2026年6月6日土曜日

人生の意味を問うのではなく人生から意味を問われていることに気づこう。

私たちは「環境」という足場を使って生きている。たとえば、地面が固いからこそ立って歩けるというのは、そのもっとも身近な例だろう。しかし、環境は決して一様ではない。だからこそ環境の変化に応じた「適応」が生じるのであり、チャールズ・ダーウィンはその適応の積み重ねが進化につながると考えた。

私たちにとって、社会もまたひとつの環境である。それゆえに「社会不適応」という状況も生まれてくる。ただし、社会が地面などの物理的環境と少し異なるのは、私たち自身がその社会の構成員(一部)であるという点だ。私たちが社会の変化に適応しようとすることで社会自体も変化していくという、一種の「相互干渉」の関係がここにはある。

例えば、新卒の新入社員が職場で不適応を起こして早期離職したとする。すると職場側は、何らかの対策を講じて次の適応を支援し始める。しかし、これはあくまで「不適応への対処」であり、組織を否定するような「反組織的態度」までをも受容するわけではない。近年、多様化する価値観を受容していく「DEI(多様性・公平性・包括性)」は世界的な趨勢だが、社会そのものに敵対し、破壊するような価値観までもがDEIの対象になるわけではないだろう。なぜなら、それは自分たちが立っている「足場自体」の否定にほかならないからだ。

自身の足場を否定してしまえば、もはやそこに進化や成長は望めない。

私は脳卒中で片麻痺になり、道路の微妙な傾斜や凹凸が、これほどまでに歩行の障害になるのかという現実を突きつけられた。そして、その環境に適応するための訓練を重ねるのか、あるいは屋外を歩くことを諦めるのかという、シビアな選択を迫られたのである。

私は、これこそが「人生からの問い」なのだと実感している。片麻痺になった自分の人生にどんな意味があるのかと問うのではない。この片麻痺という現実のなかでどう生きるのか――いま、人生の側のほうが私に、その生きる意味を問うているのだ。