性善説と性悪説という二元対立の図式があります。
百科事典マイペディアの解説を転載すると、
性善説 【せいぜんせつ】
性悪説の対。孟子(もうし)が唱えた,人の本性は善なりとする説。人は生来,惻隠(そくいん)(あわれみ),羞悪(しゅうお)(不義をにくむ),辞譲(へりくだり),是非(正・不正の判断)の四端(徳に向かう根源的感情)をもっていて,これをよく養って拡充すれば四徳が成立して,天下国家を平安にすることができるという。
※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています。
性悪説 【せいあくせつ】
性善説の対。荀子(じゅんし)の倫理思想の根幹をなす,人間の本性は悪なりとする説。人の欲望は自然のままに放置すると社会を破滅させてしまう,ゆえに人の欲望は悪であり,これを礼によって整え,社会的秩序を維持せねばならないという。
※本文は出典元の用語解説の一部を掲載しています。
となります。
性悪説を取ると社会を維持するためには、人の欲望に歯止めをかける仕組みが必要になってきます。法や制度の多くは、社会を安定させるために設けられた仕組みです。
性善説であっても「過失」は有りうるし、また、利害対立の調整を行う上で法や制度が機能するのですが、性善説に立てば、細かいことを事前に決めなくても折り合いがつきそうです。
ところで、組織において人のマネジメントをされている方は、どちらのスタンスに立っているのかポリシーを明示されているのでしょうか。
例えば、ちょっと前に話題になった、バカッターと呼ばれるアルバイトの脱線行動。
性善説に立てば、事の重大性を理解すればそんな事はしなくなると考えるでしょう。一方、性悪説に立つと、自己顕示欲によって模倣者が次々と出現するので、強い懲罰により見せしめが必要だと考えるでしょう。
さて、なかなか組織に適応できない社員が居たとします。そのとき、性善説に立てば、障害はあってもやがては適応しパフォーマンスを発揮するはずであると思えます。性悪説にたつと、そもそも、その社員には裏があって組織に対して迷惑をかけても平気であると思えます。
このような二元対立的な議論が結構多いように思いますし、また、個人の中でも考え方が揺れる部分です。
組織を運営していると、いつかは成長(自己革新)して、組織の中心人物になってくれるだろうと思っていても、トラブルを繰り返す。とか、仲間として期待していたのに、冷ややかに批判して去っていく。など、性善説が性悪説にスイッチさせられる出来事が多くあります。
しかしながら性悪説は、猜疑心を高め不必要なストレスを与えます。高ストレスということは、常に多くのエネルギーをそこに割いて消耗しているということです。また、それは幸福度を下げる要因です。
どうすれば、性善説と性悪説の二元対立から解放されるのでしょうか。
ヒントはマザー・テレサの言葉です。
愛の反対は憎しみではなく、無関心 マザー・テレサ
マザーテレサのように利他性の高い偉人は、終始、性善説の立場にあるように思えますが、そこには性善説を超えた「他者への愛」が満ちています。
そして、性善説でも性悪説でも共通していることは、他者に関心があるということでしょう。共通性に着目すれば対立を超えられそうです。
そこで、性善説と性悪説の二元対立は「他者への愛」で乗り越える、としてみたいと思います。
愛す