今日は#脳卒中サバイバーの犬暮らしnoteの愛と言う生き物日記と連作のブログである。
noteはルイちゃんの好奇心と冒険心についての観察日記だけど、ブログはもう少し大きなテーマ身体と心の問題である、noteに書いたけど生き物の定義は好奇心と冒険心を持つものと言えるかもしれない。
あの嫌われ者のゴキちゃんだって、何故かやっつけられに近づいて来るよね~。(恐怖)
雉も鳴かずば撃たれまいにで、隙間でじっと身を潜めていればいいのに、出てきて時に近づいて来るのは何故か、ゴキちゃんに心があるかどうかはしらないけど、モノに対して接近したり逃避したりはするよね。iphoneにそれは出来ない
モノが食べ物ならば大当たりぃ~だけど、人間だったりすると大外れぇ~ということだ。
さて、生き物にはもうひとつ共通の特徴があって、移動手段となる身体と触れたり嗅いだり舐めたりする器官を備えている。
つまり生き物はモノではなく、コトを為す存在つまり生き事なのである。
かつて生き物と名付けた人はなぜ、生命持つ存在にモノ的言語化をしてしまったのだろうね。
この世紀の大間違いが僕たちの生き物観を歪ませて続けているのだ、例えば、僕は脳卒中で後遺症が障がいが出て社会の異物になってしまった。
今日の高齢者化社会においても認知症傾向が出てくると異物扱いだけど、これらはそもそも人間を(生き)物とするモノ的生物観に端緒があるのかもしれない。
障がい者だって認知症の高齢者だって生きることを壊れたiphoneじゃない。
生きコトをしているしちゃんと出来るのだ、にも拘わらずモノ的生物観によって異物扱いされはじめる。
僕は「生き物」という言語化を誰がしたのかしらないけど、その人のセンスの無さと罪深さには心底あきれるのだ。
もしタイムマシンが出来て過去にいけるとしたら僕は言語化した瞬間に飛んで行って絶対に「生き事」に変えさせる。
ではなぜ、僕達も、昆虫も「生き事」なのかと言えば。身体は物としてでなく事として出来ているからなのだ。
動かなくなった僕の左手は異物じゃない。僕にモノとしてではなく生きる事を教えてくれる教師だ。
さて連作の日記では好奇心、冒険心といった心の存在がテーマだったけど、心は物にはなく事に備わっているものなのである。
そして、身体はことを成すために存在する。
そうなのだ僕たち(生き事)の心は頭の中や胸の奥にあるのではなく身体に(手に足に口に鼻に目に耳に舌に内蔵、腸に肛門に性器にあるのだ。
心とはことを成す身体のことなのである。
