2022年2月17日木曜日

 僕の師匠である大学時代のゼミの先生の本を先日開いて写経ならぬ写本(といってもはしがきのみ)をして、産業革命後の工業化社会において、生産性の向上をもたらしたのは、技術革新というより、組織という協働形態の寄与が大きいのではないかという指摘が僕の心に大学時代からずっと深く刺さっていることを再確認した、だから僕は組織と人のより良い関係性のあり方をずっと考え模索しているのだ、実際僕の就労経験は師匠の指摘をまさに裏付けるものばかりであった、もちろん技術革新も生産性の向上に貢献しているのだけどその技術革新をもたらすのも人の力なのである。新社会人として努めた銀行で僕が目にしたのは組織と人の最悪の関係性であり、協働という従属と搾取の実態であった。戦後何十年もたっているのに平気で連帯責任とか言っていたしね。業績のために滅私奉公するのが当たり前みたいな空気と知恵や工夫の抑圧、が当たり前になっていたからね。その後銀行を辞めて家業に入ったけど生活雑貨の製造の現場では、生産性をあげるために技術投資を行うのは台湾とか中国ばかりで、その時点で

製造における日本の負けは目に見えていたよね、結局そのような状況で日本社会は、組織による生産性向上により傾倒していったのではなーだろうか、合理的な生産性向上というより、サービス産業化による付加価値競争で商品の価値を高めることで結果として生産性が向上したと考えていたのではないだろうか、そしてそのサービス産業化の中にはサービス残業も含まれていて、組織における長時間労働なども常態化していったのではないだろうか、さて、新型コロナ感染が広がって、テレワークが導入されるにつれてジョブ型という言葉が多く聞かれるようになった、ジョブ型(ジョブ型の人事制度では、各ポストに必要な知識や経験、能力、資格を職務記述書に明記。これに当てはまる人材を年齢にかかわらず起用するのが特徴だ。社内外から専門性や意欲のある人材を集めやすくなる利点がある電機大手、「ジョブ型」加速 一般社員に拡大、人材獲得激化)師匠の指摘に照らせばジョブ型というのも1つの協働形態である、僕の大きな疑問はジョブ型では職務記述書が重要になるのだけど、協働を還元主義的に要素分解して、それを組み立てれば協働が実現できるのかということである。例えば、人間を手の働きとか脚の働きとか解剖学的に分解して、その分解されたパーツ集めれば人間が作れるのかといえばそんなことはないことは誰にでも分かる話である、にんげんは、部分の集合体ではない、生命は部分が全体を成し全体が部分を成すという相互依存性のなかではじめて成立しているのだ、組織という協働形態で考えればジョブの集合体が組織なのではないことはすぐにわかることだろう、そして生命を記述出来ないように、私達は協働という組織活動も記述することはできないだろう、僕がジョブ型の議論でいつも違和感をおぼえるのは、そういった、技術的、還元主義的な世界観なのである。生産の現場に技術的な世界観が持ち込まれたのはまさに、作業測定(どちらの手で扱ったほうが素早く正確に作業できるかといった、など人間を短機能化することからであったのだ、少し前中国の工場労働者などは、雇用の際に指先の器用さなどを確認していた。僕は組織コンサルの仕事の中で仕事の要因を分析し関係性をパス図によって表出したことがあったけど、それを使って、組織活動をその会社の経営者に理解してもらうことは大変困難で結果できなかった。経営者は特に、組織は個の集合であり、組織目的や組織目標が達成出来ないのは組織を構成する個(手足など部分)の問題である、と考えたいのである、実は組織構成員も同様であってm、達成できないのは経営者(脳)の問題であると考えたがっている。なぜそうなるのかは養老孟司さんの壁シリーズを読めばなんとなく理解できるだろう、欧米ではなぜジョブ型なのかということもわかると思う。また還元主義的技術的な世界観を超えるヒントになるのはラグビーのOnefor All All for Oneではないだろうか。ラグビー元日本代表監督だったあの平尾誠二さんは「ひとりはみんなのために」「みんなはひとつのために」と訳すのだそうだ、各自が各自の目的を実現しようとすることで「チームの勝利に」結びつくようにすること、「私」を生かすことが「公」をも生かすことになる道筋。これが「チームの勝利を第一に掲げるあまりいわば歯車としてのチームのためにプレーすることを強制し「私」の目的をないがしろにしてしまっては「公」も殺すことになってしまうだろうとまで書いているのだ(平尾誠二著理不尽に勝つPHPより)平尾さんの言葉がジョブ型によって、構成員を最適化可能な資源と扱った組織の行く末を予見していると言ったら言い過ぎなのだろうか。