2013年4月10日水曜日

「経験という牢屋」の看守と囚人もしくは上司と部下

話題になっている東京造形大学学長の諏訪敦彦さんの2013年度入学式式辞ですが、牢屋であれば看守と囚人がいるでしょう、と、そこで思い出したのが「スタンフォード監獄実験」です。

これは、特殊な役割を与えた心理実験で、役割に沿って行動が「演じる」から「染まる」に強化されることが確認されました。

基本的な人権が尊重され、複雑化する社会において、監獄実験ほど極端な現象は観察されないのかもしれませんが、人類が「社会性」という生存戦略を持つ中で、「役割」の持つ意味は重要です。「役割」という外部環境を利用する行為的適応によって「社会性」を知覚し表象しているからだと考えます。

例えば、職場における上司という役割。目的に対して、部下に指示を出す役割です。部下は上司の指示に従う役割です。この場合の「職場」=「経験」でしょうか、「職場」=「牢屋」(汗)でしょうか。
「職場という牢屋」のほうが「経験という職場」よりもわかりやすいです。
「監獄という牢屋」では、看守は囚人に規律を守らせる役割で、囚人は規律に従う役割です。

「職場」でも「監獄」でもこの役割通りになっていれば「社会性」が機能します。
実際には、それが上手く行かずに役割双方にストレスが溜まり、いろいろな事・事件が発生します。「監獄」はそもそも「社会性」に問題がある人が入る場所ですので、「社会性」が維持されるのは困難です。前述の実験では実験自体が破綻しました。まさに「監獄」は「牢屋」です・・・

「職場」をスピンアウトする人にとっては、「職場」は「牢屋」みたいに感じているかもしれません。逆に「職場という舞台」という「社会性」での役割に情熱を燃やしている人もたくさん居ます。
諏訪さんの「経験という牢屋」という表現にどう反応するかは、人それぞれであり、それ故に良い問題提起になっているのだと思います。良設定問題ではありませんから、看守であっても囚人であっても「牢屋」なのか「舞台」なのかは本人のみぞ知る、というこで締めようと思います。


ほんとに牢屋がある