イニエスタの決断というドキュメンタリー番組を放送していた。来日からのいろいろなエピソードもさることながら番組の核心は選手生命を奪いかねない大けがとそこからの再起に至る努力であったもちろん僕のような脳疾患では無いけれど右太ももの筋肉の健を断裂するというサッカー選手としては致命的なもので、そこから車いす杖歩行リハビリと僕が歩んでいる道と同じようなプロセスである。彼の姿はリハビリに向き合う僕を勇気づけてくれた。あの日ことと言うよりあの日をきっかけに起こったことを想うと胸が熱くなりますっとイニエスタ、わかるわぁこの感じそしてプレーに戻る30のプロセスが設定されたLOIMPORTANTE ES EL CAMINO!大切なのは道のり確かにその通りなんだよねいにえすたみたいに専属の優秀な療法士が僕にはいるわけではないから色んな場面で療法士の力を借りながら自分で道のりを決めて進めていくしかない。僕にとって次に達成したいプロセスは車いすでなく、杖歩行で外を歩くことである。先週月曜は家の外に出たし。昨日はデイケアの外およそ150Mを歩いた。僕に必要なことはその先のプロセスをきめることである。明日のリハビリまでに考えてみようと思う。
2022年2月28日月曜日
2022年2月27日日曜日
僕は2001年9月11日朝、ニューヨークの高層ビルに飛行機が突入し激突する映像をテレビで観ていたそれは映画でも観たことがない恐ろしい光景であった。あの、飛行機に乗っていた人は?ビルの中に居た人はどうなったのだろうと思うと震えが止まらなかったことを記憶しているとともに、こんな地獄のような出来事は2度とみることは無いかも知れないと思ったものだ、その後映像技術が進歩すると、多くの映画でよりショッキングなシーンがまるで現実であるかのように上映されるにいたり恐ろしい光景にだいぶなれてしまったように思えるしかし映画やテレビドラマはあくまでも虚構である。現実の痛みはない。現実の痛みは思うだけで心が苦しくなるものだ。そんな折、昨日のニュースで、ウクライナの高層マンション?にミサイルが打ち込まれる映像が放映されていた、9.11と違うことはミサイルを打ち込ませた人も実際に発射ボタンを押した人もおそらくは自分は安全な場所にいて凶行に手を染めていることである心の痛みを切り離した戦闘が日常化しているのだ、。もちろん我が身を賭したことで9.11が美化されることはないけれど、戦争や攻撃の形は身体や心から切り離されてどんどん変わっていくのだろうね、先日NHKでAIがどんどん武器に導入されていることが紹介されていたけどおそらく緊張が高まる中でウクライナもそういった無人の高性能な兵器を揃えているに違いないそれらがどのタイミングで投入されるのかわからないけど、僕たちは今後の戦闘から目を離してはいけないのだろう。それはきっと、今まで以上に衝撃的な光景を見ることになるのでしょう。
2022年2月26日土曜日
0.2秒の自由意志と悪魔の所業
哲学的命題であり脳科学においても議論が行われている自由意志の存在。
最新の研究成果では人間に自由意志は無く、あるのはごく短時間の止めるという自由意志の存在のみ確認されているのだというこれは脳波や筋肉の電流を測定すると。何かをしようと意識を持つ前に身体はなにかをする準備を始めているというものだ、さて、今回のプーチンの(もはや呼び捨て)ウクライナ侵略をこの論にあてはめると、侵攻の決定をする前に無意識において侵攻することは決められていたことになるプーチンに残されていたのは唯一直前に侵攻を止めるという自由意志のみであったしかし彼にはその意志が無かった。会見で何度も他に選択肢がなかったと決定論的に自分弁護をしているけど、それは止められたのに止めなかった。ことへの自覚があるからなのかもしれない。そう、実は彼は意志が弱い(だから止められない)のだそう思って聞いていると彼の正当化の弁はすべてそこに尽きているだろう、プーチンは人に与えられた自由意志を使わなかったことで、開戦という悪魔の道を選んだのだ。力を誇示したいのであれば止めることで自由意志の強さをしめすべきであっただろう、そう思うと僕たちの社会はわずか0.2秒の自由意志によって支えられていることになる。だからこそ、その0.2秒を活かすことの出来る人が僕たちの社会のヒーローなんだろうね、プーチンは選ぶことが出来た道だったね。これはこれからも自己弁護と正当化を繰り返していくのでしょう。僕たち社会は来たるべきは悪魔の所業に備えておいたほうが良いかもしれないね。
2022年2月25日金曜日
組織の意識と心(精神)
僕たちには心で感じる感情がある、これは人間だけでなく僕の犬にもそなわっているようだ。
感情が自然な心の働きだとするとそれとは別に頭の中で巡る意識がある、感情は身体と消極めて密接につながっているのに対して意識は身体をわすれちだ、例えば魂は僕たちが頭の中つまり意識がうみだしたものであって、それ故不滅であり永遠のものとして作り上げられている、しかしぼくたちの身体は有限であり、やがて消滅していくものだ、、だから身体は無くなっても魂は存在するというおかしな状況があると考えられるわけだ、身体をほぞんしておけばやがて魂が戻って復活するこれがエジプトのミイラだよね、僕たちは頭の中にあるものは主力することが可能だだから僕たちが出力したものは意識であると言うことも出来るかもしれない。僕たちは自分をメタ認知することで感情も様々な表現を通じて出力することが出来るさて僕たちには意識ではなく心(精神に刻まれる物事というものがある。それは、心の働きに影響を与える。PTSDとかトラウマとかよばれるのはその一種だよね。しかし心(精神)に刻まれるのは恐ろしいできごとばかりではない。偉人の言葉や素晴らしい風景なども心に刻まれる特段意識することなく心の働きに影響を与えてくる(無意識はフロイト以来心理学において大きなテーマである。。さて組織はひとの営みで生み出されるものだから、人の意識とこころ(精神)の問題が組織活動の中に構造も含めて投影されている、
例えば多くの企業が掲げる理念や墓¥ビジョンなどは意識の出力である。一方、組織の構成員には一人ひとりに心があって心に刻まれたものにがある。故に意識と心のギャップ問題は人の問題であるように組織のもんだいでもあるのだ。
多くの企業では、記述すなわち意識で心を揃えようとするけれど組織の心が構成員一人ひとりの心の集合体であるとすれば。それをひとつに揃えることは根本的に出来ないことであろう。ルール化(明文化)による同調圧力と評価という強制的な圧力を使ってもそれは不可能なものであるに違いない。しかしながら組織にも心がある。それは組織の中で教えとして伝承されているそうした組織の心は構成員一人ひとりの心に染みていき、各人の心の働きに影響を与えるようになる。教えとは組織の中にある。誰か(多くの場合は組織化において中心的な役割を果たした人)の心の働きであって。心が心に通じるものであると考えられるだろう。
イラストやに象徴的なイラストがあった心を持ったAIというタイトルがついている、AIはある意味意識の集大成といえる。意識と心が別物であることを現しているなんとも皮肉なイラストだけど、この別物(を一体化しようとする意識の問題)がよくあらわれているよね。
2022年2月24日木曜日
自立へのモチベーション介助さんの観察眼
家で風呂に入れない僕は週に2日デイケアサービスを利用している昨日もその日だったのだけど入浴を介助してくれるスタッフさんが面白いことを言っていた、彼曰く僕みたいに麻痺とかがある人の方が脱衣着衣をできるだけ自分でやろうとするのだそうだむしろ健常なご老人の方が全部介助さんお任せにしたがるのだとか、この観察眼に僕は自立の秘密が隠されているように思えた、結局はやる気の問題なのだと思うけどやる気は脳の側坐核という部位が発火することで起こるらしい。麻痺のある人は脳を壊している場合が多いのでどちらかというと病後気力が出ない傾向が見られるらしい、僕もリハビリ病院に入院中はぼーっとしていると結構心配された、それも良くないと思いDSを持ち込んで脳トレを行って脳の血流が増すように意識していた、それ自体がすでにやる気がある状態である。僕は自立という目標に向けて出来ることを増やしたいと思っていた。脱衣着衣もそうだし荷物整理もそう、SNSの投稿もそうである、もちろん無理をして怪我をしたら元も子もないから、自分の限界は常にちゃんと意識しながらだけどね。すべて介助さん任せにする健常な方にはひょっとしたらこうなりたいとかいった目標となにか自立して出来たときの喜びが無いのかもしれないね特に後者は大きいかもしれない。出来て当たり前の人には出来たときの感激などないだろうし、それがなければ何かをすることは億劫なだけになりかねない自立とは社会性の発揮である、だから介助任せというの前頭前野がやる気にブレーキをかけている状態なのであろう。介助を受けるのが当然であると社会的に自分という存在を決めているのかもしれないね。こういう人はきっと自分でやってくださいとか出来ることは自分でやりましょうとか言われると自分を否定されているようなき気なってしまって怒りだすかもしれないね。例えば新社会人とかでも、教わっていないのにやらされるとか言い出す輩が必ず居るから、自立へのモチベーションは老人だけの問題じゃない。普通子供は成長とともに手を出されるのを嫌がるようになる、自分のことは自分でしたいという自我の芽生えの先にある巣立ちだよね。これは生き物として自然なことであろう、生き物は自立出来なければ自然の中で生きていけないから当然だ。それなのに保護を求めるのは自分では生きていけないことを自覚しているからかもしれない。他者への依存はある意味極めて社会的な行為であると言えるのかもしれない。自分と他者そしてその関係性の認識のうえに成り立つ態度だからね、では、なぜ障害者のほうが依存心が薄く自立意欲が高いのだろうか。障害者の心理として、やはり健常さを示して社会の一員として認められたいという思いがあるからではないだろうか、一方健常者は自分のことを大切にしてほしいという欲求から自分が弱く見られることにあまり躊躇いがないのかもしれない。人は意外なところでしっかりと観察されているものです
2022年2月23日水曜日
社会の穴
養老孟司さんの仕事観が、著作超バカの壁に書いてあった。仕事というのは社会に空いた穴です。というものです。道に穴が空いていた。そのまま放っておくとみんなが転んで困るからそこを埋めてみる、ともかく目の前の穴を埋めてみる、それが仕事というものであって自分に合った穴が空いているはずだなんてふざけたことを考えるんじゃないと言いたくなります。も述べています。これは言い得て妙ですね。
僕は最近通院やワクチン接種などちょっとした外出をする時はいつもタクシーを利用することになる。しかし最近のタクシーは静かに乗らせてくれない。タクシー広告とかいう騒々しい広告が目の前で延々と流されている。僕はちょっと暴力的に僕の時間を侵害されている気になってしまうのだけど。広告の多くは人材採用に関したものである、ミスマッチゼロなんていうのもある。御社固有の穴を埋めることができる人が採用出来ますよーと言っているわけだね。でも求職者が養老孟司さんの仕事観に沿っていればミスマッチなんて発生しようが無い。そちらの方が遥かに真っ当な気もするし。僕がタクシーで煩い広告を見せられることも無くなる。
確かに仕事はテトリスや積み木入れジグソーパズル🧩であるなんて言ったら社会コストは膨大に膨れ上がるだろう。昔定期的な異動の配属を、行なっているある銀行では、担当者のことを神様と言っていた。つまり、全知全能の存在でなければそんな采配は不可能であると言うことだと僕は理解していた。養老孟司さんくらいシンプルに考えなければ社会は回っていかない。それこそ生産性は著しく低下してしまうだろう。実際企業でも求めているのは目の前の穴を一生懸命埋められる人だ。創造性が高く。穴を埋め始ながら鋳型を作りはじめる人がいたら邪魔で困るのだ。今企業で求められる創造性とは、皆に見えていない社会に空いた穴を見つけられる人つまり認知能力の高い人なのである。それは昆虫が複眼で普通では見つけにくい餌を見つだす能力が高いのに似ているかもしれない。
2022年2月22日火曜日
歌うように伝えたい
僕は塩見三省さんという役者さんをあまり意識したことはなかった。今回脳出血をおこしてリハビリに取り組む中で塩見さんも同じように脳出血をおこしたことを知って、リハビリ含め再起に取り組む中でその様子も含めて執筆出版されたことを知り、本を購入し読んでいるところである。発病とその後の心持ちなどはあまりにも自分と重ね合わさる部分が多くて少し苦しくなるくらいである。しかし歌うように伝えたいという本のタイトルは最初病気のことかと思っていたのだけどそうではなかった、塩見さんは自分の生を確かめるかのようにこれまで塩見さんが深くご縁のあった方々(すでに亡くなられた演劇関係者)を思い起こしてそれらの人々に病気後の心情を吐露していて、塩見さんはそれを歌うように伝えたいとしるされているのだ。だからこの本は闘病記ではなく生きる希望を記したラブレターと言えるのかもしれない。読むほどに素敵な本である。特に演劇に携わる方々はそのエピソード含めてとても魅力的に感じられるよね。名前は存じ上げている方々が多いし。塩見さんもNHK朝ドラあまちゃんの琥珀の勉さんといえばすぐに顔が思い浮かぶ。演劇関係の方ってそういう人が多いよね。非常に深い絆があったからこそあちらに行かれた方々に胸の内を歌うように伝えたいって思われたんだろうね、ぼくもそういう観点でこれまでに出会った方々を思い起こしてみたのだけど残念ながら僕が仕事で関わらせて頂いた方々は幸いなことに両親を覗いて皆さんご健在だし仕事の中でそれほど深い絆を結べた記憶も無い。でも僕も壊れた脳の壊れていない部分を確かめるように過去を振り返ってみようと思うひょっとしたらその中に歌うように伝えたい想いがあるかもしれないもんね、
いい本です。
2022年2月21日月曜日
キレる老人
養老孟司さんびのベストセラー「ばかの壁」には「キレる脳」という記述が出てくる日本に限らずキレる人が増えていて、犯罪や社会問題と関係していると指摘している。原因は脳の前頭葉機能の低下であると養老孟司氏は指摘しているまた、本の中で若者がキレやすくなっていると指摘しているのだけど僕がデイケアにてipadで「バカの壁」当該部分を呼んでいるまさにその時僕の隣にいたおじいさん(僕よりはご高齢)がまさにキレていたキレるのは残念ながら若者の特権ではない、デイケアのスタッフである若者はキレずに対応していたよ。キレた原因は隣にいる僕にはよくわかってた。マスクをしてくださいと何回も指摘されるのがおもしろくなかったのだ。そもそもマスクはしなくても良いと思っているようだった。若者に注意されて面白くないとキレているときは、原始的な怒りを前頭葉が制御出来ていない状態であり、そもそもマスクをする必要が無いと思っているときは前頭葉が怒りの発火点になっている状態だ、前頭葉は、怒りのブレーキにもアクセルにもなると聞いたことがあるけど、まさにその実証みたいなご老人なのであるいずれにしても前頭葉の機能が低下している(認知症の傾向が出ていることは明らかなのであろう。入院中にしても、デイケアにしても、そういった高齢者は少なくない。高齢化に伴う脳の機能低下と考えれば致し方ないのかもしれない。しかし、女系社会を作る象は高齢の象が高い社会性を発揮して群れ同士の不要な争いを避けて群れの生存確率を高めているそうだからキレるという社会性の低さはそもそも持続可能性にとって不利な戦略であるはずだ。手っ取り早く言えばコミュニティから追放される村八分の対象とされてしまう。実際、僕の隣でキレた老人はデイケアから退場させられてしまった。ご家族は困るだろうね。そう考えると高齢化社会において前頭葉機能の低下というのは大きな課題であり。予防プログラムの開発は必須であると僕は思うのだ。
2022年2月20日日曜日
文章は骨格だけで良い
さてこの2日ほどブログに書いている辻仁成さんの文章教室参加の課題作成が終わった3900字を1500字にするために文章を大幅に削ったのだ、冗長な説明部分は900文字くらいとあまり分量が減らなかった。さらに500文字減らすためには盛り込んだエピソードを思い切って減らすしかなかった、それはくどい説明ではなく伝えたいエピソードだ、結局伝えたいことを全面的に見直すことになった。最後はこれだけは伝えたいという文章の骨格の部分だけになった
文書遂行ってなんだか旅行の荷造りに似ているね、あれもこれも持っていこうとすると荷物はとんでもない量になってしまう。下手をすると身の回りの生活品すべてを旅行に持っていくことになりかねない。そうすると荷物は大きく重くなってしまうので結局あったらべ便利、これは使うかもの類は全て潔くあきらめるのだ、そのうえで無いと話にならないものだけ荷物にする。365日のシンプルライフというフィンランド映画があるのだけど、一度全てをしまってしまい1日1個だけ必要なものを取り出す文章作りもそのくらいの感覚の方が良いのかもしれない。このブログで言えば、旅行の荷造りと映画の話は必須じゃないね。伝えたいことは文章の骨格だけで十分ということだけだ、
そうするとこのブログは20文字くらいで済んでしまう、その20文字を頭の中で入出力することで、文字数は無限に増えていくらしい、
2022年2月19日土曜日
冗長さを無くす習慣づくりへ
僕は自分の欠点が冗長であることを知っている話をしても説明しても長くなってしまうのだ。どうやらこの欠点文章でも同じようだ。昨日書いた1500字の課題一旦かきあげたら3900字になっていた。倍以上だ。愕然として妻に伝えたら冗長になるのは説明が多い、つまり自信がないからだと一刀両断にされた。はいまさにそのとおり。もはやぐうの音も出ない、ということで今僕はせっせと推敲して、冗長な部分をひたすらカットしている毎日考えて文章を書く習慣はみについたからこれからは、冗長さを排して短く伝えることを習慣にしていこうと思う
2022年2月18日金曜日
文章教室に参加するのだ
僕は先日このブログで辻仁成さんのブログについて幸せが現れて伝わってくると書いた、幸福の4因子なんていうのもあるけど、統計分析を生業としていた身からすると分析結果は確かに新たな知識創造の喜びがあるのだけど、個人としては知識の表出よりも感覚として伝わってくるものの方がが僕にとっては現実であってより重要に思える、4因子を知ることよりも幸福な人を見て僕も幸福になれるほうがぼくにとってはリアルな幸福の知識化であると言える(体感出来る)からだ、体感できるとはナレッジの身体化である。脳で知るより身体で知ることのほうが生きている実感が得られるからね。より生命に忠実でありたいのだよね。さて、冒頭の辻仁成さんのブログで文章教室開催の告知があった、今回は2回めらしい、僕は今このブログとnote で犬のことを書いているので一度、そういった教室に参加してみるのも面白いかなと考えた次第であるこの教室参加に際して課題もあって、今回は身近な家族、親、パートナー、子供たち、そして犬や猫などの生き物についての悲喜こもごも、喜怒哀楽」が課題テーマとなります。1500字以内、とのことだ、このテーマならば結構書ける(というか書くネタがたくさんある)と思った、あとは1500字というのがどのくらいの分量なのか、いつも、ブログの文字数は考えていないのでちょっと全体量を考えながら取り組んでみようと思う。結構楽しみである
2022年2月17日木曜日
僕の師匠である大学時代のゼミの先生の本を先日開いて写経ならぬ写本(といってもはしがきのみ)をして、産業革命後の工業化社会において、生産性の向上をもたらしたのは、技術革新というより、組織という協働形態の寄与が大きいのではないかという指摘が僕の心に大学時代からずっと深く刺さっていることを再確認した、だから僕は組織と人のより良い関係性のあり方をずっと考え模索しているのだ、実際僕の就労経験は師匠の指摘をまさに裏付けるものばかりであった、もちろん技術革新も生産性の向上に貢献しているのだけどその技術革新をもたらすのも人の力なのである。新社会人として努めた銀行で僕が目にしたのは組織と人の最悪の関係性であり、協働という従属と搾取の実態であった。戦後何十年もたっているのに平気で連帯責任とか言っていたしね。業績のために滅私奉公するのが当たり前みたいな空気と知恵や工夫の抑圧、が当たり前になっていたからね。その後銀行を辞めて家業に入ったけど生活雑貨の製造の現場では、生産性をあげるために技術投資を行うのは台湾とか中国ばかりで、その時点で
製造における日本の負けは目に見えていたよね、結局そのような状況で日本社会は、組織による生産性向上により傾倒していったのではなーだろうか、合理的な生産性向上というより、サービス産業化による付加価値競争で商品の価値を高めることで結果として生産性が向上したと考えていたのではないだろうか、そしてそのサービス産業化の中にはサービス残業も含まれていて、組織における長時間労働なども常態化していったのではないだろうか、さて、新型コロナ感染が広がって、テレワークが導入されるにつれてジョブ型という言葉が多く聞かれるようになった、ジョブ型(ジョブ型の人事制度では、各ポストに必要な知識や経験、能力、資格を職務記述書に明記。これに当てはまる人材を年齢にかかわらず起用するのが特徴だ。社内外から専門性や意欲のある人材を集めやすくなる利点がある電機大手、「ジョブ型」加速 一般社員に拡大、人材獲得激化)師匠の指摘に照らせばジョブ型というのも1つの協働形態である、僕の大きな疑問はジョブ型では職務記述書が重要になるのだけど、協働を還元主義的に要素分解して、それを組み立てれば協働が実現できるのかということである。例えば、人間を手の働きとか脚の働きとか解剖学的に分解して、その分解されたパーツ集めれば人間が作れるのかといえばそんなことはないことは誰にでも分かる話である、にんげんは、部分の集合体ではない、生命は部分が全体を成し全体が部分を成すという相互依存性のなかではじめて成立しているのだ、組織という協働形態で考えればジョブの集合体が組織なのではないことはすぐにわかることだろう、そして生命を記述出来ないように、私達は協働という組織活動も記述することはできないだろう、僕がジョブ型の議論でいつも違和感をおぼえるのは、そういった、技術的、還元主義的な世界観なのである。生産の現場に技術的な世界観が持ち込まれたのはまさに、作業測定(どちらの手で扱ったほうが素早く正確に作業できるかといった、など人間を短機能化することからであったのだ、少し前中国の工場労働者などは、雇用の際に指先の器用さなどを確認していた。僕は組織コンサルの仕事の中で仕事の要因を分析し関係性をパス図によって表出したことがあったけど、それを使って、組織活動をその会社の経営者に理解してもらうことは大変困難で結果できなかった。経営者は特に、組織は個の集合であり、組織目的や組織目標が達成出来ないのは組織を構成する個(手足など部分)の問題である、と考えたいのである、実は組織構成員も同様であってm、達成できないのは経営者(脳)の問題であると考えたがっている。なぜそうなるのかは養老孟司さんの壁シリーズを読めばなんとなく理解できるだろう、欧米ではなぜジョブ型なのかということもわかると思う。また還元主義的技術的な世界観を超えるヒントになるのはラグビーのOnefor All All for Oneではないだろうか。ラグビー元日本代表監督だったあの平尾誠二さんは「ひとりはみんなのために」「みんなはひとつのために」と訳すのだそうだ、各自が各自の目的を実現しようとすることで「チームの勝利に」結びつくようにすること、「私」を生かすことが「公」をも生かすことになる道筋。これが「チームの勝利を第一に掲げるあまりいわば歯車としてのチームのためにプレーすることを強制し「私」の目的をないがしろにしてしまっては「公」も殺すことになってしまうだろうとまで書いているのだ(平尾誠二著理不尽に勝つPHPより)平尾さんの言葉がジョブ型によって、構成員を最適化可能な資源と扱った組織の行く末を予見していると言ったら言い過ぎなのだろうか。
2022年2月16日水曜日
美味しいものを作るエネルギーは幸福として外に現れ他人に伝染するのである。
僕は最近毎朝辻仁成さんのブログ(エッセイ?)を読むのを楽しみにしている。元々辻さんのことは中山美穂さんの元旦那でパリで暮らしているひとぐらいしか知らず、いまどきロン毛でちょっと気持ちわるい人くらいの認識であった。その辻さん最近子犬ミニチュアダックスフンドを飼い始めてその様子にとても親近感が湧くし同じ犬飼としてはどことなく応援してしまうのだ、結果、犬以外のブログにも目を通すようになった辻さんはdancyuという食のエンターテイメントマガジンに連載を持っていてなかなかの人気であるようだ。料理に関する辻さんのバックグラウンドを僕は知らないけど、中山美穂さんと離婚してからは、パリで子育てをしていてそれで料理も作るようになったのかもしれない。もしそうだとするとぼくの過去ともちょっと重なる。僕も離婚した後から料理をするようになった。必要に迫られてではあるけど毎日朝ごはん、昼のおべんとう、夕ごはんの作り置きを作って、洗濯に子供のYシャツのアイロンがけ掃除と所謂家事を手掛けるようになったからね、そんな経験もあって、新型コロナで在宅ワークになり、家での時間が増えてから再び料理を手掛けるようになった、料理を作ることは楽しかったし、出来た料理が美味しかったらもっと楽しかった、僕は料理をさら楽しくするためという理屈をつけてに調理と出来上がっった料理に合わせていい調子でお酒を呑んでしまったのが、脳出血の一因となってしまったという残念な顛末もあるのだけど、在宅リハビリ中の今もまた料理をつくってみたい(今度はお酒を飲まずにね。と思っている。だから今日の辻さんのブログの以下の一文には痛く感銘を受けたのだ。
せっかく生きているのだから、美味しいものを作ることにもエネルギーを注ぎたいし、こうやって、丁寧に料理をして食べれば、間違いなく健康的だし、楽しいし、人生に退屈しないし、ますます生きたくなってくるから不思議であーる。
自分で料理が出来ると、そもそも、生きることに対して、暗くならない。
当たり前のことのようだけど、これこそが真実なのである。(jinseistoryより転載)
ただ健康的であるためには飲みすぎはやはり厳禁だ。あと気をつけなくてはならないのは塩分だね、脳出血の別の一因高血圧と塩分は切っても切れない間柄だものね。でも、塩分を抑えて美味しいものを作ることと考えるものちょっと楽しそうだ、発症以前みたいに買い出しも自分で出来るようになったらまた料理を作ってみよう。そう思うとリハビリにも前向きに取り組めそうだ。辻仁成さんいいではないですか。確かに料理は美味しそうだ、気づいたら僕はFBでも美味しいものを食べてきたという投稿よりも美味しいものを作ったよ、という投稿の方が断然「いいね」なのである。アドラー嫌われる勇気の著者岸見一郎さんは別の著書「成功でなく幸福について語ろう」の中で三木清「人生論ノートから「幸福は常に外に現れる」と引用している。が美味しいものを作ることにエネルギーを注ぐ幸福感は外に現れて他人に伝染するからである。と僕は思うのである。
犬と料理と子育てと辻さんのブログおすすめです、
2022年2月15日火曜日
意識と身体の不思議を意識で考える。
格好つけた言い方をするなら会社を卒業し脳出血とその後遺症で人生を中断中の僕は幸い頭はすっきりしゃっきりとしているし。昔の記憶もちゃんとあると言うことを僕自身も確かめるために。これまで僕が仕事としてやってきたことを棚卸ししてみようかと考えている。思い出の荷物を整理し始めてトランクルームで脳出血を、起こした経緯もあったけど記憶のの整理でまた脳出血を起こすこともないだろうし。さて、記憶というのは、僕が再現することができる過去の出来事である。楽しかったこともあればつからったこともある。美味しかったものもあるし。苦しかったこともある。そう考えると。これまで本当にいろいろありました。そしてきっとこれからもいろいろあるのでしょう。僕の脳みそは出血のあと、血腫除去術によってぽっかりと空洞が出来ていた。これはMRIという脳の画像を見て僕も確認した。しかし僕は頭の中が空洞になったいる実感はない。スイカみたいに叩いて確認するわけにもいかないし。なんだか頭が軽くなったような気もしない。僕にわかっていることは。左半身が動かせなくなったことだけだ。でも左手でギターの弦を押さえたり。犬のしっぽを握ったりするイメージは頭に浮かんだり夢で見たりするのだから不思議だ、つまり意識としての左手左脚は脳出血前とあまり変わっていないのだ、でも目の前にある左手は動かないからなんだか不思議な感覚だし。思った通りにならないから少しイライラするんだよね。でも実は意識通りに身体が動かないことは健常の時であってもざらに起こることだ。ゴルフをしていた時などは僕は意識の中ではミリ単位で身体の動きをコントロールして完璧なスイングをしている気になっていた。。そしてショットをしているのだけど現実は。悲惨なもので空振りなんていうこともあるしボールは明後日の方に飛んでいく。つまり身体の動きを意識でコントロールするのは大変難しいことなのだ。だから反復練習をして。筋肉に正しい動きを覚えさせることが大切になる。しかし不思議なまもので一度筋肉が動きを覚えると。目をつぶってゴルフクラブを振ってもボールに当たる。どうやら時に意識は筋肉の動きにあまり役立っていないらしい。これは僕の印象なんだけど本当のところはどうなんでしょうか?脳科学では自由意志はないという議論があって意識よりも先に身体は動きの準備をしているのだそうです。僕は脳出血で脳みそを壊したけど筋肉を壊したわけじゃないそれなのになぜ左手の筋肉まで健忘症になってしまい動いてくれないのでしょうか。僕にはその理由がわかりません。では僕の身体は何を覚えているのでしょうか。でも、最初。ピクリとも動かなかった左脚が動いたのは。右肘と左腿を腹筋も使ってくっつけるという運動イメージを持ってからなんだよね。映画ロッキーの腹筋(手を頭の後ろに組んで上半身を浮かせたまま左右の肘を膝に触れる感じのやつ)を思い浮かべて身体に力を入れると。それまで力の入らなかった左太ももに力が入るようになったんだよね。でも、それ以外では同じようなことは起きていない。人間の身体って不思議なものだよね。どうも随意で動かせる筋肉とそうでない筋肉があるようだ。ひょっとして。脳よりも偉い筋肉がたくさんあるのかもしれない。少し筋肉のことを勉強してみようかなと、ググってみたら筋肉には随意筋と不随意筋というのがあるんだってね。
2022年2月14日月曜日
暗闇は苦しい本当の悲劇と家でのリハビリ
塩見三省さんの歌うように伝えたいについて書いたけど、読むにつれてちょっと辛い気持ちになってきた。
特にリハビリ入院中に関する心の内に関しては、僕も5ヶ月という長期に渡る入院で退院を心待ちにしながらも、いざ退院して家で日常生活を送るとなった時に直面する僕が出来ないこと安全な生活のために医師や療法士が考える生活様式と脳出血を発症する前の生活様式とのズレに直面したときの絶望感を塩見三省さんは本当の悲劇と記している。僕もそれまでいつも妻と食事をしていた。カウンターテーブルはカウンターチェアが危ないから無理だと言われた、塩見さんはリビングは和の様式にこだわっていたけど医師からそれは無理だと告げられたのだそうだ。塩見さんはそれに反発し、その様子を不憫に思った奥さんは泣いたらしい、我が家でも反発があっては、妻がカウンターチェアが危なくはないことを自ら証明してくれて、それまでの生活様式を認めてもらうことが出来た。半身不随になると床の上に安定してして座ることとそこから安全に立ち上がることが極めて難しいのだ。
左手で身体を支えたり押し上げたりすることが出来ないからね。実際は色々な工夫も出来るのだろうけど難しい動作には常に転倒のリスクが伴う。転倒は本人はもとより、下手をすると介助する家人も巻き込んで怪我をさせかねない。
医師や療法士が無理だと言うのは仕方がないことなのだ。僕の場合はカウンターチェアと簡易トイレの使用(これは拒否した)が悲劇であった。
結果的には、リハビリの成果と家での暮らしに慣れることで本当の悲劇を迎えずにすんだのだけど、結局、家でのリハビリって出来ることを少しづつ広げていって悲劇を減らしていくことなんだよね、今では食後の食器の洗い片付けとか杖を使わずにパソコンを運ぶことなども出来るようになってきた、あとは料理と入浴が出来るようになれば発症前の生活様式にだいぶ戻ることが出来る。
ただ、料理は食材の買い出しからだと考えると車椅子なしに買い物に行けるようになる必要があって、これは訪問リハビリの力を借りる必要が大きい、塩見さんが言う本当の悲劇は僕も今でもその時の心境を思い起こすだけでも苦しいから、塩見さんの心情を察するに余りある。
僕らと同じように脳出血で倒れた西川史子さんもよくそういった心情を吐露されているよね、僕たちが直面する悲劇は僕たちを暗闇に突き落とすとても苦しいものだ。全てのあの暗闇を知っている人たちは皆共有している暗闇の実態だろう。病気で倒れて治療を受けている時に目を瞑っていて目の前が暗いからという訳ではないのだ、また、以外だけど僕の実感としては自覚している自分の身体の状態を踏まえてこれは無理だと自覚していることは例えば車の運転など(塩見さんも車を手放したことはさらっと書かれていた、などはそれほど悲劇と感じないものかもしれない。
もちろん、車に思い入れが強ければ悲劇であることは間違いない。
2022年2月13日日曜日
暗闇でしか見えないものがある
いまNHKで放送している朝の連ドラカムカムエブリバディで何故かやたら繰り返されるフレーズがある。ドラマの中の映画のセリフ「暗闇でしか見えないものがある。暗闇でしか聞こえぬ歌がある、」でドラマの中の要所要所で何度も繰り返されているメッセージだ。そして、今日僕はリハビリ入院中からずっと読みたかった本「歌うように伝えたい」(塩見三省)角川春樹事務所刊がアマゾンからと届いた、kindle版が無くて入手が遅れていたのだ。本の帯は星野源さんが書いていてこの帯がまた良いのだ。あの日、迂闊にエッセイ執筆を薦めて本当に良かった。僕の友達が、こんなに豊かで激しく活きる力に溢れた本を書くなんて、全ての”あの暗闇を知っている人へ”そして全てのあの暗闇を恐れる人へ届きますように星野源(帯より転載)、そう星野源さんもクモ膜下出血を乗り越えた本人だ(よみがえる変態に詳細が紹介されている、塩見さんはご自身の脳出血のご経験を本(「歌うように伝えたい」)にされたのだ。僕も脳出血とその後遺症に現在進行形で経験しているところなので塩見さんや星野さんにものすごく共鳴するのだ。おそらく僕が脳出血という暗闇を知らなければおそらく星野さんや塩見さんの見た暗闇を見ることは無かっただろう、暗闇でしか見えないものは確かにあるけど確かに見えましたよ。
2022年2月12日土曜日
デイケアは安心して異物化する場所であってよいのだろうか。
今日は土曜日僕はデイケアに行く日だ、僕は障害があるので自宅で入浴が出来ないそこでデイサービスを利用しているのだけどこういうサービスが有ることは本当に有り難い。僕は来月で還暦を迎えるけど今の定義で言えば高齢者予備軍ということになるのだろう、。親の介護などを経験している人はデイサービスがどのようなものかご存知だろう。基本は介助などを必要とする高齢者が様々なサービスを受けられる場所である、しかし僕は今回脳出血の後遺症で障害を負ったので介助がひつようとなって、通うようになった。このサービスは経済的には主に介護保険から利用の費用が捻出されている(本人負担分もあるけどね)見方を変えればデイケアとは介助や介護が集まって効率的に介助介護を行うことで、社会全体としての生産性を下げない社会装置であると言えるのかもしれないね。俳優潮見三省さんの言葉を借りれば脳出血で障害を負った僕は社会の異物である、効率とか生産性という観点からは潮見さんの言う通り健常者のように機敏に行動できない障害者や高齢者は社会の異物なのだ、だからそういう異物は一箇所に集めてしまえば、社会からは見えなくなって健常者は皆生産性を高める活動に専念邁進できるわけだ、産業化によって都市化した社会には定年制という仕組みがあって、高齢者を自動で生産的活動から分離するようになっている、だから異物は自然に増えていくんだね、実は第一次産業や第二次産業では定年制といった仕組みはないだから産業の担い手の高齢化が進むのだけども、生き物の基本としてはその方が自然であるとも言える、犬も生き物だから高齢化するが、犬に限らず人間以外の生き物には定年制など無い、もちろん犬は生産活動は行わないけどね。最近ではこの仕組が生産性から除外された高齢者を一方的に増やしてしまうので定年の年齢引き上げなども議論されている。僕は通ってみてわかったことだけどデイケアにはコミュニティ機能は無いし生産性に関するような要素も一切ない完全に生産性や創造性を求めない場所になっているのだ、サードプレイスでは無い、家庭でも職場でもサードプレイスでもないデイケアはどのような場所であると定義すれば良いのだろうかでも高齢者にとってみれば身内に迷惑をかけないですみ、似たような境遇の人達が集まる安全地帯と言えるのかもしれないね、確かに生産性を発揮できない人にとって、生産性を求められることはとてもしんどい、ことであるのは間違いない。安全な居場所があるという観点で利用者は嫌がること無く来ているのだろう。異物にとってみれば社会は危険な場所だからね。自虐的に言うとデイケアとは異物が集う安全地帯ということだね。またそういう場所があるから誰もが安心して老化できるのかもしれない。誰も老化に抗うことが出来ない以上、安全地帯があるということはとても大切なことであろう、一方で、高齢化という自然の理を異物化させない社会の実現も重要だ。実は過疎化の進んだ農村の方が都市よりも進んでいると言えるのかもしれない。おそらく過疎化した農村では社会の構成員としての存在が大きいため異物化している余裕が無いのかもしれないね。都会でも昔は高齢者は地域の調整役(コーディネーター)や、祭礼など価値観の伝承者(ナレッジセンター)として、存在が大きかった、しかし調整は行政が行うようになり、虚礼廃止など祭礼も地域での重要性が希薄化して存在が大きく無くなり異物化が一気に進んだ。これは組織でも同様かもしれないね。第一次第二次産業ではナレッジが属人的であるがゆえに高齢化と異物化がイコールではないのかもしれない。僕たちが目指してきたのは誰もが安心して老化し異物化出来る社会だったのだろうか。今日のデイケアでゆっくりと考えてみようと思う。
2022年2月11日金曜日
オリンピックとは理不尽さのメダルということを学び成長する機会である
相も変わらず北京オリンピックでも、ドーピングや規定違反による失格などが騒がしい。東京オリンピックのようなコロナ禍に関する報道は中国のゼロコロナ政策が功をそうしてかほとんど見られないかわりに競技者や判定に関する報道はこれまでのオリンピック同様ゼロには出来なかったようだ。世の中にはスポーツはフェアにおこなわれるものであるという前提がある。一番わかりやすいのはFIFAのFairplay please というキャンペーンであろう。
もちろんズルをしてよい成績を出すことは協議においては戒められるべきものだ、これは、スポーツに限った話ではない、先日大学入試でズルした学生が出頭している偽計業務妨害の疑いがあるそうだ非公正な行為で公正な運営を妨害したということでしょう。要するに世の中にはズルが出来る余地がたくさんあるということだよね、それはきっとにんげんだけの話ではないのでしょう犬も待てと言われてもよしと言う前に飼い主の目を盗んでおやつを食べてしまうことがある。犬にはもちろんずるはいけないんどという倫理観は無いものねでもいきものにとってみれば相手のスキを見つけてそこを突いて果実を得ることは生きる賢さであるともいえるそれが戒められるのは社会性という他者との関係性が利己性よりも優先される場合のみだ。ズルが蔓延るとズルの歯止めが利かなくなり公正さを前提とした社会性は崩壊してしまう。賢さはすべての生き物備わっている能力であるとするならば賢さなのか破壊行為なのかは、恐らく社会によって判断されるべきものである。これを特定の役割の人が担ってしまう理不尽さでまた問題生じるのだよね。
しかしラグビー元日本代表監督だった平尾誠二さんはスポーツのもつ理不尽さに言及している、例えば体格、体格は遺伝的な要因が大きく、国や地域によって有利不利がはじめから存在しているつまりそもそもズルが存在しているのだ。しかし当人に意識的な行為でない限り(体格が先天的なものであり意図的にズルをしていない場合)それは問題にされないその体格差を跳ね返すために賢さは欠かすことが出来ない。時にそれがドーピングや有利な用具の使用を招く訳だよね、それを取り締まるために理不尽さが生まれる。つまり競技とは油絵のように理不尽さに理不尽さを塗り重ねたようなものであると言えるのかもしれない。でもそれは競技に限らず社会の縮図であるとも言えそうだね。だから僕たちは理不尽だと声高に騒ぎ理不尽さを上書きする(非難された人にとってみればそれも理不尽なことであるはず、)のではなく。理不尽さを感じる自分の感情や前提を見つめて自分が理不尽な状況に陥った時(高梨選手が協議で失格になっても生活に影響を受ける人は殆いない)の乗り越え方を訓練する機会にしたほうが良いのかもしれない
2022年2月10日木曜日
優れた営業がやっていること
営業というのはモノやサービスを必要とする人顧客(=)に届ける役割を担ったひとだね。
顧客の立場で考える顧客の目線で観るしかし実際に顧客の立場には立てないのだから立場とか目線気持ちというのは営業担当者の仮説なのである。「もし自分が」というやつだね。仮説がたたないとき、例えばこのサービスを必要として人が思い浮かばないと言った時は具体的な営業活動が出来ない。時に顧客が顧客を紹介してくれることがあるけど、同じ立場にいる方がより正確にピンポイントで仮説が立てられるこのサービスだったらあの人は必要とするんじゃないかといった具合にね、僕たち人間に限らず猿や鳥にもミラーニューロンという脳神経細胞があるらしい、その働きは、他の個体の行動を観まてるで自身が同じ行動をとっているかのように"鏡"のような反応をすることから名付けられた。他人がしていることを見て、我がことのように感じる共感(エンパシー)能力を司っていると考えられているwikipediaより引用。だから我が事と感じるためには顧客の行動をしっかり観ることが大切なんだよね、だから優秀な営業は相手の懐に飛び込んで(フィールド志向)しっかり相手の目線を持つ(仮説作り)が上手いしそういった行動様式をもつエスノグラフィーがマーケティングなどで注目される訳だね。優秀でない営業はモノやサービスを売り込むことに力を注ぐ、顧客に選択肢が無くそれを必要としているのであれば成果は活動量に比例するからあれこれ考えずに動ける方が有利だ、顧客にモノやサービスの選択肢が増え、必ずしもそれらを必要としていない場合成果は活動量ではなく、活動の質に比例するようになる、その活動の質こそが仮説なのである、仮説をシステマチックに行うのがマーケティングであると言えるのかもしれないね、優れた営業とはエスノグラファーであり、マーケッターなのであろう、フィールドを志向するということは必然的に活動量が増すけど。それは、売り込み営業の活動量とは次元がちがうようだね。優秀な営業は交際費をしっかり使うと言われるけどそれは顧客を手懐ける(懐柔する)ためではなく、フィールドワーク(現地調査)の一環と弁えているよね。
2022年2月9日水曜日
併読から見えるのりしろと自然から学ぶこと
前提を疑うことは自分の枠組みを持つことであると養老孟司さんは著作で述べている。また以下のようにも結論的に科学について述べている。そして意識の中には前提となる枠組みがあって
しかし、 とき に 前提 を 疑う という こと が 大切 なの です。 前提 を 考える という こと は、 自分 で 骨組み を 作る、 という こと にも つながり ます。と述べています。
養老孟司. 「自分」の壁(新潮新書) 「壁」シリーズ (p.103). 新潮社. Kindle 版.
結論 的 に いえ ば、 科学 とは、 我々 の 内部 での 感覚 所与 と 意識 との 乖離 を 調整 する 行為 として とらえる こと が できる。
養老孟司. 遺言。(新潮新書) 「壁」シリーズ (p.36). 新潮社. Kindle 版.
ソニーコンピュータサイエンス研究所. 好奇心が未来をつくるという本の中には研究員桜田一洋さんの以下のような記述が出てきます。まさに科学の最前線にいる研究者の言葉として養老孟司氏との対比をするととてお興味深く感じられます
まったく 違う 人間 が 意気投合 し て 新しい もの を つくる こと を 助ける テクニック が、 次 の カルチャー の 基盤 に なる と 思い ます。 それ を、 私 が 研究 し て いる 枠組み で 実現 さ せ たい
ソニーコンピュータサイエンス研究所. 好奇心が未来をつくる――ソニーCSL研究員が妄想する人類のこれから (Kindle の位置No.2852-2854). 祥伝社. Kindle 版.
恐らく感覚的にはいろんな奴が集まると面白いことが生まれるのだけど、一方思考としてはでは新規事業開発などにおいてはコミュニケーションなどを通じていかに多くの人を巻き込めるかつまり意気投合できるかが大切だと言われる、先日テレビで「立花隆さんが田中角栄元首相の政治手法をスクープしたドキュメントが放送されていたけど田中角栄が日本列島改造論をぶちあげたとき多くの官僚もあお角さんが言うなら全面協力しますという態度だったそうだ、結果としてその枠組みは破綻し新しい社会は生まれなかったわけだけど。それなどは信任という他人任せを軸とした意気投合の負の面であったとも言えるのではないだろうか、違う人間が集まるならではの感覚や意識の違いがホリスティックに全体を成す主体性のある個の集合としての集まりであることが新しいものを作る際に他者を巻き込める力以前に必要なのではないかと僕は思うのだ。
つまり誰かの骨組みの筏に乗り合うのではなく。自分の骨組みの中に協働する価値を見出すのであり、それは自然が多様な生き物がそれぞれの適応によっての共生や共存のうえに成り立っている状況によく似ているのかもしれないここはもっともっと自然の在り様から学んで考えてみたいエコシステムの部分である。
順番的には能力、態度、自立、適応(ここまでが骨組み)、創出、協働、環境への影響(これらが共生)といった感じだろうかこれが僕の考える新しいものを作る骨組みなのかもしれないね
2022年2月8日火曜日
成長の3点セット?
最近テレビで大谷翔平選手に関する番組がよく放送される、去年あれだけの大活躍だったからね。また、大谷翔平選手に関しては子供のころからの様々な成長や育成に関する情報やエピソードが残っていることも特徴であろう、どのような支援を受けてどう成長して現在があるのかが極めてわかりやすく証拠とともに揃っているのであるよく取り上げられているのは、お父さんとの3つの約束と高校時代に立てた81マスの目標そして日本ハムの指名を受けて入団を決めたときの日本ハムの説得資料「夢のみちひしるべ」だ、では、誰でもこの3点セットがあれば大谷翔平になれるのか、そんなことはないことは誰でも知っているしかし、育成の○点セットで新入社員を育てようとしている企業は山ほどある。大谷選手にとって3点セットが有効だったのは、身体的(運動まどの能力)、気質的(性格特性)前提があったからで、そこには遺伝的な要素が大きく関わっているのである。つまり能力と特性と育成という他者の介入がものすごくフィットしていたわけだね、だから介入方法だけを手段化しても、前提の異なる人には適合しない。つまり素材に合わせた介入が最も効果的であり、重要ということだ、これはとても大切な視点で枠組み化手段化された教育からは未来を拓くようなタレントは出てこないという推察も成立する、実際小さい頃にIQが高かった子供の追跡調査(ハーバード大学)でそのよう高IQな子どもたちが大きくなったからと行って仕事で成功をうみだしたわけでもなかったことは知られている。つまり僕たちは、前提と前提にマッチした介入によって初めて秀でた力を発揮できるようになるのだ。計算能力や記憶力といった能力は今後AIによって今後置き換えられていってしまうので、AIが苦手とする能力こそがこれからの能力の前提となることは間違いないだろうそういった時代背景、技術の影響も重要である。実際大谷翔平選手もフォームの改善などで最新のテクノロジーを利用しているようだ。結局僕たちはありのままの自分を磨き上げていくしかないのだ、磨き上げ方が良ければ河原の石がダイヤモンドになるなんていうことはあり得ないしかし、河原の石だってその石にしかない良さがあるものだ、実際大谷翔平選手を育てた石巻東高校の佐々木監督は石を拾って以下のような心境に達したのだそうだ。
石は 動か ず 止まっ て い ます けど、 それぞれ に 表情 が ある ん です よね。 見方 によって は、 普通 の 石 が、 ものすごく 価値 の ある 石 に 見え たり する もの です。 たとえば、 石 を 台 の 上 に 置い たり、 器 に 入れ た と し ます。 する と、 初めて その 石 の 価値 が 増す 場合 も ある。 一つ の 方向 から 見 たら 同じ 表情 にしか 見え ない 石 でも、 角度 を 変え て 見 たり、 何 かに 置い て み たり する こと で 違っ た 輝き を 放っ たり、 重み を 感じ たり する こと が ある。 それ は 生徒 も 同じ な ん です。
佐々木 亨. 道ひらく、海わたる 大谷翔平の素顔 (扶桑社BOOKS文庫) (Kindle の位置No.1195-1199). 株式会社 扶桑社. Kindle 版.
石という前提
2022年2月7日月曜日
高度情報化とはメタメッセージテクノロジー化なのではないのか。
養老孟司さん著作「自分」の壁では、最後の方にメタメッセージという重要な概念が出てきます。
人間の脳は、勝手にメタメッセージを作ってしまう強い癖を持っています。一般化してしまう、とも言えます。
養老孟司. 「自分」の壁(新潮新書) (「壁」シリーズ) (Japanese Edition) (p.144). Kindle 版.
個々の情報を集めて膨大な量の情報が集まると情報の受け手側は勝手に別のメッセージを取り入れてしまうのです。暗黙の前提にしてしまう。情報過多になり、知らず知らずのうちにメタメッセージを受け取り続けていると、本当に何が大事なのか、そのバランスが崩れてしまうように思えますというのだ。ある意図をもって情報を膨大に集めればその意図がメッセージとして受け取られて暗黙の前提になってしまうというものである。これはとても怖いことだ。なぜなら暗黙の前提になってしまうのだからね。第2次世界大戦を招いたナチスのプロパガンダ、や大本営発表などはまさにその例であろう、だから報道が○○一色とかになった時は気をつけなければならない今のインターネット環境で言えばまとめサイトあたりは怪しい。そしてもっと怖いと思うのが協調フィルタリングといった。個人の嗜好を推察し情報をリコメンドするマーケティングテクノロジーだ、これはGAFAの得意技だよね、一度何か商品などに関する検索を行うとその後のポータルサイトは関連する商品やサービスの情報で埋め尽くされてしまう、何気ない行動がAIなどを用いた、解析不能なアルゴリズムによってメタメッセージ化されてしまうのだちょっとした好奇心が僕の前提を変えてしまうことになるわけで、おお、怖い。例えばヤフーのトップページに韓国における反日に関する記事が紹介されていたとしよう。興味本位でクリックしようものなら、実際僕のヤフートップは反日や嫌韓の記事のオンパレードになってしまた。嫌韓は、僕の前提になってしまうのだ。僕はマーケティングテクノロジーによって嫌韓に仕上げられてしまった訳だおお怖。アルゴリズムに気づいた僕はメタメッセージが隠されていそうな記事やCmはクリックしないことに決めた。最近は顔認識も含めて個人特定する技術もどんどん進歩しているから、インターネットを通じて配信されるメッセージはすべて受け手の前提に基づくものであると考えて間違いない、その前提は受け手の行動履歴からアルゴリズムによって作り上げられたものだその前提によって情報の受け手は前提を改変されていく。流行語大賞などもテレビからネットまでメディアが一斉に取り上げて今までそんな言葉使ったこともない人までがエモいとか言い始めるのだからメタメッセージになっているよね。
養老孟司. 「自分」の壁(新潮新書) (「壁」シリーズ) (Japanese Edition) (p.141). Kindle 版.
2022年2月6日日曜日
インプットが生む新たな学びが未来を開く
僕は今、インプットを増やしている、外に出ていってインプットすることは難儀なので主に家でkindle 読書である最近は養老孟司さんの壁シリーズを読んでいる。まあ、今更?感はあるけれど、読んでいて非常に面白い僕が考えていることとも符合する。そして何よりも養老先生の知識が新しい出会いをたくさんくれるのである。昨日の出会いは以下のようなもの有名なのは、アメリカで脳神経解剖を研究している女性の学者ジル・ボルト・テイラーさんの例でしょう。彼女は三七歳のときに、脳卒中を起こして左脳の機能を破損してしまいました。ふつうの人は、脳内で出血したら、何が何だかわからなくなって倒れるだけでしょう。しかし、彼女は専門家なので、出血した際に「ああ、これは脳の出血かなにかを起こしたな」ということが、すぐにわかったそうです。そして、これから自分の身に何が起こるのかを憶えておこう、と意識したのです脳がふつうに働かなくなりながらも、次のように考えていたそうです。「いいわよ、のうそっちゅうがおきるのを止められないならそれでいいけど、一週間だけね!ついでに、どんなふうに脳がげんじつの知覚をつくり出すのか、知りたいことを学べばいいんだから」(『奇跡の脳――脳科学者の脳が壊れたとき』〔竹内薫訳新潮文庫〕より。以下同)
養老孟司. 「自分」の壁(新潮新書) (「壁」シリーズ) (Japanese Edition) (p.13). Kindle 版.
これは自分は矢印に過ぎないという第一章に出てくる話だ。僕はこの軌跡の脳の話を知らなかったけど、僕ものうそっちゅうがおきるのを止められなかった一人だ。たしかに脳内で出血したとき僕は何がなんだかわからなくなった。立っていられない立ち上がれないことはわかった、その時僕が考えたのはこれは救急車をよばなくてはならない状況だ。救急車を呼ぶためには入り口の鍵をあけなくてはならないけどその鍵は僕が持っているさてどうしよう、あ、ヒトの気配がある、なんとか声の限り助けを呼ばなくてはということ、居合わせた人が気づいてくれて僕はすぐに救急搬送されることが出来た。つまへの電話と救急隊員に状況の説明をする際にちょっとだけ上手く喋れないことに気づいた救急隊員の方は、言葉がやや不明瞭で顔に少し麻痺が出ていることも見逃さず。救急搬送先の病院は脳外科のある病院にしますと知らせてくれたあと、かけつけた妻に助けてくれた人の連絡先を聞いておいてと伝えたけどこれはうまく伝わらなかった、何を言っているのかわからなかったのでしょう。その後搬送された病院のER集中治療室に運ばれたことまではうっすら記憶があるけれどその後は病室で寝ているシーンからぼくの意識は再開する、点滴とカテーテルが挿入され管だらけでベッドに横たわる自分だ。目が覚める直前は夢を観ていた夢の中で僕は自宅のソファーに座ってルイちゃんを膝に載せ尻尾を左手で握っていたそこに、病院のベッド(キャスターつき)が入ってきて病院に帰るという夢だった
脳の中には、「自己の領域」を決めている部位があります。「空間定位の領野」と呼ばれていますそこには空間定位の領野が壊れたらどうなるかが、見事に描かれています。まず何が起こったか。彼女は自分が液体になったようだったと書いていますテイラーさんは自分が世界と一緒になってしまうような感じになったのだと言います
養老孟司. 「自分」の壁(新潮新書) (「壁」シリーズ) (Japanese Edition) (p.14). Kindle 版.
僕は幸いにも空間定位の領野が壊れることはなかった。だから自分と世界が一緒になってしまうような経験をすることはなかった。常に。僕は僕で、世界は家だったり病院だったりとはっきりと別れていた世界のどこに自分が居るのかは手術の麻酔もあって混濁していたようだけどね、僕が壊れたのは左半身の運動と感覚を司る部位だ、感覚も失っているから左手が動かないということもリハビリを始めるまでよくわからない。でも、左手の運動も近くも記憶は残っていた、左手が動くイメージ(実際には動かない)とかものを握る感触とかを思い出すことは出来るのだ。こう考えると僕は僕の脳と体の間に何が起きたのか記述することが出来るんだよね。それはまさに、養老孟司さんの著作による、出会いのおかげである。読書というインプットによって、僕はより深く僕や僕の脳出血のことを学ぶ機会を得たわけだ。
読書は新たな知識や他者の目線を獲得するだけでなく自分の過去の経験に新たな光を当てるものでもあり、そう考えるといくらでも学びを掘り起こすことができる手段と言うことができるだろう養老孟司さんの主張に沿うならば経験を全て意味のあるもので揃えることは意識の奢りである、しかしどのような出来事からも学ぶことが出来るようになれば経験への耐性が上がることは間違いないそれは自己効力感の獲得経験への開放性にもつながるものであり、僕たちの好奇心を鼓舞し未来への扉を開いて行くのである。僕が考えるに、経験を意味化するとは、意味ある経験ばかりで人生を価値化することではない。経験からに学ぶことで未来の扉をひらいていくことなのである。けっかとして。人生における意味ある経験が増えることになるけどね。
るいちゃん重いっす
2022年2月5日土曜日
検証のない介入がもたらす怖い結果
僕は今回長期の入院リハビリを行い退院してからもリハビリを継続しているそして、リハビリは専門の教育を受けた療法士が行う評価、仮説、介入、考察の一連の流れであることを知ることが出来た、恐らくこれは臨床の現場に共通している流れだと思う、だから人材育成や人材開発の現場でも同様だよね、これは僕の実感なんだけど、これまでの知見を通して、状態の評価無く定説を通じて介入が始まる場合がある。例えば僕は左脚に麻痺が出て。歩行が困難になった、左脚に力が入らなくなったのだ、僕固有の症状が他にも出ていないのか確かめるのが正しい状態の評価だよね、そこで、ぼくの現状に対する仮説が生まれて、どう介入するのが良いのかうまれてくる、しかし左脚の麻痺であれば麻痺した左脚にしっかりと体重を乗せても支えられるように介入するのが良いという定説がすでにあって、介入ありきになると、評価と仮説がおろそかになる。ナレッジからのアプローチが必ず悪いというわけではないけれど、介入の選択肢がより多くあることが、リハビリでは重要だと聞いた。臨床においては、ひとりひとりの状態は皆違うものだから、最適な介入を行うことが大事なんだよね。そのうえで介入した結果が最適であったかどうかを検証することはもっと大事だ、療法士などの支援者は介入するのが役目だけど介入ありきだと、時に不適切な介入になりかねない。ぼくはそれでえらい目にあった僕の脚の能力を評価せずに筋力アップや関節の可動域を広げるための介入を受け僕の左脚筋肉は筋疲労をおこして歩けなくなったのだ。僕はその経験を通じて同じようなことが人材育成でもおきているのかもしれないと考えた、例えば人材のコミュニケーション力を高めるためにコミュニケーション研修を受講させたとしても、本当の問題はコミュニケーション力でなくモチベーションだったり、パーソナリティであ可能性もある。僕の体験からも不適切な介入は百害あって一利なしだ、正しい仮説を立てていなければ介入した結果の検証も当然出来ない。検証を疎かにするということは仮説が無い証ともいえるだろう。良く人材育成においては効果検証が難しいといわれるけど、ひょっとしたら、それは、検証するための仮説と仮説を導くための現状の把握がちゃんと出来ていないからなのかもしれないね、
2022年2月4日金曜日
ヒーローや人気者だらけの組織がもたらす持続不可能な世界
今朝ツイッターで以下の記事がリツートされてきた
政府は今夏にも企業の「人的資本」に関する情報開示指針をつくる。専門会議で社員の多様性や人材教育などの開示内容を議論する。働き手の能力や知識は新たなアイデアを生む資本と捉えられ、競争力や企業価値を左右する要素として投資家の関心が高い。欧米は先行しており、開示をテコに企業の人材戦略の強化を後押しする。
少し前の僕ならこれは良い取り組みであると賛成していただろう、実際そんなことをどう実現できるか真剣に考えていたからね、でも今日の僕はこの取組に大いに異論がある、立場的には絶対反対だ。なぜなら本質的な議論が必要なのにされているように思えないからである。特に異論があるのが、働き手の能力や知識は新たなアイデアを生む資本と捉えられ競争力や企業価値を左右する要素として投資家の関心が高いとしている部分である。つまり、組織で働くということは働き手は将来の可能性まで組織に供与することが求められると公言しているに等しい。組織と人間の関係性は組織に帰属している時点での貢献や従属から一歩、踏み外してしまっている(登山なら滑落事故である)。将来の可能性を価値化しようという発想(現在の資本主義のメインフレームだけど)は資源の乱開発を引き起こし持続不可能な世界を生み出している元凶だったのではないだろうか。例えばアマゾンの広大な原生林も耕作地にすれば将来穀物の収穫が出来て収益が上がると考える人達によって大規模に破壊されてしまったでしょ。これと同じことが組織で起こると考えられない想像力の欠如はそらおそろしい、つまり、人間を現在だけでなく未来も含めて意味化して世界を意味ある人で満たそうことの愚かさに僕たちはそろそろ警鐘を鳴らす必要があるのではないだろうか。
こんな社会に未来はあるのか?
2022年2月3日木曜日
stloop taskから科学の始まりを考える
認知研究にはstloop taskストループ課題というのがある。高次脳機能の検査(つまりリハビリにも使われる。DS脳トレなどでも出てくる前頭葉の機能を測定するテストだ。文字の色とその文字が意味するところの色がわざと違えてあって、文字の色でなく文字が意味する色ではなく文字の色に則り指定された問い(数えるとか)に答えるというものだ、養老孟司氏は著書遺言の中で感覚所与というテーマに言及している。観ているママの事実ということだね。それとは別に頭の中の概念例えばyellowであれば緑色の文字であっても、誰共黄色を指していると意識するという合意が世の中には定着している。この感覚と意識の乖離に養老氏はスポットライトをあて以下のように考察しているがこの考察はとても興味深い。
自然科学が追っているのは、意識が正しいか、感覚所与が正しいか、ではない。内部の意識と、感覚所与と、両者の存在を認めた時に生じる、両者間の最良の対応関係なのである。養老孟司. 遺言。(新潮新書) (「壁」シリーズ) (Japanese Edition) (p.33). Kindle 版.
ストループ課題はまさにその対応関係を脳がうまく処理できるかを問うているのである、
FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣という本には以下のような思い込みが世界を正しく見れなくしているとしているこれは正常化バイアスと呼ばれるものだよね、
分断本能「世界は分断されている」という思い込み
第2章ネガティブ本能「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み
第3章直線本能「世界の人口はひたすら増え続ける」という思い込み
第4章恐怖本能危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう思い込み
第5章過大視本能「目の前の数字がいちばん重要だ」という思い込み
第6章パターン化本能「ひとつの例がすべてに当てはまる」という思い込み
第7章宿命本能「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
第8章単純化本能「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
第9章犯人捜し本能「誰かを責めれば物事は解決する」という思い込み
第10章焦り本能「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み
第11章ファクトフルネスを実践しよう
この本では感覚所与つまり客観的事実が正しいとしているのだけど、社会科学においても自然科学同様両者の存在を認め最良の対応関係を見出すことを迫られているとしたほうが良いだろう、なぜなら思い込みは正しくないとしたところで世界は僕たちの意識の中にあるのだからね、思い込みを否定するということは世界の存在を否定することになってしまう。しかし世界が存在するのは事実であるから、思い込みを否定すると事実までも否定することになってしまうという皮肉な結果に至ってしまうのだ。
任天堂の脳トレではストループ課題の正確さと速さを測定しているから僕は感覚を研ぎ澄まし意識を高めて取り組むひつようがある、これは、大きな集計表を作った時に間違い探しをするときの状態とよく似ている、感覚で捉えて意識とのズレを見つけるのだ。するとおかしなところが見えてくるもはや無意識の境地なんだけどね、もしかしたら僕たちは無意識に感覚と意識のズレを見つける能力を持っていてそれが好奇心や科学の出発点になっているのかもしれないね。
ハンス・ロスリング,オーラ・ロスリング,アンナ・ロスリング・ロンランド. FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.36-40). Kindle 版.
ストループ課題の例
2022年2月2日水曜日
医療崩壊なう
僕は今回脳出血を発症して現在自宅で静養リハビリ中であるそもそも腸の持病もあったので合わせて数種類の薬を飲んでいる。脳出血の再発をふせぐためには血圧を下げるための降圧剤それと持病の整腸剤などである。いずれの薬も処方箋が必要でこれまで受診していた大きな病院は処方をもらいに行くのも大変なので今般僕は近所のクリニックにかかりつけ医をお願いすることにした。そろそろ降圧剤が無くなってきたのでかかりつけ医に行こうかと思ったけどこのコロナウイルス感染拡大の状況で発熱外来も行っているそのクリニックに行くのはリスクがあるなるべくリスクの低い時間に行こうと電話をしてみたのだけどまったく電話が繋がらない。おそらく発熱外来の予約で電話が集中しているようだ・HPを観たらもう予約はいっぱいになったと掲載されていたでも発熱している人はやはり不安で診察や検査をうけたいものだよね。
結局出かけるのが大変な僕は家に居て妻が(マスクを二重にして)クリニックに様子を見に行ってくれた(本当にありがたいことですTHank youvery much mywife)
要するに今、結局コロナに感染していて(疑い含めて)もいなくても身近な医療サービスすら利用できない医療崩壊の状況になっているのだ。ノンポリな僕でもこれは由々しき問題であると思う、感染者数と医療サービスの間には密接な関係があるわけだから、パラメーターを定めてシミュレーションとか出来ると思うんだよね。そうすれば発熱外来の必要数や計画的な配置を通じて医療崩壊を防ぐ戦略が練れそうだけどね。そういったシミュレーションってきっとだれかが取り組んでいるんじゃないかな。AIとかシミュレーションの技術はこういう場面にこそ積極的に投入して欲しいものだよね。感染拡大(実効再生産数)3密のモデル化発症確立と発症後の行動モデルと発熱外来の診察可能数を比較することでどのタイミングでオその地域オーバーフローになるかはじき出せるはずだよね。そうすれば天気予報みたいに予報が出せるはずだ。それを出していないということは医療崩壊は天災じゃなくて人災であると言えるのでしょう。
2022年2月1日火曜日
技術とそしきと人間の関係が気になる今日この頃。
最近僕が考えているのは技術は本当に僕らを豊かにしてくれたのかということである。ひょっとしたら、技術は豊かさを偏らせることで僕たちの競争を煽り、あらゆるものの資源化とその利用を促してきたのではないだろうか。もちろんそれは技術が悪いのではなくその使い方に問題があるのだろうけどね。僕たちは技術によって解放され自由るのではなく。囚われてより不自由になっているのかもしれないねそれ効率とか生産性を向上させる組織と言う協働形態の技術においても同様で採算性を上げる組織化によって僕たちはより組織への帰属を求められるようになったように思われる。特に日本においてはエコノミックアニマルと言われた時代から何が変わったのだろうか。もちろん組織と人間の関係はより、人間の主体性が尊ばれる状況にはなったけど。組織の構成員は主体的に貢献すべきであると言う組織観はより強化されているように思える。個人のイノベーションの恩恵に預かるのは主に特定の組織だし。法律もその組織観や社会を擁護している。自然科学では主に発見の恩恵を受けるの人類全体であったが、こと、近代の産業に関しては発見や発明の恩恵を受けるのは特定の企業である。産業における発見発明は技術として社会実装されるわけで組織よりも個人が尊重される社会か到来しない限り、技術によって社会の豊かさを実現することはできないのではないだろうか。
つまるところこれなんだよね。