鏡がなくても生きていける。
自分の顔なんて一生直接見ることはできないし、メイクや身だしなみを気にしなければ、鏡のない世界でも人は何不自由なく生活できる。6MoN(ロクモン)だって同じだ。自分の選び方や行動のクセをいちいち可視化しなくたって、私たちは日々それなりに判断し、日常を流れるように生きていける
では、なぜ人は鏡を覗くのか。
そして、なぜ私たちは「遊び」に興じるのだろうか。
動物行動学において、動物が見せる「遊び」には、ちょっと不思議な5つの基準がある。
いま直接役立つわけではない(非自明な機能)
誰にも強制されていない(自発性)
通常の行動パターンを崩し、大げさにやる(変化・誇張)
型にはまらず何度も繰り返す(反復)
天敵や空腹などの恐怖がない(ストレスのない状況)
子犬たちがじゃれ合って噛みついたフリをしたり、大げさに転げ回ったりする姿を思い浮かべてほしい。あれは「命がけの狩り」でもなければ「リアルな戦闘」でもない
この「動物の遊び」の構造は、人間が持つ最大の解放空間、「非評価という倫理空間」と完全につながっている
人間は社会に出た瞬間から、常に何かの「物差し」に晒されている
そんな評価の脅威をすべて遮断した場所——それが「非評価の空間(倫理空間)」だ
誰からのジャッジも受けない安全な場に置かれたとき、人は初めて「いつもの効率的な動き」をあえてストップできる
そうやって、あえて型を崩し、いつもの自分を誇張したり選ばなかった選択肢(不選好)をいじくったりしながら「別の選び方」を安全に試行錯誤する
鏡なんてなくても生きていける
「自分はこんな癖で動いていたのか」と気づいて面白がり(気づいて嬉しい)
遊びとは、何の役にも立たない無駄な時間ではない。
評価の圧力でガチガチに固まった私たちの認知を解きほぐし、昨日までの自分を超えていくための、極めて創造的でしなやかな「生のツール」なのである
さあ、非評価の倫理空間で遊んでみますか?
