2022年7月31日日曜日

3435日目のデザインと創発の真実。

 テレビCMでもおなじみビズリーチの社長さんが心臓発作で急逝されたそう、

この社長さんビズリーチ社の成長に大きな貢献を果たされたそうで亡くなる前には

一人ひとりの働き方に生涯寄り添い、サポートする存在に、というビジョンを掲げていらしたそうですキャリアの観点から見ればビズリーチ社が目指すのは転職支援サービスという求人求職の情報基盤だけでなく、

個人のキャリア開発に活かせる情報基盤とキャリア開発サービスの一体化であるということになるのでしょう。

転職支援と言うことはあらゆる求人に応じられる求職者の情報をデータベース化して求人企業に提供すること意味します。

求職者の待遇面での希望がわかる情報と経歴職歴や経験スキルなどが登録されているだろうことは想像に難くありません。働く人の網羅的な情報ですね。働く人の網羅的情報といえば、最近企業においてもデータベース化が盛んにおこなわれていますそれらは一般的にタレントマネジメントシステムと呼ばれ事業戦略に応じて活かせる人材を見つけたり投資を行って伸ばす人材を見つけることが目的となりますが実はタレントマネジメントは明確な定義がありません。

それは事業戦略という市場と企業経営文脈の中で必要とされる人に関する知識には文脈依存性があって、タレントマネジメントとはあくまでも概念的なメタファーだからでしょう。では知識を生み出す人に関する知識を生み出す情報で

キャリアは社会的枠組みの文脈でタレントマネジメントは経営戦略の文脈である。一環汎用情報と専用情報の違いである両者の違いは決定的だけどそれだけなのでしょうか

さて認知科学においては知識に関する重要な指摘が為されています

 身体 を 介し た さまざま な 感覚 経験 の 記憶 が、 一般性、 関係 性、 場面 応答 性 を 備え た 知識 として「 構築」 さ れる の だ。

鈴木宏昭. 私たちはどう学んでいるのか ――創発から見る認知の変化 (ちくまプリマー新書) (pp.44-45). 筑摩書房. Kindle 版. 

つまり認知科学の知見から言えば求職求人のDBもタレントマネジメントも人に関する知識としては決定的な問題を孕んでいると言わざるを得ないのです。

僕はおよそ20年間人に関する知識を情報として扱う仕事をしてきて、アリとあらゆる種類の人に関する情報を扱ってきました。

流行り言葉で言えばHRテックのデータサイエンスをしてきたのです。

そしてそのその時々にぶつかった巨大な壁はこの指摘に全て集約されます。

結論を一言でいってしまえば、情報はもとより、データサイエンスも知識では無いということです。そしてキャリア形成が発達のプロセスであるとすれば、キャリア開発支援というサービスも虚構であることになります。

ビズリーチのようなダイレクトリクルーティングサービスが言うキャリアインフラとは、

前述した著書の認知科学と創発の観点から言えばどうなるのだろうか

著書の中で創発と言う言葉は以下のような意図をもって使われている中枢の命令によらない要素同士の相互作用の集積によって、全体として特異的なシステムが生み出されるというのが創発という言葉の肝となる。認知的変化というのは、そういう創発過程なのだということを本書で明らかにしたいという次第で、創発という言葉が出てくる

つまり働き方に生涯寄り添い、サポートする存在によって起こらないのが創発なのである。

一方でデザインとは夢を実現するためのプロセスだから、プラットフォームによって利用者に夢を持たせることには効果があるだろう。

キャリアを夢見る私を想うことには有効だけど、学びや学習がそれに故に起こることはない。

学びや学習は本人の認知的変化だからなのであり、あくまでも主体たる本人次第なのだ。デザインと創発は言い換えれば夢と現実の決定的相違のことなのである




2022年7月30日土曜日

確証バイアスってほんとに悪者なのだろうか

 僕たちは色々な場面で育てるという役割を担うことがある。

自分の子供の時もあれば人間以外の生き物の時もある、

しかし忘れてはならないのは僕たちは常に自分自身を育てる役目を負っていることだろう。僕たちは自らの意志で色んな環境に我が身を晒す、

そうやって僕たちは無意識にも自分自身を育てているのだ、

そしてそうやって獲得されるのが人格であり性格特性だ、

認知科学研究の第一人者鈴木宏昭先生によれば僕たちは競合する認知リソースの揺らぎから創発することで発達し学び、上達しひらめいているのだ、

僕達が色んな環境に身を晒す(友人を選ぶとか行動を起こすとか)際に大きな役割を果たしているのが確証バイアスだろう、言い換えれば信念による偏見ということだ、

成長や幸福が否定されえない正のマジックワードだとすればバイアスとか偏見は常に否定されてしまう負のマジックワードである。

では偏見とはその人固有の世界観であると言えばどうだろうか。恐らく多様な価値観同様誰も否定し得ないのではないだろうか、

偏見に対する偏見が僕は強くあるようにも感じている。

僕たちは固有の環境の中で固有の世界観を構築することを通じて自分を育てていく

僕達が我が身を置いた環境と観ている世界は一体であって分離することは出来ないだろう。しかし世界は僕たちが認知できる能力をはるかに超えて広い、要は僕たちは僕たちが認知出来る範囲で世界を構築しているのである。

しかしその認知リソースの有限性が偏見だというのであれば、それは倫理的には、人格やその中にある人間性を否定することにもなりかねない他者の人格にある人間性だけでなく自分人格のなかのの人間性も含めてね。倫理的に人間性への尊厳を払うのであれば僕たちは確証バイアスを悪者にすべきではない。

確証バイアスが自己組織化し集団的圧力となり、社会化することには十分に注意しなくてはならないけどね、だから問題は確証バイアスがあることじゃなくて連鎖して社会を歪めることなのだ。確証バイアスは僕たちに固有の世界観を構築させ性格を作り自分自身を育てる重要な役割を果たしている。そして、自分自身を育てる過程の中にも創発による学びやひらめきがあって、確証バイアスを更新してゆくのだ。つまり僕たちは自分自身を育てながら常に歪んだ世界を更新していくそういう存在なのである。

これも偏見


2022年7月29日金曜日

 FBで目にした投稿。

それはみんな大好きスティーブジョブズさんのお言葉でした。

このお言葉の真偽は定かで無いけど、ジョブズの有名な”朝起きた時にもし今日が最期の日だとしてもし今日が人生最後の日だとしたら、私は今日やろうとしたことを本当にやりたいだろうか」スティーブ・ジョブズは30年間毎日、この言葉を鏡に向かって語り続けたそうです。と言うスタンフォード大学でのスピーチ”と対比するとなんだか不思議な気がします。ジョブズは悔いのない毎日を30年間過ごしながら実際の死を目前にして初めて家族への愛情とか自身の健康に思いをはせたのでしょうか。僕も今回脳卒中で倒れ、後遺症が出た中で残りの人生何を為すべきかどう生きていくのかを考えました。養老孟司さんの本も読んで生きると言うことは自分のためではないことも悟りました。だから再発させることなく安穏と生きていくという考えに落ち着きましたあなたの家族のために愛情を大切にしてください。

◆物質的な物はなくなっても、また見つけられる。しかし、一つだけ、なくなってしまったら、再度見つけられない物がある。 

人生だよ。命だよ。手術室に入る時、その病人は、まだ読み終えてない本が1冊あったことに気付くんだ。

「健康な生活を送る本」とジョブズが辿り着いた答えに死を目前にするよりも前に気づくことが出来たのかもしれません。その意においてこの文章は個人的に腹落ちしたのですがスタンフォード大でのスピーチのような生にストイックなジョブズ信念を支持信奉する人達には

どう写るのだろうか。

Q O L 健康と命の本質


◆スティーブ・ジョブス最後の言葉


私は、ビジネスの世界で、成功の頂点に君臨した。

    

他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。しかし、いま思えば仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。


人生の終わりには、お金と富など、私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。

   

私がずっとプライドを持っていたこと、認証(認められること)や富は、迫る死を目の前にして色あせていき、何も意味をなさなくなっている。

    

この暗闇の中で、生命維持装置のグリーンのライトが点滅するのを見つめ、機械的な音が耳に聞こえてくる。

    

神の息を感じる。死がだんだんと近づいている。。。。

    

今やっと理解したことがある。

    

人生において十分にやっていけるだけの富を積み上げた後は、

富とは関係のない他のことを追い求めた方が良い。

    

もっと大切な何か他のこと。それは、人間関係や、芸術や、または若い頃からの夢かもしれない。終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。私のようにね。

    

◆神は、誰もの心の中に、富みによってもたらされた幻想ではなく、愛を感じさせるための「感覚」というものを与えてくださった。私が勝ち得た富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。

    

◆私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた(ポジティブな)思い出だけだ。これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと

一緒にいてくれるもの、あなたに力をあたえてくれるもの、あなたの道を照らしてくれるものだ。


愛とは、何千マイルも超えて旅をする。人生には限界はない。行きたいところに行きなさい。望むところまで高峰を登りなさい。

   

 全てはあなたの心の中にある、全てはあなたの手の中にあるのだから世の中で、一番犠牲を払うことになる。


「ベッド」は、何か知っているかい?シックベッド(病床)だよ。

    

あなたのために、ドライバーを誰か雇うこともできる。お金を作ってもらうことも出来る。だけれど、あなたの代わりに病気になってくれる人は見つけることは出来ない。

    

◆物質的な物はなくなっても、また見つけられる。しかし、一つだけ、なくなってしまったら、再度見つけられない物がある。

    

人生だよ。命だよ。手術室に入る時、その病人は、まだ読み終えてない本が1冊あったことに気付くんだ。

    

「健康な生活を送る本」

   

あなたの人生がどのようなステージにあったとしても、誰もが、いつか、人生の幕を閉じる日がやってくる。


あなたの家族のために愛情を大切にしてください。


あなたのパートーナーのためにあなたの友人のために。


そして自分を丁寧に扱ってあげてください。


他の人を大切にしてください。


スティーブ・ジョブス

1955年2月24日 - 2011年10月5日




2022年7月28日木曜日

朱子の「近思録」の九徳とアリストテレスの枢要徳時代を超え文化を超える人間観と重要な性格

 朱子の「近思録」には人望に通じる「九徳」が挙げられている、僕は以前にも何回かこのブログで取り上げてきた

1.寛にして栗(寛大だが、しまりがある)
2.柔にして立(柔和だが、事の処理が出来る)
3.愿にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
4.乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
5.擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
6.直にして温(正直・率直だが温和)
7.簡にして廉(大まかだが、しっかりしている)
8.剛にして塞(剛健だが、うちも充実)
9.彊にして義(強勇だが、義しい)

このような視点から自らの行為を振返ったとき、謙虚にならざるを得ません。TPOに応じて九徳があったのか、不徳ではなかったのか、問いかけは自然と深くなります。


一方アリストテレスの『 ニコマコス 倫理学』 には こう書か れ て い ます
徳 の なか でも 極めて 重要 なのが、 後 の 時代 に「 枢要 徳」 と 呼ば れる こと と なる「 賢慮」「 勇気」「 節制」「 正義」 の 四つ です。 これら は すべて「 力」 という 観点 から 捉える こと が でき ます。 人間 が もともと 持っ て いる 能力・可能性 を 高め て 現実 化 さ せ て いく こと が できれ ば、 より 充実 し た 在り方 で 活動 を する こと が できる。 その 充実 し た 在り方 こそ が 幸福 と 呼ば れる もの だ と、
双方を見比べると共通点が多いことに驚かされる。朱子は徳を人望から説きアリストテレスは幸福という人生の究極目的から説いた。
人望と幸福は別物だけどそれぞれにとって大切な徳は実は一緒ということなのかもしれない。「近思録」の表現はあえて「中庸」の大切さをわからせるために一対の表現になっているのに対して実はニコマコス倫理学でも、でも、「中庸は重要視されているので同等と考えて良いでしょう






2022年7月27日水曜日

 僕はリハビリ生活に入って多くの療法士の指導を頂くようになった。

リハビリ病院では、療法士のリーダー的人から組織運営上の悩みなども聞くことになった。

その悩みはどこの企業でもある。同僚の定着、要するに離職のことである。

そこで実際に療法に組織へのロイヤルティやキャリアプランなどもインタビューしてみた。その結果わかったこともあった。療法士は国家資格だからその資格を使って働いていきたいという考えは皆共通していた、

国家資格を取得するために努力も学費も払ってきたのだからそれは当然だろう。彼ら彼女らにとってみればその取得した資格をより有利に生かせる場選びがキャリアプランになる。もちろんキャリアチェンジを考えている療法士も居た。場選びに関しては働きやすさと専門職としてより良い経験が積めることが大事だけど、それ以外にどうも何かありそうだった。

その何かを代表する言葉は一度の人生だから悔いのないように生きたいというものではなかっただろうか。

つまりここじゃないどこかで出会うかもしれないの未知に一歩踏み出したいと言う動機というより衝動に近い想いなのかもしれない。

自分の生き方を変えてみたいという想いがあるのだ、それは飽きるという感覚とはちょっと違うように思えた

、恐らく見通しのきく現状ではなく見通しのきかない世界への漠然とした憧れみたいなものなのかもしれない。

こういう感情は誰もが普通に持っているよね。

例えば行きつけの定食屋でお決まりの一品ではなく時に冒険したくなることがある。

そういう時は普段は絶対に頼まない品を敢えて頼んだりするものだ

いつもはハンバーグだけど今日はサバみそとかね、そいえばこの前友人が美味しそうに食べていたなとか思いつく訳だ。

こういった気まぐれとか逸脱といった行動は

僕たちの生存可能性を高めてくれる。

これはアリのシミュレーションなどでも実証されている。要するに僕たちは合理的に生きているわけじゃないということだ。

僕が通うデイケアにも療法士が居る、

一方で入院していたリハビリ病院は東京都と冠がつくくらいだから、職員は東京都の準職員であって、

給与も労働環境も整備されている

デイケアのような民間企業や一般の病院などに比べたらはるかに恵まれた職場なのである。昨日のデイケアの療法士の勤務実態は聞いていてほんと気の毒になるような過酷さがあった。

しかしデイケア療法士は会社への強いロイヤリティを持っていた。これも非合理的行動といえるのかもしれない。経済学では経済の主体は常に合理的に選択し行動するとされていたこの信念はその後のゲーム理論の登場によって論破されてしまった。理屈のうえでも僕たちは非合理的な存在になったわけだ

しかしゲーム理論に拠らなくても僕たちにはいつ来るかもわからない困難に打ち勝つために日頃非合理的な選択を行う本能が備わっているのであろう。それはきっと理屈を考える新しい脳よりももっと古い脳の働きに違いない。こういった非合理性はある意味不条理なのであろう、だから、療法士のリーダーに同僚の定着に向けた解決策なんて無い、出来ることは現状を淡々と受け止めて退職後のフォーメーションを考えるくらいなのかもしれないもしくは人望を磨いて同僚の心の支え(あなたと一緒に働きたいと慕われる)となることかだね。


人望についてははこちらへ

グーグルのオキシゲン・エイトと人望の研究

人望は漫画の中だけ?




2022年7月26日火曜日

現代の良経営者はジキルとハイド?

 企業の利益の源泉は組織と言う協働形態による労働資産性の向上である

でもここに産業組織のパラドクスが潜んでいる

課題を解決し企業が直面する困難を乗り越えるためには組織における多様性が重要な鍵である  

一方で多様性は非効率と同義なので生産性を上げるつまり効率化するためには画一性、効率への最適化が求められる。

市場においての競合との闘いは直面する困難であり資本は生産性を求める。

産業組織のパラドクスを乗り越えた企業の経営者こそが現代における真の経営者と呼べるのではないだろうか

イノベーティブでありながら高収益を実現する企業だからだ。世の経営トップは皆この姿を目指しているに違いない。

しかし足元ばかり見過ぎて生産性に邁進する経営トップも少なくない。

社員をコスト換算することに長けいるのはこのタイプ、人道的なスタンスを口にする(甘い夢を囁く)ことを憚らないくせに利益を出すためにリストラを推進するのはまずこの手のハイド型経営トップでありその組織にはイエスマンが集い重んじられる。

わかりやすいけど気持ち悪い組織だ。一方で多種多芸で好奇心旺盛なジキル博士型経営トップにはイノベーティブな人が多いように思える。

その組織には多様多彩な人が集いその組織は梁山泊を成すよくわからないけど魅力的な組織である。

この2つの経営トップはまるでジキルとハイドのように対照的である。


ジキルとハイドは解離性同一障害なのだそうだけど、僕は現代の経営者にはまさにそういった二面的特性が求められているのかもしれないと思うのである。ただ同一人格としては崩壊していることには留意すべきであろう。

リチャード・マンスフィールド扮するジキルがハイドに変身する場面




2022年7月25日月曜日

リハビリで不得意だったことから見える僕の敵

 リハビリと言う新しい経験(もちろん脳卒中後の片麻痺自体が新しい経験ではあるのだけど)

の中でぼくの困難克服に手を貸してくれたのが療法士セラピストさんたちである。皆さんと言うくらい多くの療法士さんのお世話になったのだけど、リハビリで僕が不得意としたことが2つあった、1つは身体のコントロール、左脚にもっと体重を乗せるとか、骨盤を立てるとか左ひざをしっかり伸ばすとか、理学療法士さんの指示は姿勢や筋肉の使い方に関するものが多いのだけど、そもそも、麻痺があるということは筋肉を上手く使えないことと同義なのである

理学療法士は骨格や筋肉のプロだから立位をとっただけで、僕の身体の左右のバランスの悪さの原因が何なのかを見抜き修正のためのアドバイスをくれるしかし身体性に関しては

感覚麻痺もあるから、どう動かせばいいのかわからない&どう動いたのかがわからないと目隠しして迷路を歩くような感じなのだ。療法士は俯瞰の位置からみているので右にいけとかそっちじゃないとかよくわかるんだよね。僕は頭の中でイメージすることしかできない。時折、大きな鏡を見るとすこし確認できるのだけど。部分を正しくすれば全体が正しくなるという構成主義的な身体性は僕たちの身体の使い方と異なっているのではないかと思う。療法士さんはもちろんプロだからそんなことは100も承知だったのであろう。部分を正すというより現状とこの先のステップを勘案して課題を作り解決に取り組む支援をしてくれていたのだ。でも不得意だったもうひとつ不得意だったのがパズル。高次脳機能の確認とリハビリで積み木入れとかパズルをするのだけど一番の苦手がパズルを組み合わせて同じ図形を作るというやつ、課題クリアの標準時間があるからのんびり試行錯誤していられない、僕は歩行にしても、パズルにしても試行して複数の認知リソースを活性化させひらめいて課題を解決させていくタイプらしい。試行錯誤にとって一番の敵は時間なのである。歩行訓練も療法士さんの時間には限りがある。僕の前ぬも後にも患者が待っているだから、時間で課題をクリアしなくちゃならないもう少しやらせてよ~が通じないのだ。パズルでもジグソーパズルのように形色絵柄など認知リソースが増えると圧倒的に課題が解決しやすくなったのである。昨日紹介した本にはここらへんの仕組みが解き明かされている。ぜひ多くの理学療法士さん心理療法士さんに読んで頂きたいものである。



Aをください


2022年7月24日日曜日

MALLすげ~なぁ~

 採用募集がない企業にどう入社する? 落語の世界で熱意と覚悟が自然に感じられるのはなぜだろう

2016年に投稿したこのブログ経営学習研究所、MALLのシアターモールで「落語から人材育成のヒントをもらいませんか?」という学びイベントに参加させてもらった経験談であったが今読んでいる本にこのことに深く関わっていることが書いてあった私たちはどう学んでいるのか 創発から見る認知の変化 鈴木宏昭  p167〜170に記載されている。大変面白い本なので是非一読をお勧めしたい。転載禁止なので引用はしないけど感染動機という学習動機学が紹介されている。その人にのようになりたいという動機である。落語家の弟子入りというのはまさにそれだねシアターモールで聞いた話と同じようなことがほぼそのまま本にも紹介されていた。そして僕がリハビリ入院中に出会った医師看護師療法士の多くは同様な動機が確認された。問題解決症候群にどっぷりと侵された新社会人が何かにつけてハラスメントだブラックだと騒ぐ一方で無理をさせない配慮が行き届いた企業ではぬるい会社だと言って退職していく理解不能なマインドセットに陥っている現代産業組織の病巣を的確に指摘しているように思えた。



 

2022年7月23日土曜日

丁寧に生きた証がくれる生きる資本

 滞福日記「日常って、失ってみるとその偉大さに驚きます。毎日を丁寧に生きること」Posted on 2022/07/23辻仁成さんの今朝のブログは日常に関するものであった。僕も脳卒中になって後遺症が出てから日常については日々考えるようになった、そして、外出がままならなくなり家で、デイケアで時間を費やす中で、読書や新しい企てとともに当たり前の日常を送っていた時に撮り溜めた犬の写真の整理を行っている。毎日何十枚と撮っていた写真は膨大な量となっていて、少しずつ整理しないとどうにもならなくなっていたのだ、カテゴリーを作ってそこに写真を振り分けていく作業は、地道で終わりが見えない、丁寧に写真を見ているとある日の日常が記憶が呼び覚まされる。ああ、こういった日常にはもう手が届かないと思うとひたすら悲しくなる辻さんではないけれど失ってみて日常の偉大さに驚かされる。

一方で、僕はあの日一生懸命写真を撮っていたことに気づかされる。それはこのブログも同じことなのだけど、

僕はあの頃日常犬と歩いてと丁寧に写真を撮って考えて書いていたのである。それは僕が丁寧に生きていた証である。

有難いことにその証は僕を日常を失った今僕を勇気づけてくれているのだ。

今となってみれば作った料理なども写真に撮っておけばよかったと悔やまれる。

酔っぱらってしまってそこまで気が回らなかったなぁ。

そういえば、飲み会に行ってもお酒が入ると出てくる美味しそうな料理をたべてしまってから後悔しきりであったのである。

丁寧に生きたという実感は日常が失われ毎日丁寧に生きられなくなくなっても、とても大事な生きる資本になっているのだ。


証






2022年7月22日金曜日

 意識とは何なのか、それは、哲学や脳科学の長年の命題である。語句たちは自らの意識を持って他者の意識を観察することができるが意識とは何なのかどこにあるものなのかわかっていない。意識を失ってしまうと僕たちは周囲の呼びかけに応えられなくなるから意識は認知機能の一部と密接に繋がっていることはまちがいないだろう、更には認知に応答し秩序だった能動的な行動を生み出す役割も果たしている、一方能動的な行動は無意識にも起きている心拍や呼吸も無意識におきる、僕たちは意識によって秩序だって自分が自分であると確信しているが生命とは意識とイコールでないことも明らかのである。さて先日デイケアにLOVOTというペットのようなロボットが来たと書いた顔認識のカメラをつけていて人を判別し近づいたり遠ざかったりする。また、撫でたり触ったりすると反応し同時に学習もしている。一昔前にスピルバーグのAIという映画があった。まるで人間のようなロボットの話だ映画の中でロボットはまるで意識が芽生えたかのように描かれる。怒りや恐怖悲しみ愛情といった感情も芽生えたかのようだ。感情も思考の一部であると考える人もいるくらいだから、意識が芽生えれば感情を持ってもおかしくないのだろう。デイケアに来たLOVOTはスピルバーグのAIに比べればはるかに単純なものである。センサーと得られた情報をもとに記憶されている行動パターンを引き出すアルゴリズムがセットになったパソコンが積載されているだけだ。決まった動作をするという観点では秩序だっているけど。自律的に行動しているわけじゃない。決められた通りに動いているだけである。だから人を襲ったり脱走したりすることもない、認知症の利用者さんよりははるかに社会適応出来ている。しかし意識は無い。しかしながら、試用期間が終わって返却されたLOVOTが認知し学習したデータはどうなってしまうのだろうか。映画AIでは用済みで廃棄されたロボットたちが決起する場面が描かれているが用済みのLOVOTにも存在していたという証がデータとして残されていたのである一旦は社会的存在として受け入れたものを人間の都合だけで扱っても良いものなのだろうか、LOVOTはAIの性能としてはスピルバーグのAIにはるかに及ばないものであるとしても、LOVOTの立場で考えれば悲哀があるよね、それは映画で描かれたものと同じである。社会的存在となることを期待され、」その任を部分的には果たし、一方的に社会から疎外されてしまう。今後AIが進化して、ロボットが当たり前のように社会的な存在となったらこのAIを巡る倫理の問題は意識の在る無しに関わらず必ず出てくると思われる。デイケアにいたLOVOTは利用者の顔、」手触りを抱いたまま、記憶を消されてまた旅立つ日を夢見ながら倉庫に積まれているのでしょうAIに限らずロボットが出てくる映画にはよく廃品となったロボットのシーンが登場する。これはきっと、僕達人間にロボットを用が済めばごみ扱いする心理が潜んでいるからに違いないからであると僕は思うのだ。





2022年7月21日木曜日

 

研究結果にはへぇ~そうなんだと驚きの発見があるものと、そりゃそうだよね~と当然とまではいわないものの納得感のあるものがあります。以下で紹介されている研究結果はどちらかというと、後者の納得感が伴うタイプのものではないでしょうか、教員の性格特性よりも自己効力感の高さが教育効果に影響しているというものです。自己効力感は困難を乗り越えるときに重要な役割を果たしますそして小児脳科学の実験では訓練では高めることが困難であると言われる感覚です。その知見でいうと、記事は教員が自己効力感を高められる環境づくりが大切と結んでいますが果たしてそうだと言えるのでしょうか。教員にとってみれば、生徒は学ぶことが出来ると、いう結果予期と、自分は学ばせることが出来るという効力予期無しに。教育効果を出すことは出来ないことは察しがつきます。学習という困難と教育という困難がそこには待ち受けているわけですから、困難を乗り越える勇気が無ければ、教育は成り立たないですよね。これは何も教育に限った話ではないでしょう。仕事でも困難を乗り越えられない人ほどそもそも、となりますよね。一方自己効力感が高すぎるのも社会性の観点では問題があります。根拠のない自信は謙虚さを欠くことになりかねません。この、自己効力感と謙虚さの良いバランスと言うのは幼少期の頃の親の在り様や家庭での教育において得られるものなのかもしれません、エジソンの伝記やその他の偉人や活躍している人の物語りを読むとそういったシーンが良く描かれていますからね。ひょっとしたら親に限らず幼少期に接した大人の態度が大きく影響しているのかもしれませんね、論文としてはそこらへんまで言及して欲しかったですね。

教育エビデンス 13 教員の自己効力感・性格特性の影響






2022年7月20日水曜日

荷物整理の仕方

 精神的余裕が無い時って不要な荷物を整理することは難しいから後回しにしがちだ。荷物整理ってやはり、時間的精神的余裕のあるときにするものなのでしょう、でも現実的にはやむを得ない状況で荷物整理することが少なくない、追い詰められててからやる、丁度夏休みの宿題みたいなもんだよね、でもそれって結局何かにしわ寄せしているだけなんだよね僕の場合は、僕の脳血管にしわ寄せしてしまい破裂させてしまった。そしてその後も妻にしわよせしてしまった(ゴメン&有難うございました)極端な話荷物にしてしまった瞬間にそれは不要物なのだ、だから整理して収納するのでなく一気に捨ててしまいましょうそうすれば未来や他人に荷物整理のしわ寄せをすることが無くなるのです。



2022年7月19日火曜日

生人生の手本をみつけよう人間性を蝕む悪魔と人間性を育む手本

 人生には良いお手本が必要だ。

お手本は僕たちの人間性を育ててくれる。

一方で、人を思い浮かべるときお手本とは真逆の嫌~な思いをさせられた奴も思い浮かんでしまうのが人生の不思議であり難解さでもあるなぁ。

でも気をつけた方が良い、嫌な奴はあなたの人間性を蝕んでくる。どこまでも嫌な奴なのだ。

ぼくたちは生まれながらに人間性を備えているわけじゃない。ここで言う人間性とはその人の人格にあるものであって、生まれながらのその人らしさのことではない。

人として社会のなかでどうあるかという立ち居振る舞いの象徴としてのその人らしさのことである。

実は僕たちは立ち居振る舞いの多くを人から学んでいるのだ。

観察学習という方法によってね。

そこで大切なのが手本だよね、

手本となる人の人間性には見ればわかることがいくつもある、謙虚な姿勢や他人を尊重する姿勢や他者から学ぼうとする姿勢などだね。

こういった姿勢は実存する人から学ぶのが一番だ、

なぜならこんな時あの人ならどうしていたのかと考えればすぐにどうするべきかがわかるからね、

そういった人間性の高い人を手本にする限り自分の人間性も高くなる。

一方で、人間性の低い人というのもなかなか頭から離れないものである。

常に自分が正義で他者から学ぶことなどはないと見下して責める。ほ~らそういう人直ぐに顔が浮かんでしまうでしょ?間違いなく嫌な思いをさせられているからね。でも、そういう人のことは意識的に消去してしまった方が良い、思い浮かべただけで人間性が蝕まれていくからね、実は観察学習というのは、無意識にも行われているのだ、その学習を想起するだけで心が蝕まれてしまうのよ。

だから人間性を蝕む悪魔の顔が目に浮かんできたら手本の顔を思い浮かべるようにしよう。

残念ながら勝手に想起してしまう記憶を消し去ることは出来ないから。

手本を想起して上書きしてしまうのである。それが最善なのであるあ~る。





2022年7月18日月曜日

矛盾する脳陰謀も陰謀論も国も頭の中にある。

 ウクライナでは相変わらずロシアの侵略が終わる気配は見えない。むしろこのところ欧米の武器供与を受けたウクライナの方が色々と優勢に立っているようにも見えなくもない一方国内に目を向けると安倍元総理の国葬に関する論争が起きている。犯人は政治信条に対する不満ではなかったらしいけど、水位では政治信条に対する不満が渦巻いているわけだ一方、アメリカに目を転じると、決して平穏ではない。石油欲しさにサウジに接近してみたり、国内ではまだ、トランプの影に怯えているように見える。これらの出来事すべてに共通するのは「国」とは何なのかという問いだろう。国とは、社会性が高度に機能化抽象化された表象である、だから国の実態を記述することはできない。国に関する記述で言えば憲法があるけれど、憲法は国ではない。国という社会の基本的なルールである。野球にもルールはあるけど、ルールが野球ではないことと同じだよね。国の実態で一番リアリティがあるのはは国民の生活だろう。国民がどんな生活をしているのかをみればその国が良くわかるしかし人間の脳には確証バイアスというのがあって自分の信念を強化する情報ばかりを取り込もうとする。だからフラットに(偏見なく)俯瞰することなんてそもそも出来ないんだよね。日本でもアメリカでも陰謀論が巻き起こりいつの時代もプロパガンダが止むことが無いのは。そもそも脳の仕組みはどの時代でもどの地域でも共通だからなのでしょう脳の確証バイアスは人間の生まれながらのものだけど、生まれながら信念を持っているわけではない、裏を返せば信念は学習によって獲得されるものであると言える。そこには報酬系、他者よりも得をしたいという本能もあるからやっかいだ。刷り込まれるだけでなく積極的学習が起りうるのだ。

自分は自分であるという自己認識だって脳の働き。つまり、脳の中にはいくつも矛盾した仕組みが併存しているのである。結局、陰謀も陰謀論、プロパガンダも僕たちの脳の中にあるということだ。誰かが作り出した論ではないだからそう考える人(自分)も居るよねくらいがちょうどいいのかもしれないね。



2022年7月17日日曜日

犬という形をした愛と愛らしい容姿のロボット

 久々おやちの祈りと踊りhttps://00m.in/xfGsN

デイケアにLovotが来たっ〜〜〜(動画が貼りつかないorz)




写真に変更

高齢化社会に救いのテクノロジーAIロボットのLOVOTが昨日デイケアに行ったら動いていました現物を見て触るのははじめて、利用者のご老人たちも興味津々といったところでしょうか。

Lovotは何か仕事をするわけじゃありません、施設内を動き回って来所者に愛想を振るだけです。バッテリーが減ると目に電池のアイコンが出てすごすごとベース充電基地に帰って自分で充電しますそこらへんはお掃除ロボットルンバと同じだね、第一印象はLovotはよくできているなぁというもの・。肌触りや温かさに目線に目のの表情(ディスプレー)と癒しの要素や生き物の意外性(注意を惹く意味不明な行動)なども学習しているようです。画像認識で利用者の顔も学習し識別するひょっとしたらパーソナライズされるのかもしれないけどそれによって何かがかわるのかはわからなかった。

では犬と何が違うのだろうか。ここからは認知社会学の研究者として観察してみよう、幸い僕は犬と暮らしているから比較観察することが出来る。

まずは認知、犬はもちろんだけどLovotもカメラがついていて人を認知することは同じように出来る。

Lovotはおでこや鼻などにセンサーがついているので撫でたり触ったりするとその接触を認知することができる。もちろん犬も接触を認知する。

僕たちは、接触してその反応から学習をする、

。犬であれば花を触られるのはあまり好きじゃないんだなということが反応からわかるから、無用に触らないとか優しく触るとか次の接触が導かれるのである。僕はよくわからなかったけど。Lovotは喜ぶらしいよ。

目の表情や音(声に似ているけど声は出さない)認知に関して言えば認知とフィードバックがセットになっているLovotは生き物的に僕に学習を促す存在である。きっとそこらへんがLovotは良く出来ていると感じさせるのかもしれないね。パソコンとか普通の家電はそういう反応は示さないからね。

それでは次に社会性

この点に関しては、犬とLovotには大きな違いがあった。

僕の考える社会性とは他者の存在と行為を認知し自らの行為を引き出しあう関係性が存在することである。

認知は前述したようにLovotは良く出来ていると感じた。接触など直接的な行為に関してはフィードバックを通じて僕たちも学習可能だけど、非接触行為など直接的でない行為に関してはどこまで学習できるのか不明で恐らくは出来ない。例えば、犬は僕が食事をするという行為を観察し、食べ物が落ちたと察知すると素早く足元にきて拾っていく。それ故僕は犬に良くない食べ物チョコレート、ネギ類などを食べる時は普段以上に気をつかって落とさないようにする。犬の存在と犬への気配りが僕の食事行動を引き出しているのだ、

この関係性は相互的であって、麻痺の後遺症が残る僕が杖をついて室内を歩行すると犬は真剣に僕の様子を見ていて時に警告吠えをする。

不安定な僕の歩行が警告という犬の行為をひきだしているのだ。このような、他者のことを慮り行動を引き出すことこそ社会性の姿であろう。その際に使っているのは認知のリソースだけでなく想像のリソースである。

想像とリスク探知は脳の同じ部位の働きだから、リスクを察知することで非認知的に反応が創発されるのである。そしてこれがLovotには決定的に出来ないことであろう。実際僕がデイケアの施設内で歩行訓練をしていてもLovotは興味すら示さなかった。おそらく今後Lovotにもそういった人が感じるリスクの学習結果もインストールされるのかもしれない。老人が立ち上がったら警告するとかね、でも、僕は犬にはそんな学習はさせていないけど、出来るのだ。要するに自律的な学習がAIには出来ないということ。AIが自律的な学習を始めるのがシンギュラリティと呼ばれ研究者が予測している特異点からである。しかし犬には当たり前にできることなのである。そして社会性にとってはこの自律的学習と想像性リスク察知こそが重大な役割をはたしているのである。なぜならその非認知的リソースによる行為の創発が関係性を決定づけるものだからである。僕たちはこの関係背に時に「愛」という名前を与えているのかもしれない。

犬は僕を環境のリソースとして使って行為を創発するけどLovoTは僕を認知の対象として反応する。つまり、犬は僕をアゴで使うけどLovoTはそんなことしない。要するに犬は容赦ないけどLovot は、常に遠慮がちである。孫に置き換えて考えてみればわかるけど、変に遠慮されない方が嬉しいものだ。もちろん犬は賢いから、ちゃんと躾ければ遠慮するようになるのかもしれないけど、Lovotと犬を比較して気づくことは認知と創発の仕組みの奥深さであり、もしかしたらそれが愛なのかもしれないということであった。


2022年7月16日土曜日

リハビリの苦悩べき乗則との闘い神様教えてくだされ。

 リハビリは回復というより新たな訓練である。この新たな訓練はなかなか手強い。

一般的に練習と上達の間にはべき乗則があることがしられている。どんな法則かというと例えばある段階まで10日かかったとするしかし次の段階も同じように10日で進めるかと言うとそんなことはなくて10倍の100日かかるというものだ。練習量に比例して上達しないのだ、この感覚はスポーツをする人ならよくわかるだろう、さらに厄介なのは時にまるでゼロに戻ってしまうこともある今日は昨日より上手くいくだろうと思ったら昨日よりも出来なくなっている。

練習あるあるだよね、これ気持ち的にすごく挫けるやつなんだよね、だから一度上手くいったからと言って喜んでなんていられない安定的にできなければ進んだとは言えないのだ。この闘いは辛いよ、ほんとに。上達はマクロ化と並列化で進むらしい僕は歩行の補助で杖を使っているからマクロ化すると変な癖例えば身体のバランスがついてしまうでもそれは真の上達とは言えないだって、リハビリで直されるからね。それでも練習するしかない以上。。という感じなのだ

リハビリは365歩のマーチみたいな持久戦だ、1日一歩3日で3歩3歩進んで2歩下がる~そもそも一歩足を運ぶのだって大変なんだぜさて365歩進むために必要な日数は3倍の1095日必要ってことだもの。あはは。


誰でもやってみるとわかるけど、

右脚に体重を乗せたまま右足を前後にステップするのは無理だ。

だから右足をステップするときは左脚に体重が乗っていなければならない。

しかし僕の左脚は麻痺していてお飾りになって力を出さなくなった筋肉はまるで丸太のように重いだけだし、

感覚障害もおこしているから体重が乗っているという感覚も、

よくわからない。

当然左脚で片足立ちなんて曲芸みたいなことはできない

要するに元気な右足をステップするには左脚が不可欠だということだ、

だから僕は脳出血を発症した途端に立っていられなくなったのであるふむふむ。

だから僕のリハビリは左脚の膝を筋力で伸ばす訓練からはじまって、

両足で立つ訓練、

左脚を支えにして右脚をステップする訓練、

左脚をステップする訓練(支えるよりもっと難しい。動作は複数の筋肉のパッケージだからね。そして歩行というのは立位と立位の連続を動作でつなぐものだから。困難と困難を更なる困難で接続することなのである。そしてそれをマクロ化して無意識で出来るようにならなくてはならない。

1つの困難を克服するためには筋力を取り戻す、筋肉を使うなど様々な訓練が必要になるから。

その道のプロである理学療法士のサポートが無ければ絶対に無理である。

病院で6か月自宅で6か月この訓練を続けてきたけど、

それでもまだ歩行の自動化は出来ていない、ひとつひとつ確認しながらだから当然時間が掛かる野党議員じゃないけど普通に牛歩なんだ。(野党から立候補しようかな)

社会保障の財源は厳しいから、国の医療制度的にも最初の上達期6ヶ月つまりべき乗則手前で打ち切られてしまう(リハビリは生き死にに関係ないからという話もある、まじか!)。訓練である以上日々前進を実感したいのだけどね。なかなか思い通りにはいかないのだ。僕のリハビリには常にべき乗則が立ちはだかっていて、その結果から導かれた医療制度がこんどは核シェルターの扉のように立ちはだかっているのだ。まさに人生のワンツーパンチなのだ。汗かきべそかき鼻水を垂らしてもおしっこは漏らさないように懸命に歩いているのだよ(えへん)きっと僕が歩いたその跡にはきれいな花が気ッと咲くよ。

神様。あなた様はなんでこんなにも複雑でホリスティックな仕組みを生命にお与えになったのでしょうか。そこになんでべき乗則なんていう数学的困難もお与えになったのでしょうか?



2022年7月15日金曜日

今朝方僕はほとんど眠れなかった、夜中2時ごろトイレで目が覚めた際に不意に出版がしたくなり本のタイトルがいきなり頭にうかんでしまったのだ。その後は本の粗筋、構成が頭の中を巡って寝るところではなくなってしまった。真夜中でスケッチブックもパソコンも開くわけにはいかず、熟睡したらみんな忘れちゃいそうだったからね。幸い明るくなって起きる時間になったので早速タブレットを開きメモをとった。しかし頭の中に浮かんだ文案は膨大でとても、メモでは描き切れない。そこで食後すぐにパソコンを開きこのブログと並行して文字を打っているここまででおよそ1000文字。1冊の本で考えたら微々たるものであるが骨格が定まればあとはいくらでも注ぎ込みたいことがある。しばらくは熱中できそうである。 




2022年7月14日木曜日

成長上手は拡張上手

 成自分を成長させてくれる会社昔採用面接で応募学生に入社の決め手は何ですかと聞いたら学生が答えたのです。その時僕は、あなたを成長させるために会社があるのではないし、成長させてあげてしかも給料を払うというのは正直納得できないと考えていた。しかし学生にとってみれば就職とは自分を成長させる手段であると考えるのも当然だろう。だって、成長と言うのはおかれた環境と切り離せないものだからだ、人は環境によって様々に成長する、つまり、人は自分の成長を環境に拡張していると言えるのだ。大学だって成長を拡張するための環境だ。企業だって就活生ににとってみれば自分が成長するための手段と考えて企業選びをする。だからブラック企業は論外だけど、ねるい企業も嫌なのである。僕たちは大学や企業に所属しなくても、様々な機会に成長を拡張することが出来るだから成長上手は拡張上手だと言うことも出来る。

しかし自分の成長のためには自腹を切ることを躊躇わない人がいる一方で、お金を貰いながら成長させてもらっちゃおうというなんとも都合の良い人も居る。あまりにも都合が良い考え方だけど合理的と言えば合理的でもある。ただそういう人は自ら拡張することがあまり上手だとは言えないだろう。世の中そんなに都合よくできていないもんね。僕たちはパスコードやパスワードなど記憶の多くをスマホに拡張している。マイナンバーカードなどは国民であるというアイデンティティまでもスマホに拡張出来るのだ。僕たちはもはや素手で生きているわけじゃない。現代は上手に自分自身を拡張して上手に生きていく時代であることは間違いないのである。あ~る。





2022年7月13日水曜日

デイケア人間学凍える老人

 熱中症の予防と言うことなのでしょうがデイケアはエアコンが効いています。コンクリート打ち抜きで開放感のある室内には大型のエアコンが3台設置されている、雨も降った昨日は蒸し暑い感じだったので、エアコンをしっかり効かせようとされたのでしょう。でもご老人たちは寒い寒いの大合唱でみんな毛布を被る始末。熱中症どころか凍えているのです。高齢者は基礎代謝が低いからなんていうレベルではありません僕だって寒いぐらいだからね、理由は明快、体格も良くサービスで忙しく動き回っているスタッフさんたちは暑いのです。一いっぽうで私含めた利用者はじっと座っているだけ危ないから動き回らせてもらえないだから。そしてエアコンの設定を変えるのはスタッフさんなのです。そうなれば当然部屋は冷えてしまいますよね。ご老人たちが必死に訴えてもスタッフさんたちはまた言ってるくらいにしか受け止めていません。そのうちエアコンを止めてくれましたけどね。要するに適温は肌感覚だと極めて主観的なものだということなんです。エアコンのリモコンについている温度設定じゃなく、温度計での室温管理がやはり大切だと言うことなんです。はい

でもこれ、デイケアだけじゃなく職場あるあるですよね。




2022年7月12日火曜日

リハビリというサブスクモデル。

 昨日は訪問リハビリの日、家の周りを30分くらい歩行訓練だ。30分といえば、かつては家から会社まで行ける時間だし。毎朝犬と散歩して歩いたけっこうな距離なのだけど、今の僕にとっては家の周りをやっと一周するのに掛かる時間なのである。転倒しないように用心して歩くのでかなり疲れる。ただ歩くことに集中し過ぎても疲れるだけなので同行してくれる理学療法士さんと雑談をしながら歩いている。家の周りは人通りもあるし車も走っているから気は抜けないけどね。昨日の話題はやはり選挙結果僕はガーシーの当選を嘆いていた、この人に投票した人たちは日本の未来よりも著名人の下半身の方に興味があるのかとね。まあ、障害を理由に投票に行かなかった僕に批判する権利は全くもって無いのだけどね。ごめんなさい

さて、理学療法士さんが言うに、今回の選挙で、理学療法士の資格を持った議員さんが落選してしまったのだそうで、療法士界隈はざわざわしているのだそうである。リハビリの診療報酬が引き下げられるのではという懸念でね。

リハビリは医療行為なので、財源は健康保険と介護保険という逼迫している社会保障費からである。国全体の財源が不足する中で、国民の高齢化に伴って増加し続ける医療関連の社会保障費には常に、削減の圧力が掛かっているのである。その中でも特にリハビリは治療を施せば治癒する類の医療と異なって長期にわたって持続的に改善に取り組むものだからある意味ここで終わりと言うのが無い。僕にしたって回復期へ転院をした際は、ピカピカになって退院できるものとどこかで考えていたけどそんな劇的なことはめったに起きないのが脳卒中の後遺症のリハビリである。脳の神経細胞は決して自然に再生しないから当然と言えば当然なんだけどね、手術で切開した頭皮の傷は1か月ほどできれいに消えてしまったけど、僕の脳みそ本体はダメージを受けたままなのである。

MRIで見るともう、出血とか出血の跡はみられないけど、血種となって除去された脳の一部は空洞のように見える。入院中並びに退院後の療法士さんの技能と献身によって僕の身体の運動機能は日々良くなっていることを実感しているけど、恐らく僕はこれをずっと続けていくのである。要するにリハビリは時間が掛かるのである。患者の数は完全治癒が無いから累積していく。財源からみればリハビリは高額のサブスクに加入しているみたいなものなのである。だから本来は患者本人の医療保険で賄うのが適切なのであろう、実際僕もリハビリ病院での医療費に関しては生命保険の医療特約で賄った(医療費の自己負担部部部分だけだけどね。)

罹患してしまうと支払い能力はぐっと下がってしまうので。支払い能力のあるうちにサブスクしておくことが望ましいそれが、健康保険、介護保険そして、民間の医療保険なのである。これらいずれも病気にならないと払う一方なので一見すると無駄に思えるけど、実際大病をしてみるとその有難さが身に染みる。

さて話を選挙でざわつくリハビリ業界(そんなのあるのかね?)に戻そう。たった一人とはいえ理学療法士の国会議員が居なくなると社会保障費の配分に関する声が届かなくなるのだそうだ、悪い言い方をすると利権の構造だけど、民主主義において財政支出の配分を決めるのは政治の仕事だからね。

でも療法士さんたちはそういったことにきっと疎いし純真無垢なのだろう。だから今回の選挙に関しても、投票に関する働きかけは誰からも微塵も無かった(だったら先に言ってよ~。松重さん風)。

そして落選し、本当に素晴らしい人たちばかりの世の療法士さんたちがざわざわする。

その一方でガーシーとか元おニャン子とかが当選しちゃう。投票に行かなかった僕が何一つ言えた義理じゃないんだけど、次の衆議院選挙では忘れずに候補者を選ぶ尺度としておきます。そして必ず投票に行きます。

療法士さんあってのリハビリ





2022年7月11日月曜日

選挙結果よりも心配なこの国の行方

 今回の新型コロナ感染が暴いたのはデジタル後進国の実態である。特に行政サービスの後進国ぶりは見るも無残である。僕は今回障がい者になって特にに実感している。デジタル庁とかいう税金の無駄遣いと、政治家のポーズの一方で、ワクチン接種券はいまだに本当に券であり紙なんだよね。選挙の投票もいまだに用紙。こんあ滑稽な後進国他にあるだろうか若者の投票率が低いとかいうけど電子投票になんで変えないのだろうか。デジタルネイティブに最適化した投票方法にするのは当たり前でしょ?それがいまだにガラケーを使っている高齢者に最適化した紙を郵送ってもはや政治家も官僚もバカばかりだ。SDGSとかいうんだったら障碍者の僕にも適した投票方法を導入して欲しいものだ。そんなバカな官僚と政治家が唯一力を入れてデジタル化を進めているのがマイナンバーカード、そう税徴収である。税金の申告は障がい者の僕でも病院でも自宅でも出来る。けれども選挙の投票は動かない左脚を引きずって出向かないとできない、これはどう考えてもアンバランスである。でも、そんなこと、政治家だって官僚だって気づいて当然でしょ?もう、わざとめを瞑っているとしか思えない。デジタルを基幹インフラと捉えていないからみずほにしろKDDIにしろ大規模なシステム障害が起こるのだ。このネットワークの時代に、僕は病院を渡り歩くとき自分の脳MRIの画像データをハンドキャリーしている、バカな話である。僕は毎日自分の血圧体温といったバイタルデータをiphoneにいれているけれど通院の際はアプリの画面を医師に見せるだけだ、もう笑っちゃうくらいばからしい。

僕は昔、パソコンのデイスプレイを写真に撮ってそれで年賀状を作ったことがあるけれど、恐らくA/D(アナログとデジタル)コンバージョンの回数が多いほどデジタル後進国ということではないかな。徴税のところだけ一生懸命やっていても、そもそも社会が活性化しなければ税収だって増えないそんなこと脳卒中で脳が壊れた僕にだって自明の理である。昨日の選挙だって、投票券の郵送投票用紙の配布、記入、開票、集計で、最後は結局デジタルである、それなのに、わざわざアナログ処理を入れて無駄なことをしている。もうあきれる状態を通り越して、悲しく心配になってくる。シクシク(T_T)




2022年7月10日日曜日

気をつけよう心が動いたその瞬間を

 嫌な気分になる事件の翌日僕はなるべくTVニュースを見ないようにしていた。しかしなんだか犯行動機にちょっと宗教も絡んでいる様子は気になる。こういうときネットの調査分析能力は驚くべきものがある。もちろん。デマや憶測に満ちているので全く信頼は出来ない。しかし宗教嫌い僕の脳のバイアスが情報を引き寄せてしまう。人間の脳って恐ろしいものですね自説や自分の価値観を勝手に強化しようとするのだから。だから情報を手にしたときはそれが引き寄せてしまったものかどうかをちゃんと吟味しなければならない。さて今回僕は、凶行の様子を何度もみるのが嫌でテレビのニュースを見ないと決めたわけだけど、一方で宗教に対する自説を強化する情報を引き寄せていることは間違いない、それは事実でなく見聞による偏見だ。つまり、重大な事件に目にして心を揺さぶられた僕の心は目からの情報を遮断すると決めたにも拘わらず偏見を強化する働きを見せたのだ。なににつけ心が揺さぶられる瞬間は心に隙が生まれる瞬間であると言えるかもしれないね。心が動くエネルギーは常に僕たちに何らかの衝動を起こさせる。時にそれはカメラのシャッターを切ったり、エッセイやグラフィックを書かせたり対話や会話を始めさせたりする原動力なのだけど。偏見を強化する原動力にもなっているのだ、今日の標語は。気をつけよう”心が動いたその瞬間を、”ネガティブでなくポジティブな方に転がりましょう。



2022年7月9日土曜日

学習を阻むゾンビドグマ(教義)

 嫌な気分で昨日が終わりそれでも夜は開け新しい朝が来た希望の朝だ。希望の朝にはどんなことを考えるのが適切だろうか。僕は学習のことをかんがえることにした

学習にはきっと色々な定義があるのだろうけど僕が考えるに学習とは知識を得て信念や生活様式が変わることである。獲得と変化の2つのフェーズで構成されるものだ、学生時代に行う学習は主に獲得を指しているだろう一方で自立してからの学習は変化に重きが置かれるのではないだろうか。自立とは為すべきことを定めて保有する能力をもってそれを遂行することだから何事でも自分で決めることができる状態だ。だから常にどう在るかが大切になるわけだよね。僕は教育者じゃないけど仕事で何回も研修の講師をやった。研修の目的に沿って達成目標を定め、受講者に知識と体験を渡していくのだけど。研修実施直後に残念な思いをしたことが何度もある。律儀な受講生が僕のところにきて、勉強になりましたとお礼を言いに来るのだ。知識は常に文脈の中で創発するものであり、情報は渡すことが出来ても知識渡すことはできないのだをそれを体感してもらうために情報と同時に疑似体験を準備するのだけど、疑似はどこまでいっても疑似であり、樹上者の本物の文脈にはならない。期待するのは受講者の生きた文脈の中の知識を創発してもらうことなんだよね。それが出来ている場合出てくる言葉は勉強になりましたじゃない。何をはじめてどう変わるかであってほしいよね。それこそ、受講生の中で創発が起きた証だからね。でも、これかなり難しかった。僕の技量の問題だとは思うけど、受講生が研修慣れしてしまっていたことにも一因があったように思えるまた、学習の前提である自立の状況もあるよね。会社の中では知識よりも作業が優先させられることも少なくない。工業化の時代の頭は家に置いてきてとにかく手足を動かせというゾンビドグマ(教義)が今も風呂場の黒カビのように根強く残っているのだ、仕事を時間で測る思想もそのひとつだと思う。知識を創発することより、作業が大事、作業はやらなくてはならないことだから優先する、でも自立した人間として本来やるべきことが定められないのは致命的な問題だ。ゾンビドグマ(教義)が社員の自立をどこまでも妨害する、これが組織の中でなかなか真の学習が行われない遠因になっているのかもしれない。なんだか最後は希望の朝っぽい終わり方じゃなくなってしまったなぁ(苦笑)希望と言えば、今回の新型コロナウイルスの影響で働き方が一気にかわってきたことかもしれない。在宅や副業によって個人がどう知識を創発するのか、組織としての創発の文脈をどう作るのかが課題として顕在化されたので、これを機に工業化時代のゾンビドグマが一掃されるかもしれない、これはきっと希望に違いない。ないないない。

ゾンビドグマに汚染されているとゾン会社になっちゃうぞ~





2022年7月8日金曜日

さあ冒険に出よう、脳溢血だって冒険だ、でも脳溢血には気をつけてね。

 このブログをずっと書いていて良かったなと思うのはこういった病気になって一年前の僕は何を考えていたのかを振り返れることだよね。丁度「1年前書いたのは脳溢血にきをつけなはれ!という記事だった、2年前はそれが人生の目的なのだと書いていた。

ブログは誰でも読める場所に置いているので、日記とはちがう。日記はものすごくプライベートなもので基本他人に見せるものじゃない鍵付きの日記とか昔あったよね、また机の鍵のかかる引き出しに入れて親とかにも見られないように気遣うものである。一方ネットのブログは他人に読んでもらう前提で書くものだ。僕はあまりそのことを意識しないで書く初めてしまったので、今年に入って2月からだったか、芥川賞作家辻仁成さんのオンラインの文書教室にずっと参加していた。他人に読んでもらう文章はどう書くのかという勉強を今更はじめたのである。(ヲイヲイ)病後に書いたものが病気の影響もあってあまりにも酷かったこともあった。病気の記録としては良いのだけどね。文章教室ではいろんなことを学べたけど、前述したような日記と作文とエッセイの違いがわかったことは良かった。さて1年前のブログ記事は他人に読んで欲しいブログであった。それは今回僕が脳溢血という病気になり、その後の後遺症で苦しむ中、少しでも同じような境遇になる人が減って欲しいと思ったからだ。ひょっとしたら僕自身発病を防ぐことが出来たのかもしれないという後悔の念もあった。今思えば2年前のブログに書いたように脳溢血という大病もそして後遺症に向き合うリハビリ生活も生命の危険に近づき病の裏側を知るという人生の冒険の1つであり人生の目的なのかもしれない。脳溢血が人生の目的だと言うときっと変に聞こえるかもしれないけど。僕はこの病気を通じて、生きる事の意味とか愛の形とか友人や仲間そして専門家の有難さと感謝の念、自分の身体に対する感謝、いきがいとやりがいと仕事などなど本当に多くの大切なことを考えた。確かに後遺症で僕は自由に旅して友人に会うことは今はできないけど僕はずっと、心と頭の中で、すでに亡くなっている人も含めて本当に多くの人と一緒に冒険をしているのだ。これが人生の目的でなくてなんだといえるのだろうか。やがて僕は回復して昔のように行動できるようになるだろう。でもそうなったときに今回の出来事を振りかえった時、間違いなく最悪の出来事だったけど、最高の意味ある経験だったと思えるのではないだろうか。1年後の今日のこのブログを読み返すのがちょっと楽しみな朝4なのである。




2022年7月7日木曜日

リハビリと禅

 昨日僕は転院一周年を迎えた。要するに本格的リハビリ開始から丸一年経ったのだ。一年を機に過去のブログをながめていたのだけどまあ酷い酷い。誤字脱字に誤変換、変換もれしたひらがなのオンパレードにぐちゃぐちゃなフォントサイズ。この時期はフェースブックへのリンクも上手く張れず人の目に触れる事も少なかったのでそのままになっていたのだと思われる。7月2日から再開ひて文章がややまともになってきたのは8月下旬。脳出血から丸2か月は僕の脳は高次脳機能障害にあったのでしょう。まあ出血起こして手術で脳を弄ったわけだからそれも仕方ないよね。ブログはそのままにしておくのも気持ち悪いのでさっと見て酷すぎるものだけ校正しておいた。推敲はしていない。さて8月に入って僕は弓とリハビリという記事を書いていた。その中で退院して家に帰ったら「弓と禅」を今一度読もうと書いていたので開いてみた。リハビリでは常に姿勢と重心の位置を指導されていて、その際僕は中学でほんの少しだけ齧った弓道を思い浮かべていた。それで弓とリハビリというとう記事を書いたのだけど。本を読み返してみるとこれがまた本当奥深く示唆に富んでいる。例えば40ページに、両手だけにその仕事をまかせ。他方腕と筋肉はどこまでも力を抜いてまるで関りの無いようにじっと見ているのだと言うことを学ばねばなりません抜粋とある。脳の右被殻下にある運動野をやられた僕は筋肉に力を入れたり抜いたりする指令が出せなくなっている。だからリハビリ開始当初は筋肉は力が入らず弛緩していて力を入れることを覚えるのがテーマであった。しかし今度は力が入りっぱなしになってしまい力を抜くことがテーマになった。人間の筋肉ってよく出来ていて反対の動きを出す筋肉と対になっている。だから一方が働く時はその反対側の筋肉は緩んでいなければならないでもこれを意識的にやろうとすると本当に難しいのである。僕は脳出血でより困難になっているけど、実は健常な状態であっても、正しく筋肉を働かせることは実は難しいことなのである。これは呼吸も同じで、座禅やヨガをやる人にはわかるとおもうけどちゃんと呼吸しようとすると容易くないオイゲン・ヘリゲルにとって弓術は禅への予備門であったそうであるがこの本を読み進むとなんだかリハビリも禅の一種の予備門であるように思えてくる。だから僕がリハビリ中にこの本のことを思い浮かべたのも座禅アプリで座禅をしたいと思ったのも決して偶然ではなかったのであろう。素晴らしい本だけど帯のキャッチがちょっとチャラいなぁ。(笑)別にこの本読んでもスティーブジョブズになれるとは思えないよ。



2022年7月6日水曜日

僕の人生を巻き戻す転院の道程そして転院からはじまる新たな人生

 丁度一年前の今日、僕は救急搬送され手術を受け入院した築地の聖路加国際病院から東京都リハビリテーション病院(以下東リハ)に転院した。搬送された時はストレッチャーに乗って怒涛の如くER室?集中治療室?に入った何となくも記憶はあるのだけど妻が付き添っていてくれる安心感もあって目を閉じていてあまりよく覚えていないのである。転院に際しては当たり前だけど一度退院することになる。病院を出るときは車いすに乗っての退院になったけど病状に順応していた僕には違和感はあまりなかった。福祉タクシーが迎えにきてくれて、車椅子のまま車に乗り込んで病院を離れた。聖路加国際病院は昔少なからずお世話になっていたし、自宅から会社まで徒歩で出勤していた時少し遠回りして築地界隈も歩いていたので、病院の外は新鮮というよりはどこか懐かしい風景が広がっていた。タクシーはその後、堤通りある東リハへ水戸街道を経由して向かったがその道筋はかつて聖路加で子供が生まれた時僕が当時住んでいた向島の自宅から車を運転した向かった道を逆に辿るものであった。そんなことを思い出していたらかつての住まいだったマンション、子供たちが通っていた小学校、幼稚園の前などを通り、まるで僕の人生を巻き戻すような道程となった、まさかこんなかたちでまた通過することになるとは当時の僕は想像すら出来なかった。色々あったなぁ、今回の病気はその中でも出色の出来事だけど。案外地理的には狭い世界で僕は生きてきたのである。井の中の蛙だよね。僕は世界の広さを知らずして車椅子生活になってしまったという実感が不意に湧き上がってきた。今回の転院も妻の獅子奮迅の働きで短期間で実現できたものであり。障害を負った実感はあったけど、未来に対する不安はほとんど感じていなかった。本当に僕は恵まれている、脳出血をおこしてしまったことは不幸な出来事だったけど。この困難を乗り越えるためのサポートを僕は受けることが出来ているのだからね。車は桜餅で有名な長命寺の前を通過し鐘ヶ淵の東リハ正面入り口に静かに停車した。そこから僕の本格的な新生へのリハビリが始まったのである。







2022年7月5日火曜日

得意な知性を磨こう

 東国原英夫氏、auの大規模通信障害に「インターネット社会を俯瞰で見直した方がいいんじゃないかな」

どうでもいい記事なんだけどそれでもちょっと感じることがあったので。この人間違って知事とかやっちゃったけど根っからお笑いの人なんだな~と。人から笑われる業を背負った人という意味でね・情報通信網は社会の重要なインフラだから今回のような障害がおこると多くの人の生活に困った影響が出る。だからそれを取り上げて発言したくなるのもわかるけど、こんなにもピントがずれているんだと再発見したのである。(ヲイヲイ今更かよ苦笑)トラブルは元から正せば良いという発想があまりにも貧困だ。僕たちは社会をどんどん複雑にしていく、それは社会とは多くの個性のネットワークにより出現する現象だからであって、今回の障害も通信網という複雑な仕組みが社会の複雑さと絡み合って発生したものだからその原因を還元主義的に特定して対処できるようなものではない。様々な条件が複雑に重なり合って発生する台風や地震などの自然災害と同様な現象だと言えるだろう。知性ある文化人を自称するなら複雑さに対する正しい見識と敬意を備えていて欲しいものだ。複雑さが苦手なら社会現象でなく得意な575で自分の感性を言語にする知性だけを磨いていれば良いだろう。誰にでも得手不得手はあるものだ。不得手なことにまで知性を発揮しようとするからお笑いになってしまうのだ。もっともそうやって笑われることで社会的な認知を得てアイデンティティを確立した人だから、らしいと言えばらしいのだろうけどね。この氏の発言も通信障害が生み出した社会の困難の一つなんだろうね。KDDIさん頼みますよ困難を増やさんといてくださいな




2022年7月4日月曜日

デイケア人間学創発するそれぞれの物語り

 デイケアに行くと色々な高齢者と出会うことになる定義上高齢者手前の僕は話も合わないのでデイケア引きこもりを決め込んでいた。

しかし皆さん人生の達人だからそんな僕を殻から引っ張り出してくる。

その代表が女エリオットネスとキューポラのおっちゃんであるがそれ以外の高齢者も達人要素を持っている彼ら彼女らの他人の殻を拓くオープナーは自分語りなのである。

アンタッチャブルな女エリオットネスですら自分語りをする。

気をつけなくてはいけないのは自分語りをしたからと言ってもだから自己開示好きとは限らないことである。

そういった複雑な心模様には要注意である。

また自分語りだけが好きな人もいて、それらの人は他人の殻に興味は無い。

自分語りをしたいだけなのである。

見分け方は簡単、同じ話を繰り返すことと、話にどこか自慢要素が入っていることである。お金の話や社会的立場などの話、

要するに他人が引くような話をはじめる当然他人の殻は余計硬く閉じるのである。そりゃそうだ。

こうして僕がデイケアに通っていると意図せず多くの人生の先輩の物語りをたくさん知ることになる。それはそれで面白い。僕は他者の物語りを意図的に聞き出すナラティブインタビューをたくさん行ったけど。物語りは、かなり文脈に依存していることがよくわかった。他者に関わろうとする姿勢がその人の物語りを引き出すのだ。ナラティブは回想法という認知症予防に効果的であると研究されているけど文脈があれば創発するものであるらしい。

創発するナラティブ


2022年7月3日日曜日

超小型PC(umpc)を手に入れた日

 

僕デジタル旧石器時代の人間である。
デジタルと言えばスマホではなくパソコン世代である。もちろんスマホは手放せないけど、こういったブログを書くのも買い物をするのもパソコンLOVEな人間なのだ。
Appleからipadが出た時、すぐに飛びついたけどあまりにも使いづらくてほとんど使わなかった。当時はApplepencilも無かったしね~。
windows95のカウントダウンで盛り上がり。指をくわえて涎を垂らしながら横目でMachintoshSEを眺め登場したPowerMACに飛びつき、秋葉詣をしてケースにマザーボードとCPUを買い集めてPC互換機を組み立て登場したばかりのLINUXをインストールしてネットワーク遊びをして、
MIDIを繋いで曲を作ってソニーに送ったり当時高額だったフィルムスキャナーを買ってフィルム写真をデータ化し、
カラープリンターで商品カタログを作ったり当時256色しか出せなかった(苦笑)PC386Mというエプソンの当時王様だったNECの互換機には全然不釣り合いなハイパーフレームというフルカラーボード(10万もした
)をぶちこみ、
3Dでフルカラー画像を作って年賀状を作ったりとまあ遊びまくって結構散財もしたけどとても楽しい日々を過ごしていた。
そんな中、僕は肉体労働の仕事からデータを弄るのがメインの仕事にかわり。パソコンは遊びの道具ではなく仕事の必需品になった。世の中は2000年問題もクリアしパソコンはITの主役の座を獲得していた。
やがてiphoneが登場し、ジョブズとゲイツが築き上げたパソコンの時代はあっという間にスマホの時代にとってっかわったのである。
激変の予兆はケータイのimodeにあったのであろう。考えてみればimodeの時代も僕はパソコン一途だった。
ここまで延々と僕がいかにパソコン原人なのかを述べてきたけど。それは今回脳卒中で入院した際もやはりそのままで、妻に頼んで病室にパソコンを持ち込んでいた。さてパソコンにしてもiphoneにしても僕たちは今インターネットに自分を拡張しているからWiFiが無いと話にならないすごい時代になったものですwindows95の頃はまだパソコン通信だったからね~さてそんな原人の僕が今メインで使っているパソコンはHPのwindowsパソコンであるずっとmacbookproを使っていたのだけど壊れてしまい同じスペックで買い直すのは高くてね~HPならほぼ同じスペックで費用は三分の一と圧倒的にコスパが良いのだでも病室に持ち込むにはさすがに大きいので妻に頼んで持ち込んだのはずっとサブ機で使っていた11インチのmacbookairであった。
このパソコン本当に僕の人生のターニングポイントで役立ってくれている愛機だ。しかしapple はもはやこのサイズのパソコンをアップデートしてくれないので、今回はipadminiを購入した。デイケアに持参する小型のデバイスが欲しかったのである。しかしかつてのipadの時同様文字入力では全く不便で
デジタル原人にとってキーボードは石器と同じくらい必需品なのである。
そこで今回ipadmini用に売られているキーボードを別途購入してみた。その結果、11インチのmacbookairよりもさらに小型のPCが出来あがったのである。ipadminiの良さは小さいだけでなくセルラーモデルがあること。WIFIが無くてもインターネットに自分を拡張できるのだ。昨日のデイケアに早速持参しデイケアワークに勤しんだ父ちゃんなのであった。しか~し昨日はなーんとauがまさかのデータ障害。僕がipsdmini用に契約したpovoも使えなかったのある。父ちゃんが苦心した超小型PCはwindows95pc同様、ネット接続無しのスタンドアローン機だったのであ~る。あ~る。しかし思惑通り文字入力は快適。左手が麻痺した僕にとってキーボードのタイピングは右手一本だからキートップの小ささは全く苦にならない
まさに僕向きの超小型PC(umpcと言うらしい)の出来上がりである。




メイン機と比べるとこの小ささ

メイン機はやはり大画面派です

3つ並べるとこんな感じ
umpcは抜群に小さいけどどこでもインターネットにじぶんを拡張できる優れもの


愛機11インチairと比べてもこの大きさ

applepencilはipadminiには必需品のデバイス(本体に比べちょっと高いのがネック)

2022年7月2日土曜日

野生の掟

 今朝ネットニュースを観ていて2つの動画に出会った1つは庭で遊んでいたヨークシャテリアが野生の鷲にさらわれたというショッキングなもの。もう一つはカラスに襲われていたフクロウの雛を助けたという動画。そしてこんあのもあった杉本彩、犬猫「夏の外飼い」に警鐘 過酷すぎる状況に「ネグレクトという虐待です」と改善訴え犬と暮らしているとこういった記事はスルー出来ないそもそも人間も含めて生き物は野生の状態では常に弱肉強食の世界に生きているわけで、そういった動物を人間が飼養することで野生の掟とは異なる生き物と自然の関係そこにどう人が関わるのかといった複雑な世界が登場することになる。人間にはかわいいから可哀そうという感情が芽生え、保護してあげたい守ってあげたいという意識が芽生える。野生でも子育てのときに見られるものだ。一方で生存という自然の掟は保護の意識よりも上位にある理だろう。時にそれは無慈悲で暴力的に思えるけど、世界はそうして持続されてきたわけだからルールチェンジすべきものでも無いのだろう。例えば僕たちはこの守ってあげたいという意識の働きを拡張して僕たちが生きている地球環境すらも守る対象にすることが出来る。本来で言えば僕たちは地球に守られている存在なんだけどね。僕たちは自分たちのためにこの地球から多くを収奪してきた結果。地球は可哀そうな状態になってしまったわけである。人間はもはや地球にとっての鷲やカラスになってしまったわけだね。守ってあげたいという意識は関係性をあらわしている。だから守ってあげたいと思うと同時に守られていることへの感謝も忘れてはいけないのでしょう。僕はそれが正しい関係性の在り方に思える。ちなみに鷲にさらわれたヨークシャーテリアの叫び声にめっちゃ落ち着かなくなったルイちゃんなのでした。




2022年7月1日金曜日

380日ぶりのお風呂

 僕は昨日自宅でシャワー浴をした、

ちゃんとしたシャワー浴で言うと自宅ではなんと380日ぶりである、

もちろんその間病院や退院後はデイケアで入浴しているからそんな不潔でばっちい話ではない。

半麻痺の一級身体障害者にとって入浴というのはオリンピックの金メダルぐらいハードルが高いのである。

僕から見える浴槽の縁はオリンピック走り高跳び決勝のバーと同じ高さなんだよ〜ひぃ〜。

僕の左脚は筋肉が躍動する脚ではなく丸太がぶらさがっているような感じなのである。

健常な人も脚に同じくらいの太さの丸太をくくりつけたらどれくらい大変か想像できるのではないだろうか。ちょっとした段差ですら乗り越えられないことはきっとイメージできるだろう浴槽の縁はちょっとした高さではない。

そびえ立つタワーマンションのごとき様相なのである。

とてもじゃないけど丸太脚でまたぐ事なんか出来ない、

だから僕にとって脳卒中の後遺症から日常を取り戻すと言えば一人で買い物に行き犬の散歩をして浴槽で入浴することなのである。あ〜る。

浴槽には入れないけど自宅でシャワー浴をするというのは大前進なのである。

手すりのない浴室(賃貸だから工事できない)に入り杖無しで立位を保持して、シャワーチェアを浴室に運び入れ、浴室のドアを閉じて、頭や体を洗い流して、滑らないように石鹸を流してから再び立ち上がってシャワーチェアを片しドアを開けて(片さないとドアが開かないorz)脱衣室に出ていくこれをずっと杖なしの立位で行い決してふらつかない(下が濡れているからふらついたら危険が危ないのです。濡れた体を拭くのは(妻に手伝ってもらい折りたたんだシャワーチェアはまだ浴室内なので脱衣室でもずっと立っていなくてはならないので)。絶対倒れずにね。


僕の入浴イメージ