「過去と他人は変えられない。変えられるのは自分と未来だ」——人材育成や自己啓発の場で、私たちはこのフレーズを耳にタコができるほど聞かされてきた。しかし、近年の科学的知見に照らし合わせると、この常識は少しばかり怪しい。
まず「過去」と「他人」について考えてみよう。確かに、客観的な事実としての過去を書き換えることはできない。しかし、脳科学における記憶の研究によれば、記憶とは過去の出来事をそのまま再生するビデオテープではなく、思い出すたびに脳内で再構築される「ネットワークの生成物」に過ぎない。つまり、現在の解釈や感情によって、私たちの記憶としての過去は常に改変され続けているのだ。また、「他人」にしても、洗脳やマインドコントロールといった悪用事例を引くまでもなく、環境や心理的アプローチによって他者の行動や考えを変容させる手法は無数に存在する。決して「変化不能な絶対物」ではない。
一方で、変えられるはずの「自分」や「未来」も、そう容易なものではない。脳科学における「自由意志」の研究では、人間に認められているのは意図を起こす自由というより、発生したインパルスを抑制する「自由拒否(Free Won't)」に過ぎないという指摘がある。私たちは「こうしよう」と未来を自在にコントロールしているつもりでも、実際には無意識の衝動のなかで「それを選ばない」という拒否権を行使しているだけなのかもしれない。
だとすれば、思い通りの未来を切り拓くことは極めて困難である。自身の行動パターンや無意識のメカニズムを深く理解し、客観的に自分を映し出す「鏡」を持たない限り、人は過去の習慣の延長線上を歩み続けてしまうからだ。
「過去と他人は変えられない、変えられるのは自分と未来」。 この耳当たりの良い言葉を妄信せず、研究の知見を素直に受け止めるならば、現実はこう書き換えるべきだろう。
「過去と他人は変わり続ける。本当に変えにくいのは、自分と未来なのだ」と。案外この方が皆納得感があるのではないだろうか
