2018年6月30日土曜日

変化ノシカタ

僕たちは日々変化する存在だ。

それは1秒後の変化であったり、1年後の変化であったり、100年後の変化であったりする。

もう少し言い換えると、即時的な変化、代謝的な変化、そして世代的な変化だよね。

急に態度や行動が変わる場合、直接的な原因があるだろう。

徐々に変わる場合は、環境からの影響が大きい。

世代的な変化は、もう人生としか言いようがない。

そして、この3種類の変化は同時に起きている。

変わるなと言ったって変わってしまう、それが僕たちなのだ。

僕たちに起こる変化は、「成長」と呼ばれたり「老化」と呼ばれたりと様々だけど、変化は起こるだけでなく、自ら変化を起こす自律性を持っている。

誰もが持っているその自律性は、環境の変化に応答する形で相互に同調、干渉しながら自身のあり方に変化を及ぼしているのだろう。

3つの変化と自律性と応答性。

一見、変化は複雑だけど、原理は案外シンプルなのかもしれないよね。


世代的、代謝的、即時的、そして自律的、応答的 な変化の例

それは「基礎」なの? なんでも「基礎」にしてまう。のね。

人のやることには何事にも「基礎」がある。

そして、僕が「基礎」と考えるのは、

  1. それがないと始まらない
  2. 備わっているのでなく獲得するもの
  3. 全ての人に通じ、その後の全てに通じる
  4. それだけでは事を成すことは出来ない

と言うものだ。

例えば、仕事で言えば、

  1. 平日の毎朝、ちゃんと起きて出社する
  2. 学生時代には持っていない習慣を身につける
  3. 定時に始め、逃げずに向き合い、しっかり終わらせる
  4. 会社に居るだけで給料が貰えるわけではない
となるのでしょう。


一方で、基礎と勘違いされやすいのが行動規範とかの「あるべき」ものだね。

  • 良いコミュニケーションを行う
  • 謙虚に学び、とことん考え抜く
  • 迅速に行動する
  • 常に挑戦する姿勢
などなど、仕事をするうえで心がけるべき事というのは、基礎ではなく実は、仕事の中で達成されるものだ。

そして、それらの具体物が成果であって会社や社会に貢献した証となる。

つまり、
  1. 必ず結果とセットである
  2. 獲得する習慣でなく成果の行動面を見たもの
  3. 場面や状況、役割や機会など偶然性、固有性に左右される
  4. 行動だけ真似ても成果をだすことは出来ない
という類のものだ。

僕がこの観点で大学でよく言われる「社会人基礎力」を考えると、それは明らかに「基礎」じゃない。

「前に踏み出す力」、「考え抜く力」、「チームで働く力」というのは、成果を出すための活動の中で点検するもので、状況的、実践的、そして結果的なものではないのかな。(だからあえて「力」とは言いません)

仕事をしている人たちの雑談や対話で出てくる「あるある」だよね。

しかも成果の行動側面だからポータブルスキルとしてよりパーソナリティ特性での方が予測しやすい。

いっそうのこと、「社会人あるある話」に変えてみたらどうかな。


この方も「基礎」ですか?



2018年6月29日金曜日

W杯を「ゲーム理論」的に考えてみる

サッカーワールドカップで日本代表が見せた一次予選最終の試合運びがとても興味深かった。

そこで、日本が決勝トーナメントに進出するためにもう一つの試合結果を踏まえてどういう選択を取るのか「ゲーム理論」的に考えてみよう。

サッカーの試合では対戦チームの間に協力関係はない。

だから非協力ゲームだ。

そして、日本とポーランドはお互いに後半の残り時間を攻めあわないという戦略を取った。

均衡状態になったのだ。

なぜ、戦い合う同士にこのような協力関係が出来たのだろうか。

戦略の大きな要因になったのが、暑さによる疲労ではないかと思う。

暑さの中で運動量を増やすことによる負けリスクが均衡を生み出した。

これ以上無理をせず現状のまま試合を終えることで相互の利得が最大化されるため、お互いに攻め合わない戦略が選ばれたのかもしれないね。


キープ



2018年6月28日木曜日

人を理解するのは難しいなぁ

僕はこの頃会社でシステムに関わる実務も行なっている。

システムの専門家ではないけど、それなりに経験はあるから役立つこともあるようだ。

さて、僕はいま古いものを整理しているのだけど、以前のシステム担当者の仕事振りに接してかなり感動している。

数年後のことを考えてしっかり、きっちり片付けられているので、整理がとてもしやすいのだ。

そういう仕事ってなかなかできることではないよね。

かつてテレビで数奇屋大工、升田志郎さんの話を見たことがあるけど、全ての仕上がりに関係していくところを極めるのが理想の棟梁であるそうだ。

そんな話を思い起こさせるくらい、手抜きのない仕事なのだなぁ。


その彼もだいぶ前に会社を去っていった。

そして彼の仕事は残った。


職人とは素晴らしい技術と細部にもこだわる細やかさを兼ね備えている。

一方で、気難しいところもあって「なあなあ」は通じない。

言葉では理解出来ても、本当の思いや気持ちは理解出来ていないのだろう。

素晴らしい仕事をしているからといっても素晴らしい関係が築けているわけではない、ということだ。


チガウイキモノ?


2018年6月27日水曜日

AI時代のプロフェッショナル

僕たちが書く字には綺麗な字、汚い字の違いがはっきりとある。

それは綺麗と感じるか否かといった、個人の感じ方の違いだけでなく、誰にとっても読み易い、読み難いの記号としての識別性も大きく関わっている。

すでに人間よりも高い画像識別能力を持つに至った機械学習は、恐らく僕が一生かかって出会う様々な字よりもはるかに多くの字を学んでいるのだろう。

なんでそんなに多くの字を学べるのかと言えば、コンピュータが学ぶために人がせっせと集めた字のデータを休みなく学んでいるからだよね。

コンピュータの強みは疲れたり残業を嫌がったりしないことだ。

その学習量を考えれば、人間よりも識別率が高いのは当たり前に思えるね。

人間でも真面目で勤勉な人はたくさん学びとることができるけど、コンピュータはうんと真面目でうんと勤勉だもの。

僕たちがプロフェッショナルになるための条件には、これまでは間違いなくこの真面目で勤勉であることがあったけど、真面目、勤勉さでコンピュータにかなわないとなるとプロフェッショナルの条件は、より少ない情報で何かをアウトプットすることになるのかもしれない。

何も学んでいないのに全てを知っている人、みたいな感じかな。

でもひょっとしたらそういう人のことを僕たちは胡散臭いと思うのかもしれない。


幕開け




2018年6月26日火曜日

「場所」の多義性と「学び」のポジティブ志向は取扱注意

場づくりとかサードプレイスなど、「場所」という言葉は組織、学びに置いて重要な意味を持っている。

僕が「場所」というと、清水博著「生命と場所―創造する生命の原理」を論拠としているのだけど、組織、学びにおける「場所」はもっと幅広く用いられているように思える。

複雑系で「場」において解を生み出す条件が「場所」であるするのに対し、組織、学びにおける「場所」は、共同体的、共創の行為も指しているからである。

「生命と場所」より抜粋
「場所」は解の可能性を限定する拘束条件を生成するものである
関係子の集まりとしての生物が「場所」の状況と整合的になるように自分で自分の状態を決めている以上、生物のなかにも「場所」(内部場所)が存在していると結論しないわけには行かない(私は内部場所のことを「場」と呼んでいる)

創造的問題解決を解を生み出す拘束条件だとすれば、それでも同意と言えるかもしれないけど創造的な解決を拘束条件と捉えるのは僕的にはよろしいものの、ちょっと無理がある気もする。

なんだか難しくなっているけど、要するに「場所」という言葉には多義性があって、その中でも「学び」ではめっちゃポジティブに使われているなぁ、ということなのだ。

ポジティブネスは下手をすると信じるものとなりがちだから僕たちは「学び」ありきにならないよう気をつけたほうがよいかもしない。


エビチリ万歳!












2018年6月25日月曜日

コミュニケーションの前に必要な事

僕たちは高度な社会性を備えている。

言い換えれば欲求や気持ちや考えを交換しながら生存に最適な行動を選択しているのだとも言えるよね。

そして他の人の情報を入手するために意味を見つける。

意味とは自らの経験に引き当てるための翻訳かもしれない。

だから経験の多さとは、意味を見つける資源なのであり、情報を入手する能力なのだ。

僕たちは、コミュニケーションを通じて情報を得ていると考えるけど、本当にそうなのじか僕には疑問です。

僕たちが得ている最も大切な情報は、経験を通じて翻訳された「意味」なのかもしれないよ。


例えば、元NBAプレイヤー、マグジー・ボーグスさんは基礎練習の徹底と承認を通じて中学生にマインドセットを行う

誰にでもできる基礎練習とその承認を通じて自信を持つ「経験」が、やる気を失い脱落しかけた中学生にチームプレイという高度な社会性の発揮に駆り立てたとも言えるのだよ。

顧問の先生は「プレー中にコミュニケーションが足りない!」と叱り続けたのと好対照だけど、問題はコミュニケーションの多さではなかったわけだね。


経験を積むためにはマインドセットが要ることも多々あるけれど、そもそもマインドセットは基本的な経験で培われ育まれるのかもしれない。

だから、コミュニケーションを取る前に経験と体感を増やしてはどうだろう。


まずはたくさん生きる



2018年6月23日土曜日

「次世代リーダーの育成」は開拓型リーダーの課題からきている

マーケットを自分たちの力で開拓してきたリーダーが、次の世代が育っていないことを嘆くことが少なくない。

これは、大企業でも、町工場でも、飲食店でも同じだよね。

マーケットを開拓するリーダーの特徴は、

  1. 鋭い勘で固有の価値を見出す
  2. 自ら動いて閉塞を打開する
  3. 詳細に見た事実を信頼する
  4. 言葉としてよりも結果としてしんねん
と言ったあたりではないだろうか。

一方、メンバーに対しては、任せるよりやらせる(使う)、手や口を出す、疑いようのない事実を求める、厳しいフィードバックが得意などの行動傾向も持っている。

これらは、リーダーの特徴が対メンバーにおいて表出するものだよね。

だから、任せて自分事にさせる、「傾聴」を身につける、1on1で向かい合う、コーチングやフィードバックの方法を身につけるなどの育成手法が盛んに取り上げられるのでしょう。

で、ね。やはり次世代の成長に目を向けられない事はリーダーとして視座が低いよね。

次世代に物足りなさを感じ、なぜ次の世代が育ってこないのかと問う前に次世代育成の為に自分の在り様をどう変えるか考えなくちゃね。


方法の習得より自らの方針を変えること



ランチ弁当の差額が暴く飲食店の愉しみ

会社近くの飲食店には、店内で食べるだけでなく、お弁当を売っている店もある。

コンビニのお弁当と違って出来立てで保存料などのは入っていないお弁当は魅力的だ。

さて、それらの店では、店で食べると900円のメニューがお弁当だと670円であったり、880円が500円であったりと、当たり前かもしれないけどお弁当の方が安い。

この差額って何だろうとふと思った。

900円が670円だと230円安いし、880円が500円だと380円も安いのだ。

お店で食べるのとお弁当だと、やはり全体的にお弁当の方がつけあわせや量が少ないし、お茶やお水もお弁当では無いよね。

つまり、シンプルで接客サービス無しの分が安くなっているということなのだろう。

僕にとって見れば、お店で食べるときは、
1.店でゆっくり食べる時間がある
2.お弁当を食べる場所がない
3.誰かと一緒に食べる
といった場合が多くなるのだけど、どうやらお店という「場」の使い方とお弁当の間には強い関係がありそうだね。

ランチに限らず、僕たちが外食をするときは、味はもちろんだけど、「場」を愉しむ要素が少なくない。

そして「場」を愉しむために「場所代」を払い、時間をかけてサービスを受けているのだとも言える。

一方、お店側はどう考えているのだろうか?

ランチでは効率よく客を入れて売り上げをあげようとして、詰め込まれ、さらにゆっくり食べていると食べ終わった食器ををどんどん下げていくことが珍しくない。

そこに「場」を愉しむ要素は無い。

結局、お店で食べる時って、「場を愉しむ」のでなく、「仕方なくそこで食べる」のだ。

だから、お弁当で済んでしまう。

お弁当の値段はコンビニなどとの競争で決まってくるのかもしれないけど、差額を意味を考えていたら飲食店には料理を食べる「場」ではなく、料理を愉しむ「場」作りをして欲しいと思っていることがわかったのだ。


食べる「もの」と「場」は違う





2018年6月22日金曜日

漂う人は能力を発揮したい、スキルを活かしたいと思う

仕事に向き合うモチベーションは人それぞれだ。

でも何によってモチベーションが上がるのかを知ることによって、その人の組織へのコミットメントはおおよそ想定できる。

例えば、自分の能力を活かして働きたいとか、スキルを身につけたいと言う動機を持つ人は、自らが社会で成すべきことを実現したいと言う動機が弱い。

それは、損得で仕事観が構成されるからだよね。

自分の使命と自覚しときは、出来ないことや失敗は乗り越える対象だけど、自覚がなければ、避ける対象となる。

結果、転職、キャリアチェンジなどへ至る。

社会的目的は一旦定めるとなかなかぶれることは無いけど、個人にとっての目標となると、だと、それはとても変わり易い」ってことなのだと思う。


おやすみ



2018年6月21日木曜日

マインドセットを形成するための基礎は何?

デザインではなくドリフト、そしてキャリアミスト状態の漂い型キャリア状態にあるビジネスパーソンは、自発的離職意向が強く、組織に対するコミットメントは功利的なのだそうだ。

この組織で働くことにやりがいを持つよりも、自分のスキルが活かせる、職場環境や研修が整っていることが気になる人は、おそらくこんな漂い型なのだろうね。

じゃあ、なんでそうなるのかと言うと、僕はマインドセットの不足が問題じゃないかと思う。

その場での自信や安心が無いことで、置かれた環境にも馴染めず、自分探しと場所探しをする、だからちょっとしたきっかけで離職する。

そもそも組織に対する思いが薄いので、不安感や他責のネガティブなメンタリティを周囲に伝播させるのも特徴だ。

さて、ちゃんとしたマインドセットを持つ為には、自信と安心が必要だけどそれらを培うのはしっかりとした基礎の確立と手応えだよね。

いきなり実戦で成果や結果を出そうとすれば、失敗し、自信を無くし不安になること間違いない。

ここで本題なのだけど、基礎って場によって異なるものだ。

だからマインドセットを形成させるにはその場における基礎が何なのかわかっていなくてはならない。

でもナレッジワークの場において多くの場合、場における基礎は共通言語化されておらず無手勝流だと思うよ。


飲み屋でのマインドセットは酒かも




2018年6月20日水曜日

大迫半端ないって

サッカーワールドカップで活躍している大迫選手に関して、高校時代のエピソードがブームになっている。

高校時代からそれだけ注目されて、そして今、まさに活躍できるということは本当に素晴らしい才能の証と鍛錬の賜物なのだろう。

そして、対戦した相手チームから讃えられるということは、肌感覚でその力を実感したことにちがいないよね。

先日、ある方のインタビューを行ったのだけど、その方も高校時代にかなり有望視された選手だったそうだ。

ところが、体がの大きさと運動神経の良さだけでは通用しなくなり、競技から逃げてしまったこともあったらしい。

その後、ゲームを行う上での戦術、戦略の指導を受け、なぜ、自分が通用しなくなったのかとてもよくわかった。

つまり、体力ではなく、知力が足りていなかったことに気づいたのだ。

力の差がそのまま群の中での階級になる猿は、力の弱い者は餌を獲得する為に「我慢」と「チャンスを活かす」力が発達するらしいけど、力のある者がしばしば間違いを犯す際に、自らの足りていないことへの鈍感さがあるのでしょう。


強い気づきは人生の宝物だよね。


半端ないって


2018年6月19日火曜日

僕と世界の「作用」「反作用」

僕たちは常に世界に「作用」している。

そして、常に世界は僕たちに「反作用」している。

足で大地を踏むのは「作用」で、大地の「反作用」で歩くいているのだ。

僕が居るのは「作用」で、あなたが居るのは「反作用」。

「作用」と「反作用」から学ぶのだから「作用」だけではちょっと足りないよね。

僕しか居ないのが寂しく感じられるのは、きっと「反作用」が少ないことへの生き物的危機感の表れなのだろう。

あるSF映画では他の星に移住する途中でたった一人、目が覚めてしまった主人公が寂しさのあまり冬眠中の人を起こしてしまうのだけど、それはとてもよくわかる話だ。

中には一人の方が気楽な人もいるけど、今日のテーマは「作用」「反作用」という経験についてであり、さらに「反作用」は人に限ったことではない。

食べ物だって「反作用」だよね。

さて、「作用」「反作用」というとなんだかこっちとそっちみたいに線やら溝があるみたいだけど、本当にそうなのかというとちょっと疑問があるのだ。

僕たちの五感は、僕でないものを感じることができるけど、そもそも僕は世界の一部なのだから感覚とは結局、僕が僕を知る方法なのではないかな。

で、ね。「作用」「反作用」とは僕の輪郭をはっきりさせるための思考実験だね。


作用・反作用?




2018年6月17日日曜日

慣性と惰性と鍛錬 こっちが正解

千日回峰行は、厳しい修行を千日続ける(正確には975日らしい)。

もし途中で続かなくなったら自害する決まりらしい。

とても慣性や惰性でできる修行ではないよね。

修行と鍛錬を一緒にしてはいけないのだろうけど、基本的に鍛えるという行為と習慣には大きな違いがあると思う。

慣性とか惰性の特徴は省エネであるのに対して、鍛錬はエネルギーをひたすら注ぎ続けることだ。

逆に言えば、とにかくエネルギーを注ぎ続けていれば、それは鍛錬だとも言えるだろう。

そしてエネルギーを注いでいなければ慣性であり惰性だ。

もちろん、その時注げるエネルギーって違っているから、自分が頑張って注いでいると思えれば、それは鍛錬だよね。

誰かに足りないと言われる話じゃないのだ。

で、ね。千日回峰行ほどではないけど、要は自分に嘘をつかなければ慣性や惰性と鍛錬はわかるものだってことだよね。


頑張って走ります



関西と土星と鍛錬

千日回峰行という修行がある。

この修行、Wikipediaで見ると、「実際に歩くのは「975日」で、残りの「25日」は「一生をかけて修行しなさい」という意味」なのだそうだ。

さて、僕のブログは1959日連続している。

千日回峰行になぞらえれば、1950日で終わって良かったのかもしれない。

だって、一生修行だものね。

そんなことを考えながらの今日のブログなのだけど、忘れないようにSiriにメモを取った。

「慣性と惰性と鍛錬」と言ったのだけど、Siriは「関西と土星と鍛錬」とメモした。

確かに最近は連日の大阪日帰り出張など、関西づいているし、僕の九星は二黒土星だから強ち無意味な訳でもない。

でも、どう考えても誤変換だよね。

そこからさらに考えたのは、AI(機械学習)なんてこんなもの、ということだ。

だって意味を全く理解出来ないから。

そんなAIを信頼する根拠って何なんだ?


なんでつかねー





2018年6月16日土曜日

「自立」とは自分の眼で自分を見ることから始まる

大学生にとって、「自立」は大きなテーマだよね。

親から離れて経済的に自立することは、学生から社会人への移行において象徴的な変化だ。

一方、大人から見れば経済的な「自立」よりも組織人としての「自立」が気になる。

会社など、産業社会における組織に順応、適応して社会人として期待されるパフォーマンスを発揮することが期待されているからね。

さて、僕が気になるのは親など最も身近な大人への依存からの「自立」だ。

なぜ気になるのかというと、色々なケースを見てきて自分自身の認識を変えるクリティカルな出来事になっていると思うのです。

もう少し僕が「自立」の意味するところを述べておくと、自分の眼で自分を見ることだ。

対して依存とは、親など身近な大人の眼で自分を見ることであって、身近な大人の期待によって歪められた視線で自分を見ている。

大人の期待という視線は、ポジティブなものもあれば、ネガティブなものもある。

そして、ポジティブさは度が過ぎれば過大評価となるし、ネガティブさが強ければ過少評価になるのと同様に自己評価が歪められてしまう。

誰のものでもない、自分の人生を誰かの視線で見ていたとしたらそりゃ、上手く行かないしストレスも溜まるでしょう。


歩み



2018年6月15日金曜日

”ライブ”が意味を変える?

スポーツは筋書きの無いドラマと言われるけど、スポーツに限らず、ライブ(生)観るのと、録画で観ることでは経験の意味づけが大きく異なるように思える。

まあ、現場で観るのとテレビで観るのでは体験が異なっているから意味が違って当たり前だね。

でも、同じテレビで観るのでもライブと録画で異なる印象を受けるのは何故だろう。

一方、仮想現実の実験でゴーグルをつけて、ライブより時間差(少し遅らせる)をつけて目の前の画像を流すと見ている人はその時間差を認知することができないのだそうだ。

もう少しわかりやすく言い換えると、遅れた情報をリアルであると認識する。

それらを考えると、どうやら僕たちは目の前に繰り広げられる世界をライブと認識するかしないかで意味を変える能力を持っているらしい。

そして、ライブと認識している時ほど、脳も身体も活性度が高いのではないだろうか。


僕たちがライブや現場に惹きつけられるのは、得られる何かを知っているからでしょう。

それは時により良く、より強い意味づけなのかもしれない。


ライブ!





2018年6月14日木曜日

脳が生み出す科学的ファンタジー

"脳の中には「ホムンクルス」という小人が居る"

「ホムンクルス」で画像検索を行うと、脳の各部位と身体の部分の関係を表した図や、やたら手の大きい変な人形の画像が沢山出てくる。

図や人形の捉え方が正しいのか正しくないのか知らないけど、脳の中に全身を統治する者がいると考えるとちょっとノイローゼになりそうだよね。

最近見たNHKスペシャルでは、腸の働きが身体に大きな影響を与えているとのことだったけど、僕たちが考えているより、僕たちの身体は脳至上主義ではないのかもしれない。

「神秘的なものを自然に信じること」は、生まれ持った心の働きであると心理学者のベリングは研究結果から述べていて、そんな心の働きが妖精と同じように「ホムンクルス」を受け入れてしまうのでしょう。

で、ね。一見科学的な知見、知識でも脳が生み出すファンタジー的な要素が加わった時は気をつけたほうがいいよね。

例えば、脳に男脳、女脳があると言った考えも最近の研究結果ではファンタジーらしい。

もちろん、そう言ったファンタジーは自然な心の働きであり、それは人間社会にとって大切な意味を与えているものだろうから否定する必要はなく、ただ、「だから○○なんだ」的な差別的決めつけをしないことを意識すれば良いのだと思います。


ファンタジー


2018年6月12日火曜日

点を取られる=点が取れない のは脳の同じ部分が原因?

僕たちの脳は、多くの部分を使い回しているそうだ。

例えば、「不確実性(危険察知)への適応とひらめきの脳回路は同じ場所をつかっている」らしい。

リスクを察知する部分とチャンスを発見する部分は実は一緒なのかもしれないのだけど、そうであれば、リスクに疎い人はチャンスにも疎いと言えるのではないかな。

経営者には、チャンスだけでなくリスクに対しても「直感」が必要だよね。

危険察知とひらめきが同じ脳回路なのであれば多くの成功する経営者は両方兼ね備えていることも納得できる。

さて、この脳の話はこれまでも何回か取り上げているのだけど、何故、今日また取り上げたのかといえば、そう、今、テレビでW杯直前の親善試合を見ているからなのだ。

失点する間際の嫌な雰囲気と、点が入りそうもない雰囲気は、ひょっとしたら共通するものなのかもしれない、と考えた訳だ。

でも、プロジェクトマネジメントにおけるリスクマネジメントは、リスクだけでなくチャンスも対象だからリスクとチャンスはやはりセットものなのでしょう。


パインアップル



2018年6月11日月曜日

抽象化する言語と複雑さを導く数式

僕が働く業界では、「コンピテンシー」という言葉が使われる。

概念的な言葉なので、使われ方は様々だけど、僕の定義は、「業績を発揮する人に共通する行動様式」とシンプルだ。

まあ、「様式」自体が「共通する型」のことだから実は「業績を発揮する人に共通する共通の行動型(スタイル)」とちょっとダサい定義なのだけどこの際はどうでもいい。

問題はそこからで、じゃあ、何が共通なのかと言われると誰もが釈然としない。

何故なら、例えば「他の人より抜きんでて事業を成長させる人」に共通する行動様式と言っても事業内容、事業環境、時代背景などなど、事業の成長に寄与する要因は多様で、固有性があり、しかも複雑だからであろう。

行動を、還元された要素の組み合わせで発揮しているものと捉え、その言語化された要素をコンピテンシーと呼ぶこともあって、概念自体が入れ子構造と複雑だ。

部分の集まりが全体にはなり得ないよう、結局は、業績を発揮する人の固有性から脱することはできない、つまり再現性が低いってことだね。

人は、遺伝的ばらつきから始まり、生育環境のばらつき、時代背景のばらつき、学びのばらつきなど無限のばらつく要因の組み合わせによって存在する一方で、環境との相互性において一定の解をもつ存在でもある。

例えば、社会的規範によって同質な価値観や行動傾向を持つ集団が生まれる。

僕には、この混沌と秩序の関係性を「型」で語ることが出来るとは思えないけど、数式化することは出来るだろう。

言語は、複雑なことを抽象化するけど、数式は、単純でありながら複雑な結果をもたらすものだからね。


なに様式?



2018年6月10日日曜日

変化をパターンで表現する意味と僕の願い

僕は蟻の化学走性やボイド(Boids)といったシミュレーションから気づきを得るのが好きだ。

そういったシミュレーションの中で有名なのが「ライフゲーム」である。

非常にシンプルなルールからパターンが変化する様子はなんとなく生命的なのである。

ゆえに、「ライフ」ゲームなのだろうね。

さて、形成されるパターンには、形が変わらない固定物体、ある周期でパターンを繰り返す振動子、パターンを繰り返しながら移動する移動物体、無限に増え続ける繁殖型があるそうだ。

さて、現実の人生をパターン化出来るとしたらどうなるのであろうか。

変化の無い人生、同じことを繰り返す人生、繰り返しながら移動する人生、そしてどんどん領域を広げる人生といったところだろう。

僕のイメージでは、人の中にそれらのパターン分けられた領域で並存している。

誰にでも変化の無い部分、繰り返す部分、移動する部分、繁殖する部分があるっていうことだよね。

でもそれらは相互に繋がっているので、大局的に見れば可塑性を持って変化しているのではないかな。

おそらく、脳の機構だけでなく、人の自己認知においても同じ現象が起きている可能性が低くないと踏んでいる。

僕はきっとそれを見たいと願い挑んでいるのだ。


LIFE




暗闇から光を学ぶのがヒト、暗闇から闇を学ぶのが今のAI(=機械学習)

機械学習が日々、進歩する中で、データの重要性が増している。

それは、ビッグデータのような大量のデータであることだけでなく、質の良いデータであることが大切だということだ。

例えばマイクロソフトのTayというAIチャットロボットがヘイト発言を学習してしまった事例が有名だけど、最近では、おぞましい画像や説明文を学習してサイコパスのような判別を行うようになった研究があるらしい。

要するに、何を学習するかで答えが変わる。

これは人間において、ある部分では当てはまるけど、一方ではそうならないことも少なからずある。

人はおぞましいことを学習しながらも希望を見出すことができるからね。

機械学習がデータ処理だけでなく、データの意味も解釈することが出来るようになったら良いのだけど、それまでは機械学習の仕組みに幻想を抱いてはいけないとつくづく思うよ。


希望を抱く


2018年6月9日土曜日

努力は実るもの?それとも努力は促されるもの?

僕は今日の午後、恵比寿に居た。

ほぼ日が主催する「生活のたのしみ展」に来たのだ。

恵比寿ガーデンプレイスの広場は大勢の人で賑わって居た。

この手のイベントは、不思議と来る人が似ている気がする。

ナチュラリストのカップルでトレンドよりもクオリティを大切にする人たちだ。

残念なことに僕はそこまで感性が鋭く無いし、一人で来たのでかなりのアウェイ感である。

でも、糸井さんを筆頭としたほぼ日みなさんの温もりはしっかりと伝わって来た。

さて、会場で見かけたのが、「しゅくだいやる気ペン」。

コクヨの取り組みらしく、クラウドファンディングも目下進行中である。

子供のやる気を貯めて見える化するのだそうだ。

僕には努力が実る過程を使ってモチベーションを醸成する仕組みに思えた。

で、ね。子供と親とどっちが主体的ユーザーになるかで、全く経験の意味が違ってくるよね。

子供が主体者であれば、セルフリフレクションのデバイスとして有効だけど、もし、親が主体者だとしたら僕には朝の4時からひらがなの練習をさせることとの違いを見出すことができない。

後から振り返ってやらされたことが大切な意味となることも少なく無いので親が主体者でも良いのだけど、それはどちらかというと結果論なのだと思う。

努力を促す場合は促す側にしっかりとしたセルフコントロールが無いと行き過ぎてしまうことも少なく無い。

さて、面白いツールなのでクラウドファンディングに参戦するかこの後少し考えてみよう。



どこまで考えた?

2018年6月7日木曜日

起業直後の物語に痛みを感じる?

糸井重里さんが代表を務める「ほぼ日」が20周年を迎えたそうだ。

その一環として、糸井さんが「ほぼ日」の20年を語っている。

糸井重里、ほぼ日の20年を語る。

この、会社のストーリーテリング、とても面白い。

何が面白いかと言うと、実は、こういったストーリーは会社が生まれた後に必ずあると感じるからなのだ。

それは、「食えていない期間」のストーリーである。

もちろん、ずっと食えなければ会社は消滅してしまうのだけど、飛行機の離陸と同じで会社も起業直後はかなり危なっかしい。

そして、消滅を逃れた会社は大概、起業メンバーの闘いと苦悩を反発力にして上昇を始める。

もちろん、闘いと苦悩の背景には、夢や目標、目的の達成に向けた熱い思いや、糸井さんのように面白さややりがいがあるのだけど、生き物同様、会社にもそういった生命力と同時に、生命機構が必須である。

わかりやすく言えば、面白いことだけでは飯は食っていけない。

だから飯を食っていくための仕組みを作り上げることが、起業直後の会社が消滅しないクリティカルポイントになる。

その後、財務が回るようになるとそこから次の上昇に向けたステップが始まるのだ。

成長軌道、もしくは安定軌道に入ったてからその会社で働く人にとって、目新しい、会社創業時の物語かもしれないけど、その時の当事者にとってみれば、会社が消滅するか否かの瀬戸際は決してフィクションでは無い、心に深く刻まれた傷だよね。

だから、創業者は決してそれを忘れない。

その傷が深ければ深いほど会社のDNAとして継承されるものになるし、天気が崩れる前に古傷が痛むように事業に先行きを警告する高い感度のセンサーとして働く。

まあ、傷をあえて継承しないことを信条とする起業者、経営者も居るから「うちの会社ではそう言う話を聞いたことがない」ことも数多くあるでしょう。

でも、もし、起業直後の物語を聞くことがあり、そこに痛みを感じることができたとしたらその人にはきっと会社を支える資質が備わっているだろうね。

僕はそう思う。


傷と痛み


2018年6月6日水曜日

スケッチブックを開いたらリフレクションが始まった

人を本人以上に理解する能力をもって
人の行動を心地よく導き
人が生きる可能性の拡がりを支援する

スケッチブックを開いたら、ちょうど一年くらい前に参加したウェブサイエンス研究会オープンセミナーのグラレコ(グラフィックレコーディング)が出てきた。

そこに書かれていいたのが冒頭の一文である。

これは、橋本康弘(東京大学大学院/特任研究員/ウェブサイエンス研究会 主幹事)さんの講演の一節だ。

これは、テクノロジーは僕たちの感じ取れる世界を貧困にしていくけど、一方でテクノロジーが拓く人間性の明るい未来を考えようと言った文脈の後に語られた。

要するにテクノロジーには問題があるけど可能性を考えようってことだね。

僕はそのグラレコを見て、なぜ今日スケッチブックを持参したのかがわかった気がした。

それは、目の前にあった議論の本質を指し示していると思えたのだ。


で、ね。大切なのはテクノロジーそのものでなく、テクノロジーを用いて目指す姿、そしてそのために必要な努力が何なのかだよね。

振り返ってこの一年、テクノロジーやテクニックのことを沢山考えてきた。

そして僕は、サービス開発やシステム開発、深層学習、アルゴリズムなど時に難解で挫けそうになるこれらの取り組みを紡いで先に繋ぐことにもっと意識を集中するべきであることがわかった。

人間性の明るい未来を拡げるためにね。


人が中心






自分の個人情報は自分で管理するvs情報社会の便利さを享受する

昨日、ある会社の人と会話している中で、匿名アンケートであっても、属性などを絞り込むと個人特定が出来てしまうと言う話がでた。

これ、結構根の深い問題である。

例えば、ある地域に「ヨシダさん」が一人しか居ない場合、「ヨシダさん」と言えばもう僕のことだ。

複数の「ヨシダさん」が居たとしても男性は一人だったら、「男のヨシダさん」で特定出来る。

僕が働いている会社では複数の「男のヨシダ」さんがいるから、例えば、年齢とか運動好きとかの情報を加えれば良い。

識別に役立つ情報が増えれば増えるほど個人を特定する精度は高まるのだ。

インターネットでは、「フィンガープリント」と呼ばれている手法で、画像を表示させたり、情報を閲覧する際にログデータとして取得されてしまう種々の情報などを組み合わせると、ほぼ閲覧者を特定することが出来るそうだ。

そして、個人情報保護の観点はこのような新し手法(新しくもないけど)への対応が常に遅れている。

結果として、個人を特定した情報が密かにしかも大量に流通している。

ヨーロッパでGDPRと言う、個人情報保護の新たなレギュレーションが5月に施行され、それによって多くのITサービスを行う企業で個人情報保護の方針や取り扱い方法が変更されたことは記憶に新しいよね。

さて、利用者が本人が容易に認知することのできない方法で取得された大量のデータがあり、機械学習(所謂、今のところの「AI」)で高速に戦略に沿った判別が行われ、目的に合わせて最適化されたリコメンドが届く社会はすでに実現されている。

一方で、データの取得と戦略的活用に関しては、社会問題化してからでないと利用者は知ることができないのが現況で、顔認識、音声認識などの技術が進歩するにつれさらに水面下での取得と活用は膨れ上がっていくことでしょう。

でも、事前に全てのリスクや問題を想定し解決することは出来ないので、問題が起きたらそこへの対処、対応が始まるのが現実的なのだろうね。

要は、全ての行動の結果は自己責任であるということです。はい。

さてさて、スマートスピーカーなど個人情報ダダ漏れIT機器やWEBの個人情報ダダ漏れサービスとこれからどうやって付き合っていこうかなぁ・・・


特定された?「アカギさん」









2018年6月5日火曜日

「僕が居るうち」は問題の先送りだと思う

「俺が居るうちはいいけど、居なくなったときのことを考えてあれこれするよ。」

僕はこんなことを言う人にたまに出会うことがある。

この言葉の中にはどこか、『君たちはイマイチだからさぁ』というニュアンスが隠れている気がしちゃうのだけど、それは僕だけが感じることだろうか。

まあ、そうだとしても僕がイマイチなのは間違い無いので仕方ない。

でも、いざというとき「居なくなったときのこと」が役立った経験もあまり無い。

もちろん、「俺が居るうちは・・・」の当人が悪いわけでもなく、居なくなったときには状況が変化しているので仕方がないことでもある。

ただ不確定で予測不能の未来に対して今から何か出来るような発言はしないほうが良いのかもしれない。

では、いずれ居なくなる人は後に残る人に何ができるのだろうか。

できることを考えてみると、

1.ひたすら、”今”、後継者を育てる
2.黙って、後継者が”今”活躍できる環境を整える

しか無いよね。

だって、変化する環境は予測できないから、先々じゃなくて「いま、ここ」だもの。

そうなると「俺が居るうちは・・・」っていうのは、単なる先送りかも、と思えて来た。


先へ続く







2018年6月4日月曜日

システマティックってなぜ冷たく感じるのかな

僕は今日、一年に一度の内視鏡検査のため病院に行った。

都立病院なのだけど、病院経営も大変なようで行くたびに少しづつ仕組みが変わっている。

気がつけばもう20年近く通っているわけだけど、通い始めた頃は酷かった。

例えば、朝の10時に予約をしているのに実際の診察が始まるのが14時とか普通だったし、一度は、待合室に居たら遅くなって電気を消されてしまったこともあった。

あの時は思わす残って居た数人と唖然と顔を見合わせていたっけなぁ。

内科の医師がERの担当もしていたので急患が入るともう滅茶苦茶だったようだね。

まあ、運営という観点では酷かったけど、先生はすごく良かった。

腕も人間性も確かなお医者さんで包容力があって、不安を感じることはなかった。

その後、その主治医はERの専任となり新しい主治医に変わったのだけど、ちょうどこのあたりから徐々にシステムが変わり始めた。

ちょっと変わった医者だったけど、患者のことを気にかけて持病だけでなく、それ以外のことにも相談に乗ってくれた。

その医師も、あまり本人は納得していなかったけど、他の病院に異動になり今の主治医になったのだけど、病院のスタイルと合っていて必要なことしか診ない感じに変わった。

昔のように、朝行って、夕方に診察なんてことは無くなりほぼ予約時間通り、今日の検査などは30分も早く始まったのだ。

看護師さんもとてもスピーディな感じになった。

かと言って雑にあしらわれる印象は全く無いけど、とにかくスピーディで一人一人の仕事がシステマティックになった気がする。

で、ね。不思議なもので、システマティックになったおかげで時間通りにテキパキと進むのだけど、なぜか冷たさを感じてしまうよね。

なぜだろうと考えたのだけど、ひょっとしたら温もりが伝わる時間が無いからかもしれない。

人肌の温もりが伝わるのには多少時間がかかるから、温もりが伝わりきらないうちに次の移動しちゃうと冷たいままだ。

時に温もりよりスピーディにテキパキと進むことが快適だけど病院にはやはり温もりも欲しいかな、ちょっと待たされてもいいから。


温かい?冷たい?



2018年6月3日日曜日

人は想定外の経験から何を学ぶのだろうか

世の中、想定外のことが結構起きているものだよね。

ネットで見かけたこの記事もそうだ。

「A判定」でも不合格 増える浪人生、入学断る予備校も

大学全入時代と言われる中で浪人生が増えているのだそうだ。

政策を考える際に、大学がどう動いて、学生にどう影響が出るのかどこまで考えていたのかちょっと知りたいな。

一方で、こういった想定外の状況で当事者がどう、何を学習するのかも興味が尽きないよね。

で、ね。よくよく考えてみたら、僕たちが自分の殻から一歩踏み出す、イコール全て想定外ってことだよね。

さて、冒頭の状況、もし、文部科学省の役人が想定内だとしたもう少し知恵を出して欲しいけど、想定外であれば、状況を変えるためのチャレンジだから次の政策に期待したいと思うのだ。


がちゃトークもやや想定外から






2018年6月2日土曜日

リフレクションしてコンフリクトを解決しよう

僕は以前、リフレクションのワークショップで「上下するエレベーター」というメタファーを習った。

他者と対話を通じてリフレクションを行うとき、考えていること(頭)、感じていること(心臓)、望んでいることを(腹)を認知し、上下させて相手に合わせる方法だ。

この「上下するエレベーター」はもちろん、セルフリフレクションでも活かせる。

考えたことは何だったのか、その時どう感じたのか、本当にしたかったことは何か。

物事が上手くいく時は大概、この3つが揃っている。

でも、上手くいかなかった時は、この3つがズレているものだよね。

もう少し寝ていたいのに、責任感から早起きしたと考えてしまうとそのズレは不満になる。

新しい人たちと何かを一緒にやりたいと思ったのに、やるべきことから入ってしまうと噛み合えない不安感が過ぎる。

と、まあ、日常的にあるのだ。

だから、「こうしたい」を相手が上手く拾い上げてくれると嬉しくなり、クリエイティブな思考が働き、時にフローに突入する。

一方、何かを為そうとする相手と「こうしたい」という根本動機がズレているとコンフリクトが発生するのでインテグレーションが必要だ。

で、ね。こうしてリフレクションをすれば、コンフリクトを解決する5つのアプローチ、問題解決(Problem Solving) 妥協(Compromise) 撤退(Withdrawal) 鎮静(Smoothing) 強制(Forcing)からどれを選択するのか具体的な行動として見えてくるよね。


フローです




2018年6月1日金曜日

今宵は「解禁」のガチャトーク

6月の第一金曜日ははからずしも1日となった。

第一金曜日はCafe Katyで自画持参、ガチャトークの日である。

そして、6月1日は、採用活動の解禁日だし、どうやら鮎釣りの解禁日でもあるらしい。

で、ね。今日のガチャトークのテーマは「解禁」になったのだけど、案外これが思いつかないのだよね。

僕の言い訳としては、直前のプレゼンと打ち合わせでテンションが上がらず、自己嫌悪でもあったのだけど、それはそれとして案外難しいお題なのだ。

また、今回は参加者が11名と多かったのにも関わらず、そんなときに限って、スピーチに当たる。

さらにスピーチの内容で引かれたのが「解禁といえば何を思い出しますか?」って、それが出なくて難儀しているのに。

僕は、思わず自分の顔が歪むをの感じていた。

でもなんだか当たりそうだなと感じもしていたから不思議だ。


結局、僕は連想的にパブリックであれ、プライベートであれ「ルールを我慢して守る社会性」であると落ちをつけたけど、「自主解禁」な人のことが少し気に障っていたからかもしれない。


う〜ん(思案投げ首中)