決定論的に言えば、僕たちの人生における時間は決まっていて変えることができない。
もちろん、どれだけの時間があるのかは人それぞれだし、前もって知ることはできない。
ただ、時間の流れに乗っているのは僕たちだけでなく僕たちを取り巻くもの、全てだ。
要するに一方向に流れる時間を変えることはできない。
すくなくとも現代においてはね。
だから僕たちの時間とともに僕たちの周りの時間も流れ、状況は刻一刻と変化する。
さて、僕たちは時間に沿って自己ならびに外部の認知を行っているのだとすれば、僕たちがある瞬間に得られる情報量×時間が、情報の総量ということになるのだろう。
情報感度の個人差を無視すれば、一定時間における情報の総量は誰もが平等になるはずだ。
同じ日、同じ時間に生まれ、同じ日、同じ時間に死ぬ場合、エクセルで計算すれば総時間数は等しくなる。
しかし、経験において誰もが平等だと考える人は居ないだろう。
情報量と経験はイコールじゃないからね。
経験は、主観的認知と外部観察による記述可能な出来事だけど、特別な出来事として、その他の情報と区別されている。
ではそこに明確な基準があるのかと言えばそうでもない。
ある時は普通の、でもある時は特別な出来事、ということも少なくないよね。
裏を返せば、経験は絶対的なものでなく、僕たちの自由意志によって相対化できるものだ。
つまり僕たちがなすべきことを定めて行動すれば普通の出来事も特別な出来事になるし、差別や搾取、抑圧などの社会的に他者の人間性を手段化し意志を奪う悪の力が働かなければ、それを自由に決めることができるのである。
だからこそ、僕たちは経験を自由意志によって相対化する自律性を身につけなくてはならない。
良い社会をなす経験