しかし、日々のひとつひとつの行動はどれだけ詳細に認知、解明、知識化され、蓄積されているのでしょうか。一昨日の昼ごはんを思い出すのも難しいのに・・・ですよ?
例えば、「毎朝、同じ時間に起きて支度をし、会社に向う」、「立派な計画書や報告書を作成する」ことは出来るのに、「トイレに備えているハンドペーパーが無くなったら新しいものを補充する」、「お茶サーバー利用のルールを守る」、「朝、元気に挨拶する」、こんな簡単な日常的行動が改善されないのは何故でしょうか。
「躾が足りない」や「ルールが守れない」ことは、行為の原因になりますが、「周りが心地よい所作をする」、「ルールを自ら守る」という行為を創発するものではありません。(ここで言う「行為の創発」とは言葉通り、あくまでも自律的、自発的に発現する行為を指します)
そのことを考えていくと、「習慣」と言われる行動パターンは、思索的、経験的に蓄積された知識を操作して発生しているのではなく、「同じ事を繰り返す」というごく基本的な生命活動の拡張なのだと思うわけです。
つまり、拡張次第で「新たな習慣」を形成出来たり出来なかったりするのであり、「ルールを守る」ことを認知、操作の問題と捉えてしまうことにはそもそもの問題がありそう。
では、行為の創発には結果と原因ではなく何が必要なのでしょうか。
ここで大切なのは拡張する方向に破れていることでしょう。
えっ?あの人があんな犯罪を・・・しかも反省していない・・・
どんなに頭が良くても(計算、記憶、記述に優れていても)、自己中心化傾向を持つ人は、外部の構造を偏ってしか利用しないので、ルールが守れず、他者の認知や操作を非難し自己弁護に走るわけですね。自己中心化傾向とはこの場合、拡張しない方向に破れていることを意味しています。
あの人、生まれ変わったみたいに良くなったね!
一方、環境適応傾向を持つ人(謙虚な人)は、内省、考察によって生まれた構造を生かして新たな活動を行う、習慣を拡張する方向に破れいてるので「新たなルールを守り習慣化する」ことに長けていることになります。
もちろん、日々、人は複雑なルーチンを組み合わせて活動していますのでそんなにシンプルではありませんが、行為を創発するためには、外部の手掛かりを積極的に取り込む、要するに、”好き嫌いせずに何でもどんどん学ぶ方向に破れていましょう”ということですね。
破れて花咲く
