勉強の成績は、リーディングスキルに大きく左右される――そんな研究があると聞いたことがある。
たしかに、国語であれば当然のことのように思える。文章を読めなければ、設問の意図も、筆者の主張もつかめない。しかしそれは国語に限った話ではない。算数の問題でさえ、問題文を正しく読み解けなければ、どれほど計算力があっても正しい答えにはたどり着けない。
文章を正しく読み、きちんと理解すること。それは、思考の入口である。
ただし、これは「読む」ことだけの問題ではないだろう。「聞く」ことにも、まったく同じ構造がある。
会話の中で、相手はこちらを向いている。うなずいてもいる。聞く態度はある。けれど、理解は進んでいない。そんな場面は少なくない。
「書いてあるでしょ」
「さっき言ったでしょ」
私たちはついそう言ってしまうが、文字として提示されたこと、音声として伝えられたことが、そのまま相手の中に入っているとは限らない。むしろ多くの場合、情報は「入った」だけでは理解にならない。
目から入った文字情報や、耳から入った音声情報は、脳内で他の記憶や経験、感情、身体感覚と結びつきながら、ようやく意味を持つ。外から与えられた情報が、内側の資源を巻き込み、ひとつの理解として立ち上がる。その過程を経て初めて、思考として意識化される。
だから、一を聞いて十を知る人もいれば、十を聞いても一つもつかめない人もいる。
しかしそれは、単純に「頭がいい」「やる気がない」という話ではないのだと思う。視覚から意味の全体像が立ち上がりやすい人もいれば、聴覚から理解が生まれやすい人もいる。ある人には文字で示すと伝わり、別の人には声に出して説明すると伝わる。図にすると腑に落ちる人もいれば、実際に手を動かして初めて理解する人もいる。
それは人格の問題ではなく、理解が立ち上がる入口の違いである。
だからこそ、人に何かを伝えるときには、その人がどこから理解に入っていくのかを見極めることが大切になる。
実際、教師という仕事をしている人たちは、この点に驚くほど敏感だ。教室には、視覚でつかむ子、耳でつかむ子、書いて整理する子、動きながら理解する子が同時にいる。教師はその多様な特性を、日々、目の前で受け止めている。
もちろん、教師でなくても「今、通じているな」「これは通じていないな」という感覚は、多くの人が持っている。けれど、その気づきに応じて、言い方を変え、例を変え、順番を変え、時には黙って待つことができるかどうか。そこに、教師という専門性の深さがあるのだろう。
おもてなしの三要素として、「目配り」「気配り」「心配り」という言葉がある。
優れた教師の知識の伝達には、まさにこの三つが宿っているように思う。
相手がどこでつまずいているのかを見る目配り。
どう伝えれば届くのかを考える気配り。
そして、理解できない相手を責めず、その人の中で意味が立ち上がる瞬間を信じて待つ心配り。
教えるとは、ただ知識を渡すことではない。
相手の中に、理解が生まれる場所を探し当てることなのだ。




