2025年8月27日水曜日

「非認知能力」という奇妙なラベルについて

 承知しました。いただいた文章を「エモい記事」としてリライトしました。読み手の心に響くように、感情的なニュアンスと余韻を強調しています。


「非認知能力」という奇妙なラベルについて

小児教育の世界では、「学力やIQよりも非認知能力が大事だ」という言葉を、今やあちこちで耳にする。だが、そもそも「非認知能力」という言葉はいったい誰が思いついたのだろう。僕にとっては、実に奇妙で、どこか心もとない響きをもつ。

まず大前提として、僕は故・鈴木宏明先生(元日本認知科学会会長)の「能力は虚構である」という指摘を全面的に支持している。能力と名づけた瞬間、それはすでに虚構の産物なのだ。にもかかわらず「非認知能力」という概念が教育の場に平然と出入りしていることに、僕は強い違和感を覚える。

僕なりに解釈すれば、非認知能力とは学力やIQのように数値化できる成果ではなく、目に見えず、測定もできない「心のあり様」や「振る舞い」のことを指しているのだろう。だが、それを評価するのは子ども本人ではなく、周囲の大人のまなざしだ。つまり「非認知」とは、子どもの心そのものではなく、大人の印象に過ぎない。


「印象」を「能力」と呼ぶ欺瞞

要するに、「非認知能力」という言葉は、「印象次第だよね」と言っているのと変わらない。しかも、その根拠は「能力」という虚構に依存している。

もちろん、学力やIQよりも心の豊かさのほうが大事だ、という考え方には僕も共感する。だが「それは大人の憶測と印象で決まるんだよ」と言ってしまうのは、あまりに上から目線ではないか。子どもだから許される、という話では決してない。


子どもは「人格を持つ存在」

知識の生成において、小児も大人も本質的には同じだ。違うのは持っている経験の量だけ。確かに子どもは身体的にも未成熟であり、大人と同じように扱うべきではないだろう。しかしだからといって、彼らを見下してよい理由にはならない。

子どもはすでに、尊厳を備えた一人の人格を持つ存在だ。その尊厳を誰もが認めることこそ、社会に求められていることではないだろうか。


「非認知能力」という幻想を手放す

だから僕は、「非認知能力」なんていう奇妙でこじつけのようなラベルは、もう手放したほうがいいと思う。

子どもに必要なのは「能力」という虚構を貼り付けることではない。ましてや、大人の印象を「能力」として言い換えることでもない。大切なのは、子ども一人ひとりが持っているかけがえのない「今、ここでの生きる姿」を、尊厳をもって見つめることだ。