自分の外的状況となめらかにカップリングして創発する適応的反応。それは、客体視すると「自分の時間を生きる」という、「生命」のひとつの本質的な様相を呈しています。
一方、人間の内的意識には、自律的に思考し、判断し、行動する、天動説であり中央集権的な自分の存在があります。この中央集権的な意識は、時として「生きている実感」として充実感、達成感、幸福感を醸成します。
そもそも、「脳は身体のコントローラーである」(「現れる存在―脳と身体と世界の再統合」 アンディ・クラーク, 池上 高志, 森本 元太郎 )という視点で捉えると、脳は客体視において「自律性」を実現しているはずですが、主体的な「自律性」は外的状況との衝突つまり不適応を生み出す原因になっています。
例えば、組織において「主体性」と言えば、状況に適応した自律的行動を差しますが、個人にとっての「主体性」は「自分の正義」であることもあります。組織の外に広がる世界への適応であれば、高次な適応的反応である一方、「見下し」「非難」「自己正当化」は状況への不適応です。
適応と意識の関係を反転して考えると、意識による不適応ではなく、無意識の不適応反応、もしくは、無意識の適応反応不全に対する意識化と考えられるかもしれません。
この考えの根底にあるのは、「脳は、意識より前に行動を起こしている」という脳科学の知見です。
外的状況とのカップリングが複雑かつ広範になればなるほど適応反応不全が起こるのは、そもそも身体性の問題であると仮定し、意識と切り離すと世界はどのように反転するのでしょうか。
「無意識の身体性と社会性の関係」について引き続き考えたいと思います。
かもめに生きている実感や自己正当化はあるのだろうか?