AIは、どこで許され、どこで嫌われるのか
――私たちは何を「感じ取って」いるのだろう
AIの恩恵を最も受けているのは、
IT開発やデータ分析の現場ではないだろうか。
そこでは、これまでの経験によって積み上げられたスキルが土台にあり、
AIはそれを加速し、拡張する道具として使われている。
一方で、
AIが批判に晒されやすいのは、
フェイク動画やアニメ作画といった領域だ。
興味深いのは、
どちらもAIを「プロセス」で使っている点では同じだということだ。
それにもかかわらず、
ある場面では称賛され、
別の場面では強い拒否反応が生まれる。
この違いはどこから来るのだろう。
私たちは「コスパのクオリティ」を感じ取っている
鍵は、
目的に対するコストと成果の釣り合い、
つまり「コスパとしてのクオリティ」を
私たちがどこかで感じ取っていることにある。
AIが使われていても、
「これは人の経験や判断が活きている」と感じられるとき、
私たちはそれを自然に受け入れる。
逆に、
「楽をして、価値を横取りしている」と感じた瞬間、
強い違和感や反発が生まれる。
ここで重要なのは、
クオリティを感じ取ること自体が、認知的な営みだという点だ。
クオリティは、社会的に決まる
私たちが何を「良い」と感じるかは、
個人の感覚だけで決まっているわけではない。
そこには、
「ここはAIを使っちゃだめでしょ」
「ここは使ってもいいよね」
という 社会的な認知スキーマ が働いている。
つまり、
AIの是非は技術そのものではなく、
社会が与える意味によって線が引かれている。
この線は、
必ずしも論理的でも、一貫してもいない。
だからこそ、摩擦が生まれる。
だからAIは「こっそり」使われる
こうした状況の中で、
多くの人が選んでいるのは、
「こっそり使う」という態度だ。
AIのクオリティを正確に見破れるエキスパートは、
実はそれほど多くない。
それでも、詐称していいわけではない。
ただし、
より良いアウトプットのためにAIを使うこと自体は、
決してズルではなく、智慧だと私は思う。
問題は「使ったかどうか」ではなく、
何のために、どのように使ったかなのだ。
そして、来年はもっと使うだろう
今年も私は、たくさんAIを使った。
そしてきっと、来年はもっと使うことになる。
それは依存ではなく、
人間の認知や経験を拡張する道具として
AIを扱えるようになってきたからだ。
AIは魔法でも、敵でもない。
私たちが何を価値と感じ、
どんな意味を与えるかによって、
その姿を変える存在なのだと思う。
この問いは、
AIの話であると同時に、
私たち自身の認知と社会の成熟度を問う話
なのかもしれない。







