200年も前の本でしたが、女性の自立を阻む男性の低俗な愛情といった指摘には驚きとともに深い感銘を受けたことを記憶しています。(訳者の白井尭子氏は白井教授の奥様だったのですね)
本は男性と女性の行動の原理が異なることについて記述されていたと記憶しますが、自分が本を読んだ時、30年後に、また本の内容を思い出すとは考えてもみませんでした。
本を思い出したのは、最近の「女性活躍」に関する議論によってです。
さて、今日の日本社会での「女性活躍」を単なる質の高い労働力の確保と考えるのは間違っています。
世界の目を向けると、全世界的な取り組みとして「国連グローバル・コンパクト」の枠組みでは、人権の保護の一環として、「女性活躍」が取り上げられており、その潮流は強くて早いものです。
その考え方は、グローバルかつ現実的です。
現在、企業の活動はグローバルネットワークに支えられていますが、バリューチェーンと呼ばれる、価値創造の連鎖のどこかで、人権が守られていなければ「アウト」というのがグローバル・コンパクトの中に記述されています。
つまり「女性活躍」とは、国際社会で日本企業がこれからも活動し続けるための条件となるのですね。
そこで問われているのは、ウルストンクラフトが言う、同一の行動の原理は当然の事として、さらにその結果の厳密な査定(デューデリジェンス)です。
女性と男性の管理職の比率もその対象です。
「男性も女性も制度は一緒です」では通用しないのですね。
これは、企業経営者や男性だけでなく、女性にとっても強い外圧となります。
意欲、動機の強い人だけが管理職として活躍すれば良いのではなく、今の仕事で組織を支えている人たちも管理職を展望する必然性が出てきたのです。
中国のように、共稼ぎが一般的で、女性も男性とキャリア意識が同じであれば問題ないのでしょうが、日本の現状はキャリア意識だけでなく、核家族化からはじまって雇用関係、育児環境など、就労を妨げる様々な社会的状況がありますから、何から手を付けるべきなのかも混沌としています。
人は環境を足場として能力を発揮しますから、本人と環境、相互の条件が整う必要があり、結局は両方同時に考えなければならないのだと思います。
女性がいない
