2026年6月26日金曜日

ワークエンゲージメントというドーピング

 ──節制なき勇敢、統制なき協働、統制なき革新の行く末。ワークス社の顛末が示す現実

「社員のエンゲージメントを高め、失敗を恐れない心理的安全性を担保すれば、イノベーションが生まれ業績は向上する」──。現代の組織開発において、これは一種の信仰にまで高められた「正論」です。

しかし、経営学や組織論の歴史を冷徹に見つめ直すと、そこには一つの不都合な真実が浮かび上がります。「従業員満足度(ES)の高さは必ずしも業績と相関しない」ということ、そして「エンゲージメントが極めて高い組織が、美しい熱狂の果てに事業再生(経営破綻)に陥るケースは決して少なくない」という現実です。

その象徴的な事例が、かつて「働きがいのある会社」ランキングの大企業部門で10年連続トップ10入りを果たし、社員が自社を盲信的に愛していたITベンダー、ワークスアプリケーションズの挫折(2019年の主力人事システム事業売却)です。

彼らの顛末は、現代のマネジメントが追い求める「ワークエンゲージメント」が、時として組織のブレーキを破壊する悪魔のドーピングになり得るという、あまりにも生々しい教訓を私たちに突きつけています。

1. 統制なき革新、節制なき勇敢 ──「全能感」という幻覚

ワークス社がかつて市場を席巻した背景には、独自の強烈な行為選好のシナジーがありました。

大企業の複雑な業務を網羅するプロダクトを「探究」し、形にするための「革新」的な選び方。そして、その理想に向かってリスクを恐れずに「勇敢」に動き出し、「即決」するスピード。これらが噛み合っている間は、組織は爆発的な成長を遂げました。

しかし、次世代システム「HUE」の開発という過酷な文脈に突入したとき、この「勇敢」と「革新」は、恐るべき過剰さへとスライドしていきました。

社内には「挑戦を称え、失敗を責めない」素晴らしいカルチャーがありました。しかし、それをコントロールする「制御」や「調整」といったエシカルな規律(ガバナンス)が完全に不選好(置き去り)にされた結果、心理的安全性は「全能感」という幻覚へ変質したのです。

  • 「ロジック」への過信: 優秀な頭脳が集まっていたがゆえに、「自分たちの美しいロジックなら、どんな高い壁もいつか必ず突破できる」と信じて疑いませんでした。

  • コスト意識の麻痺: 「最高のもの(革新)を作るためなら、時間はいくらかかってもいい」という歪んだ美学が暴走し、数千人規模のエンジニア人件費や天文学的なクラウドサーバー費用という現実の制限を無視。気がついたときには自力での事業継続が不可能なレベルまでキャッシュが枯渇していました。

真の賢慮とは、単に理想を深く探究することではありません。リソースの有限性を自覚し、時にはプロジェクトを冷酷に中止・縮小する「制御」の視点へと自らを律し、選び直せるメタ的な視点にあります。それを持たない勇敢さは、ただの「無謀」でしかありませんでした。

2. 統制なき協働 ── 高すぎるエンゲージメントが招く「集団思考」の罠

同社の「働きがい」のスコアを高めていたもう一つの要因は、社員同士の強い結束、すなわち「協働」と「参画」の熱狂でした。お互いをリスペクトし、世界を変えるというビジョンに共感し合うチームワークは完璧に見えました。

しかし、組織を外側から冷徹に縛る統制を欠いた「高すぎるエンゲージメント」は、組織心理学でいう「集団思考(グループシンク)」という致命的な副作用を生み出しました。

  • 身内へのNO(Veto)の麻痺: お互いを尊重し、ビジョンに熱狂している空間では、「このスケジュールは絶対に間に合わない」「今のコスト構造は異常だ」という不都合な真実を口にすることが極めて難しくなります。「心地よい関係性を壊したくない」「熱狂に水を差したくない」という無意識の同調圧力が働き、身内に対する健全な批判精神が完全に麻痺してしまったのです。

  • サンクコストへの執着: 「これだけ素晴らしい仲間と、これだけの熱量を注いできたのだから、諦めるわけにはいかない」という美しい物語が、過去の失敗投資への執着を肯定し、泥沼の協働をさらに加速させました。

彼らはサボっていたわけでも、能力が低かったわけでもありません。会社や仲間への強い愛(エンゲージメント)というドーピングが、ビジネスパーソンとして立ち止まるべき「微かな違和感」をすべてかき消してしまったのです。

3. 現実への着地:切り離された事業のV字回復が示すもの

この「エンゲージメント神話の破綻」を何よりも残酷に証明したのが、その後の歴史です。

2019年にワークス社から切り離され、投資ファンド(ベインキャピタル)の手に渡った主力人事システム事業(現:Works Human Intelligence)は、その後劇的なV字回復を遂げました。

ファンドが行ったのは、人格の改造でも、エンゲージメントを高める新しいお祭りでもありません。

膨らみ続けた過剰な開発投資をバッサリと切り離し、進捗やコストを数字で徹底的に可視化・管理する「厳格なガバナンス(制御・調整)」という冷徹な外付けのブレーキを仕組みとして導入したことでした。

旧ワークス社が持っていた「優れたプロダクトの原石」と「優秀な人材」という強みを活かしながらも、それを「冷徹な仕組みとしての規律」という枠組みで囲った瞬間、組織は再び健全な高収益体質へと生まれ変わったのです。「強い会社(持続可能な利益基盤)」なきところに、「良い会社(働きがい)」は持続しないという、ビジネスにおける最も冷徹な現実がここにあります。

結び:関わり方、判断、仕事の進め方を変えるために

私たちは、固定された性格や絶対的な正義だけで動いているわけではありません。その時々の環境、人間関係、そして文脈の中で、無意識に「選び方(行為選好)」を立ち上げています。

「勇敢に突き進むこと」や「仲間と手を取り合うこと」は間違いなく美しい行為です。しかし、それらが過剰になり、枠組みを守る「制御」や現実的な「調整」という選択肢が視界から完全に消え去ったとき、どんな優秀な集団であっても破滅の物語へと足を踏み入れます。

個人の善意や、会社への愛だけに頼った自己統制には限界があります。

現代の答えのない選択を迫られるビジネスの戦場において、組織を本当に持続可能にするのは、熱狂に溺れそうな瞬間に「いま、自分たちの選び方はどこに偏っているのか」を一歩引いて客観的に映し出す、静かな問いの余白です。その自覚の積み重ねこそが、美しい暴走を未然に防ぎ、個人と組織の物語を本当に不確実な未来へと前へ進めるための、唯一のコンパスなのです。