最近良く聞く言葉に説明責任とエビデンスベースド(証拠主義)がある。しかし文学の世界では説明をすればするほど伝えたいことが7伝わらない。例えば、昔僕が暮らしていた下町の魚屋では店頭に生きたドジョウがはいった水桶が置いてあって、蹴とばすと驚いた土壌が大騒ぎになる様が面白かった。でも、こう説明的に書くとそのプロセスは伝わるかもしれないけど、僕が感じた面白さは伝わらないかもしれない文学的に書くとしたら子の一撃で水底の黒いかたまり上へ下へ。くらいの表現の方が良いのだろう。説明というのはことを記述することだ。一方、心が伝わるのはものが描き出す読み手の心の想像力である。そう、伝えるとは実際を知らない受け手の想像力を呼び起こす行為なのである。この観点で、音楽や美術を捉えるとよくわかるのではないだろうか一方で冒頭に記載した説明責任証拠主義とは現実が祖語なく伝わるようあらゆる事実を並べたてようというものだ。これは、事実に対する判断が間違っていないことを明らかにしたいから行われるのだ。ほーらあなたもそう判断するでしょ?私の判断は間違っていないでしょという判断の正当性を示すための言い訳みたいなものだ。子供のころ、悪戯や遊びの度が過ぎて何かを壊して叱られたときに言い訳をした記憶は誰にでもあるだろう後ろめたさを転嫁する行為である。言い訳をすると誰もがこの子供の頃の後ろめたさを呼び起こしてしまうから、嫌な気分になる、人の言い訳を聞くと嫌な気分になるのはきっとそのためだ、だから、説明責任とか証拠主義と聞くと何だか嫌な気分になる。感動や気づきといった心の陽の働きではなく陰の働きだからね。その根底にあるのは不信でなのある。だから僕は敢えて、反証拠主義、説明無責任のすすめをする。
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