脳卒中を経験してから、世界の見え方が少しずつ変わった。何気なくできていたことが、突然できなくなる。その事実に向き合うのは、とても静かで、とても大きな衝撃だった。
リハビリが始まった。立ち上がる、歩く、手を動かす──ひとつひとつの動作に、こんなにも意識と努力が必要なのかと愕然とした。同時に、体だけでなく、心や思考のリハビリも始まった。集中できない、自分の言いたいことがうまく組み立てられない。脳が霞んでいるような、そんな感覚だった。
だからこそ、認知機能のリハビリに「脳トレ」が取り入れられていたのは、自然なことだった。入院中から川島隆太教授の『大人の脳トレ』を繰り返し開いた。どこか懐かしく、どこか新鮮な課題たち。その中に、「ストループタスク」と呼ばれる不思議なトレーニングがあった。赤い文字で「青」と書かれていたら、「赤」と答える。簡単そうでいて、思わず言い間違えてしまう。脳が瞬間的に迷い、戸惑い、そして再び立ち上がる。そんな感覚を味わった。
それはまるで、自分自身を取り戻す作業のようだった。
日常にも、ストループタスクのような出来事はある。最近、私は長年慣れ親しんだローマ字入力をやめ、「かな入力」に切り替えた。右手だけでのキーボード操作が続くなかでの決断だった。最初は打ち間違えてばかりで、自分に苛立ちさえ覚えた。
けれど、ある日ふと気づいた。これは、脳を育てる作業なのだ、と。目で文字を探し、記憶を頼りにキーを打ち、意味を紡いでいく。集中し、考え、手を動かす。そのすべてに、私の「今の脳」が関わっている。もどかしさも、嬉しさも、全部が訓練であり、回復の道のりだった。
暮らしは脳でできている。そう思うようになった。台所で食材を探すことも、郵便物を整理することも、誰かに言葉をかけることも。すべてが、小さなストループタスクのように、私たちの脳を揺さぶり、育てている。
だから私は今、こう考えている。高齢化が進むこの社会で、認知症を遠ざけるヒントは、日常の中にあるのではないか。決して特別なことではなく、「慣れない何か」に手を伸ばすこと──たとえば、かな入力で文章を書くこと──その行為そのものが、未来の自分を支えてくれるのかもしれない、と。