2014年3月1日土曜日

意欲を失わせる「似非豊かな社会」の罪

大学生の4割が全く本を読まないという記事が配信されたあと、これをどう考えるのか思いを巡らせています。「書物とは、目にし、手にとることで記憶を蘇らせる装置」(山本貴光)であるならば、「本を読まない」ということは人生に「空白の期間」を作ることになるでしょう。

記憶が失われることは悲しいことですが、記憶が創られないことはもっと悲しいことのように思います。

一方で大学生にかんしては、「”就活自殺”の背景に迫る」で取り上げられている深刻な問題があります。今の日本は、正直者はバカを見て、いざというときに何もしてくれない社会で緊急避難的に正社員を希望するが、就活が上手くいかずに強いストレスに晒されるという状況と、「空白の期間」に何らかの関係性は無いのでしょうか?

プロフェッショナルはいつくるかわからない15分のために準備をしているとカーデザイナーの奥山清行氏(「人生を決めた15分 創造の1/10000 」)の話をTVで見たことがあります。それに対して、来ることがわかっている、ある程度の人生を決めるタイミングに「空白の期間」から臨み、緊急避難する状況は、あまりにもプロフェッショナルから遠く離れています。

そして、そのような状況の何処を見て「豊かな社会」と言えるのでしょうか?

30年前、大学4年のときに「社会の発展と勤労意欲」について考えていました。生活のために「強い」必然性を持って「働かざるを得ない」状況の、「強さ」が弱まって、「なぜ働くのか」と問える余裕が出て来たときに、それまで以上に強い動機を持って仕事に取り組む道筋を考えたのですが、その後の30年間の社会人経験を通じて、その仮説が強まることはあっても弱まることはありません。

実際、自分の周りを見回しても、自身の目標やビジョンや強い関心に向かっている人にとっては本人の「強み」も「弱み」も大きな推進力になっていますが、目標などが無い、もしくは極めて薄い人にとっては「強み」も「弱み」も前に進まないことの言い訳に映ってしまいます。

そして、その推進力のひとつが、より多くの足場をもつことであり、「読書」もその一つだと思うのです。

ボルタリングというスポーツがあります。壁についている様々な突起を使って壁をよじ登るのですが、読書のイメージはまさにその突起です。そして、本を読まないということは突起のない壁を登るようなものです。

しかしながら、「空白の期間」は、冬眠期ではありません。そに時期に行うアルバイトやサークルなどはそれぞれが突起になっているのでしょう。しかし、それは壁を昇るための突起ではなくて壁に寄りか掛かるときに倒れないための手摺りでしかありまえん。

「豊かな社会」とは壁を昇る手掛かりとなる突起をどんどん増やせる社会である一方、「似非豊かな社会」とは壁に寄り掛かり腰掛け易い頑丈な手摺りがある社会であり、そのような社会は壁を登ることを忘れさせてしまうのだと思うのです。


壁を昇る