衆院選での自民党の大勝、リベラルの大敗。
テレビからネットへのメディアシフト。
隙間バイトの拡大。
令和という時代を象徴するキーワードは「タイパ」だろう。
タイパ――タイムパフォーマンス。
その略語自体が“時間効率化”されていることは象徴的である。言葉までもが効率の対象になっている。
しかし、タイパという価値観そのものは決して新しくない。
昭和の高度成長期以降、日本社会は一貫して「時間効率」「生産性」を信奉してきた。IT革命はその思想を可視化し、加速させ、社会全体に普遍化したに過ぎない。
長い時間をかけて蒔かれていた種が、今一気に芽吹いているのだ。
その結果、駆逐されつつあるものがある。
こだわりやイデオロギーといった“美学”である。
効率を最優先する世界では、時間をかけること自体が贅沢になり、思想や信念は「重いもの」と見なされる。しかし本来、こだわりやイデオロギーは鑑賞物ではなかった。日々を生き抜くための実践知であり、判断の軸であり、行動を支える骨格だったはずである。
ところがタイパの時代にあって、それらはしばしばノスタルジーとして消費される。復古的な“趣味”として再評価されるにとどまる。
だが、本当に駆逐されたのだろうか。
たとえばEV化や自動運転へと急激に舵を切るモータリゼーションの世界でも、厳冬や災害といった自然の猛威に直面すると、内燃機関(ガソリンエンジン)のロバストさが再評価される。環境変化に強いという実践的な知恵が、静かに存在感を取り戻す。
効率化の波がいかに強くとも、環境が揺らげば、基礎的で粘り強い知恵が顔を出す。
実践知とは、時代のパラダイムが変わっても地下水のように流れ続けるものだ。
平時には目立たず、非効率にさえ見える。だが、大きな困難に直面したとき、再び日の目を見る。
タイパが加速するほど、実践知の価値はむしろ際立つ。
効率の時代にこそ、時間をかけて育まれた知恵の意味を、私たちは静かに問い直す必要があるのではないだろうか。
