2026年8月16日日曜日

記憶の引き出しを開ける日 — デイケアの片隅で出会った「語り部」

脳卒中の後遺症で身体障害者となり、自宅での入浴が困難になった。サバイバルな日常とともに通所リハビリ(デイケア)へ通い始めて、そろそろ5年が経つ。

利用者の大半は高齢者だ。私ももうすぐ前期高齢者の仲間入りとはいえ、そこには確かな世代のギャップがある。これまでは会話もほとんど交わさず、YouTubeを眺めて時間をやり過ごすのが日課だった。

根が好奇心旺盛なため興味がないわけではないが、下手に踏み込めば尋問のようになってしまう。かといって、相手のペースに合わせ続けるのも時に骨が折れる。認知症が進行している方も多く、機嫌を損ねれば不機嫌の波風が立つからだ。

ところが先日、いつもと違う風が吹いた。 リハビリ用のインドアバイクで、たまたま隣になったお年寄りと話す機会に恵まれたのだ。

あいにくの雨模様から始まった雑談は、地元の「水掛け祭り」の話題へ、そしてこの街の昔話へとスムーズに流れていった。私がずっと知りたかった街の記憶と、ご老人が語りたい思い出のチャンネルが、ピタリと合致した瞬間だった。

豊富な知識と体験に裏打ちされたお話は、とにかく面白い。 かつての出来事を愛おしむように語る姿から、その人生が波瀾万丈であったろうことは容易に想像できた。今は無機質なマンション群が立ち並ぶこの街も、昔は人間味あふれる表情を持っていたのだ。どんな資料を探しても載っていない、生きた歴史の引き出しがそこにあった。

けれど、ふと思う。 こうした宝物のような物語の多くは、誰にも開けられることなく、引き出しに仕舞われたまま消えていくのではないか。

YouTubeで時折目にする「自然に還る廃墟」には、かつての生活の面影がひっそりと残されている。だが、モノである遺構と人間との決定的な違いは、「自ら物語る力」を持っていることだ。

生き証人として、時代の記憶を言葉に残していくこと。それは過ぎ去った日々への名残りではなく、今を生きる人間が果たすべきひとつの「責務」なのかもしれない。

静かなデイケアの翌朝、淹れたてのコーヒーを飲みながら、そんなことを考えている。。