「気づき」を得ることは学びの原点であるとも考えられるでしょう。
さて、「気づき」とは、正の誘発性をもった知覚とそれを意識化する認知プロセスである、と定義できるかもしれません。
なぜなら、すべての生き物には、刺激に対して近づこうとする誘発性が存在しています。
特に人間は、その刺激を事物として認識し、言語化することで、他者と交換したり、共有することが出来ます。
こうした、正の誘発性という行為から切り離された「気づき」は、認識し思考する対象となりますが、記述された「気づき」(記述から「気づく」のではなく)に違和感を感じることは少なくありません。
例えば、最近多い謝罪会見などもそのひとつです。
何かしら社会の規範に沿わない言動と社会の反応から「気づき」を得て新たな行動がうまれるのであればそのプロセス上の「謝罪」に違和感はないのですが、なんらかの事情によって記述された「気づき」には行為との不連続があり、それが違和感として映るのだと思います。
「気づき」を行為と切り離さない。
シンプルですが、大切なことだと考えます。
久しぶりにバイクに乗りたい
