2023年4月14日金曜日

悲しき守破離

昨日聞いた話はちょっと悲しいものだった。

守破離という言葉がある

ことばんくによれば剣道や茶道などで、修業における段階を示したもの。 「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。 「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。 「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

でも、これ修業の段階だけでなく、何かを次世代に継承する際にとても大切なステップであるようだ、次代を継ぐ者にとっては、先代はその存在も型も技も邪魔な目の上のたんこぶであるから早く居なくなって欲しいし型や技はポンコツに見えてしまう。そうなるともはやその型や技に込められた強い想いに思いを馳せることもなくなる。しかしそうなると次世代には型も技も想いも無くなってしまう。想いで他者を巻き込むことを面倒に感じる人は論理性という誰もが同じ結論に至ることに飛びつく。しかし同質化という没個性には選択の余地が無い。個性はせっかくそもそも身体に宿っているものなのに、その個性を疎んじる思考には、思い上がりはあっても、他者の尊厳を尊ぶ態度は無いから守の概念は存在しない。私達が賢さを発揮する選択の局面において、想いはとても大きな役割を果たしている、僕たちが知の創発のリソースとしているマルチモーダルネットワークにおいて想いは強化されたネットワークなのである。想いなきマルチモーダルネットワークからは創発は起きない。賢さの欠如した愚かな選択しか生まれないのである。守破離とは、賢さの表象であるとも言えるだろう。かつて団塊の世代がそれまでの価値観を壊したけど新しい価値観を生み出せなかったど批判されたことがあるけど。否定のための否定、離離離は雄鶏が卵を産むような愚かな選択であることは結果が証明しているようだと感じた悲しみの守破離なのであった。想いなき意思決定という悲しき結末