丹波哲郎さんが昔あなたが知らない死後の世界~とおどろしくテレビの画面に浮き上がってきたことを僕は覚えている。これは哲学的な大命題である。そう、死は誰にも平等に訪れるけど、自分の死後を知る人は誰もいない。それも平等だ。どんな天才であっても、凡才であっても平等だ、なぜなら死は固有のものだからだ、想像することは出来ても経験することは出来ない自分の死もましてや他人の死はなおさらだ。それ故ドイツの哲学者ハイデガーは死を自分の本来性を取り戻すための鍵と考えたハイデガーは人は世人として、周囲に同調し本来的な存在になっていないと考えていたのだ社会の同調圧力が強い日本人にとっては誰もが耳の痛い話である。さて、ハイデガーは可能性として死に臨む態度をとる存在を先駆と呼んだ。
この 存在 にとって 可能性 として あらわ に なる よう な 態度 で、 死に 臨む ので ある。 この よう な〈 可能性 に 向かう 存在〉 を、 わたし たち は 用語 として 可能性 への 先駆 と 呼ぶ こと に する。
日本放送協会; NHK出版. NHK 100分 de 名著 ハイデガー『存在と時間』 2022年 4月 [雑誌] (NHKテキスト) (p.72). NHK出版. Kindle 版.
さて先駆にとって年齢は関係ない、可能性であれば赤ん坊であっても若者であっても老人であっても死に差は無い。老人の方が死に近いと考えるのは僕たちの経験則であり、社会的な知見なのである。だから死の前に高齢があって年寄りだから棺桶に片足を突っ込んでいると考えるのはまさに世人的存在であって、本来的な存在でない証でもある。そう考えると高齢化社会というのは本来的な社会の姿では無いことがよくわかる、高齢化社会を作り出しているのは社会そのものであるという結論に至るのだ。僕はその事実を実証することが出来る。というのも、僕はいま、社会が作り出した高齢化社会の象徴であるデイケアサービスに通っていて。多くの高齢者を目の当たりにしている。両親をすでに亡くしている僕にとって身近な高齢者が居ないだから、デイケアで目にする高齢者の言動は新鮮である。その中で恐らく90歳を超えているご婦人の心配事はロシアのウクライナ侵略戦争とウクライナの今後なのである。デイケア利用者の多くは昔話に花が咲くことは想像に難くないと思われる。実際、男性でも女性でも、会話に耳を傾けると昔話が多い。自分の履歴やその中での成功体験要するにちょっと自慢できる話をする人が圧倒的に多い。昔は一日に2箱煙草を吸っていたとかお酒を毎日一升飲んでいたとか訳の分からない自慢話もあるんだけどね。そんな中で国際社会の未来を憂う90歳のご婦人の姿はとても新鮮である。でもそれはご本人が国際社会の一員であるという自覚をしっかりと持たれていることに違いが無いのであろう本来的な生き方が出来ているからこそ、なのかもしれないよね。僕たちが高齢化社会を憂いている一方で高齢のご老人は国際社会の未来を憂いているそんな現代社会の現実は僕に本来的に生きることの在り様を問いかけてくる。
