相も変わらず北京オリンピックでも、ドーピングや規定違反による失格などが騒がしい。東京オリンピックのようなコロナ禍に関する報道は中国のゼロコロナ政策が功をそうしてかほとんど見られないかわりに競技者や判定に関する報道はこれまでのオリンピック同様ゼロには出来なかったようだ。世の中にはスポーツはフェアにおこなわれるものであるという前提がある。一番わかりやすいのはFIFAのFairplay please というキャンペーンであろう。
もちろんズルをしてよい成績を出すことは協議においては戒められるべきものだ、これは、スポーツに限った話ではない、先日大学入試でズルした学生が出頭している偽計業務妨害の疑いがあるそうだ非公正な行為で公正な運営を妨害したということでしょう。要するに世の中にはズルが出来る余地がたくさんあるということだよね、それはきっとにんげんだけの話ではないのでしょう犬も待てと言われてもよしと言う前に飼い主の目を盗んでおやつを食べてしまうことがある。犬にはもちろんずるはいけないんどという倫理観は無いものねでもいきものにとってみれば相手のスキを見つけてそこを突いて果実を得ることは生きる賢さであるともいえるそれが戒められるのは社会性という他者との関係性が利己性よりも優先される場合のみだ。ズルが蔓延るとズルの歯止めが利かなくなり公正さを前提とした社会性は崩壊してしまう。賢さはすべての生き物備わっている能力であるとするならば賢さなのか破壊行為なのかは、恐らく社会によって判断されるべきものである。これを特定の役割の人が担ってしまう理不尽さでまた問題生じるのだよね。
しかしラグビー元日本代表監督だった平尾誠二さんはスポーツのもつ理不尽さに言及している、例えば体格、体格は遺伝的な要因が大きく、国や地域によって有利不利がはじめから存在しているつまりそもそもズルが存在しているのだ。しかし当人に意識的な行為でない限り(体格が先天的なものであり意図的にズルをしていない場合)それは問題にされないその体格差を跳ね返すために賢さは欠かすことが出来ない。時にそれがドーピングや有利な用具の使用を招く訳だよね、それを取り締まるために理不尽さが生まれる。つまり競技とは油絵のように理不尽さに理不尽さを塗り重ねたようなものであると言えるのかもしれない。でもそれは競技に限らず社会の縮図であるとも言えそうだね。だから僕たちは理不尽だと声高に騒ぎ理不尽さを上書きする(非難された人にとってみればそれも理不尽なことであるはず、)のではなく。理不尽さを感じる自分の感情や前提を見つめて自分が理不尽な状況に陥った時(高梨選手が協議で失格になっても生活に影響を受ける人は殆いない)の乗り越え方を訓練する機会にしたほうが良いのかもしれない