2021年3月31日水曜日

「狼が来た!」でも「狼なんか怖くない」正常性バイアスと社会の未来

 今日、世の中は年度末。

明日から新年度が始まる。

官公庁、学校、そして日本の企業は色々と忙しくなる日だね。

その一方で、新型コロナウイルスの感染がまた増加してきた。

リバウンド、と言われるけど僕としてはその言い方に違和感がある。

緊急事態宣言の反動というより認知バイアスのひとつ、正常性バイアスの問題に思えるからだ。

「このくらい普通だよね。」と心理的な安定を得て「経済回さなくちゃ。」「卒業パーティでしょ。」「送別会でしょ。」と自制心を失う人が少なくないのかもしれない。

確かにどこまでが普通なのか、その絶対的な尺度は存在しない。

本来、ガイドラインは尺度の役割を果たすものだけど尺度の信頼性に対しても正常性バイアスがあるので、結局、尺度の役割を果たせなくなる。

正常性バイアスは僕たちの認知全てに潜んでいる。

狼が来た、と何回も行っていると誰も信じなくなって悲劇が待っている、その教訓を僕たちは小さい頃に物語として聞いているのだけど、その教訓すらも「普通」なことになってしまうのだろうか。


だいじょうぶ〜


2021年3月30日火曜日

歴史と物語の違い

 今日は歴史と物語の違いを考えてみよう。

すごくシンプルに表現すれば歴史はノンフィクション、物語はフィクションだろう。

歴史は誰の目からも同じだけど、物語は受け取る人によって異なってくる。

歴史は「何があったか」で、物語は「何を感じるか」だ。

歴史は基本的に変わらないけど、物語はその時々によって意味がかわる。

歴史を物語ることはできるけど、物語を歴史にするときそこには多くの人々の想いが込められる。

歴史は僕たちに過去の事実を見つめる力を与え、物語は僕たちに他者の目線を考える力を与える。

そして歴史は気負わずに背負うものであり、物語は心に留めて生きる糧とするもの、かもしれない。


生きる糧



2021年3月29日月曜日

思い通りにならなくても尊重しよう

 僕は今宵、「事情」と「思考」を切り離したいと思うのだけどなかなかそうもいかない。

そんな中で今日は発達障害を考える。

ネットにこんなページがあった。

あなたの低コミュ力は、「大人の発達障害」のせいかもしれない

これは、発達障害の人が感じる思考のうち、職場でよくある例を示したものです。こうした感情や言動を周囲の人はどう見ているのでしょうか?

  • 一方的に自分の言いたいことだけ話して、しかも延々と話しだして止まらない
  • 女性に「太ってるから、その服は似合わないよ」などと、言わなくてもよいことを平気で言う
  • 上司が話しているのに、関係ない話題を突然発言する
  • 物の置き場所など、いったん決めたことを変えると、ひどく怒る
  • 人には1分の遅れも許さないのに、自分はしょっちゅう遅刻する
  • どこを見ているのかわからない視線で無表情に話したり、見下したような話し方をしたりする

このような自分の感情と周囲の見方の行き違いのひとつやふたつは、誰しも経験することです。性格や個性の違いから起こる問題の範疇ともいえましょう。

しかし、複数当てはまった方の中で、こうした問題が頻発し、悩みが深刻である場合、それは、あなたがいい加減なのではなく、発達障害のせいなのかもしれません。

文末は「かもしれません」なので断定はしていない。

なので、すべて「かもしれません」なのだけど、あてはまる人は決して少なくない、というのが僕の実感だ。

さて、性格や個性といった、人格であればそれを目的としなくてはならない。(カント)

つまり尊重すべき、だ。

一方、発達障害だとしたらどうなのだろうか。

はやり偏見を排して尊重すべき、である。

で、ね。いずれであっても、尊重はするけど受け入れ協働することは容易くない「かもしれない」よね。


尊重します




2021年3月28日日曜日

揺れ動く「思考」と「事情」

 先週の僕のブログを読み返すとそこには「事情」が潜んでいる。

個人的な「事情」であり、それが何であるかは触れないけど「思考」には常に「事情」が潜むものなのかもしれない。

一方、ポアンカレ予測を証明したペルリマン博士は数学者のノーベル賞である4年に1度のフィールズ賞を辞退するほど「思考」が「事情」を変えてしまったのだろう。

つまり「事情」⇒「思考」であるだけでなく、「思考」⇒「事情」でもある。

「事情」⇔「思考」ということだね。

要するに、どっちもあることだから、僕たちの「思考」も「事情」も信じているほど一貫していないってことだ。


(月)さようなら 全てのエヴァンゲリオン
庵野さんは声優に「25年分のさようならを詰めてくれれば」と伝えていた。

(火)経験を相対化することによって開ける良い社会
だからこそ、僕たちは経験を自由意志によって相対化する自律性を身につけなくてはならない。

(水)さようならヒューマニティ、こんにちはテクノロジーではいけない
僕が思うのは、僕たちはヒューマニティとテクノロジーが両立する社会を考えていかなくてはならないということである。

(木)AIに倫理を与えないもの
技術先行で原子力爆弾みたいなことにならなければよいのだけどね・・・。

(金)統計学よりも料理学の方が最強なのかもしれない
「データを料理する」という言い方があるように、データを扱う際には目的、材料、方法、手順、コツが肝要なのだ。

(土)上書き可能な経験と学習
なぜならば未来は限られた選択肢でなく無限の可能性ということになるのだからね。


煮詰まる


2021年3月27日土曜日

上書き可能な経験と学習

 新しいことを色々と考えることは楽しい。

一方、過去のしがらみには大概、四苦八苦するものだ。

理由は簡単で、未来は変えられるけど過去は変えられないからだ。

変えられないことに思い悩んでも解決はつかないから、四苦八苦する。

ただ、過去の経験であってもそこから学ぶことができれば解決することができる。

出来事は変えられなくても、経験と学習は上書きできるのだ。

そのことを知っていれば未来の敷居もうんと下がる。

なぜならば未来は限られた選択肢でなく無限の可能性ということになるのだからね。


どこにも行ける


2021年3月26日金曜日

統計学よりも料理学の方が最強なのかもしれない

 「統計学が最強の学問である」という本が一時、話題になった。

GAFAが経済を席巻し、データ量が日々、膨大に蓄積されるなかでそのデータを経営資源にすることが出来れば将来的な価値の増加は計り知れない。

そして統計学はデータを扱う学問だから最強だ、と言いたくなるのもわかるよね。

一方、僕が思うに、世の中の研究者はデータ集めに苦心しているのではないだろうか。

天文学ではデータを集めるためにロケットを打ち上げてとてつもない費用をかける。

データは目的に合わせて作るものだから、ありものでよし、ということにはならないのである。

冷蔵庫の残り物で美味しい料理を作るのとは違う。

今回、新型コロナウイルスでスマホの位置情報が役に立っているように結果としてデータが役立つこともあるけれど、調査目的が詳細になるほど、つまり作りたい料理が専門的になるほど、必要な食材が特定されるのだ。

ただ、どんな料理にも使われるもの、例えばオイルとか塩とかスパイスなどの調味料がある。

また、米とかパンとか主食もそうだよね。

同じように常備すべきデータは間違いなくある。

「データを料理する」という言い方があるように、データを扱う際には目的、材料、方法、手順、コツが肝要なのだ。


本文とは関係ないなぁ



2021年3月25日木曜日

AIに倫理を与えないもの

 AIを使って社会的な合意形成を支援する。

そんな取り組みがある。

AI、とした瞬間に、世の中的には人に勝る知的なテクノロジーをイメージしているように思うけど、AIは意味を理解していないことを思い出すべきだろう。

だって、中身は数式だからね。

つまり、冒頭の一文を言い換えると、意味を理解せず合意形成を支援する、ということだ。

怖い話ではないだろうか。

AIが徹底的に中立であれば良いけど、実際は、データに基づいて学習を行い、人間には認知できないアルゴリズムを構築するテクノロジーだから、なにを学習したのかによってアルゴリズムは大きく変わってくる。

しかし、僕が聞いている限り、AIで何が出来るか(出来たか)という話ばかりで何を学習させたかという説明を聞いたことがない。

あと聞くのは、AIのアルゴリズムは人には理解できないものなのだ、という結果に対する言い訳だ。

大手先進企業で採用選考を学習させたら偏見(バイアス)が学習されてしまって結局使い物にならなかった、という話は有名だけど認知出来ないアルゴリズムよりも学習データの詳細が隠されている方が僕は問題だなのと思う。

さて、冒頭のAIを使って合意形成をする取り組みだけど、合意形成のファシリテートにもしバイアスが掛かっていたらどうなるのだろうか。

人の悪意を見抜くことのできないAIに倫理の芽生えはありえない。

一方で、まだまだ技術は発展途上だと言え、すでに社会実験として実社会に適用され始めている。

技術先行で原子力爆弾みたいなことにならなければよいのだけどね・・・。


学び跳ぶ



2021年3月24日水曜日

さようならヒューマニティ、こんにちはテクノロジーではいけない

家人が昔からご縁のある飲食店が移転のため、今月末で閉店を迎えるらしい。

閉店にあたって長年、そのお店で働いていた人も辞めることになるのだそうだ。

きっと移転先では今までと異なる新しいお店を作っていくのだろう。

食べ物を提供することに変わりはないけど、提供の仕方は時代とともに変わる。

これは飲食店に限ったことじゃない。

僕が小さかったころ、毎朝千葉からおばさんが野菜をたくさん背負って行商にきて家々を訪問していた。

採れたての産直を家まで運んで選ばせてくれる。

考えたらすごいサービスだよね。

そしていま、家の近くのスーパーではキャベツや大根を半分にして売っている。

すでに千切りにしたものもあるし、長芋もすりおろしたパックが売られている。

使ってみるとやはり便利だ。

キャベツは1個88円、半分が78円、おそらく葉っぱ2枚分くらいの千切りが68円である。

そこに行商のおばさんというヒューマニティは存在しないけど、テクノロジーによってシステマチックに運ばれてくる用途ごとに最適化されたキャベツがある。

確かに、最適化されたキャベツは効率的に使えて便利なのだけど、「おばさん、この前のキャベツは美味かったよ」なんて会話は望むべくもない。

システムの一部になっているスーパーの店員は品出しで商品を手に取れない客に見向きもしてくれない。


冒頭のお店、きっと長年通ったお客さんはなじみの店員さんが居なくなると寂しいし味気なくなるだろうね。

僕が思うのは、僕たちはヒューマニティとテクノロジーが両立する社会を考えていかなくてはならないということである。


僕たちにとっての最適とは



2021年3月23日火曜日

経験を相対化することによって開ける良い社会

 決定論的に言えば、僕たちの人生における時間は決まっていて変えることができない。

もちろん、どれだけの時間があるのかは人それぞれだし、前もって知ることはできない。

ただ、時間の流れに乗っているのは僕たちだけでなく僕たちを取り巻くもの、全てだ。

要するに一方向に流れる時間を変えることはできない。

すくなくとも現代においてはね。

だから僕たちの時間とともに僕たちの周りの時間も流れ、状況は刻一刻と変化する。

さて、僕たちは時間に沿って自己ならびに外部の認知を行っているのだとすれば、僕たちがある瞬間に得られる情報量×時間が、情報の総量ということになるのだろう。

情報感度の個人差を無視すれば、一定時間における情報の総量は誰もが平等になるはずだ。

同じ日、同じ時間に生まれ、同じ日、同じ時間に死ぬ場合、エクセルで計算すれば総時間数は等しくなる。

しかし、経験において誰もが平等だと考える人は居ないだろう。

情報量と経験はイコールじゃないからね。

経験は、主観的認知と外部観察による記述可能な出来事だけど、特別な出来事として、その他の情報と区別されている。

ではそこに明確な基準があるのかと言えばそうでもない。

ある時は普通の、でもある時は特別な出来事、ということも少なくないよね。

裏を返せば、経験は絶対的なものでなく、僕たちの自由意志によって相対化できるものだ。

つまり僕たちがなすべきことを定めて行動すれば普通の出来事も特別な出来事になるし、差別や搾取、抑圧などの社会的に他者の人間性を手段化し意志を奪う悪の力が働かなければ、それを自由に決めることができるのである。

だからこそ、僕たちは経験を自由意志によって相対化する自律性を身につけなくてはならない。


良い社会をなす経験


2021年3月22日月曜日

さようなら 全てのエヴァンゲリオン

 エヴァンゲリオン劇場版の完結編が先日公開された。

それに合わせて今日のNHK「プロフェッショナル」で庵野秀明スペシャルが放送された。

完結編の制作現場ドキュメンタリーだけど、命を掛けて制作に取り組む庵野さん、そして制作チームメンバーの姿勢は筆舌に尽くしがたい。

さて、自分の納得する表現に拘りぬく庵野さんはこれまでエヴァンゲリオンを最後まで描き切れてこなかったそうだ。

そして今回は作り上げることを最優先にした。

それは、25年分のエヴァンゲリオンを全て終わらせることへの執念でもある。

主役の最後の言葉は「さようなら 全てのエヴァンゲリオン」。

庵野さんは声優に「25年分のさようならを詰めてくれれば」と伝えていた。


25年分詰めて


2021年3月21日日曜日

僕たちの感情は内側にあるのか外側にあるのか

 僕は今日の午後、感情コミュニケーション研究会のシンポジウムに参加した。

録画、スクショ禁止なのでそうなればもう、グラフィックレコーディングだよね。

で、スケッチブックを開いて久しぶりに書き始めたのだけど、最初は、話についていけず大いに焦った。

しかし、グラフィックレコーディングは速記録や議事録ではないことを思い出し、落ち着くことができた。

そして似顔絵や印象を絵に書きながら3時間じっくりと話を聞いた。

今回のシンポジウムは研究会のキックオフだったのだけど、報告された研究は身近なことにも引き当てることが出来て面白かった。

さて報告された3つの研究は、他者がいることで僕たちの感情にはどんな変化がうまれるのかを実験を通じて実証を行い仮説を構築するものである。

僕たちの身体は他者の体験に呼応して感じるのにそのことに気づいてないこと、一方で、直視されると自分の心拍が変化(内受容感覚)していると感じるのに身体には変化がないこと、大人は赤ちゃんの感情をどう感じて応答しているのかなどなど、しっかりとした研究から導かれた結果は現実に照らし合わせても納得できるものだったよね。

シンポジウムのまとめで提示された論点は、閉じた系(他者ー身体ー主観)のゆらぎ、自己知覚のレイヤー、第三の軸の可能性、の3つだったけど、「自分である」とは何なのかを考えさせられるものだった。

もちろん、研究結果にはいずれも個体差があって、現実の複雑さに戻すことを忘れてはならないだろう。


修業し直します


下手は気にしない


2021年3月20日土曜日

個人情報の意味ってなんだろう

 僕はLINEをほとんど使っていない。

LINEはかつて韓国の会社が展開しているサービスだったからね。

まあ、色々なSNSに登録している以上、僕の個人情報はいつ、どこで漏れてもおかしくないのだからそんなに神経質に考えなくてもよいのだろうけど闘争的関係性が強い相手国のサービスを使うのはあまり気持ちが良くない。

同様にTikTokも電話番号は登録しない。

しかし、今回、LINEのデータを中国の技術者が自由に触れる状態にあったというニュースには驚いたね。

顔の映像で国民個人を特定して監視、管理している国のやることだから、触れる=触っていると思っていた方がよいように思う。

さて、こうした情報技術の濫用によって僕たちの社会は簡単に変わってしまう。

もちろん便利で快適になるだけじゃない。

悪意があれば僕たちは本当の自由を失う。

しかもその実感無く。

僕たちが自分でなすべきことを定めたと思っていても実は誰かによって定められていることは少なくない。

特に日本は同調圧力が強いと言われるから、誰かによって定められることに鈍感だろうし。

でも誰かが僕の個人情報を見て、僕のことを正しく理解するだけでなく、僕の意志を操られるとしたら嫌だな。

そして、気づくことは、「自らの人格と他者の人格にある人間性を目的として扱え いかなる場合も手段としてはならない」というカントの言葉だ。

結局、問題は個人情報ではなく、他者の人間性を手段として扱うことで、それが国家であっても、サービス会社であっても、会社の人事部であっても、友人であっても違いはないのだよね。


人間性は目的


2021年3月19日金曜日

生きる意味を知るために、それでもあなたの道を行け

すべてのものが、あなたのために用意されている。

あたなの道は、前方にまっすぐ伸びている。

ときどき見えないこともあるが、それでも道はそこにある。

道がどこへ続いてうるのか、あなたは知らないかもしれないが、

どうしてもその道をたどっていかなければならない。

それは創造神への道であり、

あなたの前に伸びているのは、一本のその道だけなのだ。

レオン・シェナンドア首長(オノンダーガ族)1990年

それでもあなたの道を行け(ジョセフ・ブルチャック編 中沢新一+石川雄午訳)より


自らの運命に近づいていることを感じ生きる意味を知る、とは、そういうことなのかもしれない。


あなたの道



2021年3月18日木曜日

パーソナリティは天動説?

 僕は小さいことに、コペルニクスの地動説を教わった。

動いているのは「天」ではなく「地」である、という考え方だね。

その後の科学によって、地動説は常識になったけど、じっと立って太陽や月や星が空を駆ける様子を見ていたら動いているのは「天」だよね。

さて、小説とは他者の目を通して世界を観ることなのだそうだ。

確かに、登場人物になって物語りを観ているとき、僕たちは他者の目になっている。

一方、僕たちが観ているの自分の目に映る世界だ。

実は僕たちの脳には自己客観視を可能にする能力があって、その部位に刺激を加えると幽体離脱を体験できるらしい。

また、僕たちには鏡像認識という鏡に映った自分を認識する能力もある。

そういった能力を使って僕たちは自分自身を他者のまなざしでみつめることが出来るのだけど残念ながらその能力は発動しないと発揮されにくいようだね。

だからどうしても、自分を世界の中心に置いてしまう。

その際、そもそも人格の客体化であるはずのパーソナリティは、固定化された主観、すなわち天動説として語られる。

らしさでなく決めつけ、傾向性でなく特異性としてね。



地動説


2021年3月17日水曜日

人生の目的って何だろう

 僕たちには自由意志があって自分の未来に関わることができる。

一方で、僕たちにはどうすることも出来ない現実もあって、決定論的に未来が決まっていると感じることも少なくない。

自由意志であっても決定論であっても僕たちは自分の人生と向き合って生まれ、生きて、死ぬ。

生まれて死ぬことは誰もが決定されているのだけど、どのように生きるか、なぜ生きるか、その生き様は、日常の些細な決断によって大きく変わってくるのだよね。

では、どんな決断があるのかといえば、僕は大きく2つの決断があると思う。

1つは自然との向き合い方だ。

僕たちは生まれて死ぬ存在であるということは自然だし、秩序があるものは秩序がない方向にしか動かないことも自然だ。

もう1つは思考だ。

感じることも思考である、と大胆に考えれば思考には自然に束縛されない自律性がある。

さて、僕は人は人生の目的を意識しようとしまいと、目的に向かってこの2つの決断を行っているのだと考えている。

目的を意識できれば自信を持って決断できるけど、目的の自覚が無い場合、決断には常に疑問や不安が伴って葛藤する日々を送るのではないだろうか。

先日、将棋の藤井聡太八段が高校を中退したというニュースが流れていた。

藤井八段は人生の目的が明らかなので学校教育という社会的秩序に束縛されない自律的な決断をすることが出来たのだろう。

一方、学校教育に馴染めず高校を中退する人の中にはそれをひけ目に感じてしまう人も少なくないかもしれない。

しかしその葛藤を乗り越えた先には藤井八段と同様、人生の目的に近づく実感が得られるのだろう。


ささやかなこの人生



2021年3月16日火曜日

Tiny Toria Tearoom のキャロットケーキ

 僕の住まいの近くにTiny Toriaというティールームがある。

イギリスに留学していた法政大学の長岡教授からクロテッドクリームをつける本場のスコーンが食べられると教えてもらったお店だ。

かつては女性の店主が一人でやっている非常に小さなお店だったのだけど、その後、近くに広い店を構え、店員さんも数人雇う繁盛店である。

最近は新型コロナウイルスの影響でイートインが出来なくなっているけど、それまでは店内はいつも女性がいっぱいだった。

一方、今はテイクアウトを充実させて僕一人でも立ち寄りやすくなったので、先日、ホワイトデーのクッキー類とキャロットケーキをTiny Toriaで買った。

店内に入り忙しそうな店員さんと、パソコンを開いて熱心に仕事をする店主の様子を見てなんだかちょっとホッとした気分になった。


ところで僕はケーキは嫌いじゃないけど、記憶に残っているケーキはそれほど多くない。

中には酷くて記憶に焼き付いているものもあるけど、すぐに思いつく美味しいケーキはこれまで2つだ。

1つは上目黒にあるヨハンのチーズケーキだ。

社会人に成りたての頃、職場の近くにあって食べることができたのだけど、これがチーズケーキなのか、と感動した。

もう1つは市ヶ谷にあったCafe Katyのアップルパイである。

法政大学長岡教授と慶應義塾大学加藤教授が開催していた「自画持参」が行われていたカフェでアップルパイはずっと月一回の楽しみだった。

さて、Tiny Toriaのキャロットケーキは2つのケーキに通じるものがある。

はてさて、なぜだろうかと考えてみたのだけど、どうやらその3つのケーキにはホームメード感が共通してあることに気づいた。

「やさしさ」や「素朴さ」が伝わってきてほっとするのだ。

僕がなぜそう感じるのか、残念ながら自分でもよくわからない。

これまでも他のケーキを食べて美味しいと感じたことは何度もあるけど何かが違うのだ。

ひょっとしたら、僕が感じているのは、味覚や視覚だけでなく、ケーキを作る人の物語りなのかもしれないね。


キャロットケーキ!




2021年3月15日月曜日

2011年3月15日という日

 今年で東日本大震災から10年経った。

10年経っても3月11日は特別な思いをもって迎える日だ。

でも、僕にとっては3月15日も強く印象に残っている。

当時僕は会社の社長にあり、3月11日、会社の入っていたビルは余震でもちょっと危うかったし東京は建物倒壊などの被害が出ていないようだったので社員を徒歩で帰宅させた。

金曜日だったということもある。

土日挟んで月曜日はホワイトデーの3月14日。

もちろんそれでこではなかったけど、仕事もあり交通機関も復旧していたので営業を再開した。

そして、翌日が3月15日である。

その日、僕たちは一日仕事をしていたのだけど、取引先の大手企業は午後、早々に社員を帰宅させていたらしい。

後で聞いた話では、その企業には経団連から、東京に午後、濃度の高い放射能が降ると連絡があったのだそうだ。

もちろん、経団連とは関係がない零細企業にその情報はこない。

入ってくるのはツイッターで拡散されたデマ情報ばかりだ。

ひょっとしたらその中に放射能の情報もあったのかもしれないけど、もはや見分けはつかない。

少なくとも正規のニュースで事前に見かけることは無かったね。

その出来事以来、僕の3月15日は情報格差教訓の日になった。

さて、10年経って社会の情報格差はどうなったのだろうか。

今回の新型コロナウイルスに関して、僕たちは平等に正しい情報を入手できているのだろうか。


右見て左見て


2021年3月14日日曜日

となりに人が居ても平気でおならができる人

 哲学者マルクス・ガブリエルによれば、社会の複雑性は相手が自分に対して抱くイメージへの調整から生まれるそうだ。

抱かれるイメージに僕たちは決して満足できないとのこと。

たしかにそうだよね。

でも直接的、間接的に僕たちはイメージを調整し合っている。

たしかに、なんて複雑なことを僕たちはしているのだろうか。

かつて、会社でメンタルになる人とならない人の違いを分析したことがあるけど、結果は他責で自己中心的な人ほどメンタルにならない、というものだった。

身も蓋もない結果だけど、分析結果は正しいと思えた。

実感としてもそうで、隣に人が居てもトイレで用を足しながらおならをしたり、他人が読めない板書を平気でするような、人からどう見られているか気にしない人ほどメンタルには縁遠い。

ある意味、社会の複雑性から逃れられる本人だけは幸せな人なのだろう。

そう考えると僕はブログを書いていて、やはり、社会の複雑性とその心地悪さに囚われているのだなぁと再認識しほっとする次第である。

(月)一度きりの人生という経験
で、ね。僕たちが、人生という経験の意味を問うのであれば、それは瞬間における経験の意味を問うことでもあるのだよね。

(火)人材の良さという様なもの
で、ね。それが意味するのは、経営者が人の良い部分を見ることができれば、それが「良い人材がいる」ということなんだよね。

(水)問いはどこから生まれてくる
で、ね。聞かれた側で自分はどうしたいのか、相手はどう受け止めるのか、質問をしたらどうなるのか、が巡ってしまっているとすれば、漠然とした「質問はありますか?」はみんなの頭を悪くする愚問だと思うよね。

(木)江戸AIの核心はテーラーメイド?
で、ね。AIに関わる「フレーム問題」(AIは枠組みを越えられない)も登場していたけど、個人への教育の最適化って学習者を資源化しているようで個人的にすごく違和感を感じたね。

(金)本物の綾瀬はるかさんを間近に見た日
で、ね。こんな経験もそのうち忘れてしまうのだろうけどCMや映画で綾瀬はるかさんを見かけたとき、目の前にいた姿を思い出すことが出来たらそれは幸せな記憶だね。

(土)個人情報は誰のためにあるのだろうか
僕はずっとここに居るのにね。



僕の抱くイメージと闘う猫



2021年3月13日土曜日

個人情報は誰のためにあるのだろうか

誰でも一年に一度、生まれた日がやってくる。

現在、その日は本人確認に使われているので重要な個人情報だ。

それにも関わらず、サービスによってはメッセージを送ってくるものがある。

よく考えれば個人情報ダダ洩れ状態だよね。

さて、過日、僕は生まれた時間が知りたくなって出生した病院に電話した。

非常に丁寧に応対してくれたのだけど、さすがに50年以上前の古いカルテは残っていないそうだ。

親はすでに亡くなっているし、母子手帳も見つからない。

僕の大切な個人情報は消失してしまったのだ。

実は、それ以外にも、健康診断の結果含た健康情報、学校や勉強、成績などの情報、その他僕に関する情報の多くが消失している。

消失した理由は、その多くが僕を取り巻く人々が作ったり使ったりして用が無くなったからだろう。

そこで思うのは個人情報は結局、誰のためにあるのか、ということである。

僕が僕であることの情報は、僕でない人のために使われ忘れられていく。

僕はずっとここに居るのにね。


ここに居る



2021年3月12日金曜日

本物の綾瀬はるかさんを間近に見た日

 僕は今日の昼前、銀行に行く用事があって外出した。

銀行ATMコーナーの前には何か人が群れていていつもと様子が違ったのだけど、ふとその中に女優の綾瀬はるかさんが居ることに気づいた。

ゴルフの時につかう大きな日よけの傘をさして段取りを確認している様子で、周囲の人より背も高く目立つのだけど、ピリピリもせず場に馴染んだ感じである。

むしろ周囲の方がピリピリしていて、スタッフの女性はスマホだけ手に持っていた僕をみて写真を撮らせないよう圧をかけようとしていた。

もちろん、僕は銀行に行くので写真が撮りたいわけではないからスルーである。(2ショットを撮らせて頂けると誘われたら別だけどね)

さて、本物の綾瀬はるかさんは僕が好きな「海街ダイアリー」という映画の中よりも3倍は素敵だったなぁ。

見かけたのはほんの瞬間だけどだれからも好かれる理由がわかった気がしたよ。

で、ね。こんな経験もそのうち忘れてしまうのだろうけどCMや映画で綾瀬はるかさんを見かけたとき、目の前にいた姿を思い出すことが出来たらそれは幸せな記憶だね。


そよいち風ポークソテー




2021年3月11日木曜日

江戸AIの核心はテーラーメイド?

 僕は学校教育の世界にあまり詳しくない。

そのせいか、はじめでエドテックと聞いたとき、エドがEducationを指しているとは思わず江戸?と考えてしまった。

さて、先日、戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)の学習支援に関するシンポジウムを聞いてみた。

その中ではEdu AIがキーワードの1つだった。

もちろん江戸のAIではない。

AIの技術で教育効果を高めることだと思うけど、言い換えるとテーラーメイド、アダプティブラーニング、個別習熟度別学習の実現にAIを使うというものだった。

学習者個人の状態に最適化した教育を行うことは、シンポジウム登壇者共通の目標であるようにも感じられた。

裏を返せば個別に最適化した教育は難しいということなのだろう。

現状の教育ではAIに投入できるデータも無いし十把一絡げだという意見も出た。

で、ね。AIに関わる「フレーム問題」(AIは枠組みを越えられない)も登場していたけど、個人への教育の最適化って学習者を資源化しているようで個人的にすごく違和感を感じたね。


てーらーめいどぉ~


2021年3月10日水曜日

問いはどこから生まれてくる

 愚問は頭を悪くする

これは教育者、大村はまさんの名言だ。

問いには良い問いだけでなく、愚かな問いもあるのだ。

そして、愚かな問いで頭が悪くなる。

なんと恐ろしい、魔法なのだろうか。

くわばら、くわばら。

さて、僕たちは誰かに教わることなく、問う力を持っている。

なぜ?とか、どうすれば?などと考え、そして理由や解決法に思いを馳せるのだ。

でも、この問う力、人間の知性にだけ宿っているものでもなさそうだ。

例えば僕の犬はおやつが欲しくなると呼び出しベルを鳴らす。

元は、僕がベルを鳴らせばおやつをあげるトレーニングをしたのだけど、犬はベルを鳴らせばおやつがもらえるかもしれないと学習したのだ。

そして、どうすればおやつがもらえるのだろうかと問いをおこしてベルを鳴らす行動をするのだろう。

もちろん、人間の思考とはまったく異なる問いと答えなのだろうけど、おやつをもらうために吠え続けるよりずっと良い答えを導いていることは驚きだ。

ここからはまったくの推察になるのだけど、犬は、おやつが欲しいという気持ち、どうすれば相手に伝わるのかという相手目線、ベルを鳴らすとどうなるのかという認知的行為、この3つを組み合わせて問いをおこしているのかもしれない。

抽象化すると、「自身」「相手」「関与」だ。

問いが生まれるのは自分の内にある「場」だけど、それは自分が在る「場所」の投影されたものなのだろうね。


ところでね、会議の進行役が「質問はありますか?」と問い、シーンと静まりかえってしまうことがある。

で、ね。聞かれた側で自分はどうしたいのか、相手はどう受け止めるのか、質問をしたらどうなるのか、が巡ってしまっているとすれば、漠然とした「質問はありますか?」はみんなの頭を悪くする愚問だと思うよね。


ちーん



2021年3月9日火曜日

人材の良さという様なもの

 僕は昨日、ブログの更新をフェイスブックに書き込んだ際、小林秀雄さんの

”美しい花がある。花の美しさという様なものはない”

という一文を引用し、花を人生に置き換えて考えるとした。

さて、この一文は他にも用いることができそうだ。

例えば、

”良い人材がいる。人材の良さという様なものはない”

とするとどうだろうか。

良い人材を採用、登用したいとほぼ全ての企業経営者は考えているだろう。

そこで、あれこれ人材にもとめる条件を考える。

行動力がある、とか頭がキレる、とか交渉が上手い、とか英語が堪能、とかね。

でも実際は、そういった条件だけを人から取り出すことは不可能だ。

人とは人そのものであって、要素や能力に分解することはできないからね。

僕がリアルに聞いた話で、高度成長期にある会社の社長が、社員は手と足だけもってきて頭は家に置いて来ればよい、と言ったそうだけど、そんなことは出来ない。

だから結局は、取り出した条件をまた実在する人に戻すことが大切なのだ。

で、ね。それが意味するのは、経営者が人の良い部分を見ることができれば、それが「良い人材がいる」ということなんだよね。


美しい花と人材


2021年3月8日月曜日

一度きりの人生という経験

僕たちの社会には様々な偏見や差別、格差が存在している。

平等や公平、公正は倫理であるだけでなく願いだ。

そんな僕たちだけでなく、生き物すべてに共通しているのが一度きりの生命である。

生まれて死ぬ。

この定めから生き物は逃れることはできない。

さて、「経験」という思考を持つ僕たちにとって人生はもっとも長時間の経験だろう。

一方で、いまここ、この瞬間も「経験」だ。

僕たちの人生は瞬間の「経験」がぎっしりと詰まった「経験」と言い換えてもよい。

で、ね。僕たちが、人生という経験の意味を問うのであれば、それは瞬間における経験の意味を問うことでもあるのだよね。


美しい花がある



2021年3月7日日曜日

生命の内なる力と内なる戦略と知性の謎

 僕たちの世界には何故か自己組織化する力がある。

言い方を換えると僕たちは世界に自発した様々な秩序を目撃する。

一方で、秩序はすべて崩壊していくというエントロピー増大の法則もある。

だから、みそ汁の中に出来る秩序、対流渦は時間とともに消えていくのだ。

しかし、生命は法則を越えて自己組織化の状態を持続することが出来る。

それは、永久機関のようにずっと動き続けるのではなく、自己組織化と秩序の崩壊を短いサイクルで繋いで時間に立ち向かっているからだ。

生命は、小さな生と小さな死をつないで長い時間を得ている。

その最小単位は「経験」だ。


人間の社会的活動である組織も生命と似たような働きをする。

基本的に組織においては秩序の変化よりも構成員は入れ替わりの方が早い。

その入れ替わりに耐えられる組織だけが持続可能な組織だ。

こう書くと組織構成員は組織の部品のようにみえるけど構成員の立場に立つと世界の見え方はまったく異なる。

構成員にとってみれば組織は人生の中で繰り返される小さな生と小さな死の1つである。

この観点に立てば、終身雇用を掲げた日本企業が、ローテーションと称して社員の配属を定期的に変える理由もわかるだろう。

コミュニティは組織ほど秩序だっていないけど本質は同じなのかもしれない。


さて、生命は、その内にある小さな生と小さな死を繰り返すなかで老廃物をためて老化して自らを終えていく。

しかし蓄積された知性は老化することなく次の世代に引き継がれさらに次元を高めていく。

その代表が「科学技術」だろう。


知性は秩序ではないのか。

それとも知性はエントロピー増大の法則を超えた僕たちがまだ知らない自然法則に準拠しているのか。


日曜日の夜、僕はまだまだ眠れそうにない。


(月)紺屋の白袴の潜在意識
で、ね。端的に表現すれば「責任、愛情、掟」を背景に結果として「手が回らなくなる」のではないだろうか。

(火)心に通ずる道は胃を通る
とにかく、僕たちの「心に通ずる」という感覚は生命同様、解明することが出来ないものかもしれないけど誰もが生まれながらに持っているものだ。

(水)200万人との対話
で、ね。僕が今、感じることはデータ分析という客体化よりも、データを通しての対話という主客一体化の捉え方が好きなことだね。

(木)「人・物・金」はなぜ資源なのか
その技術的な世界観は技術のさらなる進歩によって加速し、経営という生産性向上の圧力によって浸透し、ついに僕たちは自分自身も含めた世界を資源と見ることに違和感を感じなくなってしまったのかもしれない。

(金)越境したらいいんです。世界は広いんだから
ひょっとしたら組成と崩壊を繰り返して法則に立ち向かう生命の本質が世界を狭くする誘惑なのかもしれないね。

(土)作っては壊し、壊しては作る 学者とアーティストの共通点
で、ね。学者とアーティストの共通点は、破壊と構築の探求心というより「生命」の本質を突いた生き様なのだよね。


生命を越えていくもの


2021年3月6日土曜日

作っては壊し、壊しては作る 学者とアーティストの共通点

 真の学者は、自説を否定しながら学問を極めていくと聞いたことがある。

確かに、学問の探求に終わりは無さそうだ。

昨日、King gnuというバンドのリーダー、常田大希さんの曲作りの様子をNHKで放送していたけど、その番組の中では「破壊と構築」がキーワードになっていた。

アーティストも作っては壊し、壊しては作る、のだね。

著名な絵画も、調べると下から別の絵が出てきたりするらしい。

ひょっとしたら、それも描いては壊す、壊しては描く、の例なのかもしれない。

さて、昨日も少し触れたけど、福岡伸一さんによれば、生命は、「秩序は崩壊する」という自然法則よりも速く生み出しては壊すことで37億年続いてきたのだそうだから、作っては壊し、壊しては作る、を連続する行為は、「生命」の本質であると言えるのかもしれない。

で、ね。学者とアーティストの共通点は、破壊と構築の探求心というより「生命」の本質を突いた生き様なのだよね。


生き様


2021年3月5日金曜日

越境したらいいんです。世界は広いんだから

 今晩、僕がYahooを開いたらポンとこんなニュースが出ていた。

上野千鶴子名誉教授が述べた2019年4月に述べた祝辞らしい。

その祝辞についてのインタビューが今回の記事だから、記事自体は新しいものみたい。

さて、僕が「越境」という言葉を聞いたのはもうだいぶ昔になるけどやはり大学教授からだった。

「越境」は大学においてずっと注目され研究されてきているテーマなのかもしれない。

事業会社の経営に参画する僕は、「越境」の大切さを実感するものの、実際に社会人が「越境」するケースはあまり多くないようにも思えた。

僕たちは誰でも世界が広いことを知っているのに、なぜか狭い世界の中で生きている。

僕もその一人なのかもしれないけど、保守性とか消極性といった固有の性だけでなく世界を狭くする誘惑がどこかにあるはずだ。

青山学院大学の福岡伸一教授は、生命はエントロピー増大の法則に立ち向かうため自らをゆるゆる作って法則が適応される前に壊し再生するという。

ひょっとしたら組成と崩壊を繰り返して法則に立ち向かう生命の本質が世界を狭くする誘惑なのかもしれないね。


狭さの誘惑





2021年3月4日木曜日

「人・物・金」はなぜ資源なのか

 経営の三資源というと「人・物・金」である。

では資源とは何かと言えば、目的のために使われる代替可能な材料だよね。

経営の目的は、事業目的(収益の源泉は何か)と社会目的(なぜ存在するのか)にあるので高い収益をあげる、すなわち「生産性」を高めるために資源を最適化することが経営の主たる課題になる。

つまり人も物も金も生産性のために最適化されていく資源になるのだ。

ドイツの哲学者ハイデガーは、技術によって生産へと駆り立てられる世界を予測していたらしい。

その技術的な世界観は技術のさらなる進歩によって加速し、経営という生産性向上の圧力によって浸透し、ついに僕たちは自分自身も含めた世界を資源と見ることに違和感を感じなくなってしまったのかもしれない。


資源?自然?




2021年3月3日水曜日

200万人との対話

 「対話」は相手の話を聞いて自らの世界を広げる行為だ。

僕はそう思う。

でも、数多く他者の話を聞けば世界が広がるというわけでもないだろう。

なぜなら世界は外だけでなく自らの内側にあるからだ。

いや、むしろ外の世界と僕たちが思っているものは内なる世界の投影、プロジェクションマッピングなのかもしれないからね。

僕はこれまでリアルもあるけどデータという形で数多くの対話を行った。

データだから1つ1つというより集計したり解析をしたり、なのだけど。

で、ね。僕が今、感じることはデータ分析という客体化よりも、データを通しての対話という主客一体化の捉え方が好きなことだね。


コーヒーを感じる


2021年3月2日火曜日

心に通ずる道は胃を通る

 これは作家、開高健さんがアラスカでオヒョウを釣った際に日本から同行した料理人に送った言葉だそうだ。

いや、これ、開高さんが素晴らしい作家であったことが瞬間で伝わってくる、とても素晴らしい言葉ではないか。

視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感を僕たちがどう統合して対象物を認知しているのか、実はまだわかっていないそうなのだけど、気持ちを込めた料理が口から入って心に感動を届ける感覚は誰もが持っているかもしれない。

もちろん、その逆もあって、気持ちの入っていない料理ほど心を凍らせるものもないよね。

で、ね。この言葉、味覚が中心だけど、ほかの感覚にも相通じるものがある。

例えば、

  • 心に通ずる道は眼を通る
  • 心に通ずる道は耳を通る
  • 心に通ずる道は手を通る
  • 心に通ずる道は鼻を通る
と置き換えてもいずれも成立する。

素晴らしい絵や彫刻や写真は眼を通して、素晴らしい楽曲や演奏は耳を通して、やさしい思いは手の温もりを通して、他者のための洗濯や労働の結果は鼻を通して、心に通ずる。

とにかく、僕たちの「心に通ずる」という感覚は生命同様、解明することが出来ないものかもしれないけど誰もが生まれながらに持っているものだ。


胃を通って心に通ずる道


2021年3月1日月曜日

紺屋の白袴の潜在意識

 「紺屋の白袴」(こうやのしろばかま)という故事ことわざがある。

WEBの故事ことわざ辞典では「他人のためにばかり働いて、自分のことに手が回らないこと。」となっているけど身の回りにある 「紺屋」はなぜ袴に手が回らないのだろうか。

そこには以下の3つの潜在意識が潜んでいるのかもしれない。

  • 倫理観の欠如
  • 価値観のズレ
  • 生活観の顕れ
倫理観の欠如は、我が身をもって確かめる意識が足りないことだ。

染は確かか、色落ちはしないか、といった確認だね。

価値観のズレは、もっと他に大切に思っていることがある場合だろう。

白袴を汚さないという紺屋の染職人としてのプライドという説もあるらしいし、実は紺色の袴は嫌いだということもあるよね。

生活観の顕れは、もったいなくて自分では使えない、だ。

商品には手を出さないという商売人の心意気なのかもしれない。

で、ね。端的に表現すれば「責任、愛情、掟」を背景に結果として「手が回らなくなる」のではないだろうか。


メジロ