2021年12月31日金曜日

修羅場・土壇場体験はなぜ大切なのか。

 活躍する社会人に共通しているのは修羅場体験があることではないだろうかitでもコンサルファームでも眼メーカーでも金融でも聞いた話だからまずは間違いないだろう。。人材育成に関しても修羅場体験が成長を促すとよく言われている。とはいえ昨今の人権意識とコンプライアンス重視の風潮の中で、敢えて積極的に修羅場体験をさせることにはリスクがある。ハラスメントになりかねないからね。それに誰でも修羅場を乗り越えられるわけではない。小児脳科学者成田奈緒子さんが山中伸弥さんとの対談のの中で語った乗り越える力の三要素は自己肯定感、社会性ソーシャルサポートである。そしで自己肯定感は高まるのが難しいもと言っている。自己肯定感ご低い人に修羅場体験を与えると潰れてしまう危険性が高くなると言えるのかもしれない。さて、二刀流で大リーグに挑戦した大谷翔平選手はデビュー前。防御率27点台、打率1割台ど苦境に、喘いでいたそうだ。そんな苦悩すら大谷選手はイチロー選手にアドバイスを求めた。社会性を、発揮してソーシャルサポートを受けたんだね。そしてイチローさんのアドバイスは自分のポテンシャル自分のやってきたことなどもっと自分に自信を持っていいんじゃないかと。つまり自己肯定感を使えと言うアドバイスなんだよね。そしてその後大谷選手は見事に活躍している。修羅場であったり土壇場を乗り越えることはその後の活躍に大きな力を与える。


大谷翔平選手が土壇場を乗り越えて活躍する理由。


2021年12月30日木曜日

僕たちのオリンピック。

 年末を迎えて東京オリンピックに関するばんぐみが増えている。陸上最終日のチケットが当選していた僕にとって今回のオリンピックは人生を振り返る一つの記憶になるはずであった、しかし、番組をを見ても僕の記憶に蘇るシーンは何ひとつない。開会式でピクトグラムが動いたとかネットのニュースで見たけどこの時期僕はまさにどんぴしゃで入院していてまだ退院の見通しも全く立たずに翌日のリハビリに向けて夜もテレビも見ずに寝ていたからである。記憶になるどころか何も記憶していないオリンピックになってしまったのだ。僕の人生において2回のオリンピックは。いずれもリアルではなくネットニュースの中のバーチャルな大会である。いまてれびで河瀬直美が見つめた東京五輪と言う番組を放送しているけど、僕にはこれがドキュメンタリーにも思えないのだ。僕みたいにオリンピックと全く接しなかった人は一定数いるのではないだろか。あえてそれらの人々を僕たちと呼ばせてもらおう。僕たちのオリンピックは泡沫の夢でもないのだ。国威掲揚のため行われヒトラーが中心に写っているベルリンオリンピックのようにどこかの国の他人事なんだよね。昨日は、東京リボーンという番組で新国立競技場の建設など、プロジェクトX的な舞台裏はスターウォーズで帝国軍がデススターを建造しているシーンのような印象でまるでsfであった。今後東京オリンピックを思い返すのは僕たちにとってアスリートの活躍や大会開催の苦労話ではなくて隔絶された元の社会での出来事ということなんだよね

だから記録映像僕たちのこの世の出来事ではないんだよな

これもオリンピックだったらしい。


2021年12月29日水曜日

積極的内職のススメ

 僕は脳卒中で中途障がい者となり。自宅での入浴が困難なことから、デイサービスを利用する様になった、デイサービス、そこはまさに高齢化社会の縮図である。リハビリ病院での入院生活もそうだったけど以前の僕にとっては二重の越境体験でえる。今まで踏み込んだことのない環境への越境と。自由にならない身体性への越境である。そのいづれも気持ちよいものではない。もやもやしたり不安になることばかりである。病院もある意味医療サービスであって、いづれも僕はサービスの受益者なので身を委ねていれば事は済んでしまう。ある種遊園地のアトラクションと一緒だよね。乗り込むだけ。しかし誰かに身を委ねきってしまうと言う他人事化は僕が僕の人生を手放すということにもなる、サービスは受益するけど決して主体性は失わないそのために必要なこと対話と学習である。そこで僕が選んだのは学習のためのサービス選択である。それはときに集団行動に背くことにもなる時間の使い方は僕が決めるのだ。サービス提供者は通常この主体性をもとめることは当事者の負担になると考えるのか受益者の不利益にになると考えるのか、サービスメニューを充実させ参加を強いるまあ、そういう教育を受けて身体知を重ねて来たひとたちにとっては当然の論理的帰結なのかもしれないね。僕に主体性を損う予定調和を求める僕は身を委ねるためにお金を払うつもりはないからリハビリには療法士との対話とスケッチブックとパソコンをデイサービスには読書の内職とDSの脳トレを持ち込むことにした。昨日のデイサービスでは、kindle版の本を2冊購入して読み始めた(kindle万歳)1冊目は尊敬しファンである法政大学長岡健教授の「みんなのアンラーニング論もう1冊は世界は関係でできているという量子論の本である。今回の高齢者向けサービス、障害者生活への越境というよりもはや移住でも学び続けるヒントになりそうだからね。我ながら素晴らしい選書であった。この2冊の素晴らしい本に関してはまた別途レビューしたいと思う。実は今並行して読んでいる紙の本もあるのだけれどこれは厚くて重いのでデイサービスに持ち込むのは躊躇われるのだよね。かなら難解な本だしね。地の探索をしている限り僕は僕の世界でサービスに身を委ねていても主体性まで手放してしまうことはないからね




2021年12月28日火曜日

白い1日というエゴの時代

 僕の1日が過ぎて行く。NHKで小椋佳ファイナルという番組を観ている。その中で白い1日という曲を歌っていた。僕の青春時代の歌だなぁ

白い1日。シクラメンの香り 、揺れる眼差し、俺たちの旅僕の中学時代を掘り起こすと流れ出す曲ばかりである。あの頃のなんとなくアンニュイな気分と一緒にね。あのころはほんとに僕の1日が白く過ぎて行ったように記憶しているわけで。

今思うに白い1日であれば。それは正解のないなんでも出来る1日の中に僕はずっと居たことになる。ひょっとしたらとてもクリエイティブな状況に身を置いていたのかもしれないね。それは年頃の僕だけの特殊な状況だったのか時代の空気たったのかはよくわからなかったけど、小椋佳さんが歌っていたのだからきっと時代の空気だったに違いない。たしかに。あの頃は世の中はどんどん進歩していく良くなって行くのだという空気が満ちていた。自ら恥じない仕事ぶりと悔いない暮らしぶりを48歳で、取締役を固辞して赴任した支店の支店長として支店の行員にこう説いた小椋佳さん。これはきっとフロイトが言うところの超自我であって。イド(魂)から芽生えた自我エゴが白い1日、俺たちの旅という感じなのかもしれないね。僕の成長時期とも重なるけどひょっとしたら僕たちが生きた社会自体がの成長期であったのかもしれないね。







2021年12月27日月曜日

為すべきことから始まるマインドセット

 6ヶ月にわたる入院リハビリ生活を終えて僕が思うことば、中学の時今回のリハビリのような真剣さを持って部活に取り組めばよかったなぁと言う改悟である。僕は今回かなりしんけんにリハビリに取り組めたと思う。勿論リハビリは取り組みやすいようにしっかりとサポートされていたと言うことはある。しかし真剣に取り組むと言うことが肉体の強化だけでなく心理的な強化にも繋がっていたことを今になって実感する。これまで同じような機会が全くなかった中と思い起こすと。中学や高校大学などでの部活がそれに該当する機会であるように思える。高校大学ではそもそも部活をしなかったけど、中学の時は入部はしていたので、機会を生かせなかったのは明白だ。僕はなぜ部活に挫折してしまったのだろうか。そのきっかけがどうしても思い出せない。夏休みの合宿には参加していたので、日々の練習についていけずフェードアウトしてしまったのだろう。上手くならない→基礎練習は楽しくない→目標も無く次に繋がらない。なんとなく足が遠のいて帰宅部になっている。今回リハビリで思ったのは。基本の大切さである。途中で、療法士に基本のばかりでは先が見えないと食いついたこともあった同じようなマインドが中学の部活でもあったのだろう。要するに。基礎の大冊さよりも成長実感もしくは承認が欲しかったのだよね。以前nhで放送した奇跡のレッスンでもとnbaのプロ選手マグジーボーグスさんの指導を見ていると目標へのマインドセットが中学の部活では無かったことにあらためて気付いた。今回のリハビリでは、歩けるようになって帰宅すると言う明確な目標があっただから基本動作の反復でも意味を見出そうとしていた。これは中学の部活では一切意識しなかったことだよね。結局やる気が出なくてフェードアウト、入部する際に必要だったのはなんとなく惹かれると言う漠然とした感性ではなくありたい姿やなりたい姿の明確な目標であったように思える。これは挫折した銀行員生活でも全く同じ構図だつたなぁ大切なのは何を為すべきか知ることなんだよね。



2021年12月26日日曜日

世界はどこにあるの?

 僕のこの世界は僕の主観で成り立っている。客観的に見てと言われても僕が見ている世界は僕の主観でしかない。そして、世界は皆の主観の総合体として存在しているわけで。客観的実体がそこにあるわけではないなぜなら全ての人の主観を知ることはできないことだから、実は世界が存在していることを実証することはできないのだ。ではこの世界が夢ではないとなぜ言えるのだろうか。それぞれの主観の中に世界は間違いなく存在していることも僕たちは知っている。僕たちが世界について考えたときそこに世界が出現するのだ、つまり世界とは思考の賜物なのである。これに類するものは世の中に沢山ある。例えば幸福もそう。客観的な幸福があるわけではなくて幸福と感じる主観があるだけだ、その主観で社会が満たされれば世の中が幸福であるとなるわけで、安全とか安心なども同じだよね。僕は今回脳卒中になって左半身に麻痺が出て。安全、安心が大きく変わった。世の中の安全安心が変わったわけではなく。僕の主観が変わっただけなのだ。逆の見方をすれば主観を変えることができれば世界は変わることなる。最悪の出来事も最高の体験にすることができるのだ。正解のないものに主観で答えを創造し、体験や経験に意味を与えて生きる意味に近づくことで最高の体験が生まれるはずだ。。



僕の目の前にある世界は僕が作り出している。


2021年12月25日土曜日

行く年来る年、人生のピンチ

 気がつけば今年もあとわずか。公共私ともに忘れることのできない2021年が終わろうとしている。世の中的にはオリンピックに新型コロナのパンデミック個人的には会社の取締役退任とまさかの脳卒中罹患とその後の半年にわたる入院リハビリと今後もし僕がもう少し回復して銀座を歩いていてnhkの街頭インタビューを受けて人生のピンチを教えてくださいと聞かれたら。これまでの数々の経験のと比べても2020年の出来事をきっと語るのではないだろうか。仕事と当たり前の日常生活を同時に失った年だからね。会社を退任してその後の人生をいろいろと模索していた矢先の脳出血だったからね。現実的にはなんと年末を前にして退院できたけど。今後に関してはまさにこれからでやりたいことはあるものの左半身の麻痺を抱えてなにができるのか。手探り状態であるから。まだピンチを抜け出したわけじゃない。最悪の出来事を最高の出来事に変えるためにはちょっと考え方と行動を変える必要があるのだ。ただし僕の信念を形成している考え方は変えるものではないだろう。変えるべきなのは信念ではなく価値観なのだと思う。行動に関してはもはや変えざるを得ない。中途障がい者だからね。やりたいことが山ほどあってもできることは、ちょっとしかない。犬との散歩もまだまだお預けだ。私的な出来事が大きかったためオリンピックで高揚することも新型コロナに怯えることもなかった僕の2020年であった。もちろんそれは僕だけでなく僕の家族も巻き込んだものである。2020年を最高の年に出来るかは今後の僕にかかっている。友人からもそんな言葉をもらっている。たしかにその通りであるが、いま僕が気になるのは些細な事で気力が上がったり下がったりする事だ。それは不自由になった歩行の一歩一歩にも現れる問題だ。次の一歩をどう踏み出すかにも気力は大きく関わっている。それこそ杖がなくても歩けると気力が満ちている時もあれば杖に頼って慎重に歩く時もある。要するに考え方と行動の源泉には気力と言う精神の力があるんだよね。筋力は運動や筋トレで高められるけど精神力は脳トレをやっても高まるものではない。みもちろん部分的には効果があるけどね。むしろ瞑想とかを行なって心の平穏を保つ方が効果的であるようだ。あとはしっかりと糖分を、取ることかな。まずは無心になります。

いまさら、無心について。読む



2021年12月24日金曜日

快適さを取り戻すまでの道。

 昨日は久しぶりにZOOMでミーティングを行ったけど、パソコンのアップデートがあったり、アカウントのIDPWが甘い出せなかったりと。準備に手間が、かかってしまった。いパソコンってちょっと使わなかっただけで厄介になるよね。

 そもそも充電から始まるし。面倒なことこの上ない。使えるようになってしまえば快適なんだけどね。これはパソコンに限ったことではない。僕の趣味であるカメラも充電やら何や使えるようするまでに手間がかかる。今の僕にとっては手前をかけるた言うことは、ハードルが高いことを意味する。以前は何でもないことであった手間がハードルなんだよね。そう言えばパソコンが苦手だった妻を以前はどうしてできないのかわからないのかと、考えがちであったけど、いまの僕は出来ない理由や気持ちがよくわかるようになったのかもしれないね。これはきっと健常者と障害者や高齢者のギャップなんだろうね。障害を負ってからこんなことに気づくなんて僕はなんて奢った人間なんだろう。想像力が足りていなかったと反省することしきりな退院後の、生活なのである。身体機能だけでなく人としても学び直さなくてはね。




ほんのちょっとした手間が快適さを阻害するのである。


2021年12月22日水曜日

デイサービス自画持参を思いついた日

 この時間をどう過ごそう。今日はかつての会社からほど遠くない場所にあるデイサービスに通う日である。これからはゆっくり人生を歩くにしても。あまりにもこれまでの日常とリズム違いすぎて隙間の時間をどう過ごして良いのかかわからない。アマゾンに、頼んだ本が届いたら持ち込んで読もうかしらん。間違い探しとかが配られるのだけどどうもやる気が起きないのだよね〜。無意味なことを繰り返すのは耐えられない。脳トレでボケ防止なんだろうけどね。高齢化社会には近づくけど深みのある人生に近づいているようにはどうにも思えないのだよ。人生の残された時間は有限だからあまり、無意味と感じる時間は過ごしたくないよね。サードプレイスとして対話でもしたいけど。ここではリハビリも受けられるらしいけど。個人の状態に最適化したようなメニューは受けられないから僕の身体の状態にはミスマッチである。やはりリハビリ病院のリハビリとは大違いなのである。もっともっといい状態にしたいのだけどマンツーマンのリハビリとは違って僕の個人的な状態には合わせてくれない。そうだ、いっそうなこと、サードプレイス型デイサービスを作ってしまおうか。このアイデアは面白いなあ。高齢者は黙っていても自分語りをはじめてしまうし。デイサービス自画持参。このアイデアどうかしらん?


隙間時間の過ごし方

2021年12月21日火曜日

僕の療法士犬

 僕は退院し家に帰って犬のベッドを膝の上に抱いてその上で寛いでいる犬を麻痺のない右手でやさしく撫でている。犬の重みとぬくもりが心地よい窓際のソファーの上は窓から外の寒さが伝わってくるから程よく暖が取れるから重さはほとんど気にならない。アメリカの病院ではセラピードッグが多くかつやくしているようである、日本でもセラピードッグの普及を目指してブルーシンガー大木トオルさんが活動していて、大木さんが僕が今済んでいる人形町出身なこともあって、これまでも何回か街のお祭りでセラピードッグをみかけたことがあるけど、残念ながら入院していた病院では見かけることはまったくなかった。しかし、ツイッターでフォローしているアメリカの病院で働いている医療従事者の方のツイットには、たびたびセラピードッグが登場するので、海外ではかなり活躍しているのではないだろうか。ファシリティドッグと呼ばれセラピードッグと少し違うのかもしれないけどね、

病院に犬をつれてくることはもちろんできなかったけど今回の入院やリハビリで犬の存在は大きかった。犬の写真やカレンダーを病院に持ち込みまた、犬の話で看護師さんや療法士さんとも会話が弾んで長い入院に耐えることができた。そういう意味では僕の犬は間違いなく闘病生活での楽しみや心の支えになる仕事をしてくれたのだ。僕が家に帰ってからの犬の仕事は、もっと重大だ

犬は人間の言葉も感情も理解することが出来るらしい。見つめ合うとお互いにオキシトシンが、出るんだってさ。だから幸福になれるんだよね。


療法士犬なのです。

2021年12月20日月曜日

退院後にしていること

 僕は退院して入院中に購入したKindle版山中教授同級生の小児脳科学者と子育てを語るを読み返して帰宅後以前に録画してあったツーショット最高の二人山中伸弥と」平尾誠二を観てそして、同じく録画してあったNHKスペシャル死闘の果てに日本vsスコットランドを観た平尾誠二さんの生き様とその生き様がもたらした日本にもたらした結果が気になったのだ。僕にも今も止められているのはこの身体の状況に即した生き様だからね、因みに僕のkindleには君たちはどう生きるかなんていう本も入っている。


帰ってからの幸せの形

2021年12月19日日曜日

TheDayサービス1st DAY

  DAYサービス1st DAY僕は今日初めて DAYサービスの施設を利用した。退院に際して自宅での入浴には設備が足りないので練習が必要との判断で当面は入浴のできるサービスを、利用することになったのだ。 DAYサービスというとご老人向けサービスののイメージだけど。

障害のある人もお世話になるサービスである。

そしてこれからの来る高齢化社会では誰もが利用することになるサービスとなるかもしれない。自宅までの送迎もあって。快適に利用することができた。

僕は入浴(メインだけど。入浴去るまでの間体操など、簡単なリハビリメニューも準備されている。そして入浴であるけど3畳くらいのひろさの浴室には、浴槽の側面が電動で乗降するハイテクな浴槽が設置されている。こんな設備を自宅に備えることはまずむりだ。宇宙に行ったベゾスとか前澤さんあたりなら問題なく自宅に設置できるだろうけどね。

これから家を建てる人は自分の老後のことをよく考えて家の設計をした方が良いかもしれないね。 DAYサービスのスタッフの方は若い方が多く。日本の高齢化社会を支えているのは健康な若い方の力であることが実感される。高齢者の定義(65歳以上)で言えば僕はまだかろうじて高齢者の一歩手前なのだけど、今回一足早く高齢者カテゴリーの仲間入りすることになって人は誰でも高齢化を避けることができないことを痛感するよね。多くの人はまずは親の介護とかで DAYサービスの扉を開くことになるのかもしれないけど自分自身が利用者になるのも考えているほど先のことではないかもしれないよ。

塩見三省さんの言葉を借りれば障がい者となった僕は社会の異物なのだけど。ご高齢者が集まる DAYサービスでは。別の意味で異物なのかもしれない


気がつけば高齢化

2021年12月18日土曜日

そしてリハビリ人生は続く。

 僕がリハビリ病院鉄道を下車して2日経った。しかし退院してからも結構忙しい。リハビリ人生鉄道は全てが機能的に揃っていたけど。退院後にリハビリや入浴を行おうと思うと様々な外部サービスを組み合わせて利用するしかない。その調整と契約が大変なのだ。それ以外にもやらなければならないことがある。そして安全に暮らすためには。用心深く歩いたり行動することが求められる。健常であった頃のように素早く行動できないのだ。やることややりたいことは多いけれどこなせるスピードは遅くなるのだから当然。積み残しがどんどん増えていく。しかし焦りや見切りは禁物である。怪我でもしてまた入院とかになってしまったら元も子もない。犬も足元をうろうろしているから気を抜くと危ない。下車しても僕のリハビリ人生はまだまだ続いていくのである。

丁度僕と同じ時期に脳出血で倒れた女医でタレントの西川史子さんもどうやらおなじくらいの時期にリハビリ専門病院を退院されたようだ。左半身の麻痺も僕と同じような状態なのかもしれない。僕の入院は丸5ヶ月とちょっとと西川史子さんより長かった。けれど頑張ってくれた僕の身体と脳には感謝している。リハビリは肉体的精神的にタフなものだからね。例えば理学療法士的には、麻痺脚に筋肉痛を起こさせるのは成果なのだそうだ。麻痺とは筋肉が使えなくなっている状態なわけで。そこの筋肉を働かせた証拠というわけだ。まあそれだけリハビリはつらいものである。更に動かない出来ないという現実に嫌というほど向き合わされることになる心理的な辛さも加算されるのだ。

自分の限界を試してみたいなんていう前向きな気持にはとてもなれない西川史子さんの『神様もう許して』という心情はほんとうによく理解出来る。

でも僕は許しを請うような思いは実際頭に浮かばなかった。それよりも今回の経験を意味化することに目が向いていたからね。綺麗事に聞こえるかもしれない。西川史子さんの方がより人間味のある本音に聞こえるかもしれないね。でもきっとそれは捉え方の個人差なのでしょう。いずれにしても僕は僕でない誰かに変わることは出来ないのだからね。だから僕はリハビリの状況に直面して向き合ってくれた身体と脳に不満ではなく感謝を伝えるようと考えたのだ。

そして僕のリハビリ人生はまだまだ続くのだ。当たり前の日常としてね、


2021年12月17日金曜日

レジリエンスよりラーニング

 長期入院と、退院。僕は僕の人生で初めて手術と、長期の入院生活を経験した。病気に、対する考え方は。本や投稿など話、通じて色んな人の信念を借りて学ぶことができたように思える。また、僕がそもそも経験学習や越境学習と言った概念に、触れていたこともあって、新しい経験を学習機会と捉えられたことは。大きかったようにおもえる。まだ僕は今回の病気であり逆境を乗り越え終わったわけではないけど。現在進行形において、学習は乗り越える力に大きく貢献していることは間違いないようだ。山中伸弥さんの本に、出てくる乗り越える力は自己肯定感と、社会性とソーシャルサポートの三要素と紹介されていたけどそこに学習力という表現はない。それでいうと学習力は自己肯定感と社会性ということになるのかもしれないね。自ら判断決断して社会というおかれた環境と良い折り合いをつけていくそのためにはどのような状況においても前向きな捉え方をできることが、必要であるということなのかもしれないね。兎角学習と言うとその結果によって何がどう変わったのかに目が行きがちだけど。学習に対する信念の方が僕は大切であるよう今回の入院を通して思えたな。リハビリを受ける人の学習の起点はアンラーニングからである、それまで普通にできていたことができなくなってリハビリが始まる。回復という要素もらえるけど身体性が大きく変わっているので。0歳児の学習に近いと言えるだろう。だからリハビリはレジリエンスと言うよりラーニングなのである。

もうすでに懐かしい風景


2021年12月15日水曜日

平尾誠二さんと山中伸弥さん

 人生は理不尽なもんや」っていう彼の言葉なんです。生前からね、彼は私に言ってくれました。「いちいちワアワア言うな」と。「先生、人生はうまいこといかなくて当たり前だから」と楕円形のラグビー🏉ボールに例えて平尾誠二さんは語っていたそうです。



理不尽なもの


2021年12月14日火曜日

Great race 432kmと親から借り受けた信念。

 僕は今日。退院の準備をしながらリハビリまでの時間。カナダユーコン700kmGreat raceという番組を部屋で観ていた。氷点下4(0度を超える寒さの中で行われるレースである。参加者31中完走は12名優勝したエンリコさんはなんと60歳僕と同じ年代だ。こんなに厳しいレースがあるんだね。僕がリハビリ病院に入院して行ったリハビリ時間に僕の歩く速さ秒速0.25メートルを、掛けると432キロメートルになるそう考えると厳しいリハビリである。しかしGreatRaceは700kmしかも氷点下40度以下だからてとんでもないことだね。さて優勝したエンリコさんを支えていたのは父親の教えであった。それを観ながら人生の困難を乗り越えるために僕が父親から受けた教えが無いことに気がついた。商売の仕方については教えを受けたことがあるんだけどね。生き様は間近にみていたたけどね。子供は生まれながらに親の信念を借りることが出来る特権を持っている。親の信念がより生きる意味に深く根ざしているほど。子供は生きるうえで大きな財産を受け取ることになる。エンリコさんはまさにそのようなことであったのではないだろうか。僕は自分自身を振り返るに。父親から真面目に生きることとか。几帳面さなどを受け取ったように思えるけど特に人生の窮地に立った時の信念は受け取った記憶はない。早くして父親を亡くしているので。信念を受け取る機会を逸してしまったのかもしれないね。もしいま父が生きていたら、人生の信念について色々と聞いてみたいなぁ。父親の人生自体は厳しい局面が少なくなかったみたいだったからね。

子供は親の信念を伝授されたり観察して学習したりする。そして、親に限らず良い信念に出会う経験は人生にとってとても大きな意味を持つ。時にそれは運命と感じられるものでもある。僕たちは運命を通じて生きる意味に近づいていると感じるのだからね。ことで幸せになることが出来るのだ。だから僕たちは親からのギフトについてもっと深く正しく認識する必要があるだろう。僕は父親の何を見て育ってきたのだろうか。思いを馳せるにおそらく人に遣われるのでは無く。自分のやりたいことをやれる立場でなければ人生は意義深くないと言ったところではないだりうか。実際そんな事を就活していた時期にこそっと言われた記憶も蘇ってき。それはきっと後継にと請われて婿入りした直後に祖父が倒産させた会社を再建して商売を再び軌道に乗せた父親の商売人としてそして経営者としての自負であったのかもしれない。僕が父親のその信念を借り受けていることは間違いないのかもしれないと。僕のこれまで人生におけるターニングポイントを振り返るに思い当たる節がある。

信念


2021年12月13日月曜日

僕の身体の再学習

 僕は昨日リハビリではじめて病院の外を歩いたもちろん杖をつかってだけどね。その感覚は新鮮そのもの。病気発症前に普通に外を歩いていたときとは比べようもない僕の筋肉はかつての記憶をゼロリセットしているようだ。運動記憶していた脳の部分が損傷したせいかもしれないけどいずれにしても0才児がはじめて立ち歩きをするときのように1つづつ環境とやりとりしながら学習していくのだ。歩道は僕に歩く環境を提供してくれるのだけれどもそこには小さな傾斜や段差という新たな学習機会もたくさん盛り込まれている信号なんていうのもある、病院内の歩行のように歩きやすさへの配慮はされてはいないのだ。よく学習は状況に埋め込まれていると言われるけどまさにその通りだね。そして状況は僕たちが考えている以上に複雑で困難に満ちているだから、安定して外で歩くためにはより多くの経験と学習が必要になってくるのだ。尻込みなんてしている場合じゃないのだよ。でもこれは歩行運動に限ったことじゃない。人生そのものが多くの経験と学習を必要としているよね。でも今回の病気経験での大切な気付きは学習とは頭の中で行うものではないということだね。学習とは僕の頭の中だけでなく全身に起きている現象なのである。



2021年12月12日日曜日

中途障がい者の僕からみた乗り越える力

実は、乗り越える力って、「自己肯定感」「社会性」「ソーシャルサポート」という3つのパーツからできてる今回僕は脳出血によって中途障がい者になったしかし。発症した時の症状が立っていられないことだったから、発症した瞬間から僕は中途障がい者になっていたのだ。そんな僕が一番最初に出来たことは他人の気配を察知して助けを呼ぶことであった。そこには、僕は助けを呼ぶことが出来るという自己肯定感があり。そして助けてくれた人と、救急隊と妻によるソーシャルサポートがあったおかげで。脳溢血の発症直後の急性期を乗り越えることができた。もちろん妻をささえて


障がい者の、自立とは。

2021年12月11日土曜日

退院前のメンタルモデル。

 退院を前にして規則正しい病院での生活にも少しずつ変化が出てくる。そして規則正しい生活や、充実したリハビリ環境の有り難さや、それらが退院すると無くなることに一抹の不安も感じるようになってくる。毎日が同じリズムであるということは安心感がある。それはリハビリ手間同じことで、いつも通りのメニューだと思うと。心構えも出来て前向きに取り組むことができる。しかし退院を前にしてこのところ検査が相次いだ。それらはいつもはやらないメニューだ。中には初めてやることもある。となると。ちゃんとできるだろうか、良い結果が出せるだろうかと僕の中にある今までとは異なる価値観に直面し苦闘し苦悩することになる。これは退院後の生活に関しても一緒で。この価値観に直面すると僕は僕自身と対話をはじめることになる。そして療法士さんと話をしたり。いろんな人の闘病記を目にしたりして。それらの人のメンタルモデルに触れて。頭の中で対話を深めるのだ。結果、きっと大丈夫。とにかくひとつづつ向き合って学んでいくしかない。とにかく出来ないことでは無く出来ることを広げていくのだと気づく。どんな学習でもそうだよね。出来ること保有する能力を使って新しいものに挑み新しい能力と結果を獲得していくものだ。そう。僕は僕自身なのだからね。

メーテルを探せ

2021年12月10日金曜日

就活での人気が孕む構造的な大きな問題。

 僕は昨日のブログで自由意志の放棄が倫理感の喪失につながるという研究結果を引用した、そうしたら。昨日の朝イチで。就活で能力検査に不正が横行していると取り上げられていた。全くもって倫理感ご欠如した話である。逆説的に考えれば。不正を行う就活生は自由意志つまりなすべきことを定めて実行する能力欠けているのかもしれない。他者の評価や評判などで就職する企業を決めでいるのだとしたらそこに自由意志は無いだろうから倫理感無く不正に手を出してしまうのかもしれない。就活生に人気の高い企業にとっては頭の痛い問題だよね。評判の高さが質の良くない問題まで引き寄せてしまうのだからね。エントリーは自由意志でえると言う人も居るかもしれないけど問題は信念を持って自分が社会に対してなすべきことを見出して行動しているのか否かである。実はこれこそが、採用活動を、している企業が面接で最も見極めたいことでもあるのではないだろうか。なすべきことを定めていない学生は例え内定を出しても辞退しかねないからね。ひょっとしたら、内定辞退と検査不正の間には相関関係があるかもしれない。いずれも倫理感に問題があることは共通で明白だからね。しかし自由意志と倫理感を喪失すれば。イノベーションはもとよりガバナンスやコンプライアンスの土壌が失われてしまうと言う重大な問題が生じてくる。それはとても恐ろしいことである。

きっと晴天の霹靂みたいな話でしょう。

2021年12月9日木曜日

中途障害者になった僕が病室にスケッチブックを持ち込む理由

真っ白なスケッチブックに正解なんてないことは誰でも知っている。しかしなぜかそこに正解があるかのように誰もが考えがちだよねそうなるとなにを描きたいかよりも、どう評価されたいかが起点になってしまう。初めから自分の大切なことではなくて誰かの大切なことが正解だと考えてしまっているそれはとても不幸なことであふ。誰かが大切にしていることなんて無限にあるし、しかも。それは自分にとっても大切であるとは限らない。自らの無限の可能性に自分で手枷足枷をはめるようなものだろう。自由意志の放棄である。哲学や神経科学では人に自由意志はあるのかという議論や研究が昔からなされてきていてその中には自由意志は幻想であると考えると人はモラルに反した動向を示すことが多くなり、不正な行動が増え他人に協力することをやめるという研究結果もある。その研究結果が正しければ真っ白なスケッチブックに正解を求めた瞬間に人は倫理的に破綻して為すべきことを見つけられなくなってしまうのかもしれないね。さて人(自分含め)の未来の可能性は真っ白なスケッチブックと一緒である。だから偏見や差別思い込みや決めつけ他認知バイアスは社会のあるべき姿(倫理的責任)を破壊して行くのでしょう。もし組織に不信や性悪説やバイアスが根付いているとしたらその組織があるべき未来に向かって進んでいくことは出来ないだろう。
僕は60歳にもなるし今回中途障害者にもなっったけど、僕が僕自身の未来に対して無限の可能性を否定してしまったら僕はの自分の未来に対する自由意志への信念を放棄することになり倫理的にも 破綻することになる。だからこそ僕はスケッチブックを持ち歩いて創造性を発揮して。白地に絵を描き続けていくのだ。なんとかなるさという楽観も需要だけど何でも出来るさという創造的態度は未来に対してもっと重要であるようだ。

 

ここに正解はないが自由意志はある


2021年12月8日水曜日

クリエーティビティとアビリティ

 僕は昨日作業療法のリハビリでおろしハンバーグを作った。家でも脳疾患の発症前に作っていたものなので基本的なレシピは記憶しているしかし麻痺のあるいまの状態とキッチンも道具も違うことを考えて多少のアレンジを加えてね。僕は料理には常にこうした状況に応じた工夫が求められる。だから料理は常に創造的な活動である。カップヌードルのようなものであってもお湯を入れてからの時間をちょっと変えるだけでも味わいが変わってくるこうした手軽に創造性を発揮できるのが料理の良いところである。しかしながら今日の作業療法は検査だった。退院前におこなうものらしい。検査はきめられた時間内に課題を解くものだから創造性の活躍する余地はない。能力を最大限に発揮して課題を解くのだ作業的には料理のほうが圧倒的に複雑でたいへんなのだけど、リハビリが終わったあとの疲労感は今日の検査後のほうが強い。個人的な実感としてだけど僕は創造性を発揮しているときの方が元気でいられるのだ。一方で創造性を失った作業では脳は著しく消耗し疲労感を感じるものらしい。これはひょっとしたら僕が人工知能などの先端技術に触れるとなんとなく消耗感や疲労を感じるのと似ているのかもしれない。高い集中力をもって、課題の解決に挑むとき脳ぼくのは絶え間なく酸素とブドウ糖を消費してガス欠状態になるのかもしれないね。そして脳が疲労していると感じると気力も失せてしまう。一方で創造性を発揮しているときはマインドもポジティブになってより意欲的でいることができる、そんなとき僕の脳はきっと活性化しているのだろう、実際昨日の夕方行った脳年齢チェックは朝よりも若返っていた。今日は実は脳年齢をチェックをする気すらおきなかったのだけど、しかしこのブログを書いてみて昨日と比較したくなった(この段階で創造性が発揮されている気もする)ので頑張って脳年齢チェックをしたら疲労感のある今日も脳年齢は朝より若返っていたからどうやら僕の疲労感と僕の脳の疲労は別物であるらしい。もしくは、昨日も今日もご褒美にwベリースムージーをリハビリ後に注入しているのが大きいのかもしれないねブドウ糖が脳を活性化したということだね。まったく科学的な根拠に欠けた話なのだけど。実験として様々な条件下でデータを集めていくと何かがわかってくるかもしれないね。こう考えるのはうでに創造的態度なんだろうけどね。

あれ?今日は最高点を叩き出してる。






2021年12月7日火曜日

作業療法士の雑談力と、対話力

 僕が受けているリハビリの中で日常の生活行動を訓練してくれるのが作業療法士さんだ。作業療法士は、患者の日常を、知る必要が、高いから、雑談力が高い。良き話し相手になって患者の日常生活の実態を引き出すのだ。しかしこの作業療法士さんたちは対話力の向上に取り組んでいるらしい。おそらく雑談によって多くの情報を引き出すだけでなくよりリハビリに必要である本質的なテーマを見つけ出し信頼関係を構築する必要があるからではないだろうか気軽になんでも話せる相手から。心の内を明かしてもらえるパートナーシップとなる必要性を持っているように思える。例えば僕が日常の中で何を大切にしていて何を取り戻したいと願っているのかそこに必要なのは僕の日常のテーマである。雑談では、特定のテーマを深掘りすることはあまりない、生きるテーマは対話を行わなければ見えてこないだろう。雑談でも近づくことはできるだろうけどねそう考えると。作業療法士がなぜ対話を学ぼうとしているのかわかる気がする。だから僕は、自画持参ガチャトークの話をしてあげるのだけど作業療法士の皆さんもれなく大変興味を持ってくれます。

ガチャトーク対話の場


2021年12月6日月曜日

リハビリ病院鉄道

 リハビリ病院鉄道の乗客になるのには条件はない。しかし乗客はみな一様に突然あたりまえの日常が無くなったことに気づかされる。つまりある日突然。この鉄道の乗客になってしまうのである。しかし黄泉への旅路ではなく日常への旅路につけたことは。実は幸運なことなのかもしれないしかし。乗客の中には、失語症のストレスでこの列車から途中飛び降りてしまう人もいるらしい。

僕も今は乗客の一人だけど失語症を患った方の心中を察するととても切ないものがある。コミュニケーションは僕たちを日常につなぎとめるアンカーだからね。僕も今回の乗車で、コミュニケーションと対話によって多くの学びの機会を得て飛び降りずに済んだのだ

しかし僕も永遠にこの列車の乗客でいるわけではない。あと10日ほどで下車する予定だ。今は新幹線で名古屋に向かう時の三河安城あたりといった感じだろうか、今朝食堂で聞こえてきたのは僕と同じ今月中旬ころに多くの乗客が下車するらしい。それでもこの鉄道は止まること無く年末年始を走り抜けていく下車出来ずにった乗客の人たちんにはきっと辛い空気感になるのではないだろうか。この列車は誰もが突然に乗ることになって、そして降りていく。その事情も状態も千差万別であり、実はこの列車は多くの事情客の人生のスクランブル交差点でもあるのだ、つまりこの列車の乗車は人生の通過点でしかないのだよね。そして多くの人の人生を乗せてこの列車は進んでいくのだ。

僕には他の乗客と話をする機会が無いのだけど。かつてこの列車に乗っていた医療ライターさんの記事などがネットに載っていてそれらを読むと人生の交差点満載させたこの列車の本質がよく見えてくる

この列車のもうひとつの主役がリハビリを行う療法士さんと看護師さんたちだ。僕はそれらの人たちの人生にも強い関心があったので、ぼくの心情やときには苦悩を吐露しながら対話を行った特に医療におけるある専門領域のプロフェッショナルとして、その行動を強く支えている職業倫理はどうやって培われたのか、更には実習で来ていた学生にも話を聞いた。そして、その道のプロフェッショナルがどうやって、協働して患者も含めた協調空間を実現して何に悩みながら列車を動かしてしているのかを知りたかったからであるこの列車のクルーとなる職業選択の意思決定プロセスと合わせてね。

結論的には職業並びに職場の認知及び選択の動機は人それぞれであった職業倫理の獲得も同様であった。しかしわかったことはこの列車の駆動力は学習力なのである。そこにはリハビリを受ける患者の学習力も含まれる。象徴的だったのは、国家資格を保有しんsがらキャリアコンサルタントの勉強をしたり。芸術の才能を親から受け継ぎながらこの道を選んだり、子供と同時に自分も夜間大学に入り直して正看護師の資格を取得した看護師さんなどもそうだ。休みの日も自発的に越境して勉強会に参加して技能向上を目論む療法士もいる。医師も他学部から医学部に入り直して医師になったりとこの列車はそういった人たちや人生を取り戻したいといった患者の学習意欲と学習力である。仮説の構築と検証介入と評価を継続するという科学的なアプローチを臨床の中で実践する学習態度、その根底にあるぶれない信念それらがこの思い列車を患者と職員の人生という線路の上を未来に向かって前に前にへと運んでいるのである。

そんなことを考えてからリハビリを受けたら理学療法士の口から出たのがパッセンジャーとロコモーターと言う言葉。理学や運動の領域ではよく用いられる概念なのだそうで、リハビリ病院鉄道としてはあまりにもタイミングが良すぎてびっくりしました。



パッセンジャーとロコモーター

ちなみに理学療法で使うこのベッドはプラットフォームと呼ばれます。


2021年12月5日日曜日

リハビリ病院鉄道の朝

 先日リハビリ病院鉄道の夜というブログを書いたけど、夜があれば当然朝もある。病院はさながら本当に鉄道のように。乗客である僕たち患者を、乗せて病気から日常に、向かって運んで行くのだ。だから朝はまた、前に一歩進んだ証でもある。病院の、朝は唐突に訪れる。朝6時になると消されていた廊下の電気がついて。静かにおんがくが流れ始める。看護師さんが病室の電気もつけてリハビリDAYが始まるのだ。トイレと。バイタル測定あと僕は脳年齢チェックを行い。食堂に、富士山🗻を見に行く。そして僕は今朝も素晴らしい世界が、始まったことを確認するのだ。早起きした人と。廊下で行き交うとおはようございますと挨拶するけど。でも本当は今日も一日頑張ろうと言い合っているのだ。寝ている間に機械の身体もらえる場所に到着することはやはりなかったけど今日も一日頑張れることを確認するのがリハビリ病院鉄道の朝なのである。しかも、今朝は、iPhoneが目標とした8時間睡眠を達成しましたと教えてくれた。僕がしっかりと睡眠している間もリハビリ病院鉄道は停まることなく僕たちを日常に運び続けてくれたのだ。おはよう素晴らしい世界たちよ。

富士山はご褒美。

2021年12月4日土曜日

まんじゅうこわい実りのある人生より笑いのある人生へ

 古典落語の演目でまんじゅうこわいというゆうめうなのがある。誰でも一度は聞いたことがあるのではないだろうか。さて今回僕は中途障害になって色々と怖いものが増えた、まんじゅうもその一つである。リハビリを行っている人の中には糖尿病が原因の人も少なくない僕は血糖値はこれまでもずっと適正範囲なので糖尿病の気配はない家系をみても遺伝的なリスクは低いほうだろう。しかし。先日管理栄養士の指導を受けるなかで i飲酒はもちろんコンビニスイーツも気になると指摘を受けたやや習慣化している傾向が見受けられたからね。いかなる病気だとしてもまたリハビリ入院するようなことは避けたいからまんじゅうもちょっと怖くなったのだ。もちろんこれまでの日常生活や生活習慣自体もやや怖い。あたりまえがどれだけあたりまえで無くなったのかまだわかっていないからね。この先僕の人生に落語のようなオチがあるのかわからないけど。何ら怖いと感じることに出会ったらまんじゅうこわいを思い出して。笑いのある人生にしていこうと思う


人生を笑いに

2021年12月3日金曜日

バックドラフトを乗り越えた先にネガティブ・ケイパビリティがあった。

 僕は今朝ネガティブ・ケイパビリティという言葉に出会った。解決できない事態に耐える力」のことだそうだ。なんだか僕の人生の苦難のめぐり合わせと重なるところがあった。

でも解決できないともいっていられないのでなんとか超えてきたのだけどね

k記事に出ている3つのヒントは役に立つ

1手っ取り早く答えを求めない

2,考えないで置いておく

3,日頃から芸術に触れる

答えを出してすぐに行動するという道もあるのだけど僕も今回脳疾患を患いそれは決して良い選択ではないことがわかった、更に解決できない事態が待っているだけだからね。1に気がつけば2をするしか無くなるもはやノーチョイだ、3は感性こそが応えのない世界の能力であることを気づかせてくれる。フランクルの夜と霧をおもいだすよね僕のこの状況でもふしぎと感性をしげきするものが気になるんだよね、

そうなんだ誰がなんと言おうと世界がどうあろうと僕の感性はぼくだけのものであって、僕だけの答えをどんな時にも導けるものなのである

夕日をみてああきれいだと感じるそれは僕だけが導ける答えだ。解決できない事態で一旦ワキに置いておいたとしても、僕は夕日が綺麗であるだいう答えを出している。感性は答えのないものに答えを与える唯一の手段なのである。

この世界はなんて素晴らしいのだろうか、



2021年12月2日木曜日

クビとマヒその他人生の苦難のめぐり合わせから再起する旅路リハビリ病院鉄道の夜

 結論的には信念を持って過去との決別(清算)と覚悟と学習(学び直し)すなわち新しいことに挑むことこそ苦難のめぐり合わせから再起する旅路である

僕は今リハビリ病院に入院し再起への旅をしている、さながらりはびり病院は鉄道汽車のようなものだね、同じ汽車に乗り合わせる人は少なくなく。作業療法室や理学料違法室では多くの乗客と行き交うことになるまた、食堂や風呂場でもそうだ。しかし夜になると病院はその進行を止め静かに眠りの床につく。そうするととなりの客室病室から乗客の話し声が聞こえてくる身内に迷惑をかくたくないからこの列車から降りたくないとか、乗務員(看護師)の物言いが厳しといったようなものや。遠い母国の家族に電話で話す声とか乗務員同士の歓談とかね。

さてそんな夜もあるけど大概は明日の旅路に向けて深い眠りにつくのだ。

さて乗客の中にはセンスの良い人が居てある初老のご婦人はある女性の作業療法士にメーテルというあだ名をつけた。あの銀河鉄道999に出てくるメーテルである。確かにこのリハビリ鉄道は乗客にバイオニック・ジェミーみたいな進化させてくれる機械の身体をくれることはないけど。療法士たちは乗客である僕たち患者がピカピカになる未来へ優しく手取り足取り誘ってくれるそして僕たちは夜暗闇の中で本当の幸せってなんだろうと考えるようになる。

人生に苦難はつきものだ。不思議なことに僕の人生は良いことも悪いことも複数が同時に起こる傾向があるそういうめぐり合わせなんだね。今回は会社の卒業と同時に脳溢血になった、卒業というと聞こえが良いけど株主総会での取締役再選は無いと昨年末に通告されていたので実質戦力外構想まあ、あえて自虐的に言えばクビである。そして、ほぼ同じタイミングで脳出血をおこして左半身が麻痺し現在リハビリ病院鉄道に乗って旅している。それ以前も銀行を退職し結婚して家業に就いた途端に社長であった父親が病死したとか、転職して執行役員に就任した直後に離婚したとか社長に就任した途端にに東日本大震災が起きてその3日後に母親が亡くなったとか、さすがに変なめぐり合わせが多すぎる気がする。震災と移転そして横槍に辟易として会社の代表を退任した際には新システム開発着手とMALL経営学習研究所を通じた出会いが僕の再起となった。今回は特に極め付きかもしれない。でもこれまで僕その度に再起してきた、しかしどのようなめぐり合わせにおいても変わらないのが大学の時の産業社会学組織論と師との出会いで得た信念である。僕はそれを今でも運命と感じている。さて今回も無事にリハビリの旅路が進んでいる。あの日突然立っていられない立ち上がれないことからはじまった脳疾患だけど、今は立ち上がって立っていられるようになった文字通りの再起である。先日はコーヒーを挽いて入れて飲んで立って後片付けまでしたよ。振り返るに今回ももちろんこれまでも再起は決して常に順風ではなかったけどね、今回も再起に向けて目下更に悪戦苦闘しながらリハビリ鉄道進行中という新し旅路にに取り組んでいるところだ。



そういえばこの前実家のお墓の墓誌の写真を観ていたら祖父が亡くなったのは僕が生まれた年の1月1日正月、そういえば脳溢血だったと親からきいていたなあ、もしかしたら脳溢血は遺伝だったのかな。でも祖父と違って僕は今生きている僕の体よありがとう。そもそも生まれる前からそんなめぐり合わせが僕の人生であるようだ。今回緊急搬送された聖路加国際病院は僕が出生した病院であるというのも不思議なめぐり合わせだよね、でもこんな人生を送ってきてつくづく思うのだけど。結局どんなめぐり合わせにおいても前を向いて一歩踏み出す旅路である。ことが全てなのである。それを言い換えると冒頭のようになるのだ、むぐり合わせをoutsideViewだとすると、その時僕の中でおきていたinsideViewなのである。僕はこれまでめぐり合わせた状況の変化に対して内面を変化させて乗り越えて来たのである。それは今回のリハビリ鉄道でも全く一緒だ。療法士によってやり方施術が変わった場合でも対話を通じまずは自分の内面を変化させリハビリに向き合って一歩づつ前に進んでいる前に勧めていないときはその理由は結局自分の中にあるんだよね。ぼくの再起の旅路はこのリハビリ病院鉄道でも全く同じで信念と感性という軌道の線路の上をガタゴトと前に進んでいくのだ。昨日の夕方メーテルさんに退院日の報告をして少し話をしながら。銀河鉄道の夜とか銀河鉄道999を思い起こしてリハビリ病院鉄道の夜をすごしていたらこんなブログになりました。そして、リハビリ病院鉄道の夜が明けて今日の新たな旅路がはじまりました。



2021年12月1日水曜日

チームとカンファレンス

 僕のリハビリはふくすうの種目に分かれている理学、作業、言語、心理である。そしてそれらを束ねるのが主治医だ。看護師も含めると5つの専門分野がちーむを作って僕のリハビリを行ってくれているわけだ。そして僕のリハビリに関する重要な検討ごある場合は関係者が集まってカンファレンスが開かれる。よくテレビの病院ドラマなどでカンファレンスって出てくるよね。電子カルテなどで逐一情報は共有されている今日はちょっと体調ご良くないらしいとかね。けど。もう少し長期かつ総合的な状況判断はやはり関係者が集まって議論する必要があるのだろう。だからカンファレンスとはインテグレーションの儀式なのである。そこには当事者である。僕と僕の妻そして退院後に関わるだろう人たちも入る予定だ。病院でのリハビリか終わったとしても今度は家でのリハビリが待っているからね。儀式に向けて外は浄めの雨がざんざんと降り僕も朝イチに全て着替えをして身を清めた。後は心を整えて儀式に臨むばかりなのだ。


全て整うと雨が降る


2021年11月30日火曜日

振り返り?囚われのバックドラフト現象?の悩ましい朝。

 僕は昨日、自分の人生すごろくを作ってみたくなり、スケッチブックを開いた。作り始めていろいろな気づきがあったのでそれをブログに書いていたのだけど。今朝になって書いたブログを、読み返して振り返っているのかまだ過去に囚われているのかわからなくなってきたのでそのブログを公開するのは一旦見送ることにしたも少し温める必要がありそうだ。自分の過去を記述するのは案外難しいね。客観的に観ているようでやはり主観的だし。未消化な感情まで掘り出すことになる。特にネガティブな感情を掘り返すのは。要注意だ。これも一種バックドラフト現象なのかもしれない

もう少しは掘り出した感情を眺めることにしようと思う

おちつけ

2021年11月29日月曜日

根拠と証拠の違いについて信じた私が馬鹿でしたとならないために



「根拠」は、「ものごとがそうであると主張する理由となるもの」に使われます。

これがあるからこうだと、人が納得できる理由のことを言います。

「証拠」は、「事実を明らかにする為に示す品物や情報、画像や音声などのこと」に使われます。誰もがはっきりとそうであると判断する為に提示されるもののことを言います。

違比較辞典より転載

リハビリで聞いたのは運動は筋肉のこわばりを改善するのか悪化させるのかという議論があるということです。どちらが正しい主張なのかを判断するために必要なのが証拠です。そして積極的に運動しましょうか、運動は抑えめにしたほうがいいよねという主張の理由となるものが根拠です。だから証拠に基づいて主張の正しさを納得させるものが根拠つまり判断に基づいて展開される主張の理由が根拠だね、例えばリハビリ病院がリハビリに力を入れていることは、受け入れている実習生の数が証拠になるかもしれないけどその数では本当に効果的なリハビリが実施出来ていると主張する理由として納得しない人もいっるだろう、しかし他の病院と比較して同じ同程度の患者に対する実施リハビリ時間で日常生活行動の評価得点が高くその視点で療法士の活動評価や学習機会を病院として実施している(評価項目と業績評価の実施、学習支援の内容=育成施策の時間と方法と投下費用が証拠として揃っていれば。リハビリに力を入れているとの主張に誰もが納得するだろう。根拠として成り立っていることになるよね、比較して優位性主張するにはベンチマークとなるものがどうしても必要になるベンチマークがない場合はどうしても従来比で比較するしかない。よく、テレビ通販のサプリメントや健康食品化粧品とかで、当社従来商品比で何倍有効成分が多いというのをみかけるけど、あのパターンだよね、だからより健康に効果があると主張されるとそれは全く根拠になっていないけどね。

だから根拠においては何が主張されているのかもしくは人々は何を納得したいのか重要なポイントなのである。

例えば今回の僕の入院に関してはリハビリを行ってくれる療法士の技能や信念にはかなりばらつきがあると感じている。僕が知りたい(納得したい)のはより効果を上げられる信念を保有し(成果志向)に基づいて最適な施術を行ってくれる療法士が誰なのかである。目標へのコミットメントが弱く施術に信念が感じられない療法士が行うリハビリには時間を浪費しているような印象すら感じてしまったね。

つまり根拠が証拠となるデータに裏付けされない場合主張の背後にある信念とそれを果たしきろうとする態度があれば人は納得できるんだよね。これは入院による大きな学びの一つである

でも世の中には信念を偽装して態度を豹変させる人もいる、僕も経験があるけどこうなるともはや詐欺だ、時折詐欺は騙される人にも落ち度があるといった、声も耳にするけど人は納得を通じて他人を信頼してしまうという習性があって、その習性の悪用を正当化する詭弁はその人の倫理観に大きな瑕疵があるだろうょっとしたら信念を偽装して豹変する人と同じくらい信用ならない。人が根拠を欲しがるの生き物であることをを悪用するわけだからね。だから信じた私が馬鹿でしたとならないためには徹底した証拠集めが必要であるということだ。

リハビリ病院


証拠を集めること


2021年11月28日日曜日

リハビリ闘病記あんよは上手

 僕は今リハビリ専門病院に入院して毎日リハビリに明け暮れている

今日リハビリと言う言葉はよく知られていると思うけど実際にリハビリを受けたことがある人は言葉の認知度よりも遥かに少ないではないだろうか。僕たちがよくリハビリと言う言葉を聞くのは怪我をしたスポーツ選手などのケースがおおいかもしれないね、

あとは僕のような脳疾患、脳出血、脳梗塞、くも膜下出血などを身内の方が起こした場合も漏れなくリハビリが待っているあとは関節の病気や故障怪我や骨折などの形成外科や糖尿病や事故などで義足をつける方などもリハビリを行っている、

僕は正確に覚えていないけど手術して7日目にリハビリを行っている映像が残っていた。手術など疾病に対する治療が優先される時期を急性期と言うらしい。そして急性期を超えると次に回復期が来る。僕が今入院しているのは回復期のリハビリ病院である。急性期の病院でのリハビリと違うのはリハビリの時間も強度も長く強くなることであろう、急性期は絶対安静がもちろんらしいけど、寝たままでいると筋肉はどんどん減って筋肉の質もおちるのだそうな、手術した病院の療法士に聞いたのは筋肉中のコラーゲンは72時間経つと分解していってしまうという話だった、また寝たきりになっていると1日1%の筋肉量が減っていくらしい。また関節が固まってしまうと理学療法士には出来ることが無くなるのだそうで、回復リハビリを行うにはできるだけ早期からリハビリを行うべきなのだそうだ、もちろん病状を鑑みての話だろうけどね。さて僕は専門家ではないので、僕の話は決して真に受けないで欲しい。ちゃんと専門家の診察ではんだんしてもらうことが重要だ。では個人的な感想としてリハビリは楽か辛いかで言えば、決して楽ではない。当たり前に出来ていたことをもう一度学び直すわけだからね、また。動かなくなった身体を動かす際には思い通り動かないという精神的ストレスだけでなく痛みなどもでてくる。筋力とこわばりのバランスなどをみながら療法士はリハビリを行ってくれるのだ。だからそこは専門家にお任せである。しかし、早く回復したいもとに戻りたい家に帰りたいといった感情はリハビリ中は常について回ってくる。その感情とどうつきあっていくのかも辛いところである。

更に自分の身体機能だけでなく自分のアイデンティティの学び直しという痛み、苦しみ自責、悔悟もとには戻れないことへの絶望などからの自分を取り戻す回復もリハビリの大きなテーマであるように思える、しかし学び直しが進むとと自分の体や過去への深い感謝や愛情が湧いてくるから不思議だ、それは、あるがままの今の自分を受け入れてそしてより深く自分を知るプロセスなのかもしれない、回復じゃなくてむしろ再生だね。

僕は日々死んで日々新しく生まれているのだでも前日の僕がいたから今日の僕がいるのである。

今日もリハビリで何回もの立ち上がり練習をしたけど、病気を発症する前の僕は生まれてからいったい何回立ち上がってきたのだろうか。そんなことまでリハビリは思い馳せさせてくれるのである

療法士さんは患者を1回1時間で一日何人も治療しているのだからリハビリのニーズはとても多いのでしょう。今は元気でも将来リハビリを受ける機会は思っている以上にに多いのかもしれないよ。リハビリにはとにかく時間と根気が必要であるようだ。気持ちもそうだけどそれに耐えてくれている自分のの身体にはやは感謝するしかないね、だから毎朝僕は自分にありがとうを伝えるのだ。もちろん僕を支えてくれている全てに対してもだけどね。


正しく座ることもリハビリ。





2021年11月27日土曜日

翔べ翔べエブリバディ

 僕は競馬はやらない賭け事は基本的に好きじゃないのだ。しかし馬特に馬が主人公の映画は好きだ。家にいたときはシービスケットという映画のDVDをよく観ていたさして入院中の今。契約しているWOWOW オンデマンドで夢駆ける馬ドリーマーという映画を観ている、両方とも競走馬が主役なのだけど怪我(骨折)から復帰して。大レースで見事に勝つと言った筋である。なんといっても疾走している馬は格好いい。僕は動物が翔ぶように走る姿を見るのが大好きなのだ。だか僕の犬も翔ぶように走らせて写真を撮っていた。さて、僕が入院した時妻が絵本を差し入れしてくれたその中にも馬が出てくるだけど。その馬は、まるで今の僕に、語りかけるように話をする。馬がさらに好きになってしまうよね。


僕も助けを求めたから今があるのだ。


飛び犬。

2021年11月26日金曜日

尺度を疑う初々しい感性

 僕が入院しているリハビリ病院は理念にリハビリ医療の教育研修、研究の推進と掲げているから、大学の実習生を受け入れている。僕のリハビリにも時折大学生が見学に入るのだけど担当の療法士との話を聞いているのがとても面白い。先日は尺度の話になった。患者の状態を評価するのに色々な尺度があるらしいのだけどどうもそれらが怪しいというのだ。特に古い尺度ほどあやしいらしい。学生曰く主観的な評価になりやすいらしい。主観的な尺度は尺度としては妥当性が低いだろう。だから大学生や療法士の言う通り怪しくなるわけだよね。。その話を横で聞きながらふと思い出したのは。以前とある企業の内定者が内定後の課題として作った動画である。その動画のタイトルはものさし。世の中には人それぞれのいろんなものさしがあるよねと言った内容だったように覚えている。尺度は一見客観性を担保するものに思えるけど実は人の多様性を表すものにもなっているこの内定者という半分学生半分社会人たちの感覚は的を射ていたと思うな。実習に来ている学生の感覚もそうだね。学生達の初々しい感性は物事の感じ方は人それぞれだよね。と語りかけてくるのだ。それは社会で求められる普遍的客観性という枠組みに画一性への圧力などに対する。問いかけであり疑問であるようにも思えるよね。僕はそういうシンプルで初々しい感性ってとても大切だと思うよ。

2021年11月25日木曜日

まずは描いてみよう。

アートの才能を持つ人にグラレコのスケッチブックを、見せた。正直。恥ずかしいところを晒すような行為だと思うけど。作業療法室にはこんなのも貼ってあるし。ドーンとスケッチブックを開いて見せたもちろん本当の恥部は開かないよ(笑)。思っていた以上の好反応でした。
ちょっと感性を刺激されたと言ってくれたのはリップサービスだと思うけどね。

 

2021年11月24日水曜日

違いがわかる?

 人材育成の効果を測ることって結構難しいよね。

効果は本来その組織が目的や目標としていることの達成にどれだけ有効であったかがしめされるべきだ。医療のようにある施術と他の施術に明白な完治までにかかった日数の違いを示すことが出来れば効果を測ることができるけど人材育成において、施策の実施をグループ分けして比較することはナンセンスである。医療のように効果や副作用を明確にすることが社会全体にとって大きな利益になる場合は一定の倫理やルールに基づいて許されるケースもあるかもしれないけどね。だから施策の導入前後でどんな違いがあったのかなどを比較するしかないしかし比較する2群の条件が異なる場合正しい比較とは言えない。勢い主観的な比較と効果の仮説がまことしやかに語られることが多くなる。唯一ちゃんとした効果を表出するには目的や目標などのあるべき姿がどんな能力や態度によって実現され得るのか十分に論理的に構造化され能力yや態度を正しく客観的に評価する仕組みが準備されていれば合理的に効果を説明できるであろう。

この考え方はプロジェクトマネジメントに似ているかもしれない。しかし人材育成は特定のプロジェクトのみで行われることは稀である。むしろ様々な状況や場面においても通用する人材を育成したいというニーズのほうが多いのではないだろうか専門家の育成であれば必要とされる能力や知識は特定しやすいので育成の効果も測りやすいけどゼネラリスト的要素が入ってくると途端に能力や知識の特定が難しくなる。山岳カメラマンであれば登山と撮影に関する能力知識が必要だけどプロデュースやコーディネートの要素が入ってくると必要とされる能力や知識は複雑になってくるコンフリクトも生じるからね。人の身体が還元主義的に再構成できないように、環境に応じた行動も要素や部分の積み上げでは実現できない。統合という概念が必要だからね。


でもそれは人材が普通に発揮している力なんだよね。

そんな昔のこと覚えちゃいないしそんな先のことわかんないよ。


2021年11月23日火曜日

病院から見える橋

僕がいま入院したいる病院の食堂からは川と橋が見える。その橋にはよくjrの貨物コンテナを運搬するトレーラーが走っている。そういえば、窓から見える辺りは南千住あたりである。僕がまだ小さかった頃。今のようにトラックによる集荷など荷運びシステムはまだ整っておらず。実家の商売で地方に商品を発送するときは、jr貨物の荷受け場所があった南千住まで会社の人が運転するオート三輪に乗せてもらってよく来ていた。10歳にならない子供にとってみれば車に乗って出かけるのは大変楽しいことだったのだろう、ひょっとしたら今でも南千住にはjr貨物の施設が残っているのかもしれないね。でもすでに50年半世紀前の思い出。思えば遠くに来たもんだ。窓の外に広がる感慨深い景色なんです。


 

2021年11月22日月曜日

闘病記録

 僕は6/1511時前に被殻下出血と言う脳出血を発症して救急車で病院に搬送され。すぐに、手術入院となった。切開した頭を、止めていたパンを抜いたのが!6\24まあ、抜糸みたいなものですな、リハビリが始まったのは抜糸よりも早くて。6/22そして、ブログを書いたのが7/2回復期のリハビリを、行うために転院したのが7/6でした。7/1から2に、かけて書いたブログやメールは誤字だらけでしかも意味不明なものでした。ご迷惑をおかけした方すみませんでした。ネットで買い物しても何か間違えていて全然決済出来なかったり洋服のサイズをまちがえていたりともう散々。やはり脳疾患の影響を受けていたようです。リハビリの効果もあってそちらは全く良くなりネットの買い物もまったく順調にになりました。そして、前中後の記録であり僕のブログを揉み返すと。疾患前と疾患あとそして転院後のリハビリ中でブログテーマもだいぶ変わったように思えます。疾患前は世間に対する憤りが強くてストレスを溜め込んでいて烏滸がましいい感じ、それ故発症したかもしれません。そして発症直後は自分の状態を認知認識すること見当識というやつですかね。そして。回復期リハビリ中は他者に対する興味関心も湧いてきて何やら面白いことを探している感じです。やはり回復の様子が反映されるのですね。回復って面白いです。文章を書くっていいことですね。苦手なことを習慣にしてみたくて書き始めたブログで発病直前には習慣化による快適ゾーンの蟻地獄• 6月14日んなどと習慣化を批判しているのだけど。結局僕は每日ブログを書くという習慣の快適さによって、発症と闘病の苦しみから救われているのかもしれない。こんなこと気づけるのもブログを書いているからだね。



すごい手術跡術後7日目

ペンチでぽいぽい外していました術後9日目


2021年11月21日日曜日

病で気がつくことを教えてもらう

 「もっとこうしたい」「世の中はもっといいかんじになるはずだ」まだ世間と対峙できていなかった当時の僕には烏滸がましくもそんな信念がありました。いま僕の目の前にはいつも絶望があります。私は知っています。世間を面白くするには世間を面白くしようとするのではなくただ自分が面白いと思うことを黙々とやっていくしかないのだと。しかし今回この頃の自分が文字通りしぬほどがんばってくれたから今の自分がいるのだということも改めて強く意識することになりました。彼が必死にもがきながら前に進んでバトンを渡してくれたから今がある

これは星野源さんの蘇る変態という本のあとがきからの抜粋であるこの本はくも膜下出血で2度の大変な手術を受けた星野源さんの闘病記である。あとがきの中で当時の僕とか彼と表現しているのは病気になる前の星野源さんのことで今の自分と言っているのは闘病後の星野源さんのことである。

さて、このあとがき非常によく出来ている今回僕も脳疾患で治療リハビリ入院中であり、星野源さんが意味することがよくわかる。僕も病気の前後で日常も日常の意味も大きく変わってしまった。それは、新たな学びであり気づきなのであるけど。今の自分があるのは病気前の僕であり。手術を超えリハビリに頑張っている僕がいるからだ。星野源さんは病気の前後でより深く自分にたいして感謝できるようになったのだね。これはピアニスト西川悟平さんと通じるところがあるよね。西川悟平さんも筋ジストニアという難病でピアノが弾けなくなるとい困難直面しその後動く指でピアニストとして復活を遂げている大切にしているのは言霊で動く指にいつもありがとうと感謝の言葉をかけているのだそうだ、

今回入院中の僕をはげましてくれているのは、当時の僕が書いていたグラフィックレコーディングのスケッチブックであり。当時の僕が撮りためていた愛犬ルイの山のような写真である。当時のような躍動感溢れた写真を一緒に走りながら撮ることはできないかもしれないけど、

今ぼくがバトンを受け取っていることに違いない。今後僕ができることは、自分が出来るやりたいことを黙々とやっていくしかないのだ。でも今があるのは、以前の僕がいたからであるそれは間違いなく今回の病気が教えてくれたことである。ありがとう今までの僕、今の僕。もちろんいままでもいまも僕をささえてくれるすべての人やものたちよ。こうして僕は人生の深みを覗き込んでいくのかもしれない。

君がいたから僕がいる

2021年11月20日土曜日

本当に大切なものは目に見えない

 無形資産シリーズ、第三弾は目に見えないものです。本当に大切なものは目に見えないのだよ、とい言うのほ。サン=テグジュペリの星の王子様の有名な一節だけど、僕たちの今の社会においては、繋がり絆、夢、きぼう、勇気、謙虚、慈愛気づき、規範、互助などがそれに該当するだろう。これらはみんな大事に思っているけど行為として見ることはできても、概念そのものを見ることはできないよね。今回の新型コロナ感染では、ワクチンの開発な科学技術の果たしたやくわりは大きいけど、それ以上に一人一人の意識と行動が重要であることが実証されたよね。意識と行動が緩んだところでは。科学技術と法規制を持ってして感染拡大を防ぐことができなかった。そしてたくさんの大切な生命が失われた。大佐でものの順番を間違えたところではクラスターが発生していた。もちろんきれいごとだけでは世の中済まない。きれいごとが大切なのではなくなにがほんあに大切なのかに気づけることが大切なんだよね。産業社会は地縁血縁をベースにしたコミュニティを破壊し産業社会を前提とした人間関係に書き換えてしまった大切なものが余計に見え難くなったよね。

産業化社会工業化社会
が真っ先に破壊してきた大切なものがいま、無形資産として復権してきているのかもしれないね

伝統と情熱も大切なもの。

2021年11月19日金曜日

俗説を疑え。

生まれ順が遅い子は他者を助けやすい…思春期の脳発達が影響こんな記事が配信された

注目すべき点生まれ順が思春期の脳や社会性の発達に影響を与えることを明らかにした、初めての成果となる。という部分だよね生まれた順が性格などに与える影響はもっともらしく様々な説が展開されてきた。裏を返せばこれまで言われてきた諸説はどれも解明されたものではなく、経験則と観察者による仮説に過ぎないということを言っているのに等しい、実はこうした都市伝説的通説がまことしやかに語られるケースは少なくないその背景には実証や解明が困難だけどある人の立場や考え方を補強するのに都合が良いから利用されやすいという状況があるように思える。そういった理論化された通説をどのように実証的に検証するのかは、今大きな課題にもなっている。通説は根拠と言えないからね。これは心理学とか社会科学だけでなくリハビリにおける理学でもおんじような状況があるらしい。ある施術が効果的だといわれているけど本当に効果があがるのかよくわかっておらず最近はその検証が、多いらしい。実証検証が、難しいものは、条件のコントロールが難しいものがおおい。自然科学では。条件をコントロールして誰でも同じ条件の元で再現性を確認することができるけど社会科学では同じ条件を、揃えて実験することはまず困難である。人も環境もも常に変化しているからね。僕はしっかりと検証された根拠こそが科学の本質だと考えている。少なくともそれを守るスタンスを大事にするべきだと思う。もちろん偉人よ思想とそれを支持する人達がダメなわけじゃないけど、思想を科学的な真理であると標榜するのは間違いだよね。科学的唯物論にも問題はかなりあるけどね。1番いけないのはごちゃ混ぜにして都合よく使うことだよね

科学か信仰か


2021年11月18日木曜日

未来の価値は誰のもの?

 僕たちの社会がその資源有限性や環境の脆弱性に気づいたことで僕たちの未来は資源や環境を直接消費しない無形資産に託されることになった。その最たるものがいいね。だろう。フォロワー数登録ユーザー数が個人のそしてサービスの資産となって。情報が消費される仕組みが構築されたのだ。情報の消費はサービス利用を反転させる両面市場を生み出した。利用しているようで実は利用されているのだ。この問題を組織と人に置き換えるとどうなるだろうか、従業員は会社を利用しているようで実は会社に利用されている。実はこの関係性は新しいものではなく古典的な雇用関係なのである。従業員は会社と契約し帰属することで、経済性と社会性の欲求をみたすことになる。会社は従業員を専有し時間を拘束し生み出した価値から収益を上げるつまり雇用関係とは会社という仕組みを使った無形資産の交換システムなのかもしれない、

この事実が露見するのが特許開発に関する係争だよね、中でも青色発光ダイオード裁判は有名だよね。独創的なアイデアという無形資産は会社のものなのか個人のものなのか。もし会社と従業員が雇用契約でなくウーバーイーツみたいに事業者同士の契約であれば無形資産の等価交換システムが成立するのかもしれない。価値をどう算定するかは別問題としてね、要するに無形資産優位の時代において、雇用契約はそぐわないのかもしれないね

実際、おおくの無形資産を生み出せる人は特定の会社には帰属していないよね。逆に会社が必要としていない無形資産を生み出せない人ほど、会社に帰属するとメリットが生じる。会社にとってみても未来の価値たる無形資産はうみだせないけど、資源をかき集めて加工して今日の価値において換金する手数が必要だ。事業と呼ばれる仕組みには人的資源が必要なのだ。結局無形資産の議論とは未来の価値は誰のものなのかということなのかもしれないね。

そう考えると、小学生がユーチューバーを目指すのも案外理にかなっているのかもしれないなぁ

未来の価値はどこにある?


2021年11月17日水曜日

創造性か死か

 欲望の資本主義というNHKの番組で。今はすでに無形資産の時代に突入しているとのことだった。工業化社会では有形資産が財を生み出す資源として需要であったがictの時代を経て人々の欲望を満たすのは無形資産になったというのだ。確かにgafaの価値を生み出しているのは利用登録者とそれらのネットワークという無形資産である人が持つ技術や能力などの人的資産、デジタルソフトウェアなど、モノとしての実体が存在しない「無形資産」。肥大化する無形資産は僕たちに創造性と成長を強要する。創造性と成長が無ければ死が待っているというのだ。しかし実際に創造性を発揮した企業はGAFAを追い掛けているが。そうでない企業はどんどん消えていっている。

一時新卒の採用を行っていたとき応募してきた学生はどんな会社に就職したいですかと質問すると一様に自分を成長させてくれる会社に就職したいと応えていた。その時僕は若者の成長への願望と受け取っていたのだけど実際は成長しなかったら終わりだという社会の圧力がのしかかっていたのかもしれないね。なんとなくその圧力は60歳を迎えるぼくにも掛かっていることを感じる塩見三省さんが表現した俺って社会の異物じゃんと感じさせる社会の圧力だ。今回脳出血になって、いまできることのなかでより深く人生を考える転換点に来ていることに気づいた。より早く成長するのではなく。

ひょっとしたら個人も人生の深みと言うそれぞれ固有の無形資産の時代に突入しているのかもしれません。創造性か死か利用しているようで利用されている皆それに気づいているからね。