2017年8月31日木曜日

W杯は成長のチャンスなのだ

今日、サッカー日本代表がオーストラリア戦で勝利を納め、6回連続6度目のW杯出場を決めた。

浅野選手、井手口選手の鮮やかな得点は爽快なこと、この上ない。

いやー、めでたい。


さて、1998年フランス大会から来年のロシア大会まで20年の月日が経ったわけだ。

一時よりサッカー人気も落ち着いた感はあるけど、やはりW杯は特別だね。

僕はひたすらテレビで観るだけの人なのだけど、2002年の日韓W杯は、開催国であったこと以上に記憶に残る大会だ。

その時期、僕は次のことも考えずに3月に家業を離れ丸一年、良く言えば充電していた。

たっぷりとある時間を使ってW杯を観ていたのだけど、うさを晴らすにはちょうど良かったし、おかげで前を向けたような気がする。

その後、進む道を決め、色々な可能性を模索しながら今の会社に入社するのだけど、採用面接の際に、W杯のテレビ解説を書き起こしたデータ(時間はたっぷりある)とインターネット上の掲示板の書き込みのテキスト比較分析を持参した記憶がある。

銀行経験でのお金勘定や財務分析と商品仕入れや重い荷物を担ぐことなどは出来たけど、統計データを分析をするスキルは持っていなかったから、それらの経験を通じて基本的なことを身につけることが出来た。

ひょっとしたら会社に入れたのはW杯のおかげかもしれない。


今、振り返ると、興味関心と時間の両方が揃った時、そこには大きなチャンスがあったのだろう。

そして、気がつけば会社に入って早くも14年経ち、僕の中で最も長いキャリアとなっているしそれなりに成長できたのだと思う。

僕にとって2002年W杯は成長のチャンスと同意だ。

これからもW杯に合わせてぐっと成長して行きたいな。


サムライブルー



そして蘇るビンタ

僕は小学生の時、目の前で先生のビンタを見たことがある。

もう少し正確に言うと、班のメンバーが並べられて端からパーン、パーンとビンタをされたのだ。

で、結果から言うと僕はビンタされなかった。

先生がビンタをしたのには当然理由があったのだけど、先生のビンタ基準から僕は外れたらしい。

小学校を卒業してしばらく経ってから、当時の同級生がビンタをもらわなかった僕のことを裏切り者的に言っていたのを知ったとき、改めてその原因となった事件に加担しなくて良かったと思った。

その事件は小学生なりの「正義」がもとで、班の中で起きた、一人の女の子を皆で叩いたものなのだけど、確か、ちゃんと掃除をしないからとかいったことへの粛清だったようの記憶している。

僕は叩くこと自体に罪悪感が強く、粛清には参加しなかったことで結果、先生からビンタされなかった。

振り返って小学生の僕が場の雰囲気に流されずに良かったのだけど、じゃあ先生が叩くことに嫌悪感はないのかと言えばそこらへんには矛盾がある。

中学生以降もそんなに清廉潔白だったはずもなく、そこは反省が多い。


あれから40数年経ち、小さな集団の中の小さな事件を端に起こる先生や指導者の体罰が全国版で取り上げられるようになってしまった。

ニュースが流れるたびに小学生の僕が蘇ってしまうのだけど、経験もあってか体罰の背景がやはり気になる。

昨晩もトランペッター日野皓正さんのビンタがニュースで流れ僕は再び複雑な気持ちになるのであった。


ビンタはやめよう



2017年8月30日水曜日

一線を越えたら何があるのだろうか

国会議員が自身の素行に関する報道で「一線は越えていない」と説明して話題になった。

この場合、「一線を越える」=「自分の非を認める」と言うことだよね。

学びの領域でも「越境」の意味や大切さが認識されているから、どうやら「一線を越えること」は僕たちにとって大きな「意味」を持っているらしい。

しかしながら、一線を越えたら何が待っているのか考えずに越えてしまうことも少なくない。

だから問題になって糾弾されることになるのだ。

家の近くの大した交通量もない裏道に近い感じの交差点には、一時停止の標識があり、よくおまわりさんが止まらない車を取り締まっている。

意地悪な取り締まりにも思えるけど、ドライバーは停止線を越えた時、取り締まりが待っていることなどあまり考えていないだろう。

そういった時、線はあるけれども無いに等しい。

冒頭の議員もきっとそうだったに違いない。

では、逆に線をしっかり意識した上で越える場合はどうだろうか。

意味は全く変わってくるよね。

一方で、学びに置ける越境は意識を持って一線を越える行動を指しているように思える。

結論的に言えば、大切なのは「越える」ことではなく、「一線がある」ことの方だ。

世の中には、自分が引いた線以外にもたくさんの線がある。

だから僕たちには、上手に線を越えなかったり、越えたりを想像力を働かせて判断する能力が必要なのだ。


一線をちっと越えてる


2017年8月29日火曜日

言語化できないこと

考えいることを言語化することは難しくないけど、考えていないことを言語化することは難かしい。

何をバカなことを、と言われそうだけど、僕たちが何かを探している時、考えていないことの方が実は多いのだと思う。

そうでなければ、ウインドウショッピングとかamazonのブラウジングとかができない。

僕たちはなんとなくモノを探し、しかもその挙句になんとなく買うのだ。

厄介なことに、買ったあとには「もともとそれが欲しかったのだ」と勘違いする。

だからあれこれ理由をつけてしまう。

これは商品の購入だけでなくヒトに関しても同じだろう。

なんとなくヒトを探しているから、運命の出会いがある。

なんとなくヒトを探しているから、この人は違うと感じる。

そして、なんとなく探しているヒトを言葉にするのは難かしい。


言葉にできない♪


2017年8月28日月曜日

かつてのメモで連想ゲーム 正解はあるか

僕は自分の使いかけのメモ帳を開くと意外な発見をする。

字を書くのはあまり早くないので僕のメモは大体判別不能だけど、それでも四角で囲ったワードはメモを取った時に重要だったことはわかる。

この重要ワードを繋いで行くとなんとなくメモを取った時の状況が思い起こされる。

そんな細切れのインデックスを繋いで行くとたまに芋づる式に記憶も掘り起こされたりするのだけど、「あー、あの時はそんなことが大事だと思ったんだ」と感慨に浸ることも珍しくない。

なんだか恥ずかしかったり、感心したり、成長のなさにがっかりしたりと浸った後の感情は様々なのだけど、案外、メモを取った時の重要性や関心と思い出は一致していないのかもしれない。

文章や写真が記憶をかなり正確に思い起こさせるのに比べてメモはかなり曖昧だ。

忘れてしまうようなことは大切なことじゃないからメモは取らない、と言う人の話を聞いたこともあるけど、「愛」とか「待っている」みたいにシンプルな状態以外の大切なことを数文字だけで表現するのはやはり困難だよね。

例えば、昨日、いぬと散歩した時に通ったカフェの店頭に大きなスプーンとフォークがあったのだけど、「大きいスプーン」「大きいフォーク」「いぬ」では、写真を撮った時の動機は表現できない。

もしメモをして、3年後の僕がそれを見た時、僕はどんな連想をするのだろうか。

ちょっとメモ帳に残してみたくなった。


これはいい写真になる!と感じたのだ





2017年8月27日日曜日

24時間働くのがデフォルト? 侵略される社会を目指そう

休みの日の今日、対照的なテレビを見ることになった。

一つは毎年恒例の24時間テレビだ。

こちらはほとんど観ていない。

障害者を積極的に取り上げる姿勢の一方で、24時間の番組を製作することには違和感が強いから。

僕たちが働き方改革で目指す社会とは、24時間走ったり、生番組を放送する社会なのだろうか?


もう一つの番組は「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」だ。

アメリカに、世界の優れた社会の仕組みをどんどん略奪して持ってこようと言った、皮肉の込められた映画なのだけど、取り上げてたドイツの会社の例は週間労働時間36時間だ。

一週間で36時間働き、残りの時間を充実させようと考える社会(従業員にアクセスすることはもちろん、メールすることも禁止)と、24時間頑張り続けることを美談とする社会の違いは歴然としている。

さらに、件の番組は今年で40周年だそうだけど、僕は、40年間もその価値観を変えられていないことはとても悲しく感じる。

僕たちは「24時間戦えますか?」のキャッチフレーズが当たり前だった時代にまだ生きているのかもしれない。


社会の価値観を俯瞰する

2017年8月26日土曜日

どこまでが空手形? 仕事のなかの約束を考える

今の時代「手形」と聞いてわかる若者はどのくらいいるのだろう?

日本全体として産業が成長期にあり、会社にお金が足りなかったとき、支払いと決済の時間差を作り出す「手形」の仕組みには事業を成長を加速させる働きがあったよね。

しかし、ちゃんと決済出来なければ、支払いが行われないことと同じだから大問題。

そう言った、約束不履行的な手形を「空手形」と言い、実際の決済手段としてだけでなく、出来ない約束も「空手形」と言われるようになったのだ。

さて、本当は出来ないことを出来ますと言ってしまうのは詐欺みたいなものだけど、出来るか出来ないかわからないことを出来ますと言うのは微妙だ。

想定と結果には少なからず違いが生じるものだからね。

世の中にはやってみなければわからないことの方が間違いなく多い。

だから、やってみて結果が想定と違ったからと言って「空手形」をきったと責めるのはどうにも一方的だ。

プロジェクトマネジメントでは、「もし出来なかったらどうするか」を考えるリスク管理は欠かすことが出来ない。

リスク想定をしていない方がダメなのだ。

要するに、空手形は出し手と受け手がいて成立するものであり、受け手が出し手に信用を与えているのだから、リスクマネジメントをしていない受け手にも大きな責任があるのだよね。


ドラマチックトーン



2017年8月25日金曜日

「そこが子供だって言うんですよ」 ひよっこを卒業しよう

「自分からはできないよ。」
「そこが子供だって言うんですよ。」

NHKの朝ドラひよっ子で、主役のみね子(有村架純)が由香(島崎遥香)に対して言うセリフです。

色々な経緯があって掛け違えてしまった家族との関係をどう修復するかで、自分から掛け直すことはできないと言う由香に対して、父親が行方不明になったみね子は、父親を許して自ら東京に働きに出てきた時、自分は子供じゃなくなったと感じたそうな。

これ、ドラマとは言え侮れないセリフだよね。

どんな理由があろうとも結局人に依存していることって少なくない。

しかも自己正当化してしまうと、依存していることもわからなくなってしまうから厄介だ。

さらにお互いに依存し合う、共依存の状態になってしまうと、もう無限ループ化する「永遠の子供の国」状態である。

みね子が言うように、大人は誰のせいにするではなく、自らの決断と覚悟で一歩を踏み出すものだ。

結局、誰かの手助けを待っている=「そこが子供だって言うんですよ」 だよね。

「悪いのは自分でなくおまえだ」と言うストレートな外罰性だけでなく、「自分を成長させてくれる会社」とか「頑張っているところを認めてほしい」なども実は無意識に相手に責がある言葉を使っている。

子供の宝物である純真無垢さ、天衣無縫なさまを持ち続ける大人はとても魅力的だけど、「そこが子供」の部分は早く卒業したいものだ。


遊んでくれなきゃ噛んじゃうもんね






2017年8月24日木曜日

横取り、駒扱い、押し付け そしてモチベーションの源泉

良く、部下の手柄を横取りするのはダメ上司だっていう話を聞くよね。

横取りされた部下は達成感を踏みにじられ、上司に不信を抱き、モチベーションが下がる。

本来、部下のモチベーションを上げさせるのが上司の仕事だから、本末転倒だ。

しかも、横取りした手柄によって、上司の評価が上がっちゃったりするものならば、上司どころか会社に対する不信が同じ境遇になりかねない同僚にも広がって組織にはざけんな、やってらんねーぜ病が蔓延する。

この問題、モチベーションという観点から考えると、本末転倒な上司の行為は直接的な手柄の横取りだけに限らないだろう。

例えば、目標は与えられるよりも自ら定め、計画立案に取り組んだ方が達成感が高く、仕事への意欲が上がる。

計画立てに参画させず目標を割り振ることは、部下の手柄を横取りするのと似たような影響を与えかねない

それでも、意志を持って目標達成に取り組む部下には、大きな学びと成長が待っているのだけど、皆が常にそのようなマインドセットを持てる訳ではない。

部下の能力を見切ったり経験不足を指摘するのは簡単だけど手柄をあげられるかあげられないか良く見てギリギリのところに仕事の難易度を定めることができれば良いね。

むしろ、成果を出すプロセスで最後のところを任せて達成感を演出するバックワード・チェイニングといった方法もある。

部下の育成において優秀な上司は、部下が上手に手柄をあげられる工夫をしているのだよね。

さて、知らず知らずのうちに部下のやる気を削ぐ上司の行為は仕事や成果の横取り、駒扱いだけではない。

仕事の割り当てや業務アサインもそうだ。

采配と称して権限を取り上げたり、文脈の見えない仕事への配置することなどだ。


上司にはどのような言動、采配が部下の自律的な成長を阻害する行為になるのか正しく知って自らの行為を選択できることが大切だ。

もちろん、そのためには部下に適したそれぞれの自律的な成長のあり方も知らないといけないけど、一方で、いかなる形であれ自律的な成長への取り組む姿勢がある人材を部下にしなくては始まらない。

上司ができることは部下のモチベーションを削がないことであって、ベースにあるモチベーションを生み出し維持し高めることが出来るのは部下当人以外にいないのだからね。


水とバケツとホース



2017年8月23日水曜日

思考を高める場数の踏み方

昔、人は頭の中が静かな人はよく喋り、賑やかな人は無口になる、という話を聞いた記憶がある。

脳にはデフォルドモードネットワークという意識が沈静化している時に起きるベースライン活動があって人によって違うその活性がおしゃべりか、無口かに影響しているといったような話だった。

直感的なものとは逆だったので、ヘェ〜そういうものなのか、と驚いた。

さて、そのコトの真偽は知らないけど、誰かに何かを伝えるために多くの場合人は自らの考えを口に出す。

この思考を口外するプロセスには熟達の効果があり、例えば、同じコトであれば1回目よりも2回目、2回目よりも3回目の方が自らの考えを的確に伝えられるようになる。

「話す」ことは「思考を整理する」のに役立つのだ。

ここ数ヶ月に間に、あるテーマについて考える、話す、議論するを繰り返しているのだけど、そのテーマが本物に育っていくのがよくわかる。

議論や説明の場数は積極的に持つべきなのだ。


何度も話して鍛える


2017年8月21日月曜日

改革よりも堅牢化? テレワークの事例から感じること

今日は久しぶりに経営学習研究所のイベントに参加した。

シアターMALL「仕事にオフィスはもういらない?!リモートワークの光と影」という旬なテーマである。

日本航空の働き方改革とテレワーク導入の取り組みを聞かせて頂いた。

さながら「働き方改革奮闘記」というドラマであった。

語り部は日本航空人財戦略部の久芳珠子さん。

働き方改革の対象は4400人で全社員の15%、デスクワーク中心で残業削減と生産性改善が目的だったそうだ。

経営破綻した日本航空では「全員が力を合わせて一機の飛行機を飛ばす」という一体感の醸成を5万人の社員が破綻後一年で3万2千人に減らすなど大きな苦しみの中で目指した。

客室乗務員の9割が女性で女性が活躍する一方でエンジニアの女性はごく少数であったりと部門での格差が激しく、様々な分析の結果からも女性が能力的に劣るデータはないのだけど、20代半ばのタイミングで女性の評価と男性の評価に如実に差が出始め、活躍が衰退していくことが明らかになった。

そして女性の7割が去っていくのがそれまでの会社の実情であったそうな。

そこで、仕事免除施策ばかり打っているけど昇進昇格がない施策から、長時間労働を減らしキャリアブランクを作らない施策が必要であることを見出して持続可能性、フェアでクリエイティブな仕事への転換を推進している。

不夜城化していた仕事の不平不満を解消するために、書類山積みのデスクトップをフリーアドレス化し、集中できる大きなブースやファミレスシートを整備することで仕事に縛り付ける要因から真のやりがいへ、そしてその一環としてテレワークの導入と、試行錯誤はあったのだろうけど順調な展開のように感じられた。

制度を上手に使う社員からヒントを得てさらに制度を良くしていく取り組みからは、職責を全うする強い意志を伺うことが出来た。

後半は実践女子大学松下慶太先生の「PlaceとSpace」といった問いかけを聞いたけど、僕たちの身の丈で言えば、テレワークを難しくしているのは実は法律であったりするので、保守的で遵法精神が高く、しっかり組織を守ろうとする人にしわ寄せが起こるのはやむを得ないのかもしれない。

つまり今の環境でなんとかテレワークを実現するとことは働き方の改革よりも前提をより堅牢な構造にしている可能性があると言えないだろうか。

「職場」を場所と捉えれば多様な解があり得るのだけど、そこで働く人にとってみれば、自己定義を行う「場」にあたる。

主語を「場所」に置くのか、「働く人」に置くのか、もっと言えば「働き方を改革させる」のか「自ら働き方を創造する」のか、視点をちょっと変えると見える世界もガラッと変わる。

僕がイベントの最後に考えていたのは実はそんなことだった。


働き方、変える?

2017年8月20日日曜日

わかるけど簡単にわかっちゃいけない「いい◯◯」

商売でモノを売るためには、モノを作るか仕入れるかしなくてはならない。

モノを作る場合も原材料を仕入れる必要がある。

僕たちは、如月博士が空中元素固定装置を開発するまではこの「理」を破ることができないのだ。

そしてこの「理」は人材に関しても例外ではない。

人材派遣・紹介の事業者が人材を企業に派遣したり、紹介する際には人材のストックが必要だ。

ゆえに、企業の雇用意欲が高まると総じて人材が足りなくなり、人材の募集が激しくなるり、テレビCMや交通広告も増える。

でも、転職人材の募集において「条件は、今よりいい会社」というコピーにはいささか違和感を感じた。

企業が「いい人材を採用したい」というのと同様で、そりゃみんなそういうけどさぁ・・・という部類の表現だからね。

そもそも「いい人材が欲しい」という会社は「いい会社」なのか、「今よりいい会社」という会社員は「いい人材」なのか、とか言いたくなってしまう。

そして、それは当事者であれば常に自らに問うべき事柄であるのだ。


登録します?





2017年8月19日土曜日

僕たちが時間を越えるのはいつだろう

昨日、封切り初日の映画を観たのだけど、最近の映画、特に注目を浴びている映画の多くは「時間」を扱っているように思う。

去年大ヒットした「君の名は」とか、その前にヒットした「インターステラ」とか、挙げたらキリがない。

もっとも、時間に関しては最近のテーマではなく昔からだ。

例えば、バック・トゥー・ザ・フューチャーなどもそうだね。

SFではタイムマシンという時間を自由に行き来する機械があるのだけどそれはまだ実現に至っていない。

「時を越える」というのは古くて新しい、僕たちの根源的願望なのだ。

「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」

これは、ジュール・ヴェルヌの言葉と言われるけど、僕たちが成し遂げたと願っている以上、時間は掛かってもいつか解決される課題なのでしょう。

AIが単なる機械学習装置を卒業した時には、是非、この「時間」の越える方法を考えて欲しいよね。

もっとも、僕の関心は、その答えを出すのと地球上の電力全部を消費するのとどっちが先だろうか、ということなんだけどね。


時の階段





刀女子との遭遇 負けるな僕の創造力

デパートで日本刀の展示「河内一門と日本刀のこれから」を観た。

僕は日本刀にほとんど興味が無いのだけど、珍しさと、時間もちょっとあったので足を運んでみた。

展示されいてる日本刀を観て、「刀」の価値を改めて考えたけど、武器として使うことはもちろん、所持するだけでも法律で規制が掛かっているからその美しさを眺めること、つまり美的価値と、工芸品としての希少価値以外の価値を思いつくことは出来なかった。

一方で、展示会場に多くの若い女性が居ることにも違和感を持った。

どうやら「刀剣乱舞」というイケメン系のゲームがあって、そのゲームから刀に興味をもつ女性が増えたのらしい。

会場にもキャラクターのポスターや関連する?刀が飾ってあった。

多くの女性がさっと観るのではなく、すごくじっくりと観ている姿が印象的だ。

ゲームの作り手は、キャラクターとしての価値を刀に見出し、それを2次元で人格化したわけだから、刀には人の想像力を掻き立てる力があることも間違いないのだろう。

さて、考えてみれば、僕は子供の頃、ボールペン一本でジェット機の空想をしていた。

どんな物にも人の行為を引き出す力が備わっているのだ。

僕たちは価値というと交換可能であることを前提にしがちだけど、実は、新しいものを生み出す価値は交換という概念を超える、創造する力である。

人との出会いも新しいものを生み出す瞬間だけど、刀のように長い歴史と刀匠の職人技などいくつもの物語が眠るモノにもきっとすごい力が宿っているのだろうね。


刀を撮るのは難しい






2017年8月17日木曜日

卵と鶏 パソナリティと経験 どっちが先だと思いますか?

物事の始まりがどこからなのかを考えるのは結構難しい。

よく知られているのが、卵が先か、鶏が先か、と言う議論だね。

生命の継続性を考えると生物は徐々に進化を遂げているので始点を定めるのは思うほど優しく無い。

カオスの淵にある生命は、時に偶有性を持って姿を変えて行く。

そして環境という共犯者を得てまるで意志が存在するかのように淘汰が起きる。

そう言った複雑性を考えるときにどちらが先かと問うのは愚問であることがわかってくるよね。

愚問は頭を悪くするのでやめたほうが良い(大村はまさん)。

さて、パーソナリティと経験、それぞれにある偶有性と環境の存在を考えた時、どちらが最初でも良いのだ。

パーソナリティが経験を呼び込むのか、経験がパーソナリティを形成するのか、ではなく、自分も自分以外も自己定義を更新していく。

自分は卵でもあり、鶏でもある。

自分の成長にとって都合の良い方を選べば良いのだろう。


どっちも先だし、どっちも後だ

2017年8月16日水曜日

Great or Crazy Journey? 人が旅する理由

このブログを書きながらクレイジージャーニーという番組を見ている。

普通の人が絶対に行かないような場所を超個性的な人たちが目的を持って旅する番組だ。

普通の人の旅も、観光、グルメ、癒し、学びなど目的はあるが、多くの場合「安全であること」が前提だよね。

「安全」の尺度は人それぞれだけど、危険性の高い旅ほどテレビ的には美味しいのだろう。

さて、そもそも人はなぜ旅をするのだろうか。

山を登る人が「そこに山があるから」と言うが如く「そこに旅があるから」なのだとしたら、そもそもの「なぜ」を解き明かすのは難しいだろう。

実は、僕たちがコンビニで商品を買ったり、SNSに記事や写真を投稿する行為も「なぜ」がよくわからない。

もちろん、お腹が空いたから、とか、他人に自分の投稿を承認して欲しいからと言った欲求はあるのだけど数ある選択肢の中からコンビニや特定のSNSを選ぶ理由を説明することは容易くないのだ。

なぜなら、簡単に選ばなくもなるからね。

そこでコンビニもSNSも集客のために様々な試行錯誤を繰り返すことになるから、マーケティングにも終わりが来ない。


消費者の無意識の行動と違って、旅をする行動はかなりはっきりと意識があるように感じられるけど、もしも「どこでもドア」があったとしたらコンビニに行くのと変わらなくなるのかもしれない。


そこに国もある




2017年8月15日火曜日

無意識に「一人っ子」を構造で考えていないか

構造が機能を定める。

僕たち生き物の存在は、こういった構造主義を超えている。

構造は、僕たちが理解可能であることが前提だけど、「生命」には必ず理解出来ないものが残ると思うからだ。

しかしながら、構造主義はあらゆる領域に存在して僕たちの姿を定めようとする。

例えば以下のような記事だ。

一人っ子は兄妹のいる人とは脳の仕組みが異なる?

脳科学の発展は目覚ましくて、ついちょっと前まで定説であった男性脳、女性脳の違いが実はないことも解明されている中でこれは意外なニュースだった。

僕は心理学の研究はそもそもバイアスの掛かった研究だと思っている。

それは人か認知していることを解き明かそうとする研究だからだ。

そして、この研究は「一人っ子は異なる」というバイアスを持ってデータを観ているんじゃないかなと感じた。

構造に理由を求めることは、モノゴトを変える力にもなるし、変えない力にもなる。

だから、良い、悪いではないけど、僕たちは構造の持つ意味をその本質から考えるべきだよね。


神に構造はあるのか


2017年8月14日月曜日

何かを生み出すために必要なコト

”自分の居心地の良さ、悪さで自分の行動って決まるので、理念を先に考えて、理念に合わせて行動することは、僕はあまりしたくないんです。” 儲ける知性を休ませ、親切を――糸井重里に資本主義を聞く

かつては売れっ子コピーライター、今は上場企業の代表取締役である糸井重里さんの記事が面白い。

冒頭の一節は記事から転載したものだけど、人にはその人にとっての快適さがあり、最初に掲げる理念はその人にとって居心地の良いものになりがちだ、ということを言っているのだろう。

大村はまさんの名言「一番先に浮かんだ言葉は使わないこと。たぶん、それは「自分の癖」だから、いつも同じ事を言っていることになる」から受ける印象とたぶん同じだ。

パーソナリティ特性は、思考や行動を習慣化する。

それによっていちいち考えなくともなめらかに社会で生きていくことが出来るのだけど、一方で、無意識にバイアスを掛けて物事も見るようになるし、思考を停止して居心地の悪いことを避けるようになる。

だから、自分のパーソナリティ特性を知ってそれに向き合う、ということは思考を巡らせ、居心地の悪さを感じ、他人の力を借りて自分の壁を超えることである。

さて、糸井さんは同じ記事の中で、差異を生むのは人間であること、何かを生み出す人の価値は上がっていることにも言及している。

”モノやお金の価値が相対的に下がっているのとは逆に、人の価値はどんどん上がっています。モノを作るための労働力としてよりも、イノベーションを生み出すような人材だとか、無理かもしれないことでも実現できるよう工夫する人材だとか、そういう人が圧倒的に足りないと思います。” 同記事より転載

「そういう人が圧倒的に足りない」という課題からは、何だか特別な人が世の中には少しだけ居るように感じるけど、そうではないだろう。

僕は誰でも何かを生み出すことが出来ると思う。

しかし実際に生み出す人たちは、多くの場合、自分の居心地の良さを越えた者である。

また、その越え方は個人ごとに異なり、千差万別なのだ。

で、ね。この課題の本質は、「パーソナリティ特性を、今ある自分の表象ではなく、未来の自分への出発点にすること」である。

今の自分を越えることはある意味、イノベーションであり、無理かもしれないことを実現できるように工夫することだものね。



イトイさん、飛んでますよ〜








2017年8月13日日曜日

「縦割り」という視野狭窄に気をつけよう

僕が生まれ育った浅草橋は鳥越神社が近くにある。

鳥越神社は小さな都会の神社なのだけど、神輿は大きく重い、千貫神輿が自慢だ。

僕はこの神輿を担いだことはないけど、多くの担ぎ手が道いっぱいになって神輿を担ぐ様はとても強く記憶に残っている。

その後、会社が浅草にあり、向島に住んでいた時は浅草寺の三社祭が身近な大きな祭りだったけどやはり神輿は鳥越神社の千貫神輿が凄いなぁと思ったものだった。

さて、今日、今の住まいの氏神さまである富岡八幡宮の深川八幡祭りを見てきた。

実は、今の住まいは、富岡八幡宮と神田明神のちょうど境にあって、当初、氏神さまは神田明神だと思っていたので実は、富岡八幡宮だと知ってちょっと驚いた経緯がある。

神田明神が氏神さまだと信じていた時は富岡八幡宮のお祭りがどのようなものかほどんど知らなかったし、鳥越のお祭りに行っていた時は富岡八幡宮も知らなかったと思う。

深川八幡祭りでは、氏子の町内会が繰り出す神輿が富岡八幡宮に集まるのだけど、沿道からものすごい勢いで水が掛けられる。

その様は、花火よりも弾けている。

でもそれを知ったのは、氏子になってからだ。

祭りになると町内に〆縄が張られる。

それは、社会や生活を割る象徴にも思える。

観光客という外様でなく、当事者としてよその祭りに参加するためには何が必要なのか、考えると縦割りから抜け出す方法が見えて来るのかもしれない。


水かけ




2017年8月12日土曜日

労災認定の事実と真実? 研修に潜む危険性

先日ショッキングなニュースがあった。

ある会社の新人研修で業務上の死亡として自殺が労災認定を受けたケースがある。

父親は、会社、研修会社、講師を訴えていると言うものだ。

研修は「意識行動改革研修」と呼ばれ、仕事で成果を出すために必要なマインドセットを与える、しかし受講者にかなり負担を強いるものだったらしい。

しかし、その目的、内容や負担の大きさは僕にはわからない。

事実としてわかっていることは、新人研修の途中で受講者が自殺し労災に認定されたと言う事実だけだ。

そして自殺という取り返しのつかない事態まで至らなくても、新人研修の途中で受講者にトラブルが発生することは、実はそれほど珍しくないのではないだろうか。


多くの企業や新人研修を受託実施する会社と参加する新人は常にリスクを理解している必要がある。

研修の内容に関わらず、だ。


レアではない

シンギュラリティ後も売れ残りの時代は続く?

物やサービスを買う人にとって、売れ残りは売り手ほど気にならない。

必要とする時に必要とする物が入手できれば良いから不必要な時に不必要な物は興味関心の対象外だ。

今、世の中は、買い手に最適化されていく一方で、売り手にとってはどうなのだろうか。

作り手は買い手という観点では原材料を仕入れる立場でもあるので、作りやすい環境があるものの、一方では、いざ売り手になると売れ残りに心を痛めることになる。

売り切りごめんで売れ残りなしでやれている人は社会で極めて少数だ。

なぜそうなるのか、といえば、売り手が過剰であること、それと売り手と買い手が二極化しているからなのだと思う。

コンビニの廃棄食品などはじめ、日本の廃棄食品量はとても多いけど、事業者間の競争だけでなく、買い手と売り手の心理的要因も無視できないだろう。

自給自足であれば余剰や過剰を減らす工夫が自然にできる。

必要な量と余分が発生していることがわかるからね。

要するに、買い手はこれだけ欲しいと言わないし、売り手はどれだけ売ろうとしているか言わない。

この双方の沈黙と憶測で世の中が成り立っているので売れ残りが生まれる。

買い手はそれが心地よいし、売り手は真剣で必死だ。

クラウドファンディングのような仕組みは売れ残りを減らす手助けになるだろうけど世の中全てが置き換わるようなことはない。

さて、あと何年かして、人工知能が汎用化され自ら社会のことを学び始めた時、売れ残りの本質を何と認識しその解決に向かうだろうか。

僕たちの心地よさと真剣で必死な想いをどう調和してくれるのかな。


人々




2017年8月11日金曜日

未来を憂うことなかれ

僕たちが若かったころは1999年7月に人類が滅亡するって言うノストラダムスの大予言があった。

ノストラダムスの大予言を信じる信じないは別として結構、世の中の認知度が高かったように思う。

でも7月には空から恐怖の大王が降るどころか天災も起きなかった。

この類の悲観的予言は、ノストラダムスの大予言だけではない。

最近では、2012年12月にマヤ暦が終わり終末が来る、と言うのもあったよね。

人類の終わりだけでなく、国家の崩壊や大不景気の到来、戦争の勃発などなど世の中には悲観的な予言が溢れているけどほとんどは現実になっていない。

一方で、大地震や悲惨な大規模テロ、リーマンショックなど天災、人災は現実に数多く起きている。

確かに、起こりうる悲観的未来に対して備えることは必要だ。

未来には良いことしか起きないなんて都合の良い夢想だものね。

で、ね。休みの今日、家でONE OK ROCKのライブ映像を見ながら思うのだけど、新しい才能は必ず生まれ、新しい環境で新たな花を開き明るい未来を描いていくのだ。

だから僕たちは環境をどんどん新しくして行く必要があるのだろう。

それは結果として明るい未来を描く一助となっているのだからね。


明るいね




2017年8月10日木曜日

経験が人生をどう変えるのか

僕の好きな映画にベン・スティラー主演の『LIFE!」がある。

映画のキャッチフレーズは「人生を変える、壮大な旅が始まる!」だ。

映画のストーリーはさておいて、理不尽さに耐える生活を送りながら妄想し、誰に賞賛されるでもなく我が道を行き、色々な人と出会いにときめき謙虚に学び、そして事の本質にと自分の至らなさに気づく、多様な経験は誰にでもあり得ることだよね。

4つが一度に揃うと映画になるくらい劇的な人生だ。

もちろん、どれか1つを極めることも生易しく無い。

しかし「人生を変える」となると多様な経験は必須だろう。

また、映画の中でベン・スティラーは理不尽さに向き合いながら仕事への責任感で旅を始めるのだけど、1つの深く極めようとすると結局、他の経験を積むことになっていく場合も少なくない。

とにかく、始まりはどうであろうとあらゆる出来事に質の異なる経験を積むことで「人生が変わる」のである。

映画の中で主人公は最初と最後で大きく人生を変えた。

それは傍目には「成長」と思える変化だ。


4つ揃える
















2017年8月9日水曜日

組織行動を生む軸足 

僕が就活生と面接をする際の違和感を感じる言葉に「軸」がある。

「どのように就職活動を進めていますか?」

といった質問の答えとして

「私の就職活動の軸は・・・」

みたいに語られる。

以前は、

「◯◯さんが仕事選びで大切にしているのは△△なんですね」

みたいにページング(バックトラッキング)の際に言い換えていたけど最近は、相手の言葉を返す意味からも

「◯◯さんの軸は△△なんですね」

と言うことが多い。

で、なんで「軸」に違和感を感じるかと言えば、「軸」とはそれを中心の動きが起きる中心点であり、活動全体を支えている「根っこ」のイメージがあるからだろう。

一方、応募者が使う「軸」とは、選択可能で調整出来るものであることが多い。

なので「軸」と思えないのだ。

さて、組織には2つの「軸」がある。

組織がなんのために存在するのかと言う「目的」と、組織が組織として存在する原理にあたる「協調」だ。

組織はこのどちらかに「軸足」を置き、活動する。

そして活躍するのがもう一方の「利き足」だね。

サッカー選手を見るとわかるけど、「軸足」を固定して「利き足」でボールを操作するのだ。(両方利き足に出来る器用な選手もいる)

組織も、良い協調関係を軸にリーダーやマネジャーが目的達成を統率する場合と、目的達成に向けた強い理念・ビジョンやカリスマ性を軸に全員が一丸となって組織力を発揮する場合があって、似ているようだけど、順列が違うことでストーリーがまるで変わってくるのだ。

前者は、メンバーの離職率は低いけどリーダーやマネジャーの変革力も低いのに対し、後者は、リーダーやマネジャーの変革力が高いけどメンバーの離職率も高い。

もちろん、どっちつかずの組織もあるのだけど、大概よく見れば、組織の軸足はどちらにあるか見えてくるものだ。


軸足

2017年8月7日月曜日

経営課題の本質にあるもの、ご存知?

経営という立場から言えば、経営課題を社員に転嫁するのは難しくない。

「もっと考えろ」とか「顧客の立場で」などと言えば済むのだ。

でも、これは、日本企業が導入に失敗した「成果主義」と同じ類なのではないだろうか。

つまり、本質を考えることや顧客志向というのは結論的な話なのだと思う。

それが出来れば、もうゴールに近くて、あと一歩、の話なのだ。

あと一歩の話は、実は任せておけば良くて、問題はそれまでにどう加速できているのか、その環境を作れているのかが俗に言う「経営手腕」だったりすると思うのです。

と言うのも、自力達成は何物にも代え難い達成感と効力感を与えてくれるものだからだ。

だからダメなマネジメントの典型は、手柄の横取りだよね。

で、ね。原点かどうかはわからないけど、より原点に近い経営課題の本質は、社員一人ひとりの「成長志向」「成長意欲」なのだと思う。

もちろん、それにはいくつかの経験が重要だとも思う。

「想い」だけでなく、「原体験」が必要だ。

でも、後先はどうでも良くて、「想い」の後に「原体験」があっても良いのだろう。

結局、経営が出来ることって、「想い」を育てることと「原体験」の機会を提供することなのだよね。


本質はそこ?

2017年8月6日日曜日

機械に職を奪われるのか、機械が職から解放するのか

このところテレビを見ている転職を支援するサービス会社のCMが多いように思う。

おそらく世の中的に求人企業が多くて求職者が足りないのだろう。

この求人と求職のバランスは常に大きく変動している。

景気、産業構造の変化、社会の変容、就労意識の変化などがその背景となっている。

さて、人間は同じ仕事を長時間し続けるのが苦手だ。

一方、機械はそれが得意である。

人間は工夫や思いつきなど考える力を上手に活かすことが出来る。

逆に機械はそれが苦手だ。

つまり、今後、単純で付加価値の低い単純労働を機械が替わってくれたら、人はより付加価値の高い仕事に取り組むことが出来るようになる。

しかし、人が嫌がる単純労働を黙々と引き受けてきた人々、付加価値を生み出すことが苦手な人にとってはそれは歓迎できる社会じゃない。

例えば、コンビニの完全機械化はすでに技術的には可能だと思うけど完全機械化された場合、多くの雇用が消失する。

そして、コンビニでバイトしながら芸人や役者を目指すといったキャリアプランは描けなくなる。

要するに、様々なセンサー技術とネットワーク、そしてAIによって機械が職から解放してくれる恩恵に預かれるのは、従事している仕事というよりも、仕事や組織に強くコミットメントしていて、成長志向の強い人たちだけなのかもしれない。

もしそうであれば、10年後に無くなる仕事、という予測よりも、10年後に仕事が無くなる人の予測をする方が的を射ているのだろう。


何につかまる?



日常を新たな記述で書き換えていくこと

だいぶ前から飲食店やコンビニで外国の人が働く姿を良く見かける。

周辺のコンビニでは最近、ベトナムの人が多いようだ。

それらの人と接して感心するのは日本語が上手なことんだよね。

もちろん難しい話はしていないし、イントネーションも人によってまちまちだけど言葉を覚え、遠く国を離れて僕たちの日常を支えてくれている。

僕はレジを済ませるとき大概「ありがとう」と一声かけるのだけど、特にベトナムの人の応対はにこやかな気がする。

僕たちにとってキャリアは自分で選ぶものだけど、一方で、セーフティネットも備わっているから、チャレンジもリセットもしやすい。

しかし、海外から日本に来る人たちは色々な面でハンデがあるんじゃないだろうか。

さて、先日、中国やベトナムの実習生受け入れ、派遣を行っている会社の社長さんと話をする機会があったのだけど、突然皆で仕事を辞めてしまうケースが増えているそうだ。

どうやら僕たちは、パーソナリティ、生育環境への理解、キャリア形成、経験のデザインなどを自分たちだけでなく、日常的に世界レベルで考える時をむかえているのらしい。


ビルの向こうではゴジラとガメラの戦いが!

2017年8月5日土曜日

違和感を考えるガチャとーく

昨晩の自画持参ガチャとーくは通算50回目だった。

最後には「この先どうする?」みたいな議論も出る回数だ。

まあ、50回くらいでマンネリと言ってしまったらどれだけ飽きやすいのか疑われてしまうだろうけどね。

テーマは、「違和感」だった。

僕は「違和感」というと、「生命」に近いもの感じる。

というのも「生命」とは、僕たちの体があらゆる出来事に反応する様であるように思うからだ。

僕たちは無意識に何かと反応し、意識でその意味を考える。

そして「違和感」とは無意識が意識に換わる瞬間なのだろう。

一方で、「習慣化」によって「違和感」を生み出さない工夫もしている。

「違和感」を多く感じる人はそれだけ多くの意味づけを行って深く生きる一方、「違和感」をあまり感じないようにする人は効率良く生きることに長けているのかもしれないね。


違和感


2017年8月4日金曜日

吸収? 噴出? タイヤと雰囲気の共通点を考える

最新の自動車も、100年前の自動車もタイヤがついていて中には空気が入っている。

空気が地面の凸凹を吸収して乗り心地の向上に役立っているのだ。

空気の入っていないタイヤではさぞかし乗り心地が悪いだろう。

Wikipediaには、空気入りタイヤのことが以下のように載っている

”空気入りタイヤ(pneumatic tire/ニューマチックタイヤ)は1845年にイギリスのロバート・ウイリアム・トムソンが発明し特許を取得したが、実用化には至らず、1888年にスコットランドの獣医師ジョン・ボイド・ダンロップが自転車用を実用化するまで待たなければならなかった。
自動車用の空気入りタイヤは、フランス人のアンドレ・ミシュラン、エドゥアール・ミシュランのミシュラン兄弟が、1895年に開催されたパリからボルドーまでを往復する、全行程1200kmのレースに使用したのが最初である。”

空気を活かそうという考えが素晴らしい。

今後、自動車が電気100%になっても、自動運転になっても空気入りタイヤであることは変わらずに僕たちの生活を支えてくれるのだろう。

でも、自動車には空気入りタイヤをバネなどで支えるしなやかな仕組みがあることを忘れてはいけないよね。


さて、集団の中で「空気を読む」のが上手い人がいる。

雰囲気の中に存在する様々な圧力を感じとることが出来る人だ。

この力はタイヤの空気と同様、人間関係の細かな凸凹を吸収してくれる。

なめらかな社会に役立っているわけ。

一方で、それをいいことに圧力をかける人もいる。

国有地の払い下げ交渉の場で権力者の名前を出したり、教科書の件について議員の立場で学校に電話をかけたりと、自分の目的を達成するために相手が空気を読むことを強要しているのだ。

円滑効果を超えた圧力だけど、圧力をかければ当然反作用がある。

エネルギーは保存されるのだ。

情報化社会、特にネット社会ではネットの中に広がりった雰囲気は大きな圧力となって吹き出す”炎上”が珍しくないから圧をしなやかに受け止める仕組みが足りていないのかもしれないね。

僕たちの周りには、散々批判されて辞職するにも関わらず笑顔で離任式に出てしまうような空気を読めない人もいるけど、空気入りタイヤが世の中から無くならないように、少しは空気を読む力があるといいのになぁ・・・


空気入り





2017年8月2日水曜日

「私」の場所で「私たち」の場所? 飲食店ではちゃんとオーダーしよう!

えー、それは無いよね・・・という記事がシェアされたので考えてみよう。

飲食店業界でいまだに炎上する「あ、水でいいです」問題について


飲食事業を行なっている人にとって、飲んだり食べたりせずに場所を占拠するなんて有りえない行為だよね。

ルールだけでなく常識も欠如しているし、「不法占拠」と書けばもはや犯罪にも近い。

などと呆れながら読んでいたら、文中に出て来た『お店は公共施設ではない』という一文に目が止まった。

先日、法政大学長岡ゼミのカフェゼミに参加したのだけど、「公」と「私」の間にある「共」について話が及んでいた。(長岡先生、ありがとうございます!)

「公」とは公益志向、利他主義で公益、公助、公有地であるのに対して、「私」は利益志向、利己主義で私益、自助、私有地、そしてその中間に位置する「共」が共益、互助、共有地である。

そして、「公」「私」各領域への過剰な依存と「公」的、「私」的サービスの増殖により「共独自の領域の消失」(恩田 2006)が起きている。

つまり僕たちが社会を営むうえで必要としている互助や共有地などは強制的、もしくは自主的に「公」か「私」に併合され消滅してしまったのかもしれない。

このように考えると、『お店は公共施設ではない』という叫びからは異なる世界が見えて来た。

いつの時代でも「共」を必要としている僕たちが、「共」が消失した今日、自分の都合で「公」と「私」から「共」を捻出している世界だ。

「公」も「私」も時に「共」のように振る舞ったりするからさらに複雑になる。

助成金が目当にされる企業、個人向けの公的支援制度や、商業施設にあるフードコートなどがその例だろう。

公私のけじめがつかない人は不正受給をやめないし、混雑しているフードコートで飲食せずに打ち合わせをする。

だって「共」(互助)だものとどこかで思っているからいけないことをしている感覚も無い。

一方、飲食店は「私」であって「公」じゃないけど時には「共」(皆のための場所として認識されること)になりたい。

おそらく僕たちの店として集まってくれる常連客は要らないと考える店舗はないだろう。


「私」を都合よく「共」と曲解し甘える客と、「私」を「公」ではないけど都合よく「共」と装いたい店という込み入った関係性が考えられるのかもしれない。

だとするとこの問題の本質課題は、僕たちが失った「共」探しにあるのだ。


飲みなはれ



社会人基礎力に欠けているもの 「オタクを極める力」を高めよう!

経済産業省が提唱している「社会人基礎力」は、「前に踏み出す力」、「考え抜く力」、「チームで働く力」の3つの能力で構成されている。

この社会人基礎力に欠けているのは「おたくを極める力」だ。

「おたくを極める力」とは、誰かが作り出した世界観をこだわりを持って掘り下げ独自の世界観を作る源泉になる。

そう、クールジャパンの原動力だ。

にも関わらず、社会人の基礎となる力からなぜ外してしまったのだろうか、大いに疑問が残る。

また、3つの能力それぞれの独立性が高い(「みな同じことを言っているよね」とはなっていない)のは良いが、それ故にひとりが全ての能力を備えることのハードルは決して低く無い。

要するに「組織でなんでも出来る人」という理想像になっているのである。


さて、「おたくを極める力」は「発酵する力」でもある。

開発環境を使って独自の世界を作り出すITエンジニアなどに必須だ。

スティーブ・ジョブズにしたってジェフ・ベゾスにしたってマーク・ザッカーバーグにしたって、環境を発酵させてイノベーションを起こした人たちだよね。

そして、パーソナリティ特性的には、若者の中でこの力が高まってきているものの、企業が採用選考で注目しているのは経済産業省の視点とあまり変わらない。


サブカルチャー、発酵食品など海外から評価されている日本の強みの源であり、IT社会で活躍する際の重要な力を、僕たちの社会は今でもどこか軽視しているのでは無いだろうか。


極めるとこんな感じ?





2017年8月1日火曜日

質問の奥行き 「構造化、半構造化、非構造化」を考える

世の中、カウンセリング、インタビュー、面接と限られた時間の中で他者から当人に関する情報を聞き出す機会は少なく無い。

そのような場面で有益な情報を得るための方法として、質問を構造化する技法がある。

誤解を恐れずに言ってしまえば、構造化とは「聞かなければならないこと」を記述することだ。

必ず聞き出したいことがある場合や他者と同じに(比較可能な状態で)聞き出したい場合には構造化が必須になる。

さらに構造化のメリットは、ロジカルシンキングみたいにミッシーにできる(聞き漏らさない)、質問を明文化し取り扱うことで質問者が自分をコントロールできる、回答を評価し易くなる、と言ったこともあるだろう。

要は、効率的に間違えず情報を聞き出すことに向いているのだ。

例えば、採用面接であれば効率化において特に効果を発揮するのだと思う。

さて、面接がアンケートと違うのは、質問と回答に加え、性格や態度と言ったノンバーバル(非言語コミュニケーション)な情報も同時に収集することだけど、構造化が不得意なのは「何かを作り出す」ことだ。

人の関わりにおいて、気があう、触発される、創発が起きると言った「相互にとっての新しい発見」は”化学反応”であり貴重な瞬間だ。

そのような瞬間は質問を構造化していない方がおそらく多い。

非構造化とは、「聞く人が聞いてみたいこと」であり、半構造化は折衷案だ。


最近は、質問を構造化すると回答をデータとして取り扱い易いというメリットもあるのだろう。

それは、データ分析で良い結果が出るというおまけつきなので、勢い「構造化が良い」となりがちだけど、デプスインタビュー(深層面接法)のようにより深い情報を聞き出す際には、構造化だけでは足りないもの事実である。

聞かなければならないこと、新しい関係づくりやより深い理解への発見。

質問はやはり奥深い。


奥行きと構造