起業の採用担当者や人事責任者が就活生に求める力no.1は間違いなくコミュニケーション力である。
しかしこのコミュニケーション力というのは、いい学生が欲しいというこのうえなく曖昧な人材像と何ら変わりがない。もし企業の担当者やキーマンが採用コンサルにいい学生が採用したいんですなんて言ったらふっと鼻で笑われるのがおちである。そしてもっと具体的に言ってくださいとしたり顔でやりこめられる、採用コンサルにとっていい学生というマジックワードは食いつきやすい美味しい餌である。で担当者やキーマンは、一生懸命考えて現場で起きている現象 を説明しながら、そうそう、コミュニケーション力が高い学生だと、ひとりうんうん頷いて納得するのだ、しかしこのコミュニケーション力の高い学生というのはいい学生の言い換えにしかなっていないことを気づきべきなのである。
例えば英語でコミュニケーションがとれる学生と条件を少し厳しくすればわかりやすいだろうコミュニケーションとは双方向の意志の伝達や交換だから相手があってはじめて成立する行為なのである。言わずもがな。
文脈依存性、環境依存性の観点からみればコミュニケーション力という能力自体アブダクションによる虚構なのだ。
僕は昔、卒業旅行でイタリアからフランスまで寝台列車に乗って移動した。
同じ寝台には、イタリアの若者も乗っていたけど、彼等はまったく英語が理解できなかった。僕は英語は得意じゃなかったけど、学校教育のおかげで、挨拶程度の語彙はあった。
しかしイタリアの若者とは挨拶も出来なかったのだ。
しかしもし僕の旅行先がアメリカだったらまったく話はかわっていただろう。
実際英語圏であるオーストラリア、ニュージーランドに行ったときは、タクシーの運転手と言い争い(一歩手前)が出来たのだ。
オーストラリアのタクシーには乗り合いの習慣があって、空港から街に出た時、乗り合った人の目的地に途中寄って回り道をして、その人からメーターの料金を徴収しているのに、僕達が目的地についた時もメーター通りの料金を請求されて、僕は”not straight"とドライバーさんにたてついたのである(ラグビーか(笑)?
エイトがアイトになるオーストラリアにおいても、ぼくはドライバーさんとコミュニケートしたのだ。
もっっとも、乗り合い文化が定着しているドライバーさんに僕の怒りの意図は通じなかったと思われるし、同行していた友人が止めにはいったのでことなく終わったのではあるが。
そこで問題です。この2つの出来事を通して僕に英語のコミュニケーション力があるかないか評価できるでしょうか。
正解はもちろん「無い」なのだけど、言いたいことはコミュニケーションというのは常に相手があって成立しそこには、文脈や状況が必ずついてまわるということなのである。
ただ経験からわかることは僕は無謀にも、相手の文脈や状況を無視して自分の意志を伝えようとする意欲はあった。だからコミュニケーション意欲はあったということになる。
教室で先生が生徒に「わかった人は手を挙げてください」と問うと実はわかっちゃいないけど元気よく手を挙げるそんなようなものだね。
意欲的に手を挙げる学生がいい学生ならば僕はいい学生だけど、コミュニケーションを通じて目的を達成できるのがいい学生だとすれば僕は選考で落とされる学生だ・(だってイタリアの若者と挨拶できなかったし、オーストラリアのタクシードライバーから値引きは勝ち取れなかったもの)お祈りされてご縁がございませんでしたで終わりである。ちーん
僕がここで言いたいのはこれまで2回ほど書いたペーパードライバー問題と同じで、能力なんていう内在し独立的にに存在するモノ的力の実態は無い(だから見極めたり測ったりもできない)ということなのである。だって無いんだもの。
もちろん会話によって目的を達成するための経験記憶のリソースとボキャブラリーと言う情報記憶のリソースはある、コミュニケーション力とはそれらと状況のリソースと組み合わせて統合し創発するその場その場での知識を発話傾聴といった身体性で発揮することなのである。だからリソースの有無と身体的機能それらを創発することがコミュニケーション力の本当なのである。
