2019年6月30日日曜日

忘れがちなことを思い出す6月最後の日

今日で6月も終わりだ。

6月が終わるということは今年も半分が終わったことになる。

過ぎ行く日々のなんと早いことだろうか。

さて、先週のブログを読み返してみると、火曜日の最後の一文は途中で切れていた。

慌てて今、つけたしたけど、お疲れだったのねぇ。

(月)あの頃は必死だったなぁ
こうして、その後の長い時を経て再会するにあたり、本当に友のありがたさを痛感する夜でした。

(火)デザインにもあれこれあるよね
クールとホット、鎮静と炎上、ドライとウェットなどなど、言い方は色々あるだろうけどこういった二択にも大きな意味が

(水)外食に行くべきかお弁当を買うべきか、それが問題だ
僕は食べることが好きだけど、それと、食行動の間には性格特性とは別の要因が絡んでいるのかもしれないね。

(木)100メートルを何秒で走れるのだろうか
そうすればきっと僕も僕の犬も本当の速さを知ることになるからね。

(金)女神の見えざる手が生み出す細流
僕が古いだけかもしれないけどね。

(土)ご褒美がいっぱい、の世界を目指して
僕はね、世の中に「ご褒美」をもっともっと増やしたい、そう思うのです。


これらからコアを見出して並べると、「二択」「壁」「感謝」だ。

僕は、目の前にある二択のどっちか一方を選ぶのでなく、新たな選択肢を生み出そうとして自分の壁を知る時、他者の力を借りてそこに向き合ったり乗り越えたりしている。

そんなことに付き合ってくれる人に心から感謝しなくてはいけないと思う。


忘れがちなのだけど、今日は1週間を振り返って思い出せて良かった。


雨です、雨













2019年6月29日土曜日

ご褒美がいっぱい、の世界を目指して

僕たちが生きていけるのは、僕たち以外の命のおかげだよね。

食べるものどころか空気ですら僕たちには「恵み」が与えられている。

「恵み」の言い方を変えれば「ご褒美」でしょう。

要するに、僕たちが生きることは「ご褒美」のおかげなのかもしれない。

このような死生観はおそらく全ての信仰で語られていて、でも、意識しないと気づけずに一生を終えることになる。

それは僕たち自身が何某かの「ご褒美」になっているからでしょう。

さて、生きる「ご褒美」と社会での「ご褒美」にはちょっと違いがあるように思う。

「生きていく」ことと「誰かのために役立つ」ことにはやはり違いがある。

なぜなら、母子関係以外で「誰かのために役立つ」ことを思い起こすと、それは自分だけが「生きていく」ことよりも高次な状態だからね。(母子関係は生き方のお手本だね)

「高次」は難しい言葉だけど、社会全体でのより多くの「充実感」と言い換えると良いかもしれない。

ところで「ご褒美」は僕たちが一生懸命、悩みながら踠きながら生きていることに与えられるものだ。

もちろん「ご褒美」とはお金のことではない。

自分自身がどれだけ充実した日々をおくれているのかという「実感」でしょう。

だって、お金は虹の橋に持っていけないものだからね。


僕はね、世の中に「ご褒美」をもっともっと増やしたい、そう思うのです。


これは僕へのご褒美

2019年6月28日金曜日

女神の見えざる手が生み出す細流

色々なことがあった金曜日、家に帰って録画してある映画を見ている。

映画のタイトルは「Miss Sloane」。

邦題は「女神たちの見えざる手」だ。

映画を見ながら、なぜ今夜この映画を見たくなったのか意味がわかったわかった気がした。

そう、仕事のMVPはまさしく「女神たち」だった。

もちろん、僕を含めた男子も一生懸命頑張っているのだけど、今日、仕事の流れを作ったのは間違いなく「女神たち」。

作り出す細流は、決して破壊力を持ってグイグイ行くのではないけれど、風景の決め手となっている。

そんな感じなんだよね。

時に、男子の作る流れは、大河のように淀んでしまったり、勢いがあり過ぎて決壊してしまったりするのとやはり、対照的かもしれない。

今の時代、男女で違いを捉えることはナンセンスなのだろうけど、「もし、これが」と考えるとやはり「女神たちの強み」って感じてしまう。

僕が古いだけかもしれないけどね。


心地よき風景



2019年6月27日木曜日

100メートルを何秒で走れるのだろうか

先日、オリンピックの入場券抽選が話題になった。

僕は、申し込みの際の認証で手間取ってしまい何回か申し込みに挑んで、結局最後は開会式だけ申し込み、当然のように落選した。

最初の真剣な申し込みでは陸上の決勝を申し込もうとしたのだけど、やはりその時は100メートルの決勝が見たかった。

最近は日本選手も10秒を切るタイムを出していて、この先どのくらい記録が伸びるのかも興味深い。


しかし、100メートルを10秒前後で走るって凄いよなぁ。

テレビでランナーと並行するカメラの映像を見ていたらとても、人間とは思えないスピード感と軸のブレなさが感じられる。

出来ることなら僕が朝、ヒーヒー言いながら犬と走っている横を後ろから抜き去って行って欲しい。

そうすればきっと僕も僕の犬も本当の速さを知ることになるからね。


走ろう!

2019年6月26日水曜日

外食に行くべきかお弁当を買うべきか、それが問題だ

僕は混んでいる店でランチを食べるのはどうも落ち着かない。

早く食べて席を空けてあげなくちゃ、とか頭の片隅でふと考えてしまうからね。

特に繁盛している店だと席も狭くてゆっくりとランチを楽しむ、なんて雰囲気はないし、店員の「早く食べ終えてね」圧力を凄く感じてしまう。

だから、割とお弁当を買ってきて食べることが多い。

お弁当であれば席のことを気兼ねする必要もない。

でも、お店のランチとお弁当を比べれば、味や安全性はやはり、お店の方が良いのでしょう。

で、ね。これって一見、性格特性が関係しそうだけど、実はそうでもなさそうだね。

同じような性格特性でも、お弁当を買う姿を滅多に見たことが無い人もいるからね。

僕は食べることが好きだけど、それと、食行動の間には性格特性とは別の要因が絡んでいるのかもしれないね。


食べるの大好き

2019年6月25日火曜日

デザインにもあれこれあるよね

”デザインとは夢を実現するためのプロセスである”

僕はこの言葉が好きなのだけど、そうでない人も少なくないだろう。

例えば

”デザインとは自分らしさを表現する方法である”

と考える人も居る。

例えば「都市デザイン」みたいな使い方であれば前者だろうし、「アート」ならば後者だね。

もう少し抽象的に捉えると、「知恵」と「情熱」の違いと言えるかもしれない。

クールとホット、鎮静と炎上、ドライとウェットなどなど、言い方は色々あるだろうけどこういった二択にも大きな意味があるかもしれない。



落ち着くのか燃え上がるのか

あの頃は必死だったなぁ

昨晩は久しぶりに中学時代の同級生たちと会って飲みました。

定期的に会って飲む友人もいるのだけど、それ以外の友人とはどのくらい久しぶりかと言うと・・・

そう、僕が迷走しながら必死に生きていた時以来かもしれない。

その頃、僕は商品の販路を広げるために中学以来の伝を頼り、彼らの会社に商品を売りに行かせてもらったのだよね。

今から考えるとよくやったなと思うのだけど、あの頃は考える余裕はあまりなかったなぁ・・・

やっぱり必死だったもの。

今が必死じゃないか、といえば今も必死なのだけど、振り返った時の必死さとやはりどこか違うと思う。

でも、そんな必死な想いが僕を成長させてくれたことに間違いないでしょう。

こうして、その後の長い時を経て再会するにあたり、本当に友のありがたさを痛感する夜でした。


この景色も昨晩の思い出に・・・





2019年6月23日日曜日

僕のカラスが鳴いている不調和のデザイン

鬱陶しい梅雨空が続く。

昨日は午後の晴れ間を縫ってルイと散歩に出掛けたのだけど、途中から土砂降りに遭ってしまった。

だもんで、今日の午後は大人しくしている。

さて、先週のブログを改めて俯瞰してみる。

(月)「ありのまま」な月曜日、とはいかなかったかな
でもね、「あるべき」の方が多かったような気もするけどね。

(火)真綿に包む匙加減
で、ね。僕が今日の役員会から経験学習をするのだとすれば、自分に妥協しない事の大切さと難しさから次にどう行動するかだろうね。

(水)回って回って回って回って、くださいね
回し車が苦手な人こそ、自らの成長のために取り組むべきだからね。

(木)志望動機と平等性 切ない夜の想い
で、ね。抽選みたいな平等メソッドってどこか不平等なのかもしれないね。

(金)ルーティン化する生命
やはり、僕たち生命は秩序によってカオスの縁に留まっているのだね。

(土)「働き方改革」の第一歩を考えよう
で、ね。僕が本当の「働き方改革」はこの「デザイン志向」が第一歩だと思うのだけどどうだろうね。

一言にすると、「反物質な私」だね。

スタンダードな僕の反対にいる僕に向かって一歩を踏み出そうとする僕、ということ。

村上春樹風に表現すると「カラス」、かもしれない。

「ありのまま」の僕は「妥協しない」で「苦手に向き合い」「不平等を気にせず」で「秩序」を越えるための「デザイン志向」である。

もっとシンプルに言うと「不調和へのデザイン」ということだ。

僕は生き物だから僕の中の「カラス」が騒いでもどこかで調和してしまうのだろう。

そんな自分を越えるためには「不調和のデザイン」が必要だと気づいていた先週だったのかもしれないね。


ところで、俯瞰といえばnoteで「Atomic DesignからCosmic Designへ視線を上げよう」という記事を目にした。

要するに原子レベルから宇宙レベルへ、ということだけど、物理の世界ではマクロとミクロが神の数式で繋がっているらしいから、ひょっとしたらAtomicでもCosmicでも良いのかもね。


ひゃー、急げー

2019年6月22日土曜日

「働き方改革」の第一歩を考えよう

以前、テレビのCMでアイデアの生まれる場所を紹介していた。

FRISKのそのCMでは、トイレ(32%)、風呂(29%)、ベッド(22%)、公園(18%)、バス(17%)、洗面所(7%)、エアポート(4%)、プール(2%)、ステージ(1%)と続き会議室(0%)となっていた。

で、「アイデアが浮かぶ場所」でググってみたら、「創造性の4B」という言葉が出てくる。

4Bとは、
Bus:バス。移動している時。
Bed:ベッド。寝ている時、寝る前、起きた後。
Bathroom:風呂。トイレも含む。
Bar:バー。酒を飲んでいる時。
だそうだ。

さて、ここで問題になるのは仕事に関するアイデアを生み出したら、それは業務である。

一方、業務中のトイレ以外は全て時間外労働ということだね。

でも定時に退社して、お酒を飲んで浮かんだアイデア、家で入浴中に浮かんだアイデア、そして、朝起きた時に思いついたアイデアを元に生まれた特許はかなりの数になるかも知れない。

知的な活動に基本的に線引きは出来ない。

しかし、何らかの方法で線引きしなくてはならないとすれば、それはアイデアではなく、仕事においてアイデアを実現するためのデザイン、それも何らかのツールを使って記述することだろうね。

僕たちは知的な活動と知的な生産活動の線引きをしないといけないよね。

「生産活動」なのでデザインされたアウトプットがあるはずだ。

そして、この線引きで考えると仕事中でも、生産活動をしていないケースは少なくないかもしれない。

で、ね。僕が本当の「働き方改革」はこの「デザイン志向」が第一歩だと思うのだけどどうだろうね。


語りではなく記述













2019年6月21日金曜日

ルーティン化する生命

僕たちの行動の8割は習慣的だそうだ。

確かに、人生の多くの時間を決まったことの繰り返しに費やしている。

もちろん「決まったこと」は人によって様々だから、全体としての僕たちの行動は多様性に満ちている。

さて、それぞれの行動は習慣的ではあっても全く同じではない。

例えば、朝、目が覚める時間は、季節や天候によって変化する。

だから概ね同じ、くらいの感じだね。

そして、僕の犬を見ていると、習慣的生活は僕たち人間だけのものじゃない。

彼にとってのルーティンを破るとどうやらストレスが溜まるらしい。

言葉を発することが出来ないかわりに何らかの行動(多くは僕がして欲しくないこと)でアピールしてくる。

そして、ルーティンという秩序に戻っていく。

でも、それによって異なる生命の間で相互理解が進むのも事実だろう。


やはり、僕たち生命は秩序によってカオスの縁に留まっているのだね。


たい焼きのルーティン

2019年6月20日木曜日

志望動機と平等性 切ない夜の想い

今日は、東京オリンピックの当選発表日だった。

僕は、落選だった。

記念エントリーだったので落胆はしていない。

一方、すごく気持ちを込めていた人も落選した。

そしてかなり落胆していた。

その様子を見て、僕はとても切ない気持ちになったのだ。

なぜなら、その人は申し込みの方法からどの競技を見にいくかなどずっと多くを語って致し、それで僕も申し込みの方法を理解したようなものだからね。

もし、志望動機を測る装置があれば、100点満点で僕は30点くらいでその人は90点くらいじゃないだろうか。

口にする頻度、その密度で測ればもっと差があるかもしれない。

残念なことにその人が落選したということは、真の志望動機を測る装置はないのだろう。

さて、就活でも同じようなことが起きているのかもしれない。

述べ1時間に満たないなか、面接で真の志望動機を測ることはかなり難しいだろう。

これが3年間一緒に過ごしていれば話は別だけどね。

で、ね。抽選みたいな平等メソッドってどこか不平等なのかもしれないね。


誰がときめく?

2019年6月19日水曜日

回って回って回って回って、くださいね

奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち という本がある。

東大進学率で常に上位にある灘高が、かつて公立滑り止めだった時から橋本先生が行った授業について綴ったノンフィクションだ。

実際に橋本先生の授業を受けることが出来た生徒は、その後の活躍も含めて本当に素晴らしい巡り会いであったのだと思うね。

「1冊の文庫本を3年掛けて読み込む授業」なんて、この情報社会において考えられないだろう。

なぜなら、出来るだけ多くの知識に触れ、新しい経験を積む(消費する)ことが良いこととされているからね。

要は、じっくり考えることが疎んじられる時代ということかもしれない。

これはおそらく読書だけでなく、仕事でもそうだろう。

PDCAというハムスターの回し車みたいな仕事術が求められ、一人一人の気づきよりも成果が追い求められる中で、僕たちはじっくり考える時間をどんどん失っていく。

そうなればなるほど僕たちは大局を失い、出処対応に励むことになる。

先日、とある学生のインタビューで、受験で入学した私立中学での面白いエピーソードを聞いた。

ある授業で、先生は「学びは一生続くものだ。だから、今日は授業はここまで」と、開始5分で授業を終えて職員室に帰ってしまったそうな。

その学生はのちに、先生は本当に「学びは一生」を伝えたかったのでそのような行動をとったのではないかと考えて、今に至っているらしい。

先生の意図が何であったにせよ、生徒に深い気づきが生まれたことはとても重要だと思う。

インタビューをした学生が今後、社会で大きな役割を果たす中でその先生の存在意義はきっと大きいものだろう。


僕は今、仕事を回し車みたいにすることに取り組んでいる。

周りもそれを求めてくる。

性格的にそういう事をつい引き受けてしまうのだけど、もう、そろそろそれはやめても良いのかもしれない。

回し車が苦手な人こそ、自らの成長のために取り組むべきだからね。


あっかんべー






2019年6月18日火曜日

真綿に包む匙加減

僕はこのブログで出来るだけ体験した事を書こうと思っている。

うんちく、ではなく僕の経験学習を、ね。

ただ、リアルな個人的経験には多くの関係者が居るのでそれらの人に迷惑を掛けたくない。

となるとどうしても真綿で包んだような表現になってしまう。

だって「あいつの物言いには納得できない」とか「ここがちょっとねー」なんて間違っても公開するネタじゃないからね。

でも、一方でそういう表現は謎解きみたいになるし、下手をすると余計な誤解を生んでしまっている可能性もある。

そこらへんは匙加減も含めて難しいなぁ。

イベントとかセミナーみたいに公開された出来事であれば何でも書けるし、また受けることもわかっているのだけど、今は勉強ごとでなく経験学習についての関心が高いので真綿に包まざるを得ないのだ。

さて、今日は役員会で監査役の方から色々な指摘を頂いた。

名だたる企業でも監査役を勤められた方なので指摘は的を射たものでぐうの音も出ないのだけど、そういう時、どうしても言い訳じみたり拒んだりしてしまって、役員会の中でもかなり自己嫌悪に陥っていた。

僕が納得できていないけど良しとしたことへの指摘だったりするので応えられないのだよね。

で、ね。僕が今日の役員会から経験学習をするのだとすれば、自分に妥協しない事の大切さと難しさから次にどう行動するかだろうね。


満月や、あゝ満月や、満月や





2019年6月17日月曜日

「ありのまま」な月曜日、とはいかなかったかな

僕は昨日のブログで「生命は自発と適応の狭間にある」と書いた。

僕らは振り子のように振れながら生きているのかもしれないし、どっちかに傾いて生きているのかもしれない。

そんな事を今日も考えながら仕事をしていた。

そして今日の僕が考えたのは「自発」。

つまり、「あるべき」ではなく「ありのまま」だね。

ひょっとしたら「あるべき」の僕を想定していた人にとってあまり心地よくなかったかもしれない。

でもね、「あるべき」の方が多かったような気もするけどね。


やりたいこと

2019年6月16日日曜日

生命は自発と適応の狭間にある

気がつけば先週もあっという間に過ぎていった。

明日からまた新しい1週間が始まる。

その前に、先週を振り返ってみるのもよいかもしてない。

このところずっとやっていることだし、僕自身、それほど目新しくも無くなったけどね。

以下がブログのタイトルと結びの一文だ。

(月)「経験」が研ぐ人の器用さ
ゆえに魅力的であっても、時に物足りなく感じるのかもしれない。

(火)西洋箪笥から引き出されるもの
そう、小引出しの西洋箪笥には、その凝縮性とは別に「引出し」が僕たちの想像を駆り立ててくれているのかもしれない。

(水)言わぬが花のコンディションを知る
具合の悪い犬に元気パワーを送りたくて写真を撮るのだけど、どうやら本当にご利益があるみたいでちょっと感動しているのだ。

(木)大切なことなのにお金を掛けない? それは本当に大切なことと考えていないから?
それをしないのであれば、それは大切じゃないからなのかもしれない。

(金)人を見る目の育て方
もちろん、原始的な力の影響が全く無くなる訳ではないけど、ちゃんとした採用活動に携わることで会社の誰もが納得する人材を見極められるようになるのだよね。

(土)なりたい自分になぜ出会えない
そして、先天的利己性で後天的利他性の人は周囲や環境に合わせながら自分のやりたいことが無いことや、やりたいように出来ないことを悶々とするのではないだろうか。

僕の1週間は「経験」で始まり、「引出し」「自身のコンディション」「本当に大切なことへの向き合い方」「人を見る目」そして「なりたい自分について」で終わった。

それらを眺めると、どうやら僕は、経験から引き出されるものと、本当の自分から生み出されるものを考えていたらしい。

僕たちは、自発と適応の狭間に生きている。

だから、生きながら、「こうありたい」「こうしたい」と「自分とは何か」「よりよくどう生きるのか」を行ったり来たりするのだろう。

で、ね。僕は自分事に向き合いながら「生命」を考えているのかもしれないね。


自分を生きている?






2019年6月15日土曜日

なりたい自分になぜ出会えない

大学でも企業でも学生や社員の主体性が足りないという声が少なくない。

周囲や環境に合わせるのではなく、自ら環境を変えたり作り出する、そんな人が求められいるからかもしれない。

まあ、組織には秩序があるので、その「秩序の範囲で」というご都合もついてくるのだけどね。

さて、他人に構わずどんどん進めるのではなく、周囲や環境に合わせる人がなぜ増えるのだろうか。

大きくは2つの原因があるように思える。

一つはそもそもの先天的なパーソナリティ特性だ。

利己性と利他性の一対で皆、生まれながらどちらかなに偏っている。

もう一つは後天的なパーソナリティ特性だ。

例えば、長男長女と末っ子の違いや家庭での躾、学校教育などその人を取り巻く固有の環境が偏りを生み出すのだ。

利己性と利他性、先天的と後天的の組み合わせで考えると、社会の発展と共に社会性の基礎レベルが高くなり、後天的な利己性は減り、後天的な利他性が増えることで全体として周囲に合わせ応じる人が増えていくのかもしれない。

そして、先天的利己性で後天的利他性の人は周囲や環境に合わせながら自分のやりたいことが無いことや、やりたいように出来ないことを悶々とするのではないだろうか。


今晩、僕は天丼を食べる僕になる

2019年6月14日金曜日

人を見る目の育て方

「人は3秒で他者を見極める」、そんな話を聞いたことがある人も少なくないだろう。

メラビアンの法則と呼ばれている、この3秒ルール、僕は確かめたことがないけど、例えば、ウェブページのファーストビューは3秒で決まるとも言われているのだから、いろんな場面で用いられているのだろう。

第一印象と言われる能力はきっと僕たちの原始的な宝物なのだろう。

この力、おそらく生まれ持っているものだから誰かに習うものではない。

しかし、どうやら僕たちはこの力をバージョンアップすることができるらしい。

つまり、人を見る目を養うことができるのだ。

ではどうやって養うのかといえば、多くの人を意識的に見ることだと思う。

通常は無意識に見ているところを意識的に見ることで、無意識の見極めにブレーキを掛け、目的に沿った見極めができるようになる。

学習が有効に働くのだ。

ひょっとしたらヒヨコのオスメス見極めなどもバージョンアップの結果なのかもしれないけど、僕の周りでバージョンアップの目の当たりにするのは採用活動だろう。

採用すべき人材をちゃんと理解する前と後では、見極めがまるで違ってくる。

もちろん、原始的な力の影響が全く無くなる訳ではないけど、ちゃんとした採用活動に携わることで会社の誰もが納得する人材を見極められるようになるのだよね。


学習で味が変わる?








2019年6月13日木曜日

大切なことなのにお金を掛けない? それは本当に大切なことと考えていないから?

今日は、1年に一度の内視鏡検査だった。

もう、20年近くなるけど、この検査は生活にも身体にも負担が掛かる。

一方でレントゲンとかではわからない確かな情報が得られるようだ。

つまり負担は大きいけど、大切なことが確実にわかるということ。

さて、医療費明細を見てみると、費用もかなり大きい。

健康保険に入っているので実負担は少ないものの実費だとしたら躊躇うくらいの金額だね。

じゃあ、躊躇ってやめるのか、といえば、健康はなにものにも代え難いから間違いなく検査を受ける。

僕には、大切なことにお金を掛けないと判断することは間違いに思えるのだ。

高度な医療を受けるために募金を集めるだけでなく、現在ではクラウドファンディングなど様々な資金集めの方法も充実してきた。

肝心なのは、大切なことであれば、資金集めに努力することだよね。

それをしないのであれば、それは大切じゃないからなのかもしれない。


大切ならば・・・




2019年6月12日水曜日

言わぬが花のコンディションを知る

毎日ブログを書いていると、その日の体調や気分にもより気づけるようになる。

色々と書きたいことが溢れてくる日もあれば、疲れて何も考えられない日、やたら眠い日などもある。

最近は、仕事で遅くなり、23時過ぎに夕ご飯なんてこともあるので、そうなるとひたすら時間がない。

それで朝早くから会議とかがあると、なんだかよくわからない残念な日になるよね。

そんな日の夜は、さて何を書こうか迷うものだ。

気分で書いてしまうと、何かを否定しがちになるし、ちゃんとしたことを書くにも頭はぼーっとしてしまう。

まあ、今日はそんな日なので、色々と頭には浮かぶけどそれを文字にするのはやめておこう。

では、どんなことを書くのかと言えば、やはり、何か感動したり感銘を受けたことにしたい。

最近の感動ネタで言えば、先日結婚を発表した南海キャンディーズの山里さんが、うちの近所でパワースポットとして有名な小網神社を結婚前に参拝していたらしいことだ。

僕は、週に何度かこの神社の前に行き犬の写真を撮っている。(犬を連れて鳥居をくぐることはしないけどね)

具合の悪い犬に元気パワーを送りたくて写真を撮るのだけど、どうやら本当にご利益があるみたいでちょっと感動しているのだ。


今夜は僕もパワーが欲しい



2019年6月11日火曜日

西洋箪笥から引き出されるもの

会社に向かう道すがらに時折、個展などが開かれる小さなギャラリーがある。

非常に古いビルなのでそれだけで趣があるのだけど、通りに面したそのギャラリーは壁面も天井も打ちっ放しのコンクリートが白く塗装されていて、まあ、いい感じです。

そのギャラリーの奥には木製の西洋箪笥が置かれている。

その西洋箪笥には小さな引き出しが横7段、縦5段で計35個並んでいる。

この小引出しの西洋箪笥を見ていると、引出しを作る、中身を入れて仕舞う、中身を取り出す、という3つの機能が備わっていることがわかる。

4つの引出しは半開きなので、建て付けが悪いのか、仕舞うところなのか、取り出すとこなのか、見ている側に色々なイマジネーションを与えてくれるね。

これがもし、全部しまっていたら、何かが整理され収納されているものだし、全部開いていたら、泥棒が中身を盗んだあとにも思える。

そう、小引出しの西洋箪笥には、その凝縮性とは別に「引出し」が僕たちの想像を駆り立ててくれているのかもしれない。



存在感

2019年6月10日月曜日

「経験」が研ぐ人の器用さ

僕は時に「経験」とはなんだろうと自問する。

例えば、とても良い人で頼りになるのだけど、どこか物足りなく感じてしまう。

それは、僕が高望みしているだけなのかもしれないのだけど、ふと、外に目を向けると、感心する人が少なからずいる。

人間味があって、憎めないのだけどシャープさが無い、そんなところだろうか。

で、何が違うのかと言えば、やはり「経験」であるように思える。

多くの経験を積んだ人は、やはりそれぞれの異なる出来事の間で揉まれて、ユーティリティープレイヤーになるけど、一直線の経験を積んでいる人は、そういった器用さが足りない。

ゆえに魅力的であっても、時に物足りなく感じるのかもしれない。



閉ざされた世界

2019年6月9日日曜日

これが人生、わたしの人生

日曜日の夜になった。

先週の振り返りをしてみよう。

ざっと振り返ると覚悟をもってむかえた1週間であったが、結果は思った通りにはならなかった。

改めてブログのタイトルと結びの一文を眺めて、キーワードを並べてみる。

すると「人生」「もやもや」「間抜け」「手探り」「あきらめ」「奇想天外」となる。

(月)LIFE! 人生はマラソンだ!
でも、きっとそれは、誰かに見せるためじゃなく、僕自身が見たいからなのだよね、きっと。

(火)「もやもや」からの脱出? スピーディに踏ん切りをつけよう
で、ね。「もやもや」するのは何かを生み出したり、学んだりする素地だから大事だけど、そこからの大胆な切り替えが大切だと僕は思うね。

(水)僕たちは「間抜けな世界の住人」かもしれない
そんな様を振り返ると、何だか僕たちは「間抜けな世界の住人」なんじゃないかな、と思うわけです。

(木)手探りで確かめる用心深さの奥底にあるもの
だから、用心深く確かめる人の心持ちを軽んじてはいけないよね。

(金)あきらめの等価交換? 学びの錬金術を考える
で、ね。それがいつでもできるようになれば、きっと僕は錬金術師のように日常から「金」を生み出せるようになるのかもしれないね。

(土)迷走と奇想天外の違いを考える
で、ね。目的がぶれなければ様々な経験は奇想天外な経験になるし、目的がぶれてしまうと様々な経験は迷走している状態と言えるのだろうね。

なんだか大仰だね。

きっと、「誰かのせい」にしたいこともあるのだけど、僕自身には大きな責任があって、それは僕の人生への責任ということだ。

どうやら僕は、1週間を「人生とは」くらいの視座から俯瞰することで過ごしていたらしい。

この俯瞰がよいのか悪いのかわからないけど、「誰かのせい」ではなく「自分の人生」であることを見失いたくないのかもしれない。


僕の人生はどこ?


2019年6月8日土曜日

迷走と奇想天外の違いを考える

僕たちは大概、自分のことを気づけないでいる。

一方、他人のことは案外素早く見抜いていたりする。

例えば、本人はいろいろな経験を積もうと行動しているけど、他者からは迷走しているように見えることがあるよね。

まあ、どっちが大事かと言えば、当然本人なのだろうけど、周囲は「大丈夫かなぁ・・・」と思ってしまう。

そう、丁度、酔っ払った人を見ている素面の人、みたいにね。

本人は気持ち良いかもしれないけど、周囲からは危なっかしい。

最近問題になっている高齢者の運転もそんな感じかもしれない。

さて、素面で目的地に行こうと思っても、思いがけない出来事で行く手を阻まれ回り道をすることがある。

道路工事とかね。

そういう時こそ学びのチャンスだ。

新しい道を発見する回り道だから。

さて、キャリア理論には「計画的偶発性」というのがあって、パフォーマンスの高い人は思ってもいなかった仕事経験をしているそうだ。

そう言えば、僕は今の会社に「人と組織」をテーマに入社したのだけど、配属されたのはマーケティング事業でテーマが「モノとコト」になってしまった。

まあ、奇想天外な話である。

今でも笑い話としてよく人に聞かせるのだけど、考えてみれば、僕がデータサイエンスを行えるのは、このマーケティング事業のおかげだ。

そして、「人と組織」でもこのデータサイエンスを活用しているのだけど、もし、僕が「人と組織」の事業に配属されていたら、データサイエンスは学べなかったかもしれない。

つまり、僕にも計画的偶発性の恩恵がしっかりあるのだ。

で、ね。目的がぶれなければ様々な経験は奇想天外な経験になるし、目的がぶれてしまうと様々な経験は迷走している状態と言えるのだろうね。


これも恩恵

2019年6月7日金曜日

あきらめの等価交換? 学びの錬金術を考える

今晩、僕は久しぶりに自画持参に行った。

最初から、あきらめていたのだけど、別の件があきらめモードになってあきらめなくて良くなったのだ。

そこでふと考えたのだけど、僕たちは選択的に経験を積んで学ぶ生き物だ。

物理的に同時に別の場所に存在することはできないからね。

つまり、常に何かを得るためには何かを犠牲にしている、ということ。

例えば、学校に行けば、社会で学ぶ機会を犠牲にすることになるし、その逆も然りだ。

もちろん、時間をうまく配分して、平日は仕事、休日は学校で学ぶこともできる。

でも、それは正確に言えば「同じ時期」であって「同時」じゃない。

さて、今日の等価交換で得た学びは何だったのだろうか。

自画持参にはだいぶ遅れて行ったので参加せず、傍観していた。

「令和」というテーマをそれこそぼーっと考えて見たり、参加者がスピーチしたり対話したりする様を見て頭の中に問いを起こしたり、ちょこっと口を挟んで見たりと、ビールを飲んで大好きなミートソースを食べながらゆったりとしていたのだ。

改めて、学びを問うと、傍観しながらも、改めて、あきらめモードの件を振り返っていたように思う。

そして、まだまだ自分のモチベーションを高めることができることに気づいたのだ。

もし、あきらめモードになっていなければ、きっと、そんな時間は過ごしていないし、疲弊した頭と肉体で摩滅していたかもしれない。

そして、物理的に別の場所に存在できなくても、同時に想いを馳せることはできることにも気づけた。

で、ね。それがいつでもできるようになれば、きっと僕は錬金術師のように日常から「金」を生み出せるようになるのかもしれないね。



雨の日に青空を想う




2019年6月6日木曜日

手探りで確かめる用心深さの奥底にあるもの

僕たちは、もし見知らぬ暗闇の部屋に一人で居たらどうするだろうか。

まずは、息を殺して辺りの気配を探るだろう。

僕たちに危害を与えるような存在がそこに居るのではないだろうか。

見えないことに慣れていない人にとって暗闇は恐怖でもある。

次にきっと手探りで少しずつ自分の周囲を確かめて見る。

そして頭の中に、その部屋の地図を作り出すのだ。

さて、光の「明るさ」は客観的なものかもしれないけど、心の「明るさ」は主観的である。

要するに本人にしかわからないものなのでしょう。

だから、用心深く確かめる人の心持ちを軽んじてはいけないよね。


落ちるぞー

2019年6月5日水曜日

僕たちは「間抜けな世界の住人」かもしれない

今日、僕がブログに何を書くのか。

それは決まっていたようだ。

僕が書くのは「間抜け」。

あまり、良い響きではないけど、僕たちはひょっとしたら、「間抜けな世界の住人」なのかもしれない。

なぜ、そんな風に思うかと言えば、一つは昨日、家人に届いた詐欺手紙だ。

地方裁判所を語ったこの手紙、どこか「間抜け」だ。

まあ、これは家人の受け売りなのだけど、訴訟とか言っている割にチープ感があって、間抜けている。

おそらく、「間抜け」しないと逮捕されちゃうのでしょう。

そして、もっと大ごとの「間抜け」はこのところ忙殺されている仕事だね。

あれやこれや色々揉めてあっち行ったりこっち行ったりしているのだけど、肝心な部分で不整合が見つかった。

これは、真剣な「間抜け」だ。

皆、本当に頑張って、衝突して、向き合っていたのに・・・

そんな様を振り返ると、何だか僕たちは「間抜けな世界の住人」なんじゃないかな、と思うわけです。


間抜け


2019年6月4日火曜日

「もやもや」からの脱出? スピーディに踏ん切りをつけよう

踏ん切りがつかない、とか、見通しがつかない、とか僕たちの周りには判断、決断し難い場面が少なくない。

そんな中で「もやもや」は雲のように溜まっていくよね。

雲は、水滴があまりに小さいので落ちてこれなくて空に浮くらしいけど、僕たちの「もやもや」もきっと塊にならないと落ちてこないのでしょう。

ひょっとしたら踏ん切りがつく、とか、見通しがつく、というのは、小さな水滴が大きく育って空に浮いていられなくなるのと似ているかもしれない。

さて、「もやもや」漂っているのは割と気楽な感じがするけど、これが雨粒になって高い空から降ってくるとなると、そのスピード感は落下した時の衝撃は相当な強さだろう。

つまり、踏ん切りがつく、見通しがつく、ためには、「もやもや」していたようなスピード感や穏やかさではいけないのです。

で、ね。「もやもや」するのは何かを生み出したり、学んだりする素地だから大事だけど、そこからの大胆な切り替えが大切だと僕は思うね。


今日はユリが好きだった親父の命日


2019年6月3日月曜日

LIFE! 人生はマラソンだ!

僕がWOWOWに加入してから外付けのハードディスクに少しづつ映画が溜まっている。

とは言っても、たった1TBなのですぐに一杯になってしまう。

なんとなく、もっと大きいものに変えるのも気が乗らず、不要な録画を適宜消しては新しい映画を録画することが続いている。

そんななか、消さずに残っている映画が何本かある。

大ヒットした映画、爽快な映画、皆が好きな映画などなど。

そして、それらの中に何となく消せない映画があって、「LIFE」とか「人生はマラソンだ」となどはそれだね。

そう、僕はきっと「人生」が好きなのだ。

いろんな人生があり、僕の人生もその中のたった一つだけど、いろんな人生が輝くように僕の人生も輝いていたいのかもしれない。

でも、きっとそれは、誰かに見せるためじゃなく、僕自身が見たいからなのだよね、きっと。


犬生も、もちろん

2019年6月2日日曜日

夢見と寝覚めでコンディションを測ろう

先週は、悲しみの中で幕が開いた。

でも悲しくても、理不尽でも、嫌いでも、混沌としても、仕事は進む。

ちょうど時間が不可逆的であるのと同じように、仕事も前に進むしかないからだ。

(月)コジくん、天国でルークと仲良くしてあげてね
そんな日もあるよね。

(火)小さな判断、小さな決断が人の判断力や決断力を高める
で、ね。要するに、僕たちの力とは、固定的なものでなくちょっとした準備や状況によって大きく変わるものだよね。

(水)アウト、セーフ、よよいのよい
で、ね、僕はそうなんだと思うのだけど一方で割り切れなさも残るよね。

(木)嫌われる理由、人気の理由
そうだろうね、みんなそう思うよね。

(金)らら〜ら〜言葉にできない
この後何時間かけても、こんな一日をきっと僕は端的な言葉にすることができないだろう。

(土)価値は値段じゃ表せない
観劇はとても楽しかったけど、その後も学びに溢れる夜となりました。

できることなら、後戻りできない仕事では、人から力をもらい、やりがいをもって、大きな目的に向かって、僕の世界を高く築いていきたいけど、人に元気を奪われ、仕方なく、小さな目的に向かって、霧の中を彷徨うことだってある。

そんな時は大概、夢見も寝覚めも良くない。

さて、今夜の夢見と明日朝の寝覚めはどうだかな。


良い眠りと爽やかな寝覚めを



価値は値段じゃ表せない

今日、僕は家人と「海辺のカフカ」を観劇した。

今回が2回目で、前回は蜷川幸雄さんがまだご存命中に宮沢りえさんが主演された舞台だった。

観劇して思ったのは、意外と詳細な場面を忘れていることだ。

僕の記憶なんてそんなものなのかもしれない。

さて、観劇後に赤坂のベルギービールの店に寄って喉を潤したのだけど、まあ、この店、オーダーしてから出てくるののが遅いし、そもそも、オーダーの際に愛想がない。

例えば、「これと同じの」とビールを頼んだら、「これではわからない」と言い返される始末で、さすがに酷いと感じた。

一方、早々に切り上げて、地元の日高屋で軽く腹ごしらえをしたのだけど、日高屋は、とてもフレンドリーで、日本語がまだ慣れていないベトナム人の愛想がとてもいい。

つい、応援したくなる感じで、他のお客さんも暖かい声を掛けていた。

僕がチコちゃんならきっとベルギービールの店員に「ぼーっと仕事してんじゃないよ!」と噴火しながら言っていることでしょう。

ベルギービールの店はビール一杯が800円くらい、一方、日高屋は290円。

前者はサービスチャージ(サービス悪いのに!)一人300円だけど、日高屋はそんなのを取らない。

でも、僕が感じるサービスの価値はベルギービールの店がマイナス80点に対して、日高屋は45点くらいかな。


観劇はとても楽しかったけど、その後も学びに溢れる夜となりました。


中田さ〜ん