2013年9月27日金曜日

人が「察する」のはなぜなのだろう

統計に関わる仕事を行っていると、データから傾向性が見えて来ます。その傾向性の中には、未知のものと既知のものがあるのですが、既知のものに関しては、何か別の調査結果によって可視化されているわけでもなく、なんとなく、雰囲気として伝わってくるもの、つまり、察していることであることが多いように感じます。

例えば、男性と女性の雰囲気の違いや学校、大学、出身地、家族状況、兄弟の有無などに関して持っているイメージは、実は、わずかで微妙な違いを非常に大きく感じ取ることによって形成されているように思えるのです。

具体的な数字にしてみれば、数パーセントの違いから、二極対立的な差異の認識にまで知覚を増幅するのは、恐らく、生き物としての本質なのでしょう。

例えば、ちょっとした棘が刺さっただけで生活に支障が出たりします。緻密性の高い人は小さなミスが見逃せません。逆に、ちょっとした変化を捉えて事業を興す人も多く居ます。それらに共通することは、小さな感覚の芽生えが行為を創発することです。創発する行為にも種類があって、チャンスと捉える人、リスクと感じる人、そしてチャンスとリスクに振れる人が居ます。それが集団になると変化に対して発揮される群知能になるのではないでしょうか。データによって見えてくる傾向性とはその群知能の片鱗なのかもしれません。

さて、行為を創発する小さな変化の感知とそれを増幅する脳の仕組みにおいて、その起点となる小さな変化のなかでも、なかなか実体化、形式化がしにくい「雰囲気」とは何なのでしょうか。じっくり考えてみたいテーマです。


小さな変化に冬を感じます