糸井重里さんのほぼ日刊イトイ新聞では、
「今日のダーリン」という糸井さんのエッセイコーナーがあります。
そこに今日(7月8日)載っていたのが以下のような文章です。
偶然に満ちた世界で生きるための身のこなし(←これはは糸井さんのツイッターから)
サイコロを振る。これが「でたらめ」のシンボルだ。どんな目がでても、なにかできるようになればいいのだ。意味だとか、因果関係だとかいくら考えても、ほんとうはどうだかわからないことだらけだ。だったら、「でたらめ」と抱き合ってしまえ。「でたらめ」を泳いでしまえと、遠慮がちにぼくは思う。いちばん必要なのは、おそらく「身のこなし」だ。よける、ふせる、逃げる、向かっていくというような。
ほぼ日刊イトイ新聞7月8日「今日のダーリン」より抜粋
これは、昔「乱数のプレゼント」を目の当たりにし、記憶に刻まれた糸井さんが「でたらめ」を考えたエッセイです。
ポイントは、私たちが「でたらめ」を作ることは難しい、自然の中には「でたらめ」が溢れている、「でたらめ」の中で生きるには「身のこなし」が必要である、の3つであるようです。
さすが糸井さんだけあって、むずかしいことですがわかりやすく伝わります。また、「乱数のプレゼント」を”発見(気づく)”する力もさすがだと思いました。
糸井さんのように「気づく人」にはどうしたら成れるのでしょうか。
脳科学者の茂木健一郎さんは脳は「偶有性」を使って身の回りの不確実性に適応していると説明していますが、糸井さんの指摘にある「身のこなし」を私たちは無意識に執り行っています。
「無意識」は、複雑な環境でなめらかに生存するためのキーワードですが、そこに違和感(気づき)を持つ視座の正体が気になります。
例えば、自然の中にある「でたらめ」には「素数」という不思議な存在があります。
「素数」は自然数で、正の約数が 1 と自分自身のみであるもののこと(WIkipediaより)です。
この「素数」は様々な自然現象の中で確認されるのですが、なぜ、このような数字があるのかわかっていません。
「素数」と自然界の関係に関する発見は知識と観察から生まれるのですが、その際のひらめきも、実は脳の「偶有性」から生まれていると言えます。
となると、冒頭の糸井さんの「身のこなし」も「身のこなしに気づくこと」も無意識の「偶有性」によって実現していることになります。
「身のこなしに気づくこと」はメタ認知(再帰)であり、「鏡に映っている鏡を見る」ようなこと、もしくは幽体離脱して自分を客観視しているようなものです。
さて、右脳の角回という部位が体外離脱体験を引き起こすそうです。
少し話が飛躍するかもしれませんが、私はこれが第六感の正体ではないかと考えています。
そして、無意識のことを無意識に意識化する感性と物事の観察眼、それが「気づき」の姿なのかもしれないと思うに至るのです。
よく気づく人=第六感が発達している人 であり糸井重里さんになる方法を結論的に言えば、
・第六感を磨き鍛えること
・日常をよく観察すること
・+上手な文章表現力を身につけること
となりました。
でたらめを泳ぐ身のこなしは素敵なかたちになる