2018年11月4日日曜日

曖昧な言葉の責任が問われる時

セールストークと言うのがある。

営業が、受け手に興味関心を持ってもらうために、良いところを並び立てて説明することだ。

何かを売り込む時には必ずやるものだし、そもそも、商品カタログには満載されているのではないだろうか。

さて、営業が上手くいき、購買に繋がるとその後に出てくるのが「不満」だ。

セールストークの度が過ぎると、「不満」も激しさを増す。

最悪なのは、「出来ない」ことを「出来る」と言ってしまうことだけど、これはもう「嘘」で犯罪だから論外。

でも、その手前に、「概ね出来る(だろう)」がある。

営業は「わからない」「出来ない」と言ってしまうとそれまでなので、「出来る可能性」に言及するのだ。

この希望的観測がもたらす悲劇は計り知れない。

ユーザーになれば、「出来ない」ことはすぐにわかるから、当然、クレームになる。

営業の希望的観測に確たる根拠がない場合、「出来ない」は解決出来ない。

曖昧な言葉のは、最悪の事態となる可能性を孕んでいるのだ。


売り手と買い手の認識がずれることは珍しくない。

だから、悪意はなくても「出来る」が「出来ない」になる場合もある。

その時の一番大切なのは、真摯に解決に望む組織的対応だよね。

それが出来ない場合、希望的観測を言ってはならない。

その見極めをするのは経営者の責任だ。


複雑で不確実な時代の中で、曖昧な言葉を無くすことは出来ない。

埋めこまれた希望的観測は排除出来ないものだろう。

もし、経営者自身がそこに希望的観測を持ってしまったらもはや経営の責任を果たすことは出来ないだろう。

他人任せも同様だね。


経営者は獅子たれ