アートは僕たちが生きていくうえで表現も感受も正解が無いことに誰もが同意する希少な生活の中の領域である、生活の多くの領域には導ける正解があると考えるからねどう感じてもどう表現してもよいのだしかし上手くとか多くの人の心を動かすものが良いものなのだという意見もあるかもしれないけど、それはアートと商業を混同しているだけだ感受性とは常に自分だけのものであるだから鑑賞にせよ表現にせよ自分の世界を護りたければアートすればよいのだ自己肯定感は困難を乗り越える鍵だからアートは困難を乗り越えるパワーの源なのだ。そこらへんのことはフランクルの名著夜と霧に詳しい。
2023年3月31日金曜日
2023年3月30日木曜日
叩き売りのオファーには応じちゃいけない
2日ほど前に自己承認をしようという記事を書いたけど、誰しも居るだけで意味があり価値があるのだ。価値は資格やスキルに由来するものではなく人の存在にあるのだ、なぜなら人は存在するだけで誰かに意味を与えているるのだから。故に自己否認するということは価値の安売りであり、他者から意味を奪う行為なのである。世の中儲け主義で価値を買い叩こうとする人も居るけど、自己承認を行って安売りに抗おう。それが世界に意味を与えるということなのだ。
2023年3月29日水曜日
ネガティブを忌み嫌うことなかれ
生きていくことと死なないことの違いってなんだろう。マインド的には生命のポジティブな表現とネガティブな表現その表現の違いだけのように思える外向性を測る尺度が活発な方であると、おとなしく引っ込み思案なほうである。といった聞き方をするのに似ている。物には何でも表と裏があるでもその表と裏が指し示すものは同一である、でも表と裏ではだいぶ印象が違うそもそも表と裏という言葉自体に印象があるよね。このような概念は古くから浸透していてそれが陰陽道である陰陽道ではこの陰と陽の境目に邪気が宿ると考える表と裏の境目を複雑系で表現すればカオスの縁ということになるカオスの縁は創発の苗床であり進化(新しい秩序)が芽生える場所なのである。
社会学的に見れば法秩序社会が表ネット社会が裏(闇バイトとか見ればわかる)ということになる。国際秩序の遵守を言うnato側が表、国際秩序に抗うロシア中国北朝鮮が裏だね、新しい秩序(進化)はこの二極の間に位置する国々から生まれるに違いない。
2023年3月28日火曜日
継続は力なり自己承認という報酬を準備しよう。
このブログ気がつけば3699日になっていた。脳出血による中断はあったものの再開してからも634日と良く続いているものだ。このブログの再開とほぼ同じ日数続いているのが禁酒である。もはや禁酒でなく断酒だ、脳卒中当日から数えると650日になる、お酒は脳出血の再発を防ぐ目的からも断ったというより飲んではいけなくなったというのが正解なのだけど、
アメリカのテレビドラマを観ていると良く断酒会のシーンが出てくる。ドラマの中ではたいがい断酒に失敗して問題がおこるのだけど、酒断ちを継続するのはなかなか難しいよね。脳サバとうちゃんも脳卒中で懲りたにも関わらず脳外科の主治医にお酒飲んでもいいかなどと聞くくらいだからね(やはり飲みたいんか〜い)
さて継続のこつは続けることを止めないこと諦めないことなのである要は自分の弱さに負けないという覚悟である。続けることが楽しみになったらしめたものだ。他者の承認に満足してしまうと、続かなくなる。他者はそんなに他人のことを気にしないからね。だから自己承認という報酬を与えることが肝要なのである
2023年3月27日月曜日
所変われば人変わるそれを嗅ぎ取る認知バイアスののすげー仕組みとは
お花見タクシーで都内各所を巡った、下町日本橋。皇居周辺、永田町赤坂界隈、六本木青山、まあ狭い東京ではあるけど、行く先々、満開の桜を観に人が集まっていたので桜だけでなく自然と人間ウォッチングも行うことになった。
それも、国際都市東京だから日本人だけでなく外国の方々もね。
しかしほんと、場所場所によって様相が異なるんだよね。
観光、居住の違いも一目だけど、生活水準なんかも手にとるようにわかる。
あ、ここいい感じだなもあれば
ここ、何だか嫌だなぁというのもある。
瞬間的に場所の印象を嗅ぎ取る認知の仕組みって不思議だよね。
タクシーでの移動僕が陣取った後部座席右側は窓が開かないから僕が取得する情報のほとんどは資格情報である。
この、資格から得られる環境に関する情報のリソースと、僕の記憶の中にある、経験のリソースが、その時僕が存在する場所を知として僕の中の場を形成するのだ、
実は僕が存在するのは僕の中に形成された場の中であって、隣に座る妻、タクシーの運転手さんが居る場所とは全くの別物なのである、
場所に集う人に関しても同じだ、近郊から来た観光客や外国籍の方、居住者などを年代性別も含めて経験のリソースから瞬時に見極めて知を形成しその場の知識と成す。
この仕組はお花見タクシーに限った話ではない、
学校であれ病院であれカフェであれホテルであれ僕たちは初めての場所でも極めて限られた情報から場の知識を形成する仕組みを備えているのだ。
僕たちはそれを雰囲気atmosphereと呼ぶ。
雰囲気を知るうえで五感のリソースのみならず経験のリソースが大いに役立つことは言うまでもないけど、この時空における経験の中でも僕たちが実際に経験できるのは極めて限られた部分的なものでしかない。
この、超限定の世界から僕たちは井の中の蛙となって大海を知るのだ。その時役立つのが認知バイアスである。
ちょっとした部分から全体の場を構築できる、情報化社会、事実主義証拠主義など、認知バイアスを悪者扱いする風潮が高まっているけど、実は僕たちはこの認知バイアスの仕組みによって作られた世界の中で生きている、いや、認知バイアスがあるから世界の中で生きていけるのだ。
認知バイアスはときに、誤認識や偏見や差別の原因ともなりうるから、生きていくうえで注意する必要があることは最近良く語られるけど、だからといって僕たちは認知バイアスを排除するのでなく認知バイアスが上手く働くようにチューニングすることに力を注ぐべきなのである。
2023年3月26日日曜日
「認知能力」と「非認知能力」「認知とはそして人生の核心は能力じゃない」
慶應義塾大学 総合政策学部 准教授 中室牧子(なかむろまきこ)氏のインタビュー記事で非認知能力に関するものがあった。中室氏によると、「認知能力」と「否認知能力」は以下の通りだそう。
経済学では、学力テストや IQ テストで測ることができるものを「認知能力」、性格的な特徴や人格を「非認知能力」と呼び、分析の対象にしています。
そして非認知能力で「自制心」(我慢する力)と「GRIT」(やりぬく力)が重要だとも指摘している
認知科学が人間の「知」を解明する科学であることと鈴木先生の能力という虚構(私たちはどう学んでいるのかより。)を考えるとこの「認知能力」「非認知能力」という言葉の用い方には僕はい大いに違和感を持たざるを得ない。
恐らく測定される=認知されるということなんだろう。
大学教育の現場ではもっとわかりやすい表現をしていた「学力」と「人間力」だ。僕はこちらの方がしっくりとくる。
認知という言葉が人工知能なども含めたバズワードになっているから用いたのだとすればがっかりだ。
以下も中室氏の言である。
日本では、認知能力が将来の学歴や就業、所得との関連が強いと考えられているので、“偏差値”で計測される学力が重視される傾向があります。一方経済学は、認知能力が、学校を卒業した後の人生の成功のほんの一部しか説明できないことを明らかにしてきました。例えば、個人の学力テストの成績の変動は、個人の賃金の変動の17%しか説明することができないと主張する研究があります。つまり、経済学者の探求は、将来の成果を説明できる、認知能力以外の「何か」を突き止めようとしたところから始まり、それを一言で言い表そうとして「非認知能力」という言葉が生まれたのではないかと考えられます。
ただし、非認知能力にはかなり広範なスキルや特徴がひとくくりになって含まれています。例えば、誠実性や勤勉性、物事をやり抜く力、自制心などの多様な特徴やスキルが含まれます。その計測の方法もさまざまです。その中で、経済学の研究の関心は、賃金や職業など、将来の成果を予測できる能力やスキルは何かを明らかにしたいというところにあります。
2023年3月25日土曜日
東京再発見お花見タクシー
タワマンと桜の競演もお花タクシーならではだね。青山墓地界隈だったかな
2023年3月24日金曜日
道具と心のカップリング
今日は観光タクシーで桜の名所巡りをする日なのである。今日に備えて脳サバとうちゃんはここ数日持っていくカメラの準備に勤しんでいた。どのカメラとレンズで満開の桜を撮ろうかモチベーションが高まっていた、昨晩は今日持っていくカメラを揃えて机の上に並べておいた、電池もすべて充電した。しかし昨晩床について考えた。桜の写真はこれまでも沢山撮ってきた
写真は趣味だけど、別にコンテストに応募したいわけでもない、脳サバになって初めての花見らしい花見だ。写真を撮ることよりも今日という日2023年の満開の桜を記憶に焼き付けるほうが重要なのではないだろうか、そうすると素敵な写真を撮るより。
記録に専念すべきだ、カメラも高画素や広角、望遠じゃなく標準画角ののログカメラでいいことになるそこで、朝起きてすぐにテーブルの上のカメラを片付けた脳サバとうちゃんなのであった。持参するのは自撮りできるvlogカメラ1台に絞った。心が道具を選び道具が心を動かすこのカップリングでさんざん揺れた脳サバとうちゃんのこの一週間なのであった。
2023年3月23日木曜日
多多層性とマルチモーダルを身体化によって統合せよ
WBCで日本中が興奮した昨日最後は日本の至宝大谷とアメリカの至宝トラウト選手のチームメイト同士の一騎打ちというこんなシナリオ誰も書けないゼというくらいドラマティックなエンディングとなった。昨日の試合がエンディングだとすれば当然オープニングがあるわけで、大谷選手のオープニングは恐らくお父さんと結んだ3つの約束だろう
1。「大き声を出して元気にプレイすする
2.「キャッチボールを一生懸命する
3.「一生懸命に走る」
この3つの約束を大谷選手は今回のWBCでも間違いなく実践していたのを誰もが目撃しただろう。
そしてもうひとつオープニングとして忘れられないのが高校時代に作った目標管理マンダラチャートである
2023年3月22日水曜日
劇的な人生の歩み方
劇的なWBC準決勝さよなら勝ちに劇的な首相の電撃ウクライナ訪問と日本国中を劇的が走り抜けた春分の日の昨日、そう言えば脳サバとうちゃんも劇的な会社卒業に劇的な脳卒中と劇的がだったたなぁと思い起こす、1回目の結婚のときは結婚式と父親の葬儀がほぼ10日の間に凝縮されていたのも劇的だ。母が亡くなった際も1週間内に東日本大震災とこれも極めて劇的だ、まあこういうめぐり合わせが一致するのは単なる偶然だから変に自分を神秘的に意識するのは戒めようと思う。偶然は還元不能だし意図も不在な創発と一緒だ。創発が起きるようにリソースを増やしておくことは出来る人が知を生む仕組みを解き明かしてきた認知科学では、マルチモーダルネットワークと身体性という理解で環境とカップリングした身体が知の創出と切り離せないことを見出している。劇的というのは著しい状況の不連続的な変化を心理が受容する際に生じる、感嘆の感情の言語的表出である。僕たちの心が新しい文脈に出会ったことを喜びとともに迎える瞬間だよね。劇的な出来事が多いということはそれだけ世の中が変化に満ちている予測不能な状況にあるということでもある。僕たちが予測していない新たな状況に遭遇するとき、僕達は知を創発させてその新たな状況に適応していくだから劇的によって自分の何が変わったのかは自分の知を知るとても大きな手掛かりなのだ。そう考えると脳サバとうちゃん人生の劇的であまり何かを見失うようなことも無かったから案外メンタルはタフなのかもしれない。むしろ自分で人生を劇的にしてしまっているところもあるから自作自演人生劇場なのかもしれない。何か見当たらなくなるとすぐ妻のせいにしてしまうものの。こと人生に関しては他人のせいにせず。引き受けてあとは好きに生きてるだから折れることも挫けることも無いのかもしれない。
2023年3月21日火曜日
秒速1.7メートルの春
2023年3月20日月曜日
脳サバの記録
今思うと残念なことがある。それはもっとたくさんリハビリなどの 動画を撮っておけば良かったということだ。6月15日に発症して7月2日からブログを再開しているけど、発症し緊急手術を受けてボロボロの状態などは動画がない。知人に送ったメールや子供に送ったLINEとかを見るとそれはもうボロボロでそういう意味での記録は若干残っているのだけれども、そういう状態をリアルに動画に残しておけばよかった。リンクを張った動画はどちらかと言うとリハビリの記録であって病気の記録としては足りていない。スマホが手元にあったのだからボロボロの自分の様子を残しておけば良かったな。自分を知る手がかりになるからね。
2023年3月19日日曜日
日曜の朝脳卒中の記事を観る。
また冬に戻ったような寒くて冷たい雨が降った昨日の土曜日とうってかわって陽光が降り注ぐ気持ちいい日曜の朝僕はこんな記事脳卒中の5つのサイン 症状が出たら迷わず救急車を呼んで 脳梗塞には前兆がみられることも〈dot.〉を読んでいる。今更お皿~なんだけど、先日誕生日直前に1年に一度のMRIを撮ってその結果も全く問題ないという診察を受けたハッピー脳卒中サバイバーとうちゃんではあるが、誕生日を越えたということはまた一歩高齢者に近づいたわけだから脳卒中の再発や脳梗塞にも気をつけなくてはならないのだ。折角リハビリでだいぶ日常を取り戻せてきた脳サバとうちゃん、ここでまさかの出血再発や脳梗塞になって、再びダメージを受けるわけにはいかないのだ降圧薬も忘れずに飲んでいるし、毎朝測定して。この一年は上が87-130下が56ー83と平均で上が130を超えていた脳出血発症前に比べればしっかりとコントロール出来ているこのままがんばっていきましょう。断酒もすでに650日を越えて最近たまに飲んでみたくなるけど、まあ薬がお酒のかわりだと思って、このまま3600日を越えたこのブログを越えていこうと気を引き締める日曜朝なのである。脳サバとうちゃん頑張る。皆さんも記事を読んで脳卒中にお気をつけください。
2023年3月18日土曜日
ドラマで描かれるチームワーク(リーダシップとマネジメントの違い)
最近WOWOWで海外ドラマを良く観ているのだけど、事件物、医療物が面白い。やはり人の生死にかかわる事件や事故という一大事はそれを取り巻く人間関係の機微も含めて引き込まれるよね。要するにハラハラドキドキさせられるのだ、それともうひとつ興味深いのはやはり重大事案に対処する際のチームワークだね、その中心に居るのはチームリーダーだ、率先垂範の行動力+状況に応じて発揮される卓越したスキル、メンバーから信頼される人望どんなドラマにおいても、チームリーダーに共通するのはこの3つだろう
1率先垂範 まずは自分の行動で示すもちろんリーダーにも悩みも葛藤もあるそれらを抱きながらも問題解決に取り組む
2卓越したスキル、専門技能に長けていることは言うまでもないが状況に最適な判断を下せることが恐らく最も重要なスキルだ。
3信頼される人望もちろん、1と2の実践で信頼を得るのだけどメンバーのプライベートやキャリア形成ににも適度に関与することを忘れてはいけない。時に反面教師的に描かれるリーダーの多くは自らのキャリアや目標達成のためにメンバ-を踏み台にするリーダーだよね。
そういったチームリーダーとドラマの中でよく衝突するのがマネジャーだ。マネジャーは組織の利益の代表者として予算管理とかコンプライアンスの遵守などを優先する。現場の問題解決とメンバーのマインドを優先するチームリーダーとはプライオリティ(優先事項)が違うのだ。だからマネジャーがチームリーダーになれるかというとそんなことは無いと思う。
チームリーダーが先頭に立って最前線の問題解決をするからといって組織の問題解決まで担わせるのは間違っているように思える(利害相反だから)し、組織の問題解決が出来るからといってチームリーダーになれるわけじゃない1と2が無い。ドラマの中でも良く描かれるのがこのリーダーとマネジャーの衝突だ。マネジャーは人を資源(代替可能)だと考えるけど。リーダーはメンバーを家族と考えるからね。だからメンバーや同僚がぽろぽろ抜け落ちていく組織のマネジャーにリーダーは務まらないエビデンスベースで僕はそう考えるのだ
2023年3月17日金曜日
生きていく自信と生きてきた自信
僕たちが生きていくうえで自信は大切だ。自信を失うとこの世は不安だらけになってしまう
「自信」とは広辞苑によると「自分の能力・価値や自分の言行の正しさなどをみずから信じること。 また、その気持ち。」 と定義されています。 自分が自身の能力や価値を信じられるかどうか、つまり「思い込み」なのだそう。で広辞苑の定義はいいとして「思い込み」というのいうのは如何かなと感じたでもサイトを見ると
しかし多くの人は、自信の「根拠」を求めます。
成績優秀であること、人間関係が良好であること、お金持ちであること、人より秀でた才能や能力があること、人気があること、顔やスタイルが良いことなどです。
この根拠となる多くの物差しが「他者からの評価」です。
他者と比べて何か優れていること、他者からいい評価をもらうことが自信のベースのままだと永遠に本当の自信を手に入れることなどできません。
と続いていた。ここまで読むとなるほどと納得がいく。
自信の背景には根拠がある。
だからやたらとい自信に満ち溢れた人に出会うとその根拠のない自信はどこから来るのと皆が訝るわけだよね。
自ら信じるための根拠として自分にとって一番たしかなものは経験によって裏付けられるものだろう。
あの時出来たとか実際にやっていたといった実経験に基ずく過去の経験による根拠は揺らがないし時を経て「あれは無かったことだよ~ん」「勘違いですよ~」「ジャンジャン」と裏切ることも決してない。
だから自分のやってきたことを振り返ると自己理解(メタ認知)が進むとともに自信がわいてくるのだ。
それは未来に向けて生きていく自信になる。
生きてきたことが自信となって生きていく自信を生み出す根拠となっていくのだ。
未来とは未確定であり複雑で予測不能だしかし自信を培うことで根拠のない自信自己効力感が生まれてくる。
先ほど取り上げたサイトでは小さな成功を積み上げることで根拠のない自信が持てるようになると示しているのだけど、
新たに小さな成功を積み上げる必要は無いそれまで生きてきた自信を認めるだけでいいのだ。
自分の人生という物語の主人公は自分なんだと気づけばよいのだ 。
これは脳卒中サバイバーになったとうちゃんの偽らざる本音でもある。
脳卒中になり出来ないことが増えていくとで小さな成功をつみあげることすら困難になる。
でも、障害という困難を乗り越えるには自信と人間関係と社会的支援が不可欠だ。
その中でも自信は一番大切である。でも自信ばかりあっても謙虚さも持ち合わせないと嫌われるよ。過剰な自信は人間関係を壊しかねないのでそうなっちゃうと困難を乗り越えられなくなるから歩行と一緒でバランスは忘れないようにね。
2023年3月16日木曜日
ばんばの悩み脳サバの想いと発見のある日常。
NHK朝ドラ舞い上がれでばんば主役のおばあちゃんが脳梗塞になってしまった。
軽かったようだけど左手左脚に痺れが残ってやや不自由になったようだ、左半身だから右脳梗塞だね。
脳梗塞は再発率も低くないから独居は禁物、異変が起きたらすぐに対処しないといけないからね、船に乗って海の上なんてもってのほかだ。
畑仕事も脱水になると血栓ができやすくなるからNGとばんばがこれまで出来ていたことがほとんど出来なくなるばんばは自分の事が自分で出来なくなることがこんなに辛いなんてと口にするけど。
これは脳卒中サバイバーn偽らざる本音である。
何も100メートルを9秒台走ろうというものじゃない、普通に100メートル犬と表を歩きたいだけだ。
でもそれも叶わない。
回想シーンで子役があれが出来ないこれが出来ないと悩んでいた時、ばんばは出来ることを探せばいいと声を掛けて励ますのだけど脳サバライフはまさにそれの連続だ。
出来ることを探してやってみる。そうやって少しづつ困難を乗り越えて世界を広げていくのだ。
ポジティブシンキングでいくなら、発見のある日々だ、ワイングラスが洗えた、マグカップも洗えた料理が作れたなどなど。
新しい発見があると毎日が楽しくなってくる。時にもっと上手くやろうとして出来なくて苦しんじゃうけど。わりきっていけばけっこう出来るじゃん脳サバの俺ということになる。もちろん無理は禁物だ、上手く行かないは当然だけど、失敗(食器を落として割ったり怪我)をしてしまうとそのリカバリーはもっと大変なことになるからね。脳サバの出来ることとは失敗せずに目的を達することなのである。でもそれらはやってみなけりゃわからないものでもある、上達には試行錯誤が欠かせないからね。ドラマの中でばんばがこれからどう描かれるのかはわからないけど、脳サバの人生は続く。のだ
2023年3月15日水曜日
社会は冤罪を求めている?意図された結果というアタラクシア
創発はそもそもと多様性とそれらの関係性という複雑性から生み出され自然発生的でありながら「還元不能」で「意図が不在の新しく生み出されるものだ」
先頃惜しくも急逝された鈴木宏昭先生は知識とは創発されるものだと示されているけど、人間が何からでも見出してしまう「意味」も五感+経験リソース+状況リソースという多様なリソースのマルチモーダルネットワークから創発によって生み出されているものなのかもしれない。
そして社会化というプロセスを経て意味自体が新たな創発のリソースになる。
そうやって創発が創発を生み出すことで人も社会も発展してきたし、これからも発展していくのだろう。
例えば箱の中にアルファベットがたくさん入っていて放っておくとそれらが勝手にひっついてしまって単語が出来てしまいそれらの単語がまた勝手につながって文章になってやがてそれらが集まって本になり、そして文明となる。
それらは元々創発が持っている還元不能性及び意図の不在を継承しているからもはや文明がなぜ生まれたのかとかどのように生まれたのかのかを解き明かせないのはこうした創発が創発を生み出す自己組織化の入れ子構造になっているからなのでは無いだろうか。
でも、類推してしまう僕たちの脳はすぐに意味の原因犯人探しを始めてしまう
そしてもっともらしい答えに納得して胸を撫で下ろすのだ。時にこの犯人探しは冤罪を生み出す。
だから冤罪はアタラクシア(心の平穏を求める心)から生まれると言っても過言じゃないのかもしれないね。
原因がわからないという事は僕たちを不安にさせる。
僕たちの心理的安定は意図の不在、無意味に脆いのだ。
その最たるものが自然災害であろう。
その脆さは東日本大震災の際に露呈された。
だからやれ東電だとか政府だとかスケープゴートがいくつも悪者に仕立てられた。
自然の脅威ですでは安心できないんだよね。結局。
創発は極めて自然現象的な現象であるしかし僕たちの心理は自然の脅威に脅かされている、つまり僕たちは僕たちの中にある自然に怯える存在なのだ。
先日亡くなった松本零士さんの代表作銀河鉄道999では主人公の少年が機械の身体を貰いに旅に出るのだけど、実は自分の中から徹底的に自然を排除することがアタラクシアへの道であると言うことを伝えたかったのかもしれないね。
2023年3月14日火曜日
リスキリング迷子というこの世の末学びの素朴理論をアンラーニングする方が先。
日本で関心が高まるリスキリング。新たな学びに取り組む人が増える一方で、何を学ぶべきか戸惑う人が増えている状況を、日本経済新聞が報じている。のだそうだ。僕なんかは、何事からでも学べると信じているタイプの人間だから、何を学ぶべきか戸惑う人は何事からも学べない人であるように思える。学びには、常に教師と教室が必要だと考えるのは恐るべき素朴理論だ。もしかしたら、学校教育がそんな素朴理論を植え付け強化してるとしたら大問題である。
政府が推進するリスキリングにもこういった素朴理論が透けて見える。厄介なのは恐らくそういう入れ知恵をしているステークホルダーがいることだろう。つまり素朴理論による受益者が社会には存在しているということだよね、そういう受益者は権威者を擁護して盛り立てている。お抱え権威を祀りあげることで素朴理論をハロー効果でラッピングして強固に塗り固めていくのだ。事業者が権威を借る時は素朴理論が背景にあることに留意すべきでなのある。
でも本来はそんなの固めてポイ(アンラーニング)すべきものなのである
2023年3月13日月曜日
固定的人間観「俺は俺」の意識をアップロード?
変わらぬ存在としての人。僕たちの素朴理論として根強い固定的人間観である。
養老孟司さんは著書死の壁で以下のように書くまさに固定的人間観がどのように素朴理論として強化されていくのかを見事に述べられている。
「本当の自分」は無敵の論理 この論理はいくらでも自由に使えます。
かつて「魂」という概念を持っているときには、死についての捉え方に矛盾は生じなかったのです。 「身体は滅びる。しかし魂は残る。だから意識は不滅だ」という論理です。
そこで説明が出来ていた。考えが止まっていた、と言ってもいいでしょう。
「俺は俺」の矛盾 しかし、「俺は俺」「私は私」という思い込みばかりが強くなり、自分は変わらないという考え方が一般化したにもかかわらず、魂を否定すると、答えがなくなってしまうのです。
「身体は滅びる。科学的には魂は存在しない。
でも意識は不滅だ」では筋が通りません。
これが、「情報化社会」、すなわち意識中心の社会になったことによる矛盾の一つなのです。 もう少し「俺は俺」「私は私」ということについて補足しておきましょう。
この思い込みを打ち破ることはかなり難しい。
常に変わらない自分が、死ぬまで一貫して存在している、という思い込みが多くの日本人の前提になっています。
あまりに一般化しているので、かえってそういう思い込みがあるといってもピンと来なかったりするようです。以上養老孟司死の壁より
でも実際有機体としての人間は日々更新されている。生物学者福岡伸一さんはこれを動的平衡と呼ぶ。こういった生き物としての安定性が自身を終始一貫した存在と誤認する素地となっていることは間違いないだろう。
僕たちの社会も終始一貫した存在として僕たちを扱うその最たるものが戸籍だ。
戸籍上で固定された個人は社会的にも不変の存在だ。
でも僕たちは常に変化し続けている。
変化の中でもより状況適応的なものを成長と言いこの成長を前提とした人間観を成長的人間観と呼ぶ。
固定的人間観と成長的人間観どちらが正しいかと言えば疑う余地はないのだけど、養老孟司さんが指摘する通り本当の自分は無敵の素朴理論だ。
だって一年前も今も。俺は俺だし世の中もそれを正論と言う。
だから人間を固定的に記述することに何ら違和感を感じ無いのだ、むしろ絶えず変化するとすると記述も面倒になるし変人扱いされてしまう。
だからそれでも不変の一貫したところがあるはずだと主張するのだ。この主張に抗うのは本当に大変で困難だ。
養老孟司さんや福岡伸一さんなどがあれだけ言っても素朴理論が変化する兆しも無い。
それが現実だ。
その現実を受け入れて何が出来るのか考える方がきっと柔軟だ。
2023年3月12日日曜日
チェルノブイリの犬を調べたら遺伝子レベルで変容していた
2023年3月11日土曜日
さらば創発の仲間よ(追悼ブログ)
日本認知科学会から,日本認知科学会の元会長でフェロー、常任運営委員の鈴木宏昭さんが3月8日に逝去されました。という訃報が届いて呆然としている
鈴木宏昭の著書に感銘を受けて友達申請をしたら、快くご承認下さり僕が10年前からこのデザインと創発というブログを書いているとお伝えしたら創発の仲間と返してくれたとてもお優しい先生でした。
僕から仲間と言うのはとてもおこがましいかぎりなのだけど、
先生から”メッセージありがとうございます.創発の仲間を発見して嬉しいです”
と頂いたので大変僭越ではあるけれどもこのブログでは創発の仲間とさせて頂いた、
経済学部だったけど経済論に馴染めず産業社会学組織論の教授を師として大学を卒業し、色々経緯があったけど人と組織に関わる仕事がしたくて就いたのは心理学と統計学を後ろ盾とした採用支援やや組織分析の仕事。
そしてその仕事をするにつれより極めるためには心理学や統計学のより尖った領域、脳科学とか人工知能(AI)に踏み込む必要性に気づいて扉を開いたのが認知科学であった、
最近気づいたのだけど、その時期(今から5年以上前)手に取ったのも鈴木宏昭先生の著書「教養としての認知科学」であった。
そして会社を卒業し仕事から離れる際に今後を展望したのは認知科学であった。
市井の研究者として学会に入れてもらい、
脳卒中になってリアルな学び直しに直面していた時期に再び手にしたのが鈴木宏昭先生の「私たちはどう学んでいるのか」であった。
そして、僭越ながら鈴木宏昭先生に友達申請をして送ったメッセージに頂いた返信が先ほどのものだった。
僕が複雑系科学に触れて直感的に創発ってとても大切だと感じたのとは違い、
研究を尽くし創発に言及された先生の業績は本当に素晴らしいものである、
僕は著書をいくつか読ませて頂いただけだけどどれもがわかりやすいけどとても重要なことを示唆されるものばかりであった
特に僕にとって創発は特別な出来事だったけど先生は創発は生き物の日常的な営みであることを見いだされていた。
僕はデザインと創発という大テーマのもとで日々このブログをかいているけど、このブログ自体が創発の賜物であるのだ。
おそらく生きるという事と創発するという事は同じことだ、と思う
先生が示されているのはそういうことに違いない。と僕は感じる。
今後鈴木先生が創発する新たな叡智に触れることは出来なくなってしまったけど創発の仲間として創発に満ちた社会の実現に向けて出来ることをやっていこうと思う。
鈴木宏昭先生本当にありがとうございました。
大変僭越ながら創発の仲間鈴木宏昭先生の死を悼み心よりお悔み申し上げます。
2023年3月10日金曜日
撒いた種を刈り取る脳サバライフへ。
るが 脳サバとうちゃん、朝ドラ舞い上がれをみて、信念の大切さを思い出して考えた。幸いなことに脳出血を起こしたけどサバイバーライフを送れることになったとうちゃんではあるが会社と役割という社会性をほぼ同時に無くしてしかも、要介護状態という世界の中心からいきなり最果ての地に放り出された事実を受け入れ残された人生をどう送るべきなのかリハビリ中もずっと考えていた。かつての世界を取り戻すという選択もあれば新しい世界で生きていく覚悟を決めるという選択もある。そういった選択の際に役立つのが信念である。そこで僕がこれまでの人生のポイントポイントで選択してきたときに使った信念を思い起こしてみた。思い起こせばこれまでの人生でもいろんな選択があった。でもそれら全ては自分が撒いたものでもあった。要するに、自分で撒いて自分で刈り取るそんな当たり前が僕の信念なのだ。そう言えば脳出血だって退任だって自分で撒いた種だ思いつきや気付きという種まきを残された人生でしっかりと刈り取っていこうではないか、そう思った金曜日朝なのである
2023年3月9日木曜日
後ずさりしても前向きに進んで行く
這いつくばり生きていくため叫んでたそれが前に進むということ
僕は昨日聖路加国際病院のレントゲン科の前で椅子に座って待っていた。昨日はは一年に一度のMRI検査の日だ、脳血管がバーンして頭に穴開けて🕳手術しているから定期的に検査しましょう、なのだ。余裕を持って来たから検査までは時間がある。暇だからスマホ弄りながら辻仁成さんのブログを開いたら今日はこんなことを書かれていた。
出来るのにやらないのがネガティブなんです。後ずさりしても前向きに進んで行くのがポジティブなんです。ぼくはこんなことでは負けません。自分が生きていることをちゃんと皆さんにお見せします。生き抜いていることを見せてやります。
心に響きました。実は昨日結構ネガティブな思考になってこりゃダメだなと落ち込んでいたから、後退りしても前向きに進んでいくという表現にはほんとハッとさせられたのである。
そう言えば、トランクルームで脳卒中になり立ち上がれなくなっていた時、ほんとにカビ臭い床を這って後退りしながらも声をかぎりに助けを求めて叫ぶ生きることへの前向きさが、僕を今も生きるものとして今日この場所にあらしめているのだ。
そう、絶望的な状況を生き抜いて来たんだ、だから、僕には出来る、僕には出来る、と2回ほど頭の中で呟いてみた。
これは根拠のある自信だ。
辻仁成さんと僕は年齢的にそれほど違わない。
才能や社会的業績?は大きく違うけど同じ人間だ彼が出来ることは僕にだって出来るはず。出来ることで、前向きに進んでいくだけだ。
2023年3月8日水曜日
2023年3月7日火曜日
60歳の公園デビュー
脳サバとうちゃん還暦を超えて公園デビューするとは思わなんだけど、
もうすぐ桜が開花する時期、今年は絶対自分の足で公園に行って満開の桜を満喫し写真を撮るぞと心に決めているので先週今週と訪問リハビリの理学療法士さんに頼んで近所の公園までを歩行訓練にしてもらったのだ。
マンションの出入り口から公園の入口までグーグルマップで距離を測ると300メートル高速道路の下をくぐって行くのだけど暗渠だからちょっと小高くなっていて、登り下りがある起伏に富んだコースなのである。
僕の歩行速度は倍速モードだと分速20メートルだから片道15分なのだけど、起伏は危ないから慎重に普通速分速10メートルで歩いたのでだいたい片道30分弱往復で1時間の行程であった。
小型のデジカメpentaxOptioP70をポッケに入れて公園にレッツラゴーしたのである。
結論から言えば無事に公園デビューを果たすことが出来た。
めでたしめでたし。
公園に無事に辿り着けるのかが課題の公園デビューであったけど、これで桜の開花という楽しみが脳サバライフに足されることになったのだ、ところでpentaxOptioP70はご多分にもれず古くて動作の鈍いディスコンカメラなのだけど、pentaxブルーと言われる青空の青が綺麗に写るデジカメなのである。
そして脳サバ父ちゃんは今桜を綺麗に撮るときどのカメラを持っていこうか悩んでいるのであるとさ、やっほ〜。
2023年3月6日月曜日
アップサイクルに逆行する日本?「もったいない」精神は何処へ?
フランスではアップサイクルという運動が静かなブームになっているらしい、手に入れた品物を自分流に直したり、改良したして転売するもので経済的であり環境にも優しい、この画期的な流通運動は正にエコフレンドリーとして広まりつつあるのだそうな。
日本で声高に叫ばれるリサイクルは使つかい終おわったものをもう一度資源いちど資源にもどし製品せいひんを作つくることであるのに対してアップサイクルは実際に個人が製品の再利用を促進するというところが違うけど、要らなくなったら捨てればいいという。
消費廃棄型社会に対する消費者の罪悪感は世界規模で広がっているということだよね。
さて脳サバとうちゃんは昨日、相棒のmacbookair11inchiのバッテリー交換を自分で行った。
この相棒PCは会社でシステムの新規開発を担当したときに実際に開発の一部をおこなったパソコンでもあり、また僕が脳卒中サバイバーになって長期入院しているときに、病院で苦難を一緒に乗り越えたパソコンだからまさにざ相棒なのだしかし購入から10年経過して劣化が出始めていた。
この相棒よりも1年ほど早く意を決して大枚はたいて購入したメインマシmacbookpro15inchiは一足先、僕が脳卒中になる前に脳卒中を発症してしまい修理もままならなくなっていたので結局廃棄処分せざるを得なかった、
ITの世界で10年前といえば時代遅れも甚だしいのだけど、僕の使い方では実はそんなに最新の高スペックでなくてもまったく問題ない。
特に今はプログラミングとか機械学習をやっているわけじゃないからね。
ネットを閲覧してブログを書くくらいなら10年前のmacでも十分なのだ。
僕のバッテリー交換がアップサイクルに該当するのかわからないけど、使えるものは少しでも長く使うというのはそもそも日本人が備えていた美徳のはずだ。
着物とかはもともとそのように工夫されていたわけだし。
でも、最近僕らの周りは使えるものをどんどんゴミにしていく。スマホは毎年決まったように新機種が出て買い替えを促されるし、街も再開発でどんどん古い家屋やビルが解体されていく。新潟の山奥で古民家再生、過疎地域の再生に取り組むのはドイツ人だ。
僕たち日本人が文化として継承してきた「もったいない」精神はいったいどこにいってしまったのだろうか「もったいない」は廃品回収事業者のゴミ収集車に書かれるコピーと化してしまったのだろうか。
ゴミ置き場に壊れたものや不用品を出しておくといつの間にか無くなっていることも少なくない。(BOSEの小型スピーカーなどは瞬殺)粗大ごみに関しては、回収のシールを買って貼っているので腹が立つこともあるけど、そういうのをメルカリで売っている人もいると聞くし。
でもアップサイクルの概念からは実は喜ばしい事なのだね。
資源を持たない日本はまずは不用品を増やさないことからはじめて、頻繁なバージョンアップを糾弾拒絶しもったいない精神を再構築する時期に来ているのかもしれない。
2023年3月5日日曜日
一人一人が正義の実践者となる社会を。
育児による睡眠の中断女性は13倍なのだそうだ。
大変申し訳ないのだけど僕もこれはその通りだと思う。
育児では授乳など母親にしか対応出来ないこともあって。
つい男性はおまかせにしてしまう(はい言い訳です)
そういった気持ちが積み重なって社会全体としても育児における母親の負担が増してきたのだろう。
そのくせ、キャリアの観点では明らかに女性に不利な現実がある。
この不公平は少子化云々は別として是正しなくちゃならないよね。
しかし医大で女性の方が合格率が低いとかいった女性差別がまかり通る社会の現状はなかなか変わっていかない。
そういった男性有利な社会を是とする女性も居たりして状況は一層複雑で深刻だ。
僕はずっと仕事をしていてバリバリ働く母を観ていたから女性が仕事をするうえで男性に劣るなんて考えたことも無かった。
でも、実際に社会に出て男性であることが有利に働くことを何度も実感した。
そんな状況を受入れてくれる女性は憚らずに言えば助かる存在だ。
このジェンダー間の不平等な共依存関係は社会を蝕む害悪である。
今日ジェンダー間の共依存関係は問題視されるようになってきたものの、LGBTQや国籍など。様々な形態で社会を蝕む。
アリストテレスは社会における協働の関係性を正義と言った。
この、生得的な所与の属性による不平等な関係性は社会におけるまさに不義だ。
だから冒頭の事実も不義の顕れであって。
正義が必要だ。
僕は脳卒中サバイバーだけど、早朝に起きて犬の世話係として朝ごはんを準備したべさしたりもする。
それは僕にとっては正義当たり前なのだ。
要介護だからといって何でもかんでも介護者に委ねるのは不義だからね。
2023年3月4日土曜日
就活生の56%に転職意向。自由の幻想と無秩序という困難が生み出す問題解決症候群
そんな調査結果が出たらしい。
理由は、1会社が自分に合っていないかもしれない2キャリアアップしていきたい3会社の未来が疑わしいの3つなのだそうだ。
要するに欲と疑念に塗れているわけだね。
自分ならではの居場所があって誰もが羨むような輝かしい未来のある会社でばんばんキャリアを上げていくことがお望みなのだ。
採用を行なっている企業では採用した社員の定着が大きな課題であるだから一生懸命、ビジョン、キャリアパス、適材適所の実現に取り組むことになる。
でもこれキャリア観だけでなく家族観結婚観生活観も同じなのかもしれない。
要するに慣習に捉われることなく常に自由な選択肢が目の前にあるのだという現状認識が固定的な観念を突き崩しているつまり秩序の脱構築場面に僕たちは直面しているのだ。その当事者でもある。
選択肢があるということは一見自由があるようだけど実は常に自己責任を問われる世界でもある。人生で巡り合う様々な困難も全て自分で乗り越えて行くことが求められる。
困難を乗り越えるには自己肯定感と、社会性とソーシャルサポートが必要だから自分探しとかしてる自己肯定感の低い人にとって困難は乗り越えられない。
だから選択肢があるということは自由なようで実は無秩序という不自由なことなのだ。
だから自己責任を回避する問題解決症候群などが蔓延するわけだね。
世の中の事業者はこの症候群をビジネスチャンスと捉えてあの手この手を使ってサービス化してくるけど根本的な解決になるわけじゃないから基本的には困難を乗り越える術を持たない人を更なる困難に直面させるだけだ。
登山スキルの無い人をエバレストの登山ルートににヘリで運ぶようなものだと言えばわかり易いかもしれない。
2023年3月3日金曜日
創発を加速せよ
異性間の相性は予測が困難であり、これまで100以上の心理特性・嗜好等の自己報告データを用いても予測できないことが示されていました(Joel et al., 2017)
特性や嗜好などからはなぜ予測が出来なかったのか。
その理由は明らかである。
AIが一番苦手なことはもう明らかになっていて意味を見出すことである、最近話題のchatGPTにしてもマイクロソフトの対話型AIにしても絵を描くAIにしてもバックグラウンドで学習するデータの意味を理解していないから偏見や差別と言った人間のバイアスも学習してしまい時にとんでもない答えを導くだから、バイアスを強化するようなワードは使わせないといった措置がとられるのだ。偏見や差別や暴力的な情報量が増えるほどAIが暴走する可能性は高まるのだ。プーチンの暴走っぷりをみているとあれは実は裏にAIがあってその通りにプーチンが動いているのではないかと思えるほどだ。
ところがこの相性という概念は人の関係性における意味づけなのである。つまり最も不得意な意味は機械学習によってCPUが休むことなく解析を行っても結果に到達できないという極めて当たり前な結論なのである。生き物にとって意味とは環境に適応し生存可能性を高める鍵でもある。我が家の犬は、冷蔵庫の扉を開くごくわずかな音に意味を見出し近づいて来る。彼にとってその音にはおやつがもらえるという意味を創発するからだ。生き物は本能的(生得的)に意味を見つけて行為行動につなげて状況に適応する。一方で無意味なことも見極めて無視する。経験のリソースが意味の創発を加速する。それが学習だ。学習の結果より迅速に新たな状況にも的確に状適応するための意味をみつけてしなやかに行動することが可能になるのである。人間が全体の把握も処理も出来ないくらい大量のデータがあって、そのデータをひたすら処理し続けるCPUが今までと違う世界を拓いてくれているのも事実で人には出来ないことをするAIへの期待が高まるのも致し方ありませんがそれこそ人間がAIと相補的ないい関係を築くためにはAIの発展に合わせて人間は創発を加速しなければならないのである。一方で、世の中はタイパ・コスパ主義問題解決症候群サブスク症候群、フェークエビデンス合戦などの反学習反経験主義が蔓延し創発を阻害している現状(反創発運動)にも注意しなくちゃね。
2023年3月2日木曜日
自分自身を定義せよ
僕は何者か自分自身を定義するとしたら今最もわかりやすくてきにいっているのは
脳サバとうちゃんである。脳サバとは脳卒中のサバイバーでありの妻一人犬一匹の家族の中でおとうさんということだ、でもかつては脳卒中サバイバーじゃなかったから、脳サバとうちゃんじゃなかった。中小企業の専務取締役だったから、銀座を歩いていて誰かが専務〜と呼べば振り返っていたかもしれない。専務の前は代表取締役社長だったからそれが自分自身の定義だったかもしれないその時の社会的肩書を自己定義としても良いかもしれないけど社会的肩書は時とともに変遷するそれがキャリア(経歴)だね。キャリアが自己定義かというと少し違うかもしれない。自己定義とは過去から未来に渡り一貫した自分のことだものね。最も、新陳代謝によって僕たちは動的に平衡な一貫性なのではあるけれど得意なことスキル趣味なども自己定義の一部かもしれない。冒険家などは冒険が自己定義かもしれない。物語りとは筋の在る表現のことだからこの一貫性を言い換えると筋になるわけである。
このように「自分とは何か」との問いに対して,名前,所属,社会的地位,容姿・容貌,学業成績,対人関係能力,運動能力など,自己のさまざまな側面で答えることができる。しかし,こうした諸側面をいくら並べたところで,「ここにいる自分」「紛れもなくこの人生を生きている自分」というものをとらえることはできない。そのため物語形式で個性を表現する物語論narratologyによって,特性論を補う必要性がある。つまり、自分自身を定義するためには自分の人生との主人公である自分の物語りが必要なのだ 。冒頭の脳サバとうちゃんは結構物語性がある表現だから自己定義に適しているんだろうね。間違いなくいまここにいて自分の手足を感じている身体的自己の僕左半身が欠損した感覚は無いけど後遺症が残って思った通りに動かすことは出来ない。脳卒中とその後のリハビリという出来事は今の自分を定義するうえで決して欠かすこと出来ない物語なのだ。
2023年3月1日水曜日
意味と意欲
遊びとは、内的な報酬のみが動機となる行為行動である。
だから、側から見るとなんであんなことするんだろうと訝ることもあるよね。
外的な報酬違って外からはわかりにくいものね。
動機はわかりにくいけど。
幸福感は超わかり易くて伝播すから皆がハッピーになれるよね。
外的な報酬がわかりやすいのはその報酬が持つ意味が明示されているからだよね。
でもそのようにして与えられた意味が意欲を促すとは限らない。
社会が発展して希少性という価値が薄まって収奪競争が無くなったら働く人はどうやって働く意欲(欲望)を保てばいいのだろうかというのが大学のゼミで僕が取り組んだ卒論のテーマであった。
実際に脱工業化のポストインダストリアルソサエティは到来したけど想像するような豊かな社会にはならなかった。
むしろ格差が開いて貧困や差別が顕在化するなど、豊かさとは程遠い社会が僕たちの目の前に広がっている。
大学を卒業した当時の僕の結論はプロフェッショナリズムによってインテグレートされた社会こそが豊かでありながら働く意欲に溢れた社会の姿であった。
そこは強い内的報酬に支えられた探求と挑戦によって織りなされていて、幸福と勇気と正義が波及しあう世界(それこそが豊かな世界)でもある。
無意味は生きる意欲さえ奪う行為だとフランクルは考察したけど、内的報酬は生きる意味を僕たちに与え生きる意欲を掻き立ててくれるものだ。
遊び心や感動する心は僕たちの生きる原動力なのである。
だから僕たちは日々大いに遊び大いに感動するべきなのである。
にもかかわらず、世の中はタイパ志向、意味のわかりにくいことを嫌い蔑む傾向が強まっている。意味優位な社会とは実は貧しい社会なのではないか。朝焼けの綺麗な朝僕はそんなことを考える。





























