2022年7月9日土曜日

学習を阻むゾンビドグマ(教義)

 嫌な気分で昨日が終わりそれでも夜は開け新しい朝が来た希望の朝だ。希望の朝にはどんなことを考えるのが適切だろうか。僕は学習のことをかんがえることにした

学習にはきっと色々な定義があるのだろうけど僕が考えるに学習とは知識を得て信念や生活様式が変わることである。獲得と変化の2つのフェーズで構成されるものだ、学生時代に行う学習は主に獲得を指しているだろう一方で自立してからの学習は変化に重きが置かれるのではないだろうか。自立とは為すべきことを定めて保有する能力をもってそれを遂行することだから何事でも自分で決めることができる状態だ。だから常にどう在るかが大切になるわけだよね。僕は教育者じゃないけど仕事で何回も研修の講師をやった。研修の目的に沿って達成目標を定め、受講者に知識と体験を渡していくのだけど。研修実施直後に残念な思いをしたことが何度もある。律儀な受講生が僕のところにきて、勉強になりましたとお礼を言いに来るのだ。知識は常に文脈の中で創発するものであり、情報は渡すことが出来ても知識渡すことはできないのだをそれを体感してもらうために情報と同時に疑似体験を準備するのだけど、疑似はどこまでいっても疑似であり、樹上者の本物の文脈にはならない。期待するのは受講者の生きた文脈の中の知識を創発してもらうことなんだよね。それが出来ている場合出てくる言葉は勉強になりましたじゃない。何をはじめてどう変わるかであってほしいよね。それこそ、受講生の中で創発が起きた証だからね。でも、これかなり難しかった。僕の技量の問題だとは思うけど、受講生が研修慣れしてしまっていたことにも一因があったように思えるまた、学習の前提である自立の状況もあるよね。会社の中では知識よりも作業が優先させられることも少なくない。工業化の時代の頭は家に置いてきてとにかく手足を動かせというゾンビドグマ(教義)が今も風呂場の黒カビのように根強く残っているのだ、仕事を時間で測る思想もそのひとつだと思う。知識を創発することより、作業が大事、作業はやらなくてはならないことだから優先する、でも自立した人間として本来やるべきことが定められないのは致命的な問題だ。ゾンビドグマ(教義)が社員の自立をどこまでも妨害する、これが組織の中でなかなか真の学習が行われない遠因になっているのかもしれない。なんだか最後は希望の朝っぽい終わり方じゃなくなってしまったなぁ(苦笑)希望と言えば、今回の新型コロナウイルスの影響で働き方が一気にかわってきたことかもしれない。在宅や副業によって個人がどう知識を創発するのか、組織としての創発の文脈をどう作るのかが課題として顕在化されたので、これを機に工業化時代のゾンビドグマが一掃されるかもしれない、これはきっと希望に違いない。ないないない。

ゾンビドグマに汚染されているとゾン会社になっちゃうぞ~