨大な電力を24時間注ぎ込みながら回し続け計算結果を出力するわけだ。

回し続ける中で少しづつ計算結果の精度が上がる、と言われるので、機械学習と呼ばれるのだけど、実はそんなに単純じゃなくて精度が全く出ないことも少なくない。

この精度を上げるためにエンジニアが様々な試行錯誤を行うわけだ。

こうしたら精度が上がった的な偶然性に支えられているテクノロジーなのである。

要するにMLは「計算」であって、「知能」ではないのだ。

さて、僕たちは「夢」を見る。

なぜ夢の見るのかは諸説あるけど、身体の伴わない情報処理だと考えると、MLはまさに僕たちが見る夢に似ているのかもしれない。

現実世界での経験(インプットデータ)を寝ている間に脳(CPU、GPU)が勝手に処理(アルゴリズム)して出力(計算結果)する。

要するに、MLは機械がずっと夢を見続けている状態とも言い換えられるだろう。

夢は「なぜ」がわからないけど、MLも「なぜ」がわからないと言った共通点もある。

ほら、MLは「夢」だと思えてきたのではないだろうか。


そして僕たちは機械の見る夢に、夢見ている。

それを現実だと思わない方がいい。(たぶん)

 
ゆめみてまつ


2017年10月6日金曜日

「気になる」時は一歩踏み込んでみよう

僕の住んでいる街には、いつもランチに行列ができる店がある。

もう慣れてしまって、単なる景色になってしまったけど、「行列がある」ことは多くの人の興味・関心を惹くよね。

たまに行列が出来ていなかったりしてすんなり入店できてしまった時は、なんだかとても得をした気分になるものだ。

僕たちは行列から行動を引き出すのだけど、行列だけでなく、人が集まっているだけでも心理的に影響を受ける。

笑ったり、泣いたり、言い争っていたりいたら尚更である。

逆に考えれば、人が集まっているのは特異な状況とも言えるだろう。

さて、今日から自画持参は貸切でなく、オープンに開催されることになったようだ。

これまでも貸切ではあったけど、予約なし、参加自由だったので僕みたいな常連にとっては小さな変化かもしれない。

一方、店に居て参加しない人にとっては、自画持参に集う人や対話を気にする時間になるのだろう。

自画持参が集いの輪の外にいる人の目にどんな特異さを映しだすのか気になるなぁ。


行列乗車しよう


2017年10月5日木曜日

事実の先に「問い」を起こす力を

「あなたは行動力が低いようです。」

(質問)この文に続くのは以下のA)B)どちらでしょうか?

A)だから、常に勇気を持って一歩踏み出す意識を持ちましょう。
B)さて、それを知ってあなたはどうしますか?


ある会社の人材育成担当者と話をしていた時、「だから○○」が欲しいと言う話になった。

診断と処方を組み合わせて提示することだね。


AであればBをする。

こういった自動的な思考は合理的に思える。

余計なことを考えなくて済むからだ。

朝起きたら歯を磨く、8時になったら会社に向かう、風邪を引いたら医者にいく、医者が処方箋を書いたら薬を飲む、と僕たちは多くの行動を自動化、習慣化している。

さて、冒頭の話だけど、能力を高めるために何をするのか、の前に、なぜ能力を高めるのか、「問い」を起こすことは自分を知るチャンスだ。

処方もいいけど、何事でも「問い」を起こすことは大切だと思う。

なぜなら、選択肢が広がるからね。


こっち







2017年10月3日火曜日

で、結局多様性について考えている

”私たちが個人としての知識人を考えるとき、個人としての知識人の肖像を描くべきなのだろうか、それとも、その知識人が属している集団なり階級に焦点を絞るべきなのだろうか”(「知識人とは何か」エドワード・W・サイード P115)

パーソナリティとは個人の肖像だよね。

したがって、パーソナリティに焦点を合わせるときの対象は常に個人だ。

しかし、会社組織ではパーソナリティを置き去りにして集団や階級が語られることが少なくないと感じる。

「うちの会社は」とか「あの上司が」「最近の若手は」といった類の話がそれである。

なぜそうなるのか、と言えば、その立場・役割、属性が言葉、行為行動に大きく影響を与えているからだ。

心理学の実験で有名な「スタンフォード監獄実験」では、与えられた役割に応じて、暴力性や非個人化が起きることが確認されているけど、どのような会社にも管理職になって態度が変わる人はいるんじゃないかな。

会社じゃなく、大学のサークルや部活でもきっとあるよね。

僕もかつて大学の同好会で「昨日まで同じことで文句を言っていたのに今日はそれを言うの?」と感じたことがあった。

それに従う人も入れば、僕みたいに反発してしまう人も居る。

さて、たとえ暴力性が無いとしても、マネジャーが会社の目標、方針やルールをメンバーに伝える行為は、個人的ではなく、個人が属する集団や階級のものである色彩が強い。

中には「俺だって本当はこんなこと言いたく無いんだけどさぁ」とかぼやく上司もいるだろう。

「多様性」を「多くの違いが内在している状態」と考えると、会社組織にはパーソナリティの多様性だけでなく、仕事、役割の多様性もある。

そう言った違いが価値を生む源泉でもあるのだけど服従・従属、相互不信による反発・敵対と面倒臭い状況を生む原因となる。

価値を生めるのは、違うもの同士にお互いの違いを乗り越えようとする意思があるときだけだ。

僕は人に焦点を合わせるときは極力、個人に焦点を合わせるようにしているつもりだけど、相手が個人でなく集団や階級に争点を合わせていることを知るたびに悲しい気持ちになる。

そして、それは僕がデザインの力でインクルーシブしたいことだ。


焦点




2017年10月2日月曜日

気がついたら1700日続いたこと

僕がブログを毎日書き始めるようになって昨日が1700日目だった。

毎日、といっても翌日に書いている締め後も結構な量があるので「毎日続いた」のかは疑わしい。

毎日続くとなんだかすごいことに思えるけど、食事をして寝ることを考えれば、大したことではないだろう。

さて、この1700日を振り返ってみて良かったことは、健康に過ごせたことである。

PCを開けないほどの状態に陥ることはなかった。

インフルエンザに罹患することもなかった。

これはとてもありがたいことだ。

あと、1700日の中には素晴らしい経験がいくつかあった。

何を書こうか悩む日が多いのだけど、書きたくて仕方がない日もある。

何かに気づいたり、問いが深まったり、面白いことを発見したり経験したりすると、それは、書かずにいられない。

一方、書きたいことを書いてしまって、振り返って反省することもある。

結局、書くことも生きることの一部だ。

生きるよりも努力が必要なことがあるけど、生きている上で感じ考えた以上のことを書くことはできない。

1700日を過ぎてみてそんなことを思う。


ギョッ!

2017年10月1日日曜日

いつも一緒にいるけど一緒じゃないもの、なぁ〜んだ

脳と身体の関係は不思議だ。

脳だけでも身体だけでも存在できないのに、時に脳が中心であったり、身体が中心であったりしたがる。

例えば「病気だから会社に行けない」と「行く気がしないから会社に行かない」は結果から見れば同じことだけど、前者では身体に原因が、後者では脳に原因があると考えてしまう。

「音がしたら振り向く」のは無意識に身体が反応することだけど「名前を呼ばれて振り向く」のは意識して身体を動したと思う。

でも、音に身体が反応するのは同じだ。

何が言いたいのかといえば、僕は、思考、感情、欲求と言った外から見えにくい潜在的な意識と、無意識の行動傾向の境目なんて結局無いのだろうと言うこと。

無意識のうちに素晴らしい行動をとることもあれば、意識がどんなに高くても行動が伴わないこともある。

意識が変われば行動が変わる、と言うのは脳中心の考え方で、無意識の素晴らしい行動を説明できない。

逆に病気だから仕事ができない、と言うのは身体中心の考え方で、重い病気と向き合いながら仕事を続ける人を説明できない。

もちろん、両者ともに説明のつくこ時も少なからずある。

結局、身体は脳と、脳は身体と共にありながらも共にないことを「知らないと」いけないのだと思う。


10月ですよー