鉄の時代になる前は、橋は木か石で作られたものでした。
石で作られる橋は、文化や権力の象徴にもなり、単に、こっちとむこうを繋ぐ経路である機能性を越えた意味を持っています。
例えば「石橋を叩いて渡る」ということわざがあるように、石の橋には、木造に比べてその頑丈さが安心感として認知されています。
さて、「略杓」というのは丸太の橋のことです。石橋に比べると、見劣りするものの、橋というその真の意味においてはかわることがない、意味を変えているのは、橋を見る人間のほうであるということを禅宗では説くようです。
とある企業でヒアリングを行った際に、会議の際に一番重要視しているのは論理性、合理性であるという話がありました。発言者には、会議に参加している全ての人が、合意するだけの論拠をしっかり整えていることが求められているそうです。この場合の発言者は、立場がメンバーや初級・中級管理職、会議のオーナーや発言に対して意見を言うのは役員、上級管理職でしたので、会議とは「上司が理解、納得できる発言を部下が行う場」という定義になります。
他者性という観点からすれば、部下にとって、これはとても大切なことです。自分と異なる他者がありそれによって自分を知る(考える)経験の場になるからです。
では、上司はどうでしょうか。「上司が理解、納得できる発言を部下が行う場」における上司の「経験」とは、何なのでしょう。場合によっては、上司は「石橋」を讃え、「略杓」を見下してしまっているのではないでしょうか。
重量に対する強度や安全性など、機能面を評価すれば、「石橋」が「略杓」よりも上です。より、価値の高いものを評価するのは当たり前です。上司にとって「評価」は大切な仕事です。そして、恐らくもっと重要なことは、会議を上司が経験の場とすること、部下という他者を通して自分を知る(考える)場にすることだと思います。
橋は贔屓したり見下したりしない