2013年11月11日月曜日

競合しあう行動のコレクション

採用すべき人材像や社員の行動規範などを検討していると、よく、”こちらを立てればあちらが立たず”、のようなことになります。例えば、「しっくりと本質を見極めて判断する」と「とにかく勇気をもってやってみる」という行動様式が「行動規範の2番目と3番目」みたいに同時に記述されることがあります。

『行動規範
全部足したらスーパーマン
だけど私は只の人』

みたいな事なのでしょうか。

理解のある方は、ちゃんと「場面に応じて使い分けるもの」と考えられていることと思います。状況に応じて自律的、主体的に適切な行動をとることが大切であると。

ところが、実際の私たちの行動はもっと複雑です。なぜなら、「使い分ける」というより、もっと反応的に様々な種類の行動のコレクションの相互作用の結果として行為が創発されているからです。しかも、その複雑性は一貫性を伴っています。心理学的にはそれを「特性」と呼びますが、「異なる状況下でも予測可能な傾向性」があることを生物は本能的に知っています。

例えば、我が家族のジャックラッセルは、私がどのような動きを見せると「おやつ」が貰えるか知っていて、ちょっとした動きに強く反応します。また、違った動きを見せると彼は、おねだりをあきらめます。それは、彼が高度な知能を働かせた結果ではなく、私の動きと彼の行動のコレクションが「なめらかに」連動しているからです。しかしながら、彼には彼独特の一貫性があるので、私も彼を予測することが出来るし、行為に「おねだり」と「あきらめ」といったバリエーションが生まれるのです。

彼にとって私は外的環境で、私にとっては彼が外的環境ですが、外的環境により新たな行動のコレクションが自律的に生成される(この場合は「おねだり」と「可愛がり」)のはとても面白いことです。そして、それを外部から観察すると「学習があった」と評価するのでしょう。(「行動のコレクション」をもっと基本的なブロックに細分化したほうが良いかもしれません)

採用すべき人材像や社員の行動規範において重要なポイントは、車で言えば「走る」「止まる」「曲がる」といった基本的な行動のコレクションだけでなく、それらが相互作用して表出される行為(例えば「安全に目的地に到達する」)の強固な一貫性と、一方で、外的環境との間に生まれるなめらかななめらかな可塑性(「悪路ではスピードを落とす」、「他者の事故から学ぶ」)のバランスであるようですが、それらは「意図して使い分けるもの」というより「外的環境を利用して(複雑な反応として)引き出しているもの」と考えたほうが良さそうです。


「強固な一貫性」は事実、分析、評価の脱色の精神に、「なめらかな可塑性」は意味、発見、学びの彩色の精神に通じると感じるのは飛躍しすぎでしょうか・・・


彼によって私が変わる