その力に大きく貢献するのが国語力です。
さて、文章を読んで要旨を掴むということは、ひとつの技能でありスキルです。つまり、トレーニングを積むことで身につくことです。
ところが、問題はスキルを身につけることは、スキルを学ぶことでは無いことにあると考えます。「スキルを学ぶ」とは、あるスキルの習得を通じて、未経験のことにも適応できるスキルに対する理解の到達を意味します。
つまり、本質的な課題は、自律的にスキルを身につけるために何をすれば良いのか?を体感することにあると考えます。
例えば、自分なりに「現場主義」という学習方法を身につけたのは、その方法を教わったからではありません。授業を受け、試験に臨み、達成感を得られる成績を得るためには、試験前に集中的に勉強するのではなく、とにかく日々の授業をしっかり聞く事であるということを身を持って実感したからです。大切なのはハウツーではなく、気づきとその結果でした。
私は教育の専門家ではないので、まったくの私見ですが、その後の仕事経験も加味したうえで、与えられた枠組みのなかで自分の視点に気づくことが教育の本質かもしれないと思います。一方、表面的な教育とは、枠組みの習熟を学ぶ者の視点としてしまうこと、要するに方法論のコピーです。守破離で言えば、破離が無い教育とは、単なる複製ということで、オリジナルを決して上回れないどころか、むしろ劣化して行くものでしょう。
もし、次世代が劣化していると感じたら疑うべきポイントです。
では、どうしたら良いのか、自分なりに考えてみます。
一定のフレームに落として、作業をさせ、その中で気づきを与えることは重要なアプローチだと思います。事実、自分は学校教育の枠組みのなかでそれに気づきました。
しかしフレームに落とせば必ず気づきが得られるかと言えばそうではないことも実感します。それはやり方を身につけることであり、その場面でしか力が発揮出来ない限定的な能力でしかありません。大切なのは、異なる場面でも発揮出来る能力を身につける事でしょう。
他者を気づかせることのヒントは、やはり自分が気づくことではないかと考えます。どんな場面でも自分自身が気づくことによって、「気づくこととは何か」を、示せるのかもしれないと思うからです。
最近、良くお邪魔する東京大学中原准教授のラーニングイベントにおいて、中原先生が必ず行われるラップアップはとても重要です。そのなかでも最も重要なのは、先生がまとめる要旨の視点や的確さではなく、先生ご自身が気づきを得る姿を見る事だと感じています。
「自分」だね